冨岡義勇英雄伝:再編集   作:白華虚

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第七話 強き姉

「お父さん……お母さん……。ううっ……なんで……。なんで……私達のお父さんとお母さんが……」

 

 俺の後ろで父の亡骸を抱えた姉さんが嗚咽を漏らしながら涙を流し、項垂れている。

 

 姉さんの嗚咽が聞こえる度に痛みが走った気がした。言うなれば、心臓を鋭い一矢で射抜かれたかのような。

 

 その感覚の原因は色々思い当たる。父と母を亡くした悲しみ。母を目の前で死なせ、こうして姉さんを泣かせていることによる後悔。父との約束を果たせなかった悔しさ。己の未熟さに対する怒り……。

 

 だが、悲劇に打ちひしがれる暇などない。今度は俺が蔦子姉さんを守る番なのだから。これ以上、家族を失う悲劇を繰り返させる訳にはいかない。それは俺に限った話じゃない。俺の後ろにいる人々においても同じことだ。

 

「あーあー……呆気なく終わっちまったな、おい。まあ、そこいらのヒーローに比べちゃ、お前らのパパは頑張ってくれたぜ」

 

 筋繊維に包まれた腕が見れば見るほど異質である筋骨隆々の男がつまらないといった様子で首を鳴らし、俺の前に立ち塞がる。

 

 「呆気ない」だとか、「頑張ってくれた」だとか……。言われなくとも分かる。

 

 この男にとっての他人との命のやり取りは、ただのゲームでしかないのだ。そして、相手を殺して命を奪うことはある種の報酬。その報酬を得ることに快楽を見出す。

 

 こいつはそんな男なのだと察しがついた。

 

 こいつにとって、母などの一般人の命は道中でエンカウントするモブ同然。父の、「鎮静ヒーロー・凪」の命は中ボス程度でしかないのだろう。そして、彼らから刈り取った命は経験値。

 

 他人の命を自分の前に立ち塞がる障害のようなものだと考えているのを察した瞬間、はらわたが煮えくり返りそうになった。

 

 凪いだ水面のように静めている心が、風に揺られて波立つ時のように荒れ始めるのが自分で分かった。

 

 鉄の仮面を被って怒りを覆い隠すように、俺は平然を装った表情で奴の殺意に満ちた三白眼を射抜く。

 

 俺の表情を見た男は、楽しげに口の端を吊り上げて笑った。

 

「坊主、お前は肝が据わってるな。俺を見て泣き喚きも震えもしねえし、そもそも怖がる素振りすら見せねえ。つか、何を考えてるのかすらよく分かんねえな!」

 

「よく言われる」

 

「ははははは!口答えまでしちまうか。自分の腹の内を見せねェところは凪にそっくりだな」

 

 奴は拳を鳴らす。これでこそ殺し甲斐があると言わんばかりに。俺を殺す光景でも想像して楽しんでいるのか、その表情は依然攻撃的な笑みであった。

 

「……何故……?」

 

「あ?」

 

 姉さんが小さく呟く。その声が耳に入った男は、首を鳴らそうとしたところで動きを止めた。

 

「何故、他人の命をゲーム感覚で踏み(にじ)ることが出来るのですか……?何故、他人の命を奪って楽しさを感じるのですか?大切な何かを奪われた人や残された人の気持ちを考えたことがないのですか?」

 

「姉さん……」

 

 涙を流しながらも堅牢な岩のように揺らぐことのない強い意志を宿した目で、蔦子姉さんははっきりと言い切った。

 

 ふと視線を下ろせば、姉さんが震える右腕を左手で押さえるのが目に入った。

 

 ……当然だ。まともにあの男の殺気に(さら)されているのだから、恐怖を感じるのも無理はない。それでも姉さんは奴に対して、はっきりと物申した。

 

 思い返せば、前世も……鬼から俺を守った時もそうだった。俺に笑顔を向けていたとは言え、その声は震えていた。涙も、後悔や嬉しさのそれなんかとは違う。恐怖からきたそれだった。

 

 昔からそうだった。姉さんは、俺を守る為に強い姉で在り続けた。本当に強い人だ……。

 

 強かであれど、本当は耐え難い恐怖を隠そうとする姉さんの右手に、俺は自分の左手を絡めた。姉さんのことは俺が守るから大丈夫。隠さなくたって大丈夫。そんな意味を込めて。

 

 ハッとしたようにこちらを見た姉さんと目が合う。彼女の恐怖がほんの少しでも和らぐようにと微笑んだ。

 

 俺達のやり取りを見た男は、大層愉快そうに高笑いした。

 

「ははははは!!!美しい姉弟愛だな!親が親なら子も子。凪と同じように、揃って根性が据わってやがるぜ。頼もしい弟を持ったな、嬢ちゃん。んで、なんで他人の命を奪って楽しめるか……だっけか」

 

 男は左手を肩に添え、右腕をぐるぐると回しながら一言。

 

「んなもん、()()()()()()()()()()()()()()に決まってんだろ」

 

 口の端を吊り上げて不敵に笑い、獲物を喰い千切ろうとする獣のようにして白い歯を見せつけながら放った一言は、鋭い刃となって俺の中の何かを断ち切った。

 

「自分が心から望んでやりてえことだから楽しめるのさ。お前らだってそうだろ?勉強とかマラソンとか苦しいことはやる気が出ないし、楽しくもねえ。でも、やりてえことは自分にとって楽しくて仕方がねえもんだ。それが、俺にとっては殺すことってだけさ!殺されるって分かった時の、恐怖に引き攣った顔……。皮膚が切れて流れる血……。骨が折れたり砕ける音……!本当にたまらねェんだよな!」

 

 空気が凍りつく。人を殺すことの魅力を嬉々として語る奴の姿は、まさに狂人。

 ぐっと押し寄せてくる吐き気のようにして、黒い衝動が体の奥底から湧き上がってくるのが分かった。

 

 落ち着け。俺は水面……凪いだ水面だ。

 

 そう己に言い聞かせながら、俺は右手を握りしめた。血が滲む程に強く……ただただ強く。

 

 男は両腕を前後に動かして体をほぐしながら続けた。

 

「因みにだが、俺のことを恨むだなんて的外れなことはやめてくれよ?俺だって、凪にボコボコにされた手下共のことは恨んでねェんだからよ」

 

「だってさ……そうじゃねェか。なんで自分が望んでやったことに対して勝手に文句つけられて、恨まれなきゃならねェんだよ。自分のやりてえことには口出しされたくねェだろ?お前らもよ。そういうことだ」

 

「……何が言いたい?」

 

 冷静沈着という名の仮面を被ったまま、俺は鋭い瞳で()き咎めた。

 

 奴は数秒間瞬きをして動きを止めた。しかし、その直後。再びニヤリと白い歯を見せて笑いながら言う。

 

「言わせないでくれよ、坊主。察してんだろ?俺らは人殺し、お前らのパパやママは自分達の子供であれ、他人であれ……他の誰かを守る。互いにやりたいことをやった結果だ。俺は何も悪くねえ。悪いのは、実力も無しにそれをやってのけようとしたお前らのパパとママさ!」

 

「そんな訳があるか……!ふざけたことを抜かすな!」

 

 湧き上がってきた黒い衝動が俺の中で爆発すると同時に、反射的に反論していた。目をひん剥くばかりに見開いて。

 

「なんて幼稚な考え……。そうやって自分を正当化して、人々を殺すことを楽しんできたのですね……!嫌気が刺します!」

 

 姉さんも怒っていた。涙を流しながらも眉と目を吊り上げ、凛とした態度で。

 前世、何かをやらかした幼い俺を咎める時のような怒りではない。義憤に近い、気高く強い彼女だからこそ表れる怒りだった。

 

 普段穏やかな姉さんだが、たまにこういうことがある。

 

 例えば、前世だったら、同年代の女性にやたらと絡む相手を追い払う時とか、幼い子供を物のように扱う輩を叱る時とか。今世だったら……母を無個性故に揶揄(からか)っていたクラスメートを叱る時とか、誰かをいじめる男子を追い払う時とか。穏やかとは言えど、簡単に言えば、姉さんは委員長気質を持ち合わせている。それ故に恨みを抱いた輩に絡まれることも多かった。

 前世は自分でどうしようも出来ない時に悔しい思いばかりしていたんだっけ。だが、今世はそんな輩は全て俺が返り討ちにしている。自分の命と引き換えにしてでも姉さんを守りたいから。

 

 閑話休題。そんな怒りを露わにする姉さんを久しぶりに目の前で見た。

 

 ……考えてみてくれ。彼女と同い年の子供が殺人鬼同然の人間を相手にして、これ程はっきりと物申せると思うか?恐らく、多くの人が思わないはず。本当に……姉さんは変わらず強い人だ。

 

 怒りによって発せられる気迫――恐らくは、主に俺から発せられるそれであろう――を感じた男は、肩を跳ねさせながら俺達を(なだ)めるように笑顔を浮かべて言った。

 

「落ち着け落ち着け!まァ、『恨むな』なんて言っても無理あるよな。俺の持論に反論しちまうくらいの強い心を持ったお前らに朗報だ」

 

 朗報だなんて言葉を口にするシリアルキラーを、俺達は訝しげに睨む。

 

 攻撃的な笑みを浮かべたまま、奴はぐるりと辺りを見回して言った。

 

「お前ら、どうせ父親の影響で二人揃ってヒーロー志望なんだろ?なら、自分の命で沢山の人を救けられれば万々歳だよな!?喜べ!お前らどっちか一人の命と引き換えに、妥協して市民達は殺さないで撤退してやるよ!他の奴らは見逃してやる!なあ、嬉しいだろ!?」

 

 押し付けられた、常識とは言えない奴の考え方にそんな訳があるかと反射的に返そうとしたが……。

 

「きゃっ!?」

 

 恐怖に満ちた小さな悲鳴が俺達の耳に届く。俺は反論することも忘れ、声のした方に振り向いた。

 

「選択の余地はねェぜ、ガキ共。お前らが選択することを放棄して逃げ出そうとした瞬間、この女の首をぶった切る」

 

 声の聞こえた先にあったのは、腕を鋭い鎌に変化させた白いイタチ姿の(ヴィラン)によって人質に取られた女性の姿だった。

 鋭い鎌を首筋に当てがわれた彼女の瞳は潤み、目尻には水晶玉のように透き通った一滴の涙が溜まっていた。

 

 関係のない他人に手を出したのも許せないことだが、何より許せないのは――

 

「わ、私のことはいいの……!誰か、この子だけでも救けて……!」

 

 震えながら声を上げる女性の腕には幼き命……玉のように小さく、ほんの少しでも力を込めたら潰してしまうのではないかと心配になる程の可愛らしさのある赤ん坊が抱えられていた。

 

 そうだ。何より許せないのは――赤ん坊を抱えた彼女を選んだことだ。

 

 親を失った子の気持ちは、前世からよく知ってる。今世は知ったばかり。死因は違えど、親を失った先にあるのは大きな絶望。視界全てを覆い尽くさんとする闇だ。

 

 言葉は話せず、理解力もまだまだ成熟していないが、本能で危機を察したのだろうか。赤ん坊がくぐもった泣き声を上げ始めた。

 

 母親である女性を死なせてしまえば、あの子は暗い顔しか見せなくなるだろう。他人だなんて関係ない。そんなことになるのだけは……絶対に嫌だ。

 

「さあどうする?選べ。俺はどっちでもいいぜ?約束はちゃんと守ってやるからな!」

 

 相手に選択の余地を無くした上で極限の選択を迫るとは、まさに殺人鬼らしい振る舞いだ。

 

 それに、奴は今約束を守ると言ったな。

 

 だが、分かっているぞ。――それらには、()()()()()()()()と。

 

 別に言葉に嘘偽りがある訳ではない。ただし、男が見逃してやると言っている「他の奴ら」には、俺達のうちで残った方は含まれていない。つまり。奴は、俺も姉さんもどちらにせよ殺す気なのだ。そもそも、この殺人鬼が人を殺すことを妥協するとも思えない。

 

 それを察した以上、黙っていられる訳がない。これ以上、俺の家族や人々を死なせてなるものか……!今は俺達が壁となれているからいいものの、壁として立ちはだかる者がいなければ、奴はここにいる人々全員を殺すかもしれない。

 

 (ヴィラン)と戦うには――正確には(ヴィラン)を相手に"個性"を使うにはだが――資格が要ることは分かってる。そうする資格があるのはヒーローだけだというのは分かってる。だが……待てるはずない。無情な(ヴィラン)はヒーローを待ってくれやしない。俺がここで足掻かねば、人々にとっての救世主にならねば……!

 

「俺が――」

 

 身代わりとなって死んでやる、と名乗り出ようとした。だが……。

 

「私にしてください」

 

 俺が出る前に、姉さんが俺の前に立ち塞がりながら名乗り出た。

 

「殺したいのなら、私にしてください。弟だけは絶対に死なせない……!」

 

 蔦子姉さんは、体の震えを無理矢理止めるようにして拳を握りながら続ける。

 

「私が死んだとしても、義勇はここにいる人達を必ず救けてくれる。この子は絶対に折れない……!後から来るであろうヒーロー達も、絶対に人々を救けて勝ってくれる!微力な私が彼らの糧になれるのならば、本望です!」

 

 はっきりと言い切った。言い切った頃には、姉さんの震えは止まっていた。

 

「駄目だ、姉さん……!待ってくれ、姉さん!俺が――っ」

 

 姉さんを説得しようとした途端、姉さんに抱きしめられた。その瞬間、察してしまった。蔦子姉さんは……もう俺の為に死ぬ覚悟を決めてしまっているのだと。

 

「や、やめてくれ……姉さん……!姉さんまで死んでしまったら……!」

 

 絞り出すように言葉を紡ぎながら顔を上げると、涙を流しながら儚げな微笑みを浮かべた姉さんが目に入った。

 

 ……前世、俺を庇う為に押し入れに閉じ込めた、あの瞬間と全く同じ顔だ。「姉さんは大丈夫だから」と。「絶対にここを動いちゃ駄目よ」と俺に言い聞かせるあの時と同じだ。春を終えて、(ことごと)く散り始める桜を思わせるような儚い笑顔。

 

 そうだ……。さっき、俺を庇って死んでしまった母もこんな風に慈悲深い女神のようではあれど、儚さを感じさせる笑みを浮かべていた……。強き女性とは、誰しもが死を覚悟した瞬間にこのように儚い笑みを浮かべるのだろうか……?

 

 姉さんは、俺を愛おしげに撫でる。これが最期になってしまうから、と自分自身に言い聞かせるようにして。

 

「義勇……強く生きてね……。そして、気負わないで。自分を責めないで……。私は、貴方のお姉ちゃん。弟の身代わりになって当たり前なの。だから、自分の心を痛め付ける必要なんかないの……」

 

「私の思い、お父さんの思い、お母さんの思い……。全部、義勇に預けるわ。義勇なら繋いでくれる。…………だって、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――昔からずっと。

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は全てを察した。そして、とうに枯れたはずの涙が溢れ、俺の頬を伝った。

 

 姉さんは、敢えて詳しいことを言わなかった。

 

「義勇、もっと強くなるのよ。義勇なら本当のヒーローになれる。絶対に。私が言うんだもの。絶対なれるわ」

 

「最後まで見守ってあげられなくて、ちゃんとしたお姉ちゃんでいられなくて……ごめんね」

 

 涙を流しながら満面の笑みを浮かべた姉さんは、俺を手離し……力強い足取りで殺人鬼である男の元へと近づいていく。

 

 「待ってくれ、姉さん」と、もう一度声を張り上げて止めようとするも声が出なかった。

 

 鼓動が速く刻まれ、喉が異常な程に渇く。不思議と息が詰まる。そんな状況に陥り、体も動かなかった。

 

 自分の方へ拒絶の姿勢を見せずに近づく蔦子姉さんを見た男は、不敵に笑みを浮かべた。疑うことなく自分に近づく感謝と彼女を殺せることに対する期待からくるものだろうか。

 

 奴の目の前に立つと、姉さんは再び俺の方を振り向いた。

 

「義勇……元気でね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、体から膨大な活力が湧き上がってきた。身体中が燃えるように熱を帯び、右腕に封じていた龍の如き膨大な力が、左頬に転移して全身に行き渡るような……不思議な感覚がした。

 

 ふと、この体で負荷をかけずに"全集中の呼吸"を行う方法が理解でき、風が逆巻くような音を響かせながら肺にありったけの空気を取り込み、脚に集めた。

 

 ――これまで、何の為に鍛錬を積んできた!?他の誰かにとっての本当のヒーローになる為だろう!これ以上家族を死なせて……胸を張って、ヒーローを名乗れるものか!生殺与奪の権を他人に握らせるな!!!今、俺が止めねば誰が止める!?後から駆けつけるヒーローに全てを任せるな!俺が……俺が姉さんを救けるんだ!

 

 己に言い聞かせながら脚に集めた空気を爆発させる。俺は、同時に地面を蹴って殺人鬼たる男に向けて肉薄した。

 

 そして、紡ぐは前世から馴染みのある水の呼吸の型の名。

 

「水の呼吸・肆ノ型――」

 

――打ち潮――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(やっぱ、子供ってのはいいな!純粋で単純で……人を疑うことを知らねェ!)

 

 マスキュラーは、内心でほくそ笑んでいた。自分の方へと近づいてくる蔦子の真っ直ぐさと純粋さに感謝しながら。

 

 人間の性格――その根っこの部分を形作るのも、神の役目なのだろうか。もしもそうであれば、この男は神にも感謝せねばなるまい。

 

 実の所……いや、分かりきったことであるが、マスキュラーには約束を守る気もないし、人殺しを妥協する気もない。

 

 まずは、凪にとって命よりも大切だったであろう子供達で、自分の提案に素直に乗ってきた方を殺す。後からもう片方も殺してしまうことを告げながら。その次は、残ったもう片方を殺す。そして、最後の仕上げで、テーマパーク内にいる人間を全て殺す。

 これこそがマスキュラーの企みであった。

 

 「他の奴らは見逃してやるとは言ったが、嬢ちゃんの弟君は見逃してやるなんて言ってないぜ?」だなどと、何とも幼稚に聞こえる残酷な言葉を投げかけながら、この男は蔦子を嬲り殺すのであろう。

 

 自分の企み通りに事が運んでいることと、これから蔦子を殺せるであろうことに対する喜びと期待でマスキュラーの頬は緩みきっていた。笑みを隠そうにも隠せなかった。きっと今の自分は、狂気を感じさせるような笑みを浮かべているだろうと彼は思う。

 

 遂に蔦子がマスキュラーの目の前に立ち、義勇へと最期の言葉を送った。

 

「義勇……元気でね」

 

 目の前の少女が愛する弟の方を振り向いているうちに、マスキュラーは筋繊維を纏わせた丸太のような太さの腕を振るい、拳を叩きつけようとした。

 

 同時に子供達にとって残酷な言葉を告げようと口を開きかけた――その瞬間だった。

 

(あ?)

 

 マスキュラーの殺意に満ちた笑みが崩れ去って、口を半開きにした何とも滑稽な顔に変化した。その視界に、自分の目の前にまで肉迫した義勇の姿が目に入る。彼と義勇との距離は約10m。7歳の子供である義勇が、この数秒と経たない間で自分の元にまで到達出来るはずがなかった。

 

 想定外のことが起こると、人間は誰しも混乱する。それは、シリアルキラーのこの男でも同じことだった。

 

 マスキュラーが混乱して動きを止めている隙に、義勇は技の名を紡ぐ。

 

「水の呼吸・肆ノ型――打ち潮」

 

 放たれるは、淀みない動きで繋がれた乱打。義勇の放つ鬼神の如き気迫。それが、強風が吹きつけたことで海面に激しく打ち付ける無数の波となって顕現し、可視化される。

 

「ゴフッ!?」

 

 文字通りの光景を目にしながら、乱打で頬を穿たれたマスキュラーは吹き飛ぶ。義勇の繰り出した型は、マスキュラーの2m越えの巨躯を見事に吹き飛ばしたのだ。

 

 地面を転がるマスキュラー。頬を強烈に殴りつけられたことで思わず溢れた涎を拭い、口の中が切れたことで溜まった血を地面に吐き捨てながら体を起こし、現在の状況を把握しようとする。

 

 その瞬間。マスキュラーは、背筋が凍る感覚を覚えた。まるで、殺人鬼である自分が別の殺人鬼に殺される瞬間に立たされたかのようだった。

 

 視線の先には、静かな怒りをその目に宿し、威風堂々と佇む義勇の姿がある。その立ち姿の堂々さは、歴戦の剣士そのものであった。

 

(な、何だ!?坊主の左頬にある紋様は!?)

 

 義勇の顔に浴びせられた血は、彼が流した涙で洗い流されていた。それによって、左頬には流れ渦巻く水のような紋様……"痣"が露わになっている。彼が半袖のシャツを着ている故、右腕の"痣"も目に見える。しかし、そこにあるはずの"痣"はなくなっていた。もしかすると、左頬のそれは右腕のものが転移した結果かもしれない。

 

 蔦子は、自分を遥かに上回る巨躯を持つ男を吹き飛ばした弟を呆然と見る。

 

「ぎ、義勇……?」

 

 普段の様子からは想像も出来ない程の、鬼神の如き気迫を放つ弟の名を困惑しながら呼んだ。

 

「蔦子姉さんは……俺が守る」

 

 気迫を放てど、そう宣言しながら構える義勇に蔦子は――前世の面影を見た。

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