雨のち陽キャ 作:Shinsemia
駆け足で校舎を出た。
熱い日差し。夏の匂い。額から吹き出す汗をぬぐいながら、そんな帰り道を走る。目の前に映るのは無機質なアスファルト。時折視界に映るセミの亡骸。じりじりと肌を焼く熱さ。相反する息の冷たさ。流れゆく景色を振り払いながら、何かから逃げるようにただひたすらに走り続ける。
けれど、それもすぐに限界が来てしまって。
「っ……はぁ……」
足と脇腹の痛みを覚え、胸を圧迫する何かを吐き出すように、僕は大きく息を吐いた。その何かは、昔に取り残されたただの残滓だった。
どれだけ振り払っても、どれだけ忘れようとしても、心の奥底に根付いてしまった染みは取れることがない。決して見えないように、こぼれださないようにしまい続けてきたそれは、こんなにも容易く表に出てきてしまう。
いつの間にか、足が震えていた。近くのブロック塀に背を預けて、思わず座り込んだ。ギラギラと光る太陽に照り付けられた硬い地面が、ひどく暑い。
「……」
相原さん、だなんて。僕は一度だって口にしたことがなかった。あんな風によそよそしくなるだなんて、考えたこともなかった。でもそれは、きっと僕の思い込みでしかなかった。
忘れもしない小学校のとき。
──友達なんかじゃないよ。
「……」
思わず、手に力が入った。同時に脳裏によぎるのは、僕を嘲笑するクラスメイトの姿。
卑しい笑みを浮かべた彼ら彼女らは、ただ独りの標的を定め、徹底的に虐げ続ける。それが幼さゆえの無垢な行いだと言われてしまえば、僕は何も言うことができない。そこに理由なんてない。ただ楽しいから、対象がたまたま僕になっただけだから。ただそれだけで、イジメの対象というものは出来上がる。
筆記用具がなくなったり、上履きが消えたり。そんなことは日常茶飯事だった。クラスの集まりでは僕を省いたり、教師の目の届かないところでは徹底的に無視されたりした。
教師に一言でも、そう言えればよかったのかもしれない。でも僕は、それができなかった。僕が何か悪いことをしてしまったから、僕の何かが気に障ってしまうから。理由や責任がもし自分にあったらと考えると、僕はどうしても誰にも相談できなかった。今にしても思えば、それはとんだ勘違いだったと分かってはいるけれど、当時の僕はそんなことを考えられなかった。
「……っ」
震える脚を無理やり立たせて、よろけながら歩き出す。
結局、僕はこうだ。変わったと思っていても、本質的には何も変わっていない。逃げて逃げて、逃げ続けて。その先には何もないと分かっていても、その歩みを止めることができない。どこへ向かえばいいのか、どこを向いているのかも分からない。
「……はは」
自分で自分が滑稽に思えてくる。ここ最近のことで、僕はすっかり忘れていたんだ。久しぶりにできた、話のできる人たち。友人だなんて気軽には言えないけれど、学校生活の中で唯一できた人間関係。その贅沢な日々の中で、僕は心地よさのあまりに目を閉じてしまっていた。本当の現実は、何も解決なんてしてなかったのに。
よろよろと、夢遊病のような足取り。夢と現実の境目にいるように、帰り道の景色があの頃と重なる。ランドセルを背負った僕と相原さんの姿を、その道に錯覚した。
近所の幼なじみだった僕たちは、両親同士が知り合いだったこともあって、自然と仲良くなった。彼女の家にも遊びに行ったことがあったし、逆に僕の家にも来たことがある。喧嘩もしたことはあったけれど、そのたびに仲直りした。今にして思えば、それはきっと友達の証だった。当時は当たり前だと思っていたその関係。けれど、その関係は徐々に崩れ落ちてしまって、泡沫の夢のように消えてしまった。
「……」
僕の足が無意識に、
普段の帰路とは逆方向に歩いているのに、不思議と違和感はなかった。
静謐な住宅街、人のひしめく商店街、そして陰に埋もれる脇道を抜ける。雑草がところどころ生え始めたあぜ道の小石が、ときどき靴にぶつかる。路傍の石がどことなく、昔見たことがあるような気さえしてきた。
陰りのある通りを抜ける。出た場所は人気のない神社の近くの空き地。そこは、僕と彼女がよく遊び場にしていた場所だった。二本の土管が置いてあるだけの何もない空地。そこが僕と彼女の秘密基地だった。
……懐かしいな。
近寄って、土管の上の砂ぼこりを取り払う。指に付着したそれらを気にせず、僕はゆっくりと座った。硬い土管の高さは思ったよりも低く、そこから見える景色は高くなっていた。
向かいの方に目を向けると、神社の鳥居が厳かに佇んでいた。ところどころ薄汚れてしまってはいるけれど、その雄大さと荘厳さはきっと昔から変わっていない。
……僕は、いったいどうしたいのだろう。
一度、心の中の自分に問いかける。高校に上がって、偶然にも同じ学校だったことには驚いたけれど、僕は未だに彼女と話らしい話をしてない。もう、七年くらいになるだろうか。他愛もない雑談すら久しくしてない。
でも、そもそも僕は彼女から嫌われている。だってあのとき、友達じゃないとはっきり言われたのだから。だから話もしないのも当然だった。
「……」
温い風が肌を撫でる。青葉の瑞々しい匂いは、真夏の季節の証。
どうしようもなく、その匂いがうるさく感じた。
……
……
家に帰る頃には、既に日が暮れ始めていた。昼間のギラついた太陽は少しだけ疲れたように、その輝きを落としながら地平線の彼方へと沈みかけている。それでも、夏の一日は長い。日が暮れかけてはいるけれど、それでもまだしばらくは茜色の空が続くだろう。
「……ただいま」
玄関のドアを開くと共に、二階から階段を降りる柔らかな音が聴こえてくる。
「おかえり、お兄ちゃん」
既に帰宅していた智香が僕を出迎えた。妹はキャミソールとホットパンツという身軽な普段着に身を包んでいて、細い手足を惜しげもなく露出していた。
「ねえねえ、お兄ちゃん。お母さんから話聞いてる?」
「……?」
突然、智香の口から出た言葉に僕は首をひねった。
……母さんから話?
覚えがない。今朝家を出るときは何も言われなかったし、それ以前も聞いた記憶はない。
智香は僕の様子に『やっぱり聞いてなかったかー』と言って、頭をポリポリとかいた。
「お母さん。今日は友達と食事しに行くから、あなたたち
それを聞いてもしかしてと思いポケットの中のスマホを確認してみると、メッセージの通知が入っていた。それは、僕がちょうど神社の方にいたときに来たもの。僕がどうやら気づかなかっただけみたいだ。
それにしても急な話だ。もっと前から言ってくれればよかったのに。貴方たちだけで食べなさいだなんて。
……って、あれ?
「三人……?」
思わずスルーしかけてしまったが、その数字が引っ掛かった。
僕と妹で二人。そうなると、あと一人は一体誰だろう。父さんに関しては泊りがけで出張しているはずだから、今日はいないはずだ。
「お兄ちゃん、誰が来るかも聞いてないの?」
「……聞いてないけど……」
「ふーん……」
答えると妹は何故か、口元に手を当ててニヤニヤとし始めた。猫のように悪戯っぽく笑う瞳。からかい混じりの笑みに、僕は思案する。
どうやら、妹の方は誰が来るのかを把握してるらしい。けれど、この感じからして僕に教える気はないようだった。こうなったときの妹は意地でも教えてくれない。長年の兄妹生活の中で、妹がそういった性格なのは理解している。
それにしても、思い当たる節が全くない。もしかして親戚の誰かが来るのだろうか。思い当たる人物像を並べてみるけれど、どれもいまいちピンとこない。
……三人……。
「さーて、私はまたお勉強にもどろっかなー」
「あ……」
わざとらしく言い、妹は二階へたたたっと駆けあがってしまう。腕時計を見れば、いつもの夕飯の時間まで少しの猶予がある。
……誰が来るんだろう?
家の中に入りドアを閉める。一階には誰もいないせいか、クーラーはついてなくて蒸し暑かった。リビングに入りテーブルの上のリモコンを拾い、エアコンの電源を入れる。機械的な音が響いて、程なく涼しい風が吹き始めた。
「……」
学校での出来事を思い出す。
あのとき、相原さんにばったりと出くわしたのはただの偶然だ。別にそれで何が起こるわけでもない。もう、そんなアクシデントも起こさせない。彼女と顔を合わせてしまうのは、きっとお互いにとって良くないことだから。
「……」
ソファに寝転がって目を閉じる。暗闇の中には何も映らない。
暑くて、寒くて、心地よくて、苦しい。そんな曖昧な境界の中で、意識は少しずつ揺らめいていって。
いつの間にか、僕の意識は沈み込んでいった。
『ゆうくん! あそぼ!』
懐かしい夢を見た。それは縋りつきたくなるようなある日の夢の欠片。揺蕩う夢の中で、僕はふわふわと浮き上がりながら周囲を見回す。
僕の目の前には2人の子どもが映っていた。僕たちの幼い手のひらはお互いに強く握られていて、彼女は僕の手を引っ張りながらどこかへと駆けだそうとしている。
子どもらしく元気よく外を走る僕たちは、紛れもない友達だったと思う。一緒に遊んで、たまに喧嘩とかもして。それでもやっぱり一緒に遊びたくて仲直りして。一日がとても長く感じられたあの頃の記憶が、僕の中でいつまでも脈打つ鼓動として存在し続けている。
『ほら、こっちこっち!』
手を引かれた先にあるのは、僕たちの秘密基地。まだ体の小さい僕たちは土管の中にすっぽりと入って、こっそり持ち出した懐中電灯を使って暗闇を照らした。砂ぼこりで服が汚れるのも気にならなかった。
四つん這いになった彼女はマジックペンを取り出すと、土管の中で体を丸めながら体勢を整えて、何かを書き始める。上向きの矢印を書くと、長棒部分の隣に自分の名前を書き始めた。
『えっと……』
彼女はゆっくりと、ペンを動かす。そしてそれが終わると、にししっと笑いながら僕にマジックペンを押し付けた。
『ゆうくん! ここに名前かいて!』
『……これってなに?』
『えへへ……おまじないだよ!』
懐中電灯の照らす先には、少し歪で、でも丸っこく女の子っぽい字で「さき」と書かれていた。
僕はペンと彼女の顔を交互に見ながら、もう一度そのおまじないを見つめる。それがどんなおまじないだったのかは、当時の僕は分からなかったし、彼女も教えてはくれなかった。それでも、それがきっと僕たちにとって大切なことだったのは間違いないことで。
僕はゆっくりと、「ゆうき」と書いた。
『これでいいの?』
『うん、うん!』
彼女はやたらと嬉しそうにしながら目をきらきらと輝かせた。彼女が何をそんなに喜んでいるのかは分からなかったけれど、それが僕には嬉しかった。
『ねえ、ゆうくん!』
僕の手を握る彼女の手が、あたたかくて。
『わたしたち──』
「あ……」
家のインターホンのチャイムが鳴る音で、僕は目を覚ました。
涼しいクーラーの風は僕が寝てる間も体を冷やし続けていたらしく、僕はわずかに身震いした。
『おにいちゃーん! でてあげてー!』
身体を軽くさすりながら起き上がると、二階から妹の大きな声が聴こえた。
軽くあくびをして、寝ぼけ頭ながら考える。確か家に帰ってきて、ソファに寝転がってそのまま寝ちゃって……。
そう言えば、その前に智香と軽く話をした。確か今日は、母さんがいないんだ。だから僕達だけでご飯を食べなくちゃいけなくて……。
「……っと」
ピンポーンと再びチャイムが鳴る。二階からは『おにいちゃーん?』と心配そうな声。そうだ、今はそれよりもこのチャイムに出なくちゃいけない。
目を軽くこすり、のろのろと玄関へ向かう。夕方のこの時間に来客なんて珍しい。まあ、近所の誰かが回覧板を持ってきたのかもしれない。
「はい、どちらさ──」
──時が止まった。
彼女を見た瞬間。ドアを開け放った僕はそのまま固まった。
その瞳の色も、髪の色も、ふわりと香る香水も。僕は今日、数時間ほど前に間近で感じていた。
何故、だとか、どうして、だとか。そんな疑問ばかりが頭の中をぐるぐると巡る。
確かに彼女は近所の人ではある。けれど、よりによってその相手がどうして彼女だったのか。
目の前の彼女は、どことなく緊張してるのだろうか。薄手のシャツとミニスカートに身を包んだ彼女は、口をぎゅっと噤みながら佇んでいる。買い物袋か何かをぶら下げた彼女の手は体の前で結ばれていて、彼女の目は僕を見るや否や気まずそうにそらされた。
僕はただ、パクパクと口を開けて。
それでも、やっと絞り出されたその声が綴ったのは。
「さっ……ちゃん……?」
僕の幼なじみの名前だった。