雨のち陽キャ 作:Shinsemia
教室の前の方からは、カツカツとチョークで黒板を叩く音が聴こえてくる。昼休みの後の授業ということもあって、教室には緩やかな空気が流れていた。
開け放った窓から吹く温い風。ときどき聴こえてくる蝉の声。ここ数日の気温は緩やかに上昇してきている。穏やかな温風が頬を撫でるたびに、これからの夏を予感した。
ちらりと教室の中を見回すと、何人かの生徒は机に突っ伏したまま寝ていた。ご飯を食べた後だし、眠たくなる気持ちも少しは分かった。教師も注意する気はないのか、淡々と授業を進めている。
「……すぅ」
その中には、僕が最近知り合ったばかりの女の子もいる。
ロングの明るい茶髪。シャツの胸元を軽くはだけ、ちょっとギャルっぽい見た目をした彼女。彼女との出会いは、どんよりとした天気の、雨が降りしきる日だった。
僕と彼女はたまたま同じ場所で雨宿りをすることになって、本当に些細な会話を交わした。取るに足らないただの言葉。雑談とすら呼べない、ただの発声。
それでも、僕はあの日。確かに何かを予感した。何かが動き始めたような、曖昧な感覚。止まったままの時計の針がゆっくりと、確実に動き始めたときの鼓動。僕はあの日、紛れもなく感じ取った。
僕の席から遠く見える三上さんは、すやすやと穏やかな顔で眠っている。普段から溌溂として元気いっぱいな彼女のことだ。昨日はテレビか何かで寝不足なのかもしれない。
僕は逆に勉強しかしてなかったし、今やってる授業の内容も予習済みだ。どちらかと言えば暇を持て余している。だからこうして、ぼんやりと教室に目を向けていた。
僕は続いて、その後ろに視線を移した。
「……」
三上さんの斜め後ろの席。そこには花見さんがいる。花見さんは退屈そうに頬杖をつきながら黒板を眺めていて、授業にはあまり集中していないように見えた。
花見さんは三上さんと高校で知り合ったらしい。でも、期間の短さを感じさせないほど親密な仲に見える。休み時間のたびにおしゃべりしてるし、そのときは何故か僕の席まで来ることが多い。
そう言えば。この間の保健室での一件から、花見さんは僕のことを『優希くん』と下の名前で呼ぶようになった。同級生に名前で呼ばれるのは初めてだから、少しこそばゆい気持ちになったけれど、最近は慣れてきた。
「……あ」
ふと、横を向いた花見さんと目が合った。花見さんはきょとん、とすると、ちらっと教師が黒板の方を向いているのを確認した。
そして。
「……」
机と太ももの間からひょっこりと手を覗かせ、小さく手を振った。花見さんらしい、あどけない仕草だった。僕も教師の視線がこちらを向いてないことを確認して、軽く手を振り返す。
花見さんはそれに満足したのか、一度ニコッと笑うと、再び黒板の方に顔を戻した。今度は先ほどとは違って、どこか楽しそうな横顔だった。
「……」
もう一度、窓の外を見た。蝉の鳴き声と、土と風の匂い。深呼吸してみると、ゆったりと心が安らいでいく。今僕は、確かにここにいる。
僕はあの頃から、息の詰まるような日々を送っていた。通学路が怖くて、学校が怖くて、教室が怖くて、何よりもクラスメイトが怖かった。視界を封じることで何もかもを見ないようにして、殻に閉じこもり続けていた。でも、その殻は思ったよりもちっぽけなものだった。
だって……。
「……すぅ」
もう一度、教室の中を確認する。
やっぱり彼女は、幸せそうに眠っていた。
……
……
放課後の空気は、いつも通りの解放感で溢れる。我先にと部活へ駆けだすものや、友達とおしゃべりしながら帰る人。三者三様だった。
「涼子って、お昼の後の授業はいっつも寝ちゃってるよね」
「あははー……。昨日やってたテレビドラマが面白くてさー」
僕が帰りの準備をしていると、三上さんと花見さんが雑談をしながら僕の下までやってきた。彼女たち曰く、帰宅部だから暇なのだとか。
一方で成宮くんは、放課後になると急いで荷物をまとめて体育館へと向かって行った。バスケ部のエースはやっぱり忙しいらしい。でも、成宮くんも部活がない日は同じようにこうして集まる。
ここ最近は、なんとなくだけどそうするのが流れになっていた。
「優希くんも涼子に言ってやってよー。このままだと成績落ちちゃうよって。しかも今日のところ、今度テストに出るって言ってたよ」
「えっ、マジ?」
「マジだよ」
絶望の宣告を受けたがごとく、胸を抑えくずおれる。そんな三上さんを見て、花見さんははぁと深いため息をついた。
花見さんの言う通りそろそろテストが近い。それも、夏季休暇前の大切なテストだ。ここで赤点なんて取った暁には、うだるような暑さの中で補習地獄を受ける羽目になるだろう。
「花見……私たち、友達だよね……?」
縋るような眼差しで見上げながら、三上さんは花見さんのスカートを掴む。ズズッ、ズズッと、まるで映画に出てくるゾンビのような足取りだった。
「この手は一体何?」
「いや~……その……ノートを見せていただけないかと」
「見せません。涼子この前も同じ失敗したじゃない。あのときは見せてあげたけど、二度目はありません」
「ぐぬぅ……」
シッ、シッとスカートを掴む手を払いのけながら、花見さんはきっぱりとした物言いで拒否した。当然、三上さんはガックシと倒れ伏した。
そっか。花見さんは以前から三上さんをサポートしていたのか。元気いっぱいだけど抜けてるところのある三上さんと、おっとりしてるように見えてしっかりしてる花見さん。凸凹コンビというわけじゃないけれど、いい組み合わせだと思った。
「あの……僕のノートで良ければ見せますけど」
「え、いいの?」
「だめだよ優希くん。涼子を甘やかしちゃ」
僕が提案すると三上さんはぱぁっと顔を輝かせたけれど、それを遮るように花見さんはぴしゃりと言い放つ。三上さんは「そんなぁー……」と涙目になりながら懇願してすり寄ってくる。
「このままだと私の夏休みが……夏休みが……」
「はぁ……そう言えばさ。優希くんって夏休みは何するの?」
「僕は……」
夏休み。去年は何をしていたんだっけ。課題をやって、妹の勉強を見て。あとは適当に時間を潰していたような気がする。
「もし予定が空いてるならさ、夏祭りとかみんなで一緒に行ってみない?」
「夏祭り! 私も行きたい!」
「涼子はその前に、ちゃんと無事に夏休みを迎えられるようにすること」
「うぅ……」
僕は最初、花見さんも三上さんと同じように勉強が苦手なのだと思っていた。似た者同士みたいなものだと思っていたから。けれど、花見さんはどちらかと言えば成績が良い方らしい。
窮地に追い込まれた三上さん。でも、何か名案が思い浮かんだのか、「あ!」と顔を上げた。
「そうだ、今度みんなで勉強会しようよ!」
「……勉強会?」
花見さんは訝し気に三上さんに向き直る。
「そそ! ユッキーはめっちゃ勉強できるし。私は赤点回避できるかもだし! めっちゃイイ案じゃない?」
「またそんなこと言って……。優希くんに迷惑でしょ?」
「……僕は別に構いませんけど」
「ほら!」
三上さんは我が意を得たりと言わんばかりに、ガバっと立ち上がった。ひらりとたなびくスカート。
花見さんは一人喜ぶ三上さんを尻目に、僕に耳打ちするようにそっと身を寄せて囁いた。
「本当にいいの? 本気にしちゃってるけど」
「僕は全然問題ないです。……花見さんは嫌ですか?」
「勉強会が? わたしもむしろ、苦手なところあるから教えてくれるとありがたいけど……」
「それなら、勉強会やりましょう」
「……」
花見さんは一瞬ぽかんとすると、おかしそうに手の甲を口元にあてて微笑んだ。
「うん。そうしよっか」
詳細はまた後で連絡を取ると言うことで、彼女たちは帰路に就いた。僕は先ほど下の階の自販機で購入した炭酸飲料を手に、ゆっくりと自分の席に座り直した。
教室を見れば、クラスメイトは全員いなくなっていた。みんな部活だったり遊びに行ったりしてるのだろう。
「……」
それにしても、今思えばおかしな話だ。僕は学校や教室を怖がっていた。教室の机の匂いも、リノリウムの床を擦る上履きの音も、ひどく嫌っていた。こうして自分の席に座っていても、落ち着くことなんてなかった。だから僕は放課後になると、誰よりも早く学校から出ていた。
それに比べて、今の僕はどうだろう。吐き気を催すような焦燥感も無ければ、胸を激しく打つ動悸もない。木製の机の独特な匂いや、床を引く椅子の音だって。少しずつだけど、大丈夫になってきている。
ヴー、ヴ―と。ポケットの中の端末がかすかに振動する。取り出して見てみると、一つのメッセージの着信。
『ユッキー! 課題でわからないところあるんだけど、あとで教えて!』
泣き顔とぺこぺこと頭を下げるスタンプと共に、そんな一文が記されていた。
三上さんらしい、賑やかなメッセージだった。連絡先を交換したのも、最近のことだ。でも、最近とは感じないくらい、メッセージの履歴が積もりつつある。三上さんだけじゃない。成宮くんも花見さんも。話題をときどき振ってきてくれて、メッセージのやり取りを交わしている。
僕は少し考えて、ぽつぽつと文字を打った。
『わかりました。時間が空いたら連絡します』
ピッと送信ボタンを押す。
何も言わない冷たい画面。そこに映る僕の言葉。素っ気ない文章だろうか。メッセージを送った後に、そんなことを思う。
でも、そう考えた後には、いつだってすぐに返信が来る。
『りょーかい!』
静かな時間が好きだった。
誰にも干渉されないことが、僕にとっての平和だった。
陰に埋もれていられれば、それだけでよかった。
けれど、最近のちょっとだけ騒がしい日々に、僕は安らぎを覚えるようになった。僕は自分が変わったのかどうかは分からない。でも、変わっても変わらなくても、今の僕の周りに彼女たちがいる。それは、僕がどう思おうと変わらない事実だった。
「……」
まだ手を付けずにいた炭酸飲料をぐっと飲み干して、カバンを肩に掛けた。
もうそろそろ帰ろう。三上さんが課題で分からないところがあると言っていたけど、どの教科だろうか。もしかしたら、僕がまだ手を付けてない課題かもしれない。ちゃんと準備して、時間が無駄にならないようにしないと。
教室のドアに手をかけた。
「……っ」
「あ……」
──それは偶然だった。
本当にたまたま、そこに人がいたのに気づかなかっただけ。いつもの僕なら気づいていたはずの気配が、どうしてか気づけなかった。
いや、別にそんなことはどうでもいい。実際に問題なのは、それが
ストレートの長い金髪は一本一本が絹の糸のように綺麗。大きな瞳にすっと通った鼻梁。整った顔立ちは、昔から僕が良く知る彼女のものだった。
「さっ──」
その名を呼ぼうとして。
僕は、口を噤んだ。
心臓が激しく鼓動した。頭をガツンと殴られた時のように視界が明滅した。
久しく口にしていなかった言葉が、衝動的に出かかってしまった。喉をかすめそうな言葉を、僕は無理やり飲み込んだ。
きっともう、そんな馴れ馴れしいことを言ってはいけない。
「……」
僕は、意図的に別の言葉を放った。
「……相原さん。どうも」
「っ……」
彼女は僕の言葉に、何か言おうとした。けれど、口をパクパクとさせるだけで、それ以上は言葉にならないようだった。声にならない声。掠れて出たその声は、僕には聴こえなかった。
「……どうしたんですか? 放課後に」
「あ……。ノート、取りに来たの」
ちょこんと指で指した先は彼女の机。
「そう、ですか」
「……うん」
教室の中にいる僕と、廊下に立つ彼女。そこを隔てるドアは開かれているけれど、彼女は教室に入ろうとしない。僕もまた、動くことができなかった。
それっきり、互いに無言になったまま。彼女はそわそわとしながら、指で髪の先を弄んだり、ちらちらとこちらを気にしたりしていた。
訊きたいことがたくさんあった。言いたいこともたくさんあった。ずっと仲良くしてきた幼馴染の僕たち。でも今は、このありさまだ。
もう、何年くらい経つのだろう。毎日のように教室で顔をあわせているのに、久しぶりに彼女の顔をはっきりと見た気がする。
「……では、僕は失礼しますね」
「あ……」
目を瞑って彼女の横を通り過ぎる。どこか懐かしい花のような甘い香りがした。
僕はただ、頭を振り払って気づかないふりをした。