狭霧山。かつて、義勇が鬼殺隊の剣士となる為の鍛錬を積んだ山である。
非常に標高が高く、山頂付近には霧が立ち込めている。その酸素の薄さは、沼のような異空間を作り出す鬼との戦いの際、炭治郎が鬼を討つ為にその中に足を踏み入れた結果……。「狭霧山の方がもっと空気が薄かった」と確信する程だ。これ程の空気の薄さならば、根津が高地トレーニングにおいて使われる地だと言うのも納得がいく。――因みに、高地トレーニングを行う施設は、1500mから3000mの標高でのトレーニングの効果があるらしい――
そんな酸素の薄い山の山頂付近から麓にまで全力疾走したり、水が何たるかをその身で感じ取れと師に無茶振りを言われ、滝壺に思い切り飛び込んだり……。前世の鍛錬の日々を、義勇は昨日のことのように覚えている。
義勇達の師である老人、鱗滝左近次。彼はその狭霧山の麓に住んでいた。如何なる時も修羅の如く強面の赤い天狗の面を付けていたことは、今でも忘れやしない。因みにだが、義勇でもその素顔を見たことは生涯を通じて一度もなかった。
何故、義勇がそんな狭霧山の場所を調べることを根津に頼んだのか。
第一の理由は、"全集中の呼吸"の鍛錬を本格的に積むにあたり、狭霧山の環境が最適だと彼自身が考えたからだ。
"全集中の呼吸"における要は、著しく増強した心肺。それらによって、一度に大量の酸素を血中に取り込み、血管・筋肉を強化及び熱化させて身体能力を大幅に上昇させる。
人間は生きていく上でも、活動する上でも酸素が必要不可欠だ。空気の薄い場所で活動して取り込んだ酸素を消費すれば、人体はそれだけ新たな酸素を求める。空気の薄い中から、より多くの酸素を取り込もうとする。それを可能にするように心肺も環境に適応して増強されていくものだ。
そのような原理を鑑みれば、狭霧山ほど呼吸法の為の鍛錬に適した場所はそう多くはないだろう。
そして、理由はもう一つある。もう一つの理由は、鱗滝に再会出来るかもしれないという淡い希望があるからである。前世、両親を病気で亡くした義勇からすれば、鱗滝は己の師でもあり、父親代わりでもあった。そんな恩人と再び巡り会えることを願うのは道理ではなかろうか。
もはや、前世の記憶があるのかないのかはどちらだっていい。どのような形であれど恩人と再会出来ればそれでいい。義勇はそう考えた。
狭霧山への道を行くバスに揺られながら、ふと疑問に思った義勇は尋ねた。
「根津さんは、鬼や鬼殺隊のことを信じておられるのですか?」
尋ねられると、義勇と蔦子の間に人形のようにしてちょこんと座っていた根津は数秒考えた後に答えた。
「僕も、昔は御伽噺か何かだろうと考えたことがあったさ。でも、この世に残された鬼の証拠はあまりにも具体的過ぎる。それに、少し前の話になるけれど、ヒーロー公安委員会………簡単に言えば、ヒーローを管理する組織のようなものなのさ」
「そこに所属する方の中に
生物の本能的なもので感じ取ったのだろうか。「あの話は本当にあったことなんだろうね」と彼は思案顔で付け加える。
「成る程……」
淡白な返事ではあったものの、義勇の抱いていた感情は明確な喜びと安心感だ。義勇とて、根津がどれだけ聡明な人物であるのかを知っている。彼のような人物が鬼のことを信じるのならば、心強いこと極まりない。
同時に義勇は根津が話を聞いたとかいう人物について思考を巡らせた。
ある程度の察しはつくが、恐らくは産屋敷一族の末裔であろう。親愛なるお館様こと、産屋敷耀哉。今世は彼の一族との縁があるのだろうかと考えながら、義勇はバスの窓を通して、晴れ渡る青空を目にしたのだった。
★
「着いた……!」
付近のバス停を降りて、徒歩で約5分の所に俺達の目指す場所はあった。
秋の上旬であるとは言えど、木々の葉は未だに青々と生い茂っている。今はそうでもないが、季節や時間帯によっては頂上付近に霧が立ち込めるだろう。
狭霧山の様子は、前世から何も変わっていなかった。ふと、頭の中に「国破れて山河あり」の一節から始まる杜甫の漢文が浮かんできた。国が滅んだとしても、自然は悠久の存在。いつの時代も変わらず在り続ける。それをこの目で見て実感した瞬間だった。
「ここが狭霧山……。想像以上に大きい山なのね……」
狭霧山を見上げ、その全貌を目に焼き付けながら姉さんが言う。因みにだが、姉さんは俺が前世で強さを身につけた土地を見てみたいとのことで俺に同行した。
「さてと。行こうか、二人とも」
狭霧山を見るのもそこそこに、俺達を先導するように小さな歩幅で歩く根津さんに促されて、そこの麓へ向けて歩みを進めた。もう一つ言っておくと、根津さんは狭霧山の管理人である方と話を交わすついでに一目でも見ておきたい物があるらしく、同行することになった。勿論、俺達を二人だけで外出させる訳にもいかないという後見人としての理由もある。
そして、麓辺りに来たところで木と瓦葺きの屋根で建築された素朴な小屋が見えた。あの場所こそ、管理人の方が住んでいる場所だろう。
果たして、管理人はどういう方なのか。そして、その方は鱗滝さんの生まれ変わりにあたるのか、はたまた子孫なのか、それとも……全くの他人か。
前者の二択のうちのどちらかであってくれれば嬉しいものだと思い、俺は一人息を呑む。
それを他所に小屋の扉を根津さんが3回ノックすると……。
「はい、どちら様でしょうか?」
そんな老人の声が扉の向こうからすると共に扉が開けられた。
「ん?根津か。久しぶりだな」
「やあ、鱗滝君。こちらこそお久しぶりなのさ。突然訪ねてごめんね」
その管理人の方と根津さんは知り合いらしいのだが、そちらに驚くことはなかった。俺の意識は、管理人の方に集中していたからだ。
強面の赤い天狗の面に、白い雲模様と揺らめく水面を模した羽織。思わず息をするのすら忘れてしまう程に似ていた。他人の空似か、前者の二択か。詳細は分からないが……俺は、この方が鱗滝さんの生まれ変わりだと直感していた。
面をつけているのだから、視線が分かるはずもない。だが、根津さんと話を交わす最中の彼と目が合ったような気がした。
「――して、今日は何の用件だ?」
尋ねられた根津さんは、俺に目配せした後に話し始めた。
「この子……冨岡義勇君と言うんだけれどね。"痣者"としての体質を持っていて、無個性の子なんだ。だけど、かつてこの国にあった古い技術、"全集中の呼吸"を駆使してヒーローを目指している。本当のヒーローというものを多くの人に知ってもらう為に。人々の平和を脅かす
「……成る程。要するに、"全集中の呼吸"の鍛錬にここを使わせてやってほしいと……。そういうことか?」
「変わらず察しが早いね。そういうことなのさ」
管理人の方は腕を組み、数秒間考える仕草をした。そして、強面の天狗の面の鼻面が俺の方に向く。
「義勇と言ったな。遅ればせながら、自己紹介といこう。儂は鱗滝左近次。ここ、狭霧山を管理している者だ。今一度問おう。義勇よ、"全集中の呼吸"……その各流派の剣技が鬼殺の為に使われていたことは知っているな?」
鱗滝さんの目を真っ直ぐと見つめ返すつもりで俺は頷く。
「相手は鬼。その脅威から人々を守る為に振るわれていた剣技とは言え、元はと言えば鬼という生物を殺す為に創り出されたものだ。そんな剣技をお前は何の為に振るう?」
答えは、とうの昔から決まっている。
「人々の笑顔を守り、彼らを救ける為です。人々を
俺の返答を聞いた鱗滝さんが笑った気がした。
「そうか……。儂の問いに即答とは大したものだ。覚悟は既に決まっているようだな。良かろう。義勇、お前の大義を成す為に狭霧山で存分に鍛えなさい。それと……鍛錬の時以外にも、気軽に訪ねるといい。
そう言いながら俺の頭を撫でる鱗滝さんの声色は、喜びに溢れている。仮面の下の顔は穏やかな笑みなのだろうか。
「ありがとうございます、鱗滝さん」
皺が寄った老人らしい手ではあれ、どことなく力強く暖かい。彼の懐かしい手の感覚に俺は微笑みながら返した。
「あの……早速使わせていただいてもよろしいですか?」
「ああ、勿論だ。善は急げとも言うしな。気をつけるんだぞ。罠に小刀があったりもするが、レプリカだから大怪我の心配はない」
「義勇ー!いってらっしゃい!」
そして、やりとりを終えた俺は、鱗滝さんや姉さんに見送られながら山中に足を踏み入れ、山頂付近を目指して歩みを進めていった。
「……励むのだぞ、義勇」
木々に囲まれ、人が通るにあたって不便のない程に丁度良く整えられた道を歩く。
今は日光が良く照っている時間帯だ。その為、木々は盛んに光合成を行って二酸化炭素を取り込み、酸素を放出する。山の空気を美味しいと感じるのはそれが理由なんだろう。狭霧山もその例に違わない。
山の新鮮な空気を堪能しながら、とうとう山頂付近に辿り着いた。明け方や冬程ではないだろうが、辺りには微かに霧が立ち込めている。視界も麓ほど明瞭でない。そして、ここから麓までの道に大量の罠が仕掛けられていることだろう。
俺は、炭治郎や鱗滝さんのように優れた嗅覚がある訳ではない。己の目、耳、肌、直感。それらを最大限に駆使して避けていくしかない。
懐かしいな……。鍛錬を始めたばかりの頃は、何度も落とし穴に落ちて錆兎に引き上げてもらったっけ。小刀や丸太が向かってきて肝を冷やしたこともあったか。
「よし……行くか」
狭霧山の山頂付近の薄い空気を最大限に吸い込む。取り込んだ空気が体中を巡り、体の隅から隅までが熱を持っていく。
それを自分自身で感じ取った瞬間――俺は、地面を蹴って一気に駆け出した……!
★
(……こんなに優しそうな顔だったんだ、鱗滝さん)
そんなことを思いながら、蔦子は目の前で会話を交わす2人を交互に見ていた。
茶飲みついでに話を交わす1人は、白いネズミなのか犬なのか、はたまた熊なのか。それとも、それ以外の何かかはっきりとしない見た目で、人間以上の頭脳を持つ小動物……根津である。
もう1人は、白い雲模様と揺らめく水面を模した羽織を黒い和服の上から身につける老人……鱗滝。しかし、先程までの彼とは大きく異なる点が一つある。今の彼は、強面の赤い天狗の面を外しているのだ。
程々に皺の刻まれた顔。微かに垂れ下がる眉と目尻。川のせせらぎのように澄んでおり、優しげな水色の瞳。短く整えられた白髪と髭が全くと言っていいほど生えていない影響もあってか、若々しい印象さえ抱く。
蔦子としては、天狗の面のように彼自身も気難しさと厳しさのある顔をしていると想像していたのだが、そんなことはなかった。人は見かけによらないとはこのことか。
「根津よ、単に談笑しにきた訳じゃないんだろう」
緑茶を一口啜った鱗滝がそう話を切り出す。
「流石は鱗滝君なのさ。その通り、少し別の用事があってね」
その察しの良さを流石だと言わんばかりに根津が笑いながら言った。
「根津さんの言いたいこと……分かるんですか?」
これも関わりが深い者同士、互いをよく理解出来ているからかなと考えながらも疑問に思った蔦子が控えめに尋ねた。
「長年の勘……と言いたいところだが、そう大層なものじゃない」
彼女の問いに、鱗滝は苦笑しながら答えた。
「儂は"個性"の影響で鼻が良くてな。相手の感情を読み取ることも出来るんだ。根津の言わんとすることが分かるのは、そのおかげだ」
「鞍馬という天狗に因んだヒーローネームがありはするが……それも儂のトレードマークである天狗の面が由来だ。"個性"ではなくな」
「鼻が……!」
蔦子は呆気に取られて目を見開いた。犬も拍子抜けする程の嗅覚だと素直に思った。
鱗滝の"個性"は"嗅覚"。人の身でありながら獣並みの鋭敏なそれを持ち、生物や植物の匂いを嗅ぎ分けたり、相手の感情や人柄、言葉の虚実や攻撃の間合いを判断することが出来る。
その性質から、戦闘は元より、ヒーロー本来の役割である奉仕活動にも役立つ。
「実はね、鱗滝君。僕の目の黒いうちに
「成る程、日輪刀か。少し待っていろ。こちらに持ってこよう」
根津の目的を聞いた鱗滝は、立ち上がって一時的に部屋を出た。
(日輪刀……。確か、鬼殺隊の剣士の方々が使っていた鬼を殺す為の刀よね?ちゃんと残ってるんだ……)
鱗滝を見送りながら、蔦子は日輪刀のことを頭の中で思い出す。
前世の義勇が書き記した「水柱ノ書」と義勇自身から聞いた話で日輪刀のことはある程度知ってはいるものの、実物を見るのは初めてのことだ。
未知のものに対して好奇心を抱くのは当然のことであり、日輪刀の見た目を想像しながら彼女はわくわくしていた。形を成して残っている以上、それが大切に保管されていたことは想像に難くない。
「これが日輪刀だ。儂よりずっと前からここに住んでいた者が、かつて鬼殺隊に所属していたらしくてな。その時から代々受け継いできたんだ」
日輪刀が別名で"色変わりの刀"と呼ばれており、持ち主ごとに色を変え、その色ごとに特性があることを付け加えて説明しながら、鱗滝はそれを手にして戻ってきた。
黒い鞘に収められ、川辺の岩のように鈍い灰色の四隅が丸く欠けたかのような造形である鍔。それと、鍔よりも薄い灰色の柄が特徴的である刀。根津も蔦子も、自然とその刀に心惹かれた。
「……持ってみても、良いですか?」
蔦子が緊張気味に尋ねる。重いから気をつけるようにと釘をさす鱗滝に許可を得て、いざそれを手にしてみると……。
(重い……!)
「刀って、こんなに重いんだ……」
腕に重りをつけたかのような、ずっしりとした重みがあった。刀を使い慣れていないうちは、動くことすら一苦労だろうなと容易く想像でき、蔦子は息を呑んだ。
刀は金属で作られるのだから、重いのは当然と言えば当然なのだが、単なる金属の重みだけではないように思えた。目の前の日輪刀には、それを作った人と扱った剣士達の平穏な日々への想いと憧れ。その重さも詰まっているように思えた。
「――折角だ、刀身も見せよう。貸しなさい」
優しい声色で提案する鱗滝。蔦子から日輪刀を受け取ると、彼はその黒い鞘から慣れた手つきで刀を抜いた。
「おお……」
「綺麗……」
刀身を見た根津と蔦子の口から、感嘆の声が漏れたのは同時だった。
その刀身は、美しく透き通った水色。一切の濁りがない川の水を思わせる美しさだった。
刃には錆も陰りも一切ない。刀の持ち主が、それを後世に受け継ぐ為に手入れを怠らなかった証拠だろう。
「青色の系統の刃は、水の呼吸に適正がある証拠だったかな?本当にいい色だよ……。こちらまで心が洗われるようだ」
日輪刀の刃の中に吸い込まれるかのような勢いで、惚れ惚れとした様子で根津はそれを覗き込む。
これほど綺麗な色ならば、使い手も相当のものだったろうと考えた。
心が洗われ、日々の疲れやら葛藤やらが払拭された感覚になった根津は、一人立ち上がる。
「行くのか?」
「うん。教職というものは中々に忙しいのさ。まだまだ仕事があるし、僕は雄英高校の校長だ。如何なる時も子供達の未来の為に動かなくちゃいけない。延々と休む訳にはいかない」
組んだ両手を腰の後ろ辺りに持っていきながら言う根津の目は、一人の大人として、プロヒーローとして、そして……教師としての責任感に溢れていた。
鱗滝の並外れた嗅覚が、根津から発せられる申し訳なさに満ちた匂いを捉えた。彼の考えていることを察した鱗滝は、思いを汲み取って口を開く。
「義勇と蔦子のことは儂が見ておこう。安心して向かうといい」
そこまで見抜かれるとは、流石の鼻だと言わんばかりに根津が笑う。
「そういうことなら……よろしく頼むね、鱗滝君。それじゃあ、蔦子さん。義勇君にもよろしくなのさ」
「は、はい!ありがとうございました!」
手を振りながら背中を向けて去っていく根津に向けて、蔦子も一礼した後に手を振って彼を見送る。ネズミのように小さいはずの彼の背中が、彼女にはとても大きく見えた気がした。
根津が去ったのを見越してか、鱗滝が蔦子に優しく呼びかける。
「蔦子。お前さえ良ければ、これまでの義勇の歩みを聞かせてくれんか?あの子は、自分を虐げて抱え込むところがあるからな……。儂も義勇がどうしているか気が気じゃなくてな」
苦笑する彼を見た蔦子は思った。
(ああ……鱗滝さんも、
……と。
「はい、喜んで!あの……昔の義勇のことも、沢山聞かせてもらってもいいですか?」
「ああ、良かろう」
その日、素朴な小屋の中では、義勇が戻るその時まで二人の楽しげな談笑の声がこだましていたのであった。
冨岡義勇英雄伝:再編集をこれからどうしてほしいですか?
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このままで続けてほしい
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義勇さんだけが活躍する作品の方が見たい