ぽーん、と気の抜けた効果音の後、フランス語、英語、そして日本語で到着を告げるアナウンスが流れた。やっと、やっと着いたのだ。
「やっと、やっと着きました!パリですよパリ!」
「ええ、やっと着きましたね」
にっこりと微笑みながら文香が応えると、降りる乗客の列がようやく動き始めた。世界各地から集まった彼らは重い荷物を両手に引っ提げ、一刻も早く降機しようと狭い通路にずらりと並んでいる。動き始めたと思ったが、なかなか進まない。これは降りられるまでしばらくかかりそうだ。文香はえくすきゅーずみと小さく呟きながら、列に割り入ってヘッドラックからスーツケースを取り出した。すかさず席に戻ってぽすっと腰を下ろした彼女は「もう少し……待っておきましょうか」と苦笑した。
「これだけ人が多いと……ふふ、そうですね」
ありすも文香のややげんなりとした表情を見て、にっと口許を歪めた。
それから待つこと十分、ようやくほとんどの乗客が機を降りた。文香とありすも席を立ち、廊下に立ってから揃って大きく伸びをした。
「「ふわぁ〜〜〜〜ぁ!」」
ヘッドラックの忘れ物を一つ一つ確認しているCAさんに怪訝そうな顔で見られながら、二人は長旅で凝り固まった身体をほぐしてやった。ラックをもう一度確認し、座席もチェック、何も忘れていないことを確信して二人は外へ向かった。CAさんたちにありがとうございましたと会釈しつつパッセンジャー・ボーディング・ブリッジから空港施設内へと移る。通路にはどこかの会社のロゴが中央に据えられた、なんだかおしゃれな広告が幾つも並んでいる。
ブリッジを出るとついに空港の施設内だ。飛行機特有のあの何とも言えない匂いがさっぱりなくなって、大きな建物によくあるさっぱりとした清々しい香りがした。ちょっと呼吸が楽になった気もする。そう感じた文香が隣を歩く小さな身体をちらりと窺うと、ありすも同じく深呼吸をしていた。
そこからはしばらくの歩きだった。あっちを曲がり、こっちを曲がり、しばらく真っ直ぐ進んだと思いきやまた曲がる。そんなこんなで入管らしき場所まで辿り着いた。スーツケースのX線検査と、くぐって調べるタイプの金属探知機。文香にとっては見慣れてきた風景だ。彼女は仕事で二度、幼少期に一度海外へ行った経験があった。
ふと繋いだ手の先を見てみると、小さなアイドルはステージ前かと見まごうほどに緊張した様子である。メデューサと目線を交わしたかのごとくがちがちだ。何せ初めての海外旅行、ありすが不安そうにしているのも無理はない。文香は「大丈夫ですよ、私たちは旅行に来ただけなんですから。怪しまれるようなことはないんですから、リラックスしてくぐりましょう?」と声をかけたが、ありすは「は、は……い」とやはり緊張したままだ。なんてことをしているうちに、二人の番がやってきた。
「じゃあ、私から行きますね」
「わ!」
ありすは予想以上に声が出てしまったことに驚いて赤くなりつつ、「わ……私から行きます!」と続けた。
「……良いのですか? 別に私からでも……」
「だ、大丈夫です!私、行きます!」
よく見るとほんの少し目が潤んでいる。よほど勇気を出したのだろう、と察して、文香は先を譲ることにした。金属探知機の傍にスタンバイする職員さんが微笑ましそうにこちらを見ている。
とうとうありすが勇敢なる第一歩を踏み出した。というシチュエーションとはあまり似合わぬとてとてとした酷く弱々しげな歩みだったが、何にせよありすが探知機をくぐった。音は鳴らない。偉大なる勝利であった。ありすは向こう側からたいそうきらきらした目で「やりましたよ文香さん!」と振り返りながら言った。その言葉に笑みで返し、文香も後に続くことにした。
———びーびーびー!
みるみるうちに対岸のありすの表情が恐怖と絶望に染まる。今にも泣き出しそうな気配だ。そう、決して鳴ってはいけないはずの恐るべき機械が文香を呼び止めたのである。厳しい顔つきの筋骨隆々男性警備員がこちらへと歩み寄る。文香もこうなると流石に緊張せざるを得ない。冷や汗が背を伝う感触がした。男が口を開いた。
「Let me do a quick check, please」
ありすには英語が分からぬ。けれども親友の危機には人一倍敏感であった。「あ……っ!」と何か言おうとするもその瞬間、男は警棒くらいの長さの何かを片手にさっと文香の身体の前で振った。ぴぴっと音が鳴る。
「あ……」
文香は音の原因に気づき、シャツの胸元に手を突っ込んだ。引き揚げたのは銀に輝くネックレスである。去年の誕生日に奏が贈ってくれたもので、日頃大抵は身につけているものだ。シャツの下に隠れていたこともあり、文香自身その存在をすっかり忘れていたのだった。
男は大きく頷き、「Just one more check」ともう一度棒を、否、小型金属探知機を文香の身体の周りでふわふわ振り回し、最後に親指を立てて頷いた。解放の合図である。男は向かい側で待つありすに一瞬目を遣ってから、「Sorry for worrying your princess, you can go now」と微笑んでくれた。お姫様と呼ばれたことも知らぬありすは、緊張の糸が切れたためかつーっと涙を流していた。
「すみません、ありすちゃん。心配かけてしまいましたね」
「心配かけましたねじゃないですよ!どこか連れ去られちゃうと思ったじゃないですかぁ……!」
ぽろぽろと涙をこぼすありす。慈母のような笑顔で二人を見つめる周囲の職員。文香も恥ずかしいやら悶えるやらで頬を真っ赤に染めている。
「と、とりあえず行きましょうか」
X線検査を通過した荷物を受け取った文香が言った。ありすは涙を押しとどめようと俯きながら小さく頷いた。彼女の手を取ってやや速足に入管検査を立ち去った。背中に刺さる視線がなんだか痛い。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。
書きつつ、これは思ったより長い作品になりそうだ……と正気に戻ったのですがめっちゃ楽しかったのでそのまま上げることにました。少しでもお楽しみいただけたら幸いです。