一つの物語としては初めての作品なので、下手な文章だとは思いますが、温かい目で読んでいただけると嬉しいです。
また、心理学に関してはほぼ独学ですので間違っている場合があると思います。読んでいる方の中で詳しい方がいらっしゃいましたら感想の方でご指摘いただけるとありがたいです。誤字脱字または知識提供以外の感想ももちろん受け付けています。
長くなりましたが、よろしくお願いします。
自分を表す言葉で、抽象的な言葉が一番嫌いだ。
やさしい、親切、頼りになる。
大抵ポジティブに使われるこれらの言葉。
自分の中に取り込み、解釈する中でこれらの言葉には中身が無く空っぽだと感じてしまう。
自分の感性がゆがんでいるのか、はたまた言葉をそのままの意味で飲み込むことができない環境なのか。
それは抜きにしても足下が安定せず、浮遊感に苛まれてしまう。
堕落している人々をわざわざ自分の時間や労力を割いてまで引っ張り上げることが優しさなのか。
何事にも無関心で、何も生み出そうとしない眠りこけている連中を自己犠牲の精神でたたき起こすのが親切なのか。
自らの有利な立場においてはベラベラとありもしない話を自慢げに言うが、アウェイになった瞬間に黙りこくるネット住民を代表して意見を言うことが頼りになるのか。
自分にも関わる相手にも感情がある。
この世の中はご都合主義が罷り通る少年漫画雑誌でもなければ、好きな人同士がくっついてその後は必ず砂糖を吐きそうになるほどの甘々なハッピーストーリーが展開される中高生向け恋愛映画でもない。絶対的な正義のヒーローがいるわけでもなく、また完全悪の悪役がいるわけでもない。
善行を積んだ人間は早死にし、悪行の限りを尽くした人間が幸福の蜜をすする。
どれだけ理想を語ろうと、どれだけ崇高な心を持っていっても、高性能のスーパーコンピュータが導き出す期待値の数字の中でしか結果を出せない。
生きている人間全てが正しい人間であるはずもなく、また全ての人間が間違っているわけでもない。
勧善懲悪や善悪二元論なぞ存在しない世界。
ふとしたきっかけで180度変化してしまう。
それが、自分たちが生きている現実世界。
善悪はおろか、その善悪さえ環境や外部的要因などで簡単にひっくり返ってしまう。
さて、自分たちがこの『定義が不安定かつあやふやな、善にも悪にも簡単に転がる世界』を生きている中で、この世界を構成する素材となるものを無意識の中で生産、材料として構成されているものがある。それは何か?
感情
人間が物事や対象に対して抱く気持ちである。
神様の授かり物という崇高で尊いものと捉えるか、脳が特定下で発生させるただの電気信号と捉えるか。
観点さえ変わってしまえば、持ち合わせる本質も変わってしまう、感情。
哺乳類、ましてや全動物の中で脳などの中枢機関の発達や能力が顕著に表れている人間には、そのスペックを裏付けるように多くの多種多様な感情が存在する。
好意、憧れ、嫉妬、妬み、恨み、憐憫、嘲り
目に見えない事柄を独自の判断で区切り、人間と他の動植物の違いを決定づける言語を使った名称という入れ物に押し込んだというその行為こそが、古代の生物の機能を環境や時代に合わせて適応、進化させてきた人間という弱肉強食の世界を飛び出した生物の確固たる所以ともいえるのだろうか。
遙か昔の祖先から命のバトンをつなぎ、到達した形態。
様々な環境、外敵、自然災害を乗り越え、多くの消えていった生命達が残していったものによってできあがった命の形。
手先を自由に操り、天の恵みである火を授かりしもの。
過去の経験から情報を分析、思考し、学習する。
失敗を繰り返し、考察し続け、やがて翼も無いのに空を飛びえらも無いのに深海の地に踏み込んだ種族。
そして、本能とは別の、生命活動以外での相手のことを『思う』という概念を作りだし、それらを糸として感情という着色料で着色し折り込み、現実世界とは隔離された『物語』という彼らの思考上の別世界までを紡ぐようになった。
古代生物の進化のなれの果て、それ故に発達したことで自分自身でもわからない部分を編み出してしまった。
それが人間。
だが、どこまで行っても人間は動物だ。
全身金属でもなければ、化石燃料で動くわけでもない。
タンパク質で作られた皮膚で全身を覆い、食物を消化し呼吸で生命エネルギーを取り出す。
動物としての根本的な機能はそのままなのだ。
故に生命としての普遍性のなかにも含まれる。
生命維持を行うもの全てにおいて、万国共通の恐怖というものがある。
感情は抽象的な存在だと言ったが、コレは別だ。
生命の基盤、生き物を生き物としてたらしめる本能としての問題。
その存在は不可解の存在。
意識がある中で、前例の無い存在、未知とでも言うべきだろうか。
大小問わず、脳という機関が外部的要因を視覚、聴覚、嗅覚で捉えられる生物にとってこれ以上生命的危機を感じることはそうそう無いはずだ。
事前の情報は皆無、五感をフル稼働させても何も感じられない存在。
人間はコレを『恐怖』と呼ぶ。
目に見えないにナニカ
匂いのしないナニカ
音のしないナニカ
触れられないナニカ
頭では理解できるが、身体が受け付けない。
感覚で大まかにわかるが、論理的に説明せよと言われるとできない。
不確定で不鮮明。
不条理で不可解
こんなもの相対したとき、生命的本能からしてみれば真っ先に己の体のことを考える。
果たしてコレは自分にとって何なのか?
利なのか害なのか?
時には取り込み、時には排除する。
これこそが直ちにとるべき正しい行動だろう。
臨機応変と言うべきか。
後の結果など誰にも予想のぞできない。
そもそもどの結果が最適なのかすらわからないのだ。
過去の経験を照らし合わせても答えが出ない。
周りを見ても最適解が転がっていない。
そもそも良い悪いの基準が不透明。
これこそ善悪の考え方。
他者を『思う』という、他の生物には存在しない思考回路を、本能という生命の設計図の中に取り込んでしまった結果だ。
何が善で、何が悪なのか。明確な定義なぞ存在しない。
あればこの世はもっと単純で、もっと生きやすいものに今頃なっているだろう。
基準は曖昧で、知覚できない。
目に見えるものしか信じないという感情があるから、人間は全動物の中で最もめんどくさい生き物なのかもしれない。
しかし確かにある。
身体を作り上げている一つ一つの細胞が、奥のそこから湧き出てくる本能の衝動が、必死にその存在を訴えてくる。
生物学上の科学単語で言い表せるものなのか、いいや、言い表せるものなら人間は見えないナニカに人生を振り回されたり苦しんだりしない。
だが人間は、この存在を避けて生活することはできない。
人間は同じ種族同士助け合っていかないと生きていけない生物だからだ。
シマウマは、生まれた瞬間から広大なサバンナを走り回る。
イルカは、生まれた瞬間から立派な尾びれで透き通る海を自在に動き回る。
やがて狩りを覚え、弱肉強食の激しい戦いに身を投じて生き残るために種の一員となって懸命に命の火を燃やす。
対して人間はどうだ。
生まれた瞬間から歩き始めるまで最低でも10ヶ月かかる。
意思疎通できるまで1年もかかってしまう。
人間の世界は物理的な弱肉強食ではない。
他者を肉体的に苦しめる能力や技術は基本的に求められない。
鍛え上げられた肉体を食いちぎる牙も、頑丈な骨を真っ二つに折る力も、相手を奥底から苦しませる毒も必要ない。
必要なのは人間社会への適応力。
どれだけ他者と良好な関係を築けるか。
どれだけ他者の気持ちを理解することができるのか。
どれだけ自分という存在を肯定し、確立させていくのか。
これらを人生の目標として掲げるならば、必ず人間とふれあい、傷ついていかなければならない。
その勇気と忍耐力がないものは、いずれ社会から取り残されていく。
それらをもつ覚悟がない者は、他者の幸せな生活を羨む権利はない。
人間は先をある程度予測する能力があるためか、不可視かつ不条理なものを怖がる。
先の見えない未来。
入り乱れる感情の渦。
社会という枠組みの中で孤立してしまうという状況。
人々は必死に彼らの言う『悲劇』を避けるため、頭を回し、努力を積み重ねていく。
しかし彼らが相手にするのは『感情』ときたものだ。
自ら生み出した、発展しすぎた故に理解できなくなってしまったものを対象にしなればいけなくなってしまったのだ。
キログラム原器や緯線経線のように、目に見えて物質的に存在する訳でもない。
人々の感性という、基準も規則もルールもバラバラの、目に見えず肌にも感じられず匂いもない存在によって肯定、否定される。
この精神世界には、公正委員会や統括司令部はない。
自分の意思も、相手の意思も決めるのは本人だ。しかし、受け取る側の解釈もまた本人次第。
これに従えば相手の気持ちを間違えないという攻略本はありはしない。
きれいに整備された道などなく、地平線の見えない荒野の野道をひたすら歩く感覚。
逆に言ってみれば、誰でも新しく道を開拓できるということだ。
決定権は自分にあり、決定を下すのも自由。
嬉しい感情も、悲しい感情も、自分の感情は自分が決めるのだ。
不確定で、科学的な技術が進化した現代でも公平な数字という記号で表せない感情。
これこそ恐怖の具体例にふさわしい。
日々訳の分からない未知におびえる毎日は辛いだろう。
深く考え込んでしまっては身体的にも精神的にも影響を及ぼしかねない。
何かしらの対策が必要となってくる。
ではどうするか?
感情を予測し、規定の枠に押し込む。
人間は学習する者だ。
生きてきた時間と中で、過去の記憶や経験をピックアップしパターン化する傾向がある。
曰く、困っている人を助けると、対象人物が喜ぶ。
曰く、対象人物の身体的もしくは内面における欠点を当人の前で言えば、対象人物は怒ったり悲しんだりする。
普段何気ない生活の中で自然と身についてくる観察眼。
様々なケース、パターンを経験し、分類分析していくにつれて『こういうことを行えば、相手はこういう状態になる』という漠然としたイメージが出来上がっていく。
もちろん、この予測の全てが完全に事象と一致するとは限らない。
何事にも例外は存在し、人間の内面は今まで生きてきた中での経験、周りの環境、記憶に鮮明に残る衝撃的な出来事の有無によって心安まる穏やかな色にも見ているだけで攻撃的な印象を抱いてしまう刺激的な色にも簡単に染まる。幼少期であればなおさらだ。
成長するにつれて獲得していく、社会を生き抜いていくための適応能力。
多くの人間がその能力によって、他人に寄り添い、はたまた衝突し、たくさんの経験を積み重ねるっことによって新たなパターンを獲得し、能力に磨きをかけていく。
こうして人は一人一人違った物語を紡いでいく。
だが、このパターンというものは不完全だ。
人それそれパターンを捉える能力は違い、内容も似ているものはあれど完全に一致するものはあるはずがいない。
パターンというのはあらゆるシチュエーションや外部的要因を条件として組み込み、それらが無数に連なって
一つの実像として結んだ結果である。
いわば織物。
多種多様の色で染め上げられた糸が織り交ぜられて、一つの作品として出来上がる。
一本一本の染め上げられた色が違えば、完成する作品の模様も変わってくるということだ。
無数の要素で作り上げられるイメージ。
それ故に、少しでも構成する要素が違っていれば、結びつくイメージも簡単に変化してしまう。
温かい声援を送るスポーツファンクラブが、暴言一つで手のつけれなくなるほどの暴徒と化したり
支持を一身に集める政治家が、小さな不祥事一つでバッシングの嵐に巻き込まれる。
たった一つの、些細な一つの行動で善にも悪にも簡単に転がってしまう。
どれだけのことを積み重ねようとも、過去には何事もなかったかのようにくるりと方向転換できてしまう。
だからこそ、抽象的な言葉が嫌いだ。
何もかもがぐちゃぐちゃで、観点も価値観も定まっていない。そんな混沌と化した状態を文字数たったの四文字
以内の言葉でまとめられてしまう。
そんな『気持ち悪いモノ』を自分自身と思いたくない。
ちょっとした出来事で価値が高騰、暴落そ、線引きもなく『誰にも当てはまる』周りの空気にたやすくどうかする存在が自分だと考えたくもないのだ。
だからこそ、醒ヶ井弱音ははっきりとした存在でありたいと願うのだ。