スチームパンクなラノベ的クトゥルフ神話モノ 作:四十九院暁美
その姿を、はたしてどう伝えたものか。これを的確に表現するだけの十全な言葉を、伊織は持ち合わせてはいなかった。
眼窩から大きく飛び出した眼球と、低く平べったい耳鼻が付いた頭は、おおよそ人と云うには異常な形をしており、首の垂れ下がった皮膚には鰓らしきものが見える。
一糸纏わぬ身体はぬめりを纏って青く照り返し、手足には未発達ながらひれのようなものが飛び出していて、指の間にも水かきが発生している。骨格も身体に合わせて変化しているのか、頭を上下させて跳ねるみたいな歩き方をしていた。
「■■■■■■■」
「■■■■■■」
「■■■■■■■■■■■■」
口々に放たれる言葉もまた異様で、唸るような、吼えるような、咳き込むような、くぐもった低い鳴き声としか形容できないもので、人間の耳では雑音かそれに類する音としか聞き取れない。
総じて。それは人の形をした化け物であった。
「なんて、醜い……姿なんだ……」
我知らずに呟く。
醜い。
ただただ、醜い。
その声、その姿、その歩き方。まるで水に棲む異形の人間”水棲人”とでも云おうかこの異形は、あらゆる要素が生理的嫌悪を催すもので構成されていた。
「……!」
声にならない悲鳴が、伊織の口から漏れる。凛ノ介を抱える手に、力が籠った。
不意に、ひとり……いや、一匹か。
一匹の短刀を握った水棲人が、銀座の汽車の中で見たあの聖職者モドキが、ゆっくりと伊織に向かって一歩を踏み出した。
か細い機関燈の灯りの下でおどろおどろとした小刀の切っ先は、ギラギラとした輝き妖しく揺らめいており、誰ぞの心臓を欲していると見える。
視界が歪む。呼吸が不規則に乱れる。
身体が震えて、止まらなくなる。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
どれだけ思えど足は動かず、しかして一切の後退すらもできない。場を満たす濃密な磯と血の匂いが、臓腑の奥底から湧き上がるもの、黒く煮えたぎった汚泥の如き恐怖が、彼の足を縫い留めていた。
眼前に、水棲人が迫る。
切っ先が持ち上げられる。狙いを定めるように動き、今まさに振り下ろさんと力が込められたのを、確かに感じた。
(死ぬ……殺される?)
己の運命を悟ったその瞬間、伊織の全身を稲妻の如き生存本能が駆け巡る。
気付けば伊織は弾かれたみたいに、背後の暗闇に向かって駆け出していた。
ほとんど反射的に、半ば悲鳴に近い声を上げながら、唯一の逃げ道である背後の空間の中を、脇目もふらずに突き進んでいた。
水棲人が怒気を籠めて叫び、鋭い物が伊織の耳を掠める。
それでも伊織は振り返らず、ただ前へ前へと進んだ。
何がどうなっているのかもわからない。消えない恐怖が意識を喰いつくさんと全身をのたくっている。
手足の末端は鉛を詰められたみたいに重く、歯の根も噛み合わないほどに震えてばかりで、とてもじゃないが逃げ切れるような状態にない。
けれど、それでも。伊織は必死に逃げた。
奥歯が砕けそうなほどに食いしばって、目を見開いて、地べたを強く踏みしめて。殺されてなるものか、凛ノ介を殺させてなるものかと、あらんかぎりの力を振り絞って走り続けた。
そうして、いったいどれほどの時間を走っただろう。
「どこに来たんだ……?」
気が付けば伊織は、見知らぬ場所にいた。
街の灯りは遠くぼやけ、石畳の道はすでに舗装されていない砂利道になっている。辺りにはあばら家の影ひとつもなく 機関提灯がなければ足元さえ危ういほどに暗い。人の気配どころか、蟲の羽音さえもここにはない。あるのは、生温い風の音だけ。
はたして、ここは、どこなのか。
「……もう、ここまで……」
迷っている間にも、磯の臭いはじょじょに強くなっていく。
水棲人の軍団が下水道を通って、すぐそこまで迫ってきているのだろう。いかにも泳ぎが得意そうな見た目なのだ、下水道を伝って追いかけるなど容易かろう。もしかしたら、今立っている場所の真下にまで、もう来ているかもしれない。
(どこか、どこか隠れる場所は!)
焦燥に駆られて、周囲に目を走らせる。
だが、空き家ばかりか遮蔽物のひとつさえ見当たらない。たとえあったとしても、この暗さでは見つけるまでの時間が足りない。
水棲人の気配が近づいてくる。
苦しくて呼吸がうまくできない。胸が張り裂けそうなほど痛む。全身が痙攣して限界を訴えている。関節は摩耗しきった機関機械のように軋み、筋肉はずたずたに引き裂かれたように感覚がない。
やんぬるかな。もう、逃げきれない。
伊織の脳裏に、諦観の二文字が過った。
(ふざけるな!)
すぐさま心中で己を叱責して、凛ノ介をしっかりと抱え直す。
伊織は知っている。
命尽きるその瞬間まで希望を捨てずにいれば、きっと物事は好転するのだのだと。水火も辞さぬ状況でも、まだすべて終わったわけではないのだと。
諦めない限り、希望はここにある。
(この手の中にあるのは凛の、親友の命なんだぞ!? 諦めるなんて、そんな後ろ向きな考えは捨てろ! もう逃げられない? なら別の手を考えろ! 何かあるはずだ、考えろ伊織、考えるんだ! 生き残るために!)
無理やりに己を奮い立たせた伊織は、本当に何もないのかと足元に視線を彷徨わせた。
やはり何もない。
否、石がある。
考えるより先に手に取った。
砂利に混じって転がる、拳ほどの大きな石。武器にするにはあまりにも心許ないが、素手でいるよりずっとマシには違いない。当たり所が良ければ、骨折くらいはさせられるだろう。
「来るなら、こい!」
凛ノ介を脇に抱えたまま、石を構えて暗闇に凄む。
未だ恐怖は完全に拭えず、怯えの色は片隅に残っている。身体は云うことを聞かず、立っているのも辛くて挫けそうになる。
それでも、伊織は戦うと決めた。理不尽に命を奪われる状況を良しとせず、抵抗すると決めた。ここに至ってはもう、恐怖に震えるばかりの彼ではないのだ。
「凛に何かしようってんなら、僕を殺してからにするんだな……戦ってやるぞっ」
耳が痛くなるほどの沈黙の中にあって、伊織はひたすらに耳を澄ませて気配を探った。僅かな音も、蟻の足音さえも聞き逃してなるものかと、人の限界に近いところまで神経を集中させた。
数秒。あるいは数分。あるいは一刻。
時間の感覚も曖昧になっていくような、世界が遠く離れていくような、無気味な感覚に包まれながらも待つ。
決して警戒は絶やさず、しかして敵意を全方向に振り撒きながら、戦々恐々とした気持ちを隠して待ち続ける。
(……どこだ、どこから来る!?)
そして、幾度目かの生温い風が吹いた。
強烈な磯の臭いを帯びたその風は、確かに湿った足音を運んできた。
ひたり、ひたりとした水気を多分に含み、吐き気を催すほどの悪臭を帯びたその音は、ひとつ聞こえた瞬間からどんどん数を増やしていく。伊織が路地で見た人数からして、迫ってきてるのは五人、六人どころではない。少なくとも十はくだらないだろう。
闇の中心に、微かではあるが幾つもの鈍色の輝きが見える。彼我の距離はおそらく二間かそこらだろう。短刀程度ならば一足飛びで間合いに入る距離だ、いつ水棲人が飛びかかってきてもおかしくはない。
伊織は石を固く握りしめて、鈍色が揺らめく瞬間を覚悟した。
しかし。
(……来ない?)
伊織の予想に反して、水棲人は何故だかすぐに襲って来なかった。
雰囲気からして、躊躇しているわけではない。
殺しの合図か、それに類する何かを待っているような粛とした空気が、水棲人の周りには漂っていた。
(なんだ、こいつらは何を待ってるんだ? くそっ、いっそ一気呵成に襲われたほうがまだ楽なのに!)
獲物を前に舌なめずりするでもなく、粛々として取り囲む。伊織からしてみれば無気味以外の何物でもない。はたして水棲人どもは、何を考えているのか。
苦しげに口端を歪める。脂汗が顎先から零れて、地面にひとつ染みを作った。
その直後である。
「■■、いあ、くとぅるふ、ふ■■ん」
(喋った……人間の言葉を!)
聞き取れないはずの水棲人の言葉が、確かな形を持って耳に飛び込んできた。
誰が発したのかはわからないが、極めて英語に近いそれは”くとぅるふ”の五文字。おそらく水棲人が操る言語の中で、もっとも人間の言葉に近い言葉なのだろう。
挨拶の類ではない、だが攻撃的な意味でもない。夢遊病に侵されていた凛ノ介も「くとぅるふ」と口にしてたことから、おそらくは事実である。
そしてこれを皮きりに”くとぅるふ”を含んだ彼らの言葉は、次第に完全な形の呪文と成って水棲人の間に伝播した。
「いあ、■■、くとぅるふ、■■ぐん」
「■あ、いあ、くとぅるふ、■たぐん」
「いあ、■あ、くとぅるふ、ふた■ん」
「いあ、いあ、くとぅるふ、ふたぐん」
怖気が走る。あまりの無気味さに。
輪唱めいて紡がれるその呪文は、神へ捧げる祈りにも似て感謝が込められていたが、同時に聞く者の神経を衰弱させる涜神的な呪いを纏っている。
邪教の祝詞に囲まれた伊織は、やおら頭がぼんやりとして、精神だけを別の場所に連れていかれるような、不可思議な感覚に包まれた。
光も届かぬ深みの底へ、精神が沈んでいくように、意識が遠のいてしまう。輪唱は伊織脳裏に白い靄をかけて思考を遮り、手を引くように狂気の奥へと誘う。
気付けば伊織は、浮世の汚穢から隔離された海原の奥底にいた。
目の前には、未知の光沢を表面に纏った緑石で造られた、病的な幾何学的の線と形で構成された水没都市が、忌まわしくも雄渾な姿を以て存在している。導かれるように都市の最奥へ向かうと、見上げても先端が見えないほど巨大で、理解不能な怖気のする装飾がなされた鉄格子の門が鎮座しており、その鉄格子の裂け目からは、狂おしいほどの光芒を放つ蛸らしき形をした悍ましい化け物が、赤子の如く眠っている姿がはっきりと見えた。
(生贄に、しようっていうのか)
伊織にはそうとしか見えなかった。奴らは邪教の儀式の法に沿って、凛ノ介の血肉を神に捧げようとしてるのだと、そう思えてならなかった。
悍ましい輪唱は、十を超えた頃に、ピタリと止んだ。
狂気の楽園への誘いが途切れ、伊織の精神もはたと現世に戻ってきたが、その瞬間に腹の底から湧き上がってきた感情を、どう説明したら良いだろうか。
おそらくは常人が持ち得る言葉をすべて使っても、完全に表現することができない類のものであった。
胸の奥底から恐怖が、怖気が、戦慄が、伊織の呼吸を止める。身体のあらゆる感覚が混濁として、自分が今どんな格好をしているのかさえもわからなくなる。
精神を攪拌機にかけられているような、ぐちゃぐちゃにされる感覚に襲われて、断っていられない。
耐えきれず膝を突き、凛ノ介も腕から落としてしまう。ただひたすらに怖くて堪らなくなって、激しく嘔吐した。二回、三回。中身をすべて吐き出してもなお、吐き気は治まらない。
一時的狂気。
その発露がこれであった。
「ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるう、るるいえ、うがふなぐる、ふたぐん」
無気味な伊織を伴って、刃が振り上げられる。
もはや抵抗もできない伊織は、その切っ先が右目を刺し貫くのを、ただ無心で待っていることしかできない。
(……ごめん、凛……)
両目を閉じることもできないまま、痛みと死を覚悟した。
その時だった。
「そこまでよ、残念だったわね」
鈴の音にも似た凛とした声が、場に響いた。
すわ何者かと、水棲人たちが恐怖に近い驚愕の声を上げる。
途端に。
空気がぴりりと乾いて、機関機械が放つより何倍も強い凄まじい白光と、千の鳥が一斉に鳴き叫んでいるような独特の音が、一瞬のうちに辺り一帯を満す。形容のできない奇妙な匂いが強烈な磯の臭いをかき消して、完全に場を塗り潰していた。
伊織はえずきながらも、顔を上げた。警官か憲兵か、とにかく異変を聞きつけた大勢の誰かが、間一髪のところに駆けつけてくれたのだろうと、そう思って。
けれどそこにあった人影は、ひとつだけ。
細く鋭い閃光を鋼鉄の右腕に携えて、純白と群青を凛然と纏って、神々しくも佇むは、たったひとつの見覚えある影。
汽車の車窓越しに目撃した、女性の影だった。
(なん、で……どうして……!?)
息も忘れるほどの愕然が、伊織を襲う。
蜃気楼と消えたあの女性が、今目の前に立っている事実に、思考が追い付かない。ただ無心で、彼女を見つめるしかできない。
そんな彼の気持ちを余所に、女性は右に携えた光で闇を掃うと、嘲りを含んだ笑みを浮かべて、悪夢の如くに慈悲無き瞳で、水棲人どもを睨みつける。
そして。
「Hi hi hi there! 愚図で不細工な半魚人諸君!」
高らかに。そう、高らかに歌うように、彼女は云った。
「コソコソ悪事するのもここまでってワケ。云っとけど降伏は無駄だから、大人しく死ぬか死ぬ気で抵抗しなさい。ま、どうせ死ぬから無駄だろうケド! ……っつか臭いわねアンタら。いやほんと臭いわ。臭すぎて生かしておけないわ、マジで」
いかにも不愉快そうに顔を顰める彼女は、表情とは裏腹に、まるで散歩でもするみたいな気軽さで水棲人に近付いていく。
一歩進む度に、右腕だけ纏っていた細くしなやかだった光は、彼女の嫌悪に比例して太く力強いものになっていき、数秒の内にはついに全身を包むまでになった。
「そこのアンタ」
「ぇ、ぁ……」
突如として声をかけられて、伊織は言葉に詰まってしまう。
アルト音階の、少し掠れた声。水棲人どもに向けていたものとは違い、慈悲と優しさの混じったそれに、彼は聞き惚れてしまった。
「そこを動かないでね。”感電”しちゃうから」
「かん、でん?」
子供に云い聞かせる声色で、女性はそんな警告を発する。
感電。伊織をして聞いたことのない単語だったけれど、彼女の操っている眩い光輝が、命を奪いかねない危険な力であることはわかった。
「ンフフ、賢いわね。貴方みたいに聞き分けのいい子、嫌いじゃないわよ?」
彼の表情から畏怖を察した彼女は、エゲレス貴族のように口元に左手を沿えると、淑女然とした上品な笑顔を浮かべる。
年頃の少女めいて可憐でありながら、妙齢の女性が如くに妖艶なその仕草に、伊織は場違いに顔が赤くなっていくのを自覚した。
「さて。さてさて、半魚人の皆さん。先に訊いておくけれど、どんな殺され方がお望みかしら? 焼殺、殴殺、射殺、刺殺、圧殺、絞殺、轢殺……どれでもいいわよ」
仕草はそのままに、彼女がピタリと足を止める。
水棲人との距離は、およそ二間。
手に手に武器を持つ知性ある化け物を前にしておきながら、あまりに間の抜けた、しかし得体の知れぬ動き。呆けていた一部の水棲人も気が付き、にわかに得物を構えて臨戦態勢に入った。
「■■■■■■!」
「■■■!」
水棲人が口々に叫ぶ。
誰かは知らないが、人ならば殺してしまえば良い。如何なる力を持っていたとて、所詮は膂力に劣る人なれば、数で押し潰してしまえばそれで済む。
勇ましい雄叫びを上げる彼らは、きっとそう考えたのだろう。
粗略な考えだった。
「
挑発的な口調が、閃光となって奔り抜けた。
ある者は明滅する光に全身を焼かれ、またある者は手を足をもがれ、さらにある者は首を真っ二つに切り裂かれ、どうと青黒い血を流しながら絶命する。
一匹、二匹、三匹。誰かの視界の端で群青がはためく度に、悲鳴と、血飛沫と、白い残光が尾を引いた。
抵抗できない。反撃もできない。
命など吹けば飛ぶような紙屑であると示すように、彼女は一辺の慈悲もなく水棲人を撃滅していく。先ほどに見せた人間らしい部分は、欠片も感じられない。熱狂的な殺意と狂奔、このふたつだけが彼女を構成していた。
「っ、うぁ……」
絶え間ない暴虐の嵐の中にあって、伊織は戦慄に耐えきれず硬直してしまう。
彼女の豹変に、発する明滅に、両目を射抜かれる。
人体の焼ける臭いに、意識が真っ白に染まる。
鏖殺であった。虐殺であった。惨殺であった。
凄絶とは、酸鼻とは、正しくこのことを云うに違いない。
「り、ん……たすけ……」
白に閉ざされた中で、親友の名前を呼ぶ。
遠のく意識の端で、悲鳴と哄笑が聞こえた気がした。
白に満ちた世界から、意識が浮上する。
慌ただしい朝の空気が、瞼の裏側からやおらと伝わってくる。
看護婦たちがぱたぱたと行き交う足音、あれこれ指示を飛ばす誰かの強い声、煤に塗れたみぞれが窓を叩く音、機関機械が発する低い駆動音。聞きなれたものもあれば、聞きなれないものもあった。
帝都東病院。
東京は代々木の中心に建てられた、日本医療の最先端を往く施設。あらゆる病もたちどころに治してしまうと、市井では噂されている世界有数の大病院。伊織が寝かされていた病院は、そこであった。
「ぅ……」
寝台の上。ゆっくりと瞳を開く。
淡い橙色をした機関燈の灯りに、僅か目が眩んだ。
「ぐっ、いつつ……」
意識が覚醒するのと同時に、伊織は小さく呻いてしまう。
まず最初に感じたのは、痛みであった。
限界を超えて動き続けた関節が、断裂直前まで酷使された筋肉が、絶え間なく悲鳴を上げている。特に足腰の痛みはひどく、まるで錆びた鋏でゆっくり裂かれているかのような、とにかく言葉では到底伝えきれないほどに耐えがたいものだった。
(僕は、いったい……)
直前の記憶が曖昧で、どうしてここにいるのかわからない。
赤城の家にいたのは憶えている。凛ノ介が夢遊病患者のように夜を歩きに出ていたのも、路地で世にも悍ましい水棲人どもに襲われたのも、憶えている。けれどそこから先が、白い霧に塞がれているように思い出せない。
否。正確に云うならば、思い出せることもある。
閃光。音。白。女の声。笑顔。閃光。血飛沫。悲鳴。哄笑。閃光。閃光。閃光。閃光。
聖職者モドキの水棲人、白と群青を纏った彼女の姿。
それらが点々と、擦り切れたフィルムの映像のようにではあるが、伊織の記憶には残っていた。
(なんだったんだろう、あの人は)
彼女の笑顔と声を想いながら、伊織はわずか嘆息を漏らした。
「おはようござ……アラ! 気が付いた!?」
それとほとんど同時に、病室の扉が勢いよく開いて、伊織の覚醒に気付いたらしい看護婦がひとり駆け寄って来た。
いかにも溌溂そうな顔をした女性。胸元の名札には早瀬タヱと書かれている。どうやら彼女が、凛ノ介が云っていたモダン趣味の人らしい。
「気分はどう? 気持ちワルイとかない?」
「ぼ、僕は大丈夫です。あの、それより……」
「ああ、コラコラ! 無理しちゃダメだって!」
「うわわっ」
強がった顔で上体を起こそうとするけれど、タヱに両肩を押しとどめられてしまう。病人の些細な強がりなんてものは、彼女には効かないようだった。
「急に起きたら危ないでしょ!」
「あっ、す、すみません……それでその、凛はどこに? いや、そもそもどうやって僕はここに?」
布団をしっかり肩までかけられながらも、伊織はタヱにことの委細を問いかけた。
すると彼女は、溌溂な表情から一転して沈痛な面持ちを見せると、云い難そうに眉尻を下げてわずか口ごもってから、そっと話を始めた。
「起きてすぐの君には、その、云いにくいんだけど……」
そうしてタヱの口から語られたのは、あまりにも信じがたい事実だった。
浅草のはずれ。様々な理由から復興が後回しにされていた区画の片隅で、人が倒れているとの通報が警察に入った。
怪訝に思いながらも警官が駆け付けてみれば、極度の疲労困憊と脱水症状で衰弱していた伊織と、死人のように蒼白の顔をして眠っている凛ノ介が倒れているのを発見。すぐさま帝都東病院に救急搬送された。
それが、もう一週間も前のこと。
危険な状態だったと、彼女は云う。
伊織は特に生死の瀬戸際だった。汗も出ないくらいに弱り切っている状態で、真冬の夜に薄着のまま放置されていたのだから、宜なるかなであろう。あと数刻遅ければ凍死か衰弱死していたところだと医者は云っていたそうだ。一週間も眠り続けていたのが、その証左である。
一方で凛ノ介は、不思議なことに、身体は何ひとつとして問題がなかった。身体は冷え切っていたが伊織ほどではなく、しかして傷らしい傷も見当たらない。高熱などの症状も見られず、身体はまったく正常な状態だった。
そう、身体は。
「意識、不明……?」
身体機能に一切の問題が見られないはずなのに、凛ノ介は今もなお昏睡を続けていた。光や音といったあらゆる刺戟にも反応を示さず、ただただ、冬眠のように深い眠りに落ちているのだ。
いつ目覚めるのか……いや、そもそも目覚めるのかさえわからないと、医者は悔しくも匙を投げたらしい。事実上の、脳死状態であった。
「そう、ですか」
全てを聞き終えても、伊織は少しも取り乱さなかった。涙ぐむタヱに右手を握られて「ごめんね」「辛かったよね」と繰り返されている間も、自分でも驚いてしまうくらいに冷静だった。
やがて。目覚めを聞きつけてやって来た医者から、軽い問診と触診を受けて、再び眠りに落ちる頃になっても、伊織はどこか冷めた気持ちのままだった。
(夢なら、いいのに)
天井の機関燈が消える。意識が微睡みに浸かる。
やがて。静かな寝息だけが、部屋を満たした。