雨に打たれたか、洗濯したばかりのような胴着をデンジは着ていた。
一歩ごとに、胴着から水滴がしたたり落ちて大地にしみこむ。
ふらふらと、生まれたばかりのような子鹿の如く頼りない歩みのデンジは、数メートルしか進まなかったが突風が吹いて背中から大の字になって倒れた。
「ゼハァー、ゼハァー……!!」
呼吸も荒く、目はうつろだった。胴着が吸っていた水分が大地にしみこみ、デンジを中心に土の色が変わる。その水はひどく饐えた匂い――つまり、胴着にしみこんでいるのは、大量の汗であった。
そんなデンジの顔面に、拳がたたき込まれる。
「デンジ! それぐらいで倒れおって! 置いていくんじゃなかったのか!!」
デンジの顔面に拳をめり込ませた老人――慈悟郎は叫んだ。
だが、それから十秒が経過しても、デンジはまったく起き上がろうとはしない。
慈悟郎は片眉を顰めて、デンジの顔をのぞき込むと、
「おぎゃ……おぎゃ……」
デンジは白目を剥いて気絶していた。
「……ちとやり過ぎたか」
つぶやき、デンジの腹に腰を下ろした。
「五分休憩」
五分後、慈悟郎が持っていた瓢箪の水をぶっかけられ、デンジはかつて倒したゾンビのような足取りで歩みを再開する。
☆
話は二週間前、デンジが慈悟郎に弟子入りしたばかりの頃に戻る。
鬼殺隊の頭領である産屋敷の当主に、デンジのことを説明した文書を送って、デンジが鬼殺隊へ入るために、慈悟郎が稽古をつける旨は了承された。
尤も、デンジがこれから最終選別を生き抜いたとしても、鬼殺隊の一員として認めるかは別であるらしく、そもそも、デンジの最終選別の参加を認めるかどうかも未決定だ。鬼殺隊の幹部である柱たちが一堂に会する、次回の柱合会議にてデンジ本人と慈悟郎も招集して、柱たちの意見を交えて産屋敷の当主が最終的な判断を下す。その日取りが決まり次第連絡をよこすことと、さらに複数の指示が書かれた手紙を慈悟郎はもらっていた。
よって、デンジの稽古が開始されたのである。
デンジが最初に教わったこと――それは家事全般だった。
デンジのいた世界と今の世界では、歴史、文化、生活水準、技術水準、価値観にも大きな隔たりがある。前の世界は大分技術が進歩していたため、慈悟郎がすぐにデンジは異世界からの来訪者だと気づけたほどだ。だが、極貧のデンジが送った暮らしは便利とは無縁で、慈悟郎の屋敷の方がずっと快適であったが。
しかし、それならなおのこと、この世界のことを知り、デンジが一人でも生きていけるようにしなければいけないのは明白である、と慈悟郎は話した。
なんとかなるんじゃねぇか、と一切焦らず、暢気なデンジに拳骨が飛ぶ。
慈悟郎曰く、隊士となるからには、全てが一人でできなくてはいけない、と。
怪我をすれば療養のために藤の家――鬼殺隊の協力者の家に間借りすることもあるし、優秀な隊士には家を与えられることもある、そうした管理ができませんでは話にならないとのことだった。
そのため、デンジは慈悟郎から教えられて屋敷の掃除や飯の買い出しと調理、洗濯――家事全般を請け負うことになる。
デンジは家事を押しつけられ、慈悟郎が怠惰なだけでは? と疑ったが、慈悟郎はデンジができないことはやるか、できるまで教えてくれた。最初は手本を見せて、試しにデンジにやらせ、そして、できなかったらどうしてできないかを考えさせて、どうしてもわからない時だけ、教えてくれた。
少しでもデンジがサボったり、慈悟郎が教えた料理をアレンジしたり、手を抜いたり、金をごまかして買い食いすれば、すぐに拳が飛んだが、それでも、最後まで見てくれていた。
最初は面白くはないし、楽しくもないが、飯はいつも沢山食わせてくれる上、味わったことのない料理ばかりで、それが作れるようになれると嬉しかった。
それに、慈悟郎はデンジができることが増える度、褒めてくれた。
今まで、誰にも褒められず、ポチタ以外は誰も信用できなかったデンジには、不思議な感覚だった。
慈悟郎が入ったあとの風呂に入り、体を伸ばしていると、毎日お湯につかるのがこんなにも気持ちの良いものなのか、と今更ながら気付かされた。
夜、暖かい布団に入ると、心まで温まるような不思議な感覚だった。
デンジにとって、慈悟郎との最初の一週間は天国であった。
第二週に突入するまでは。
☆
「デンジ、服を脱げ」
デンジと慈悟郎の生活が二週間目に突入した月曜日、庭で洗濯物を干し終えたデンジに慈悟郎はそう話しかけた。
デンジは眉間に皺を寄せ、すさまじく嫌そうな、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。
「なんじゃ、その顔は?」
「……爺、最初から男がす――」
デンジの頭を慈悟郎は叩いた。
「阿呆!! 馬鹿なこと言ってないでさっさと上を見せるだけでいい! それと師範と呼べと言ってるだろうが!!」
デンジはしぶしぶ肌を脱いで上半身裸になった。
まだ4月に入ったばかりで、関東でもなかなかの寒さだったが、慈悟郎は何かを確認すると、デンジに丸めた衣類を投げつけた。
「デンジ、これに着替えろ。それでついてこい」
そう言って、歩いて行ってしまった。デンジが渡された着物を確認すると、黄色の胴着だった。
「早くしろ、置いていくぞ」
いつまでもついてこないデンジにしびれを切らしたように、慈悟郎は急かして、デンジは急いで胴着を着ると慈悟郎の背を追った。
☆
「はぁはぁはぁはぁ……」
それから、どれだけ経ったろうか。
東にあった太陽は、真上に来ていた。
デンジはひたすらに慈悟郎の背を追う。
慈悟郎の歩みは速かった。
普通の人間であれば、苦も無くついていけそうだが、案外、それがデンジにはできない。
デンジは体力がなかった。
正確には、体力をつけられなかった。
一日食パンが一枚(それもポチタと分け合っていた)では当然である。だが、それでもデビルハンターとして活動し、それ以外の時間は伐採業務の副業で稼いでいたから、一枚の食パンのみで育った肉体としては驚異的な活動量だろう。
しかし、それ以外の時間は寝て、体力を温存していたのだ。けれど、心臓に疾患を持っていたため、じわじわと体力は削られていったのだが。
現在、ポチタがデンジの心臓であるため、病気は完治し、体力が削られることはない。
だが、本来、原作である世界でも、デンジはポチタと一体化して、いきなり体力をつけられた訳ではないと思われる。後半の何度もチェンソーを生やせたのは、早川アキの作る健康的な食事と十分な睡眠、そして、運動(公安職務)があったから、体力、つまりは造血ができたのだろう。
それより以前、とりわけ初期はデンジの姿勢が悪く、よく椅子に腰掛けたり休んでいる描写が多かった。バディのパワーの脚に追いつけず、暴走を止められなかったなどもあったほどだ。それでも超人的な戦闘が行えたのは、悪魔の性質――敵の悪魔の血液を飲んで、体力を得ていたと推測できる(蝙蝠の悪魔戦、無限の悪魔戦でも、かみついて血液を飲んでいた)。
つまり、デンジは短い時間なら問題なく動ける。だが、長時間の活動は難しい。すなわち、持久力がないのだ。
そんな人間がいきなり歩けばどうなるか、決まっている。
数時間、ずっと歩き続けたデンジは全身から汗を流し、膝をついた。
「なんじゃ、もうお終いか?」
そんなデンジをのぞき込むように慈悟郎が見下ろす。
デンジよりも速いペースで歩いていたのに、汗一つかいていなかった。
「う、うる、はぁ、はぁ……せぇ…………速ぇん……はぁ……だ……じ……じい……」
荒く呼吸しながら、デンジは悪態をつく。
口にはしないが、大分参っていた。
それもそのはずである。
慈悟郎とデンジは50キロほど歩いていた。
言うまでも無いが、大正時代の舗装技術は高くない。現在のように日本全国で道が整備されたのは昭和に入って以降、特に高度経済成長期だ。
つまり、悪路ばかりである。その悪路を二人は50キロも歩いている。いくら移動手段が限られる時代といっても、かなりの距離である。
そのため、よくよく観察すれば、慈悟郎の義足が日常生活用の棒のような品ではなく、軍からの払い下げ品である義足なのだが、デンジはそこまで頭が回らなかった。
ただ、老人、それも義足をつけた老人に負けたことがショックであるが悟られないようにしている。
しかし、衝撃を受けたのはデンジばかりではなく、慈悟郎もだった。尤も、慈悟郎の胸にあったのは、悲しみと失望ではない。真逆、喜びであった。
正直、慈悟郎は、この修行とは到底思えない、基礎の基礎をつくる段階でデンジは躓くと思っていた。10キロも歩ければ上出来だった。
デンジを一目見たときから、あばらが浮き出ている腹と痩せ細った手足――痩躯では、栄養が足りていないのは明白であった。
だから、最初の修行はしっかりとした食事を摂らせることであった。身につけさせた常識やら家事やらは、本当に必要なことだったが、副次的なものだ。デンジに食事が修行とは教えない。説明すれば毎回死ぬほど食べるだろう。食費が馬鹿にならない、のは別にどうでもいい。育手の給金はそれほどまでに安くはない。だが、胃袋というのは、際限なく膨らむ。デンジの胃袋は小さすぎたが、胃袋が膨らみすぎてもよくない。胃袋が大きければそれだけ飯が腹に入る――空腹も早くなり、辛抱ができなくなる。それは、食事も満足にできない状況が多い鬼殺隊隊士では、望ましいことではなかった。
つまり、デンジに適正の食事量を摂らせていくのも慈悟郎の管理であった。
そして、一週間が経ってみれば、驚異的な快復力をデンジは見せた。
あばらが浮き出ていた腹は肉が纏ってあばらは目立たなくなり、枯れ木のような手足にもしっかりと日に焼けた、健康的な手足となっていた。少しばかり肉がつき過ぎているくらいだった。
本当は、一ヶ月ばかりは食わせて栄養を摂らせるつもりだったが、修行を早めることを慈悟郎は決めた。
よって、本格的な修行の前に、デンジにはどれだけ体力があるか、歩いて試金石としたのだが、予想の5倍は恐れ入った。
慈悟郎は微笑む。
それは、未来の将来有望な弟子を持てたことに対しての喜びだった。
しかし、それがデンジには、小馬鹿にしている笑みに見えて立ち上がる。
今日は帰るぞ、そう慈悟郎が宣言するまえにデンジは歩き出した。
「爺、置いてっちまうぞ!」
――若造が、粋がるではない。
苦笑しながら、慈悟郎もデンジの背を追った。
尤も、しばらくしないうちにデンジは倒れ、今度は意識を失う。それから終了となり、帰宅する。何度かデンジは失神を繰り返しながら屋敷まで戻った。
こうして、デンジの修行は始まった。
地獄が始まったばかりだった。
大正チェンソーこそこそ話
善逸のプロフィールから好きな食べ物がウナギなどの高価な物とありますが、生い立ちからして食べられた機会は修行中だと推測しました。
なので、デンジもウナギを食べています。かなり気に入ったとのこと(原作同様)
あと、桃も食べ放題。一年中桃が実をつけている不思議な場所で修行をしてます。
ただ、あまりお肉が食べられなくて、デンジはちょっと不満です。
追記
タイトルを一部変更しました。
第四話 デンジ修行日記・前編→第四話 デンジ修行日記・序
2021年 2月6日