弱音達が早朝の森に囲まれたキャンパスを歩いて案内されたのは、実験場というよりも一種の車庫であった。
天井がアーチ型になっており、側面についている窓は異様に少ない。
建物自体出来上がって日が浅いのか、全体的に塗装が剥がれることなく均等になられていることから、外見だけなら一風変わった最先端のジムと言われても何の疑問も持たないかもしれない。
ただ中には足腰を鍛えるランニングマシーンも、男どもがこぞって持ち上げるダンベルも、モチベーションを上げる美人なインストラクターもいない。
爽やかなイメージを連想させる外見とは反対の、重たい金属製の扉を開けてみれば、それはすぐ分かることだ。
分かるというよりも、入った瞬間に気づかされるというべきか。
美玲曰く、比較的最近に出来た建物らしくへんぴな場所にあるので入館した人数も多くはないと言う。
ただ、入った感想は皆一緒だという。
それは実際に入った弱音達も同じであった。
ただただ広い、と。
一面に広がるコンクリートの床に、奥行きを感じさせる天井。
建物は配食や構造で実際の大きさよりも大きく感じられるという現象があるが、まさしくそれであった。
風洞実験棟。
主に飛行機やヨットなどの大型な乗り物に関する空気の流れを調べる為の施設である。
実際に実物を持ち込み、地下水路のパイプを何倍にも大きくした専用の風洞装置を使って風を当て、その風の流れを調べるといった感じだ。
だが出来たばっかりのせいなのか、はたまたそこまで頻繁に使われていないのか。目を見張るような大型実験機や飛行機等の実寸大模型は見受けられない。
代わりに弱音達の目的に使うであろうコンピュータが置かれており、そのすぐ側で折りたたみ式の机に液晶モニターとそれに準ずる一式が揃えられていた。
それともう一つ。
いやもう一人。
即席の簡易テーブルに腰掛けるように、一人の男がもたれかかっていた。
科学者の象徴ともいえる白衣をしっかりと羽織り、理知的なイメージであるスマートな眼鏡を掛けた男は、白衣に両手を突っ込んだ状態でじっと弱音達を捉えていた。
「げえ、マジに来てるよコイツ・・・」
その姿を見るや天敵に向けるような歪めた表情を見せる美玲。
その言葉に応じるように、例の男も口を開く。
「いつまで道案内していた、計画していた時間はとっくに過ぎているぞ」
「いやいや、切羽詰まるのはよくないさ。ここはゆっくり余裕をもって行動するべきさ。それにその分君の顔も見なくて済みそうだしね!」
「ほう、珍しく貴様の意見に合致する部分があったぞ。貴様のその学がなさそうな顔を見なくて良いのなら僕の学力も必要以上に下がることはないだろうな」
「ふーん、学がない人に最終コンペで負けたって事だねクソナルシスト君?」
「僕はただ単に自己評価を常に高く保つようにしているだけだ。上っ面の変態ゴスロリとは違ってな」
顔を見合わせるや否や、突然の罵倒の応酬。
それがお互い怒りを表に出さず、あくまで普段の表情で言い合っているところが一層怖さを引き立てていた。
基本的に周囲の人間関係は当の本人達に任せる弱音だったが、彼とは違い咲は気にするタイプのようだ。
止めに入りたいが方法が分からず、試合中のピンポンの玉を追いかけるように右へ左へオロオロしていた。
確かにこのままでは、先に話が進まないどころか物理的な喧嘩になりかねない。それよりも咲の狼狽える様が可哀想で仕方がなかったとでも言うべきではあるが。
ここでもまたストッパーとしての役割を担う必要性が出てきた。この役目に嫌悪感を感じながらも、喧嘩勃発寸前の二人に割って入る。
「はいはい、ストップストップ2人とも。何があったのかは知らないけど俺たちの目的を忘れないでくれ。このままじゃ先に進めないだろ」
呼び止める弱音の声に気がついたのか、睨み合っていた美玲は弱音の方を向く。
先ほどとは対照的な笑顔で
「いやいやすまないね。この目の前のバカとはどうも馬が合わなくてね。ちょっと待ってね、今からコイツを私の罵倒コレクションでここから追い出すから!」
「そんなコレクションを見せられるこっちの身にもなってくれ。別に個人的に追い出さなくてもいいから先に進んでくれ」
そういうと渋々といった感じで美玲は一歩引いた。
そこから弱音達に体を向け、例の男の方向へ道を案内するかのように腕を向ける。
「とりあえず紹介だけしておこう。紹介だけね!彼は・・・」
「交野私市。ここの学生だ」
あまりにも質素な自己紹介に思わず苦笑してしまう弱音。
取っつきにくい雰囲気を醸し出しているが、話し方からして常識人であると弱音は感じた。
特にあのゴスロリと一緒に行動しているとこちらの方が間違っているのかと錯覚しそうになるので助かったという部分が多きのかも知れない。
そのお礼も兼ねて挨拶に応じる。
「初めまして、醒ヶ井弱音です。よろしくお願いします」
「ちょっと少年!なんで私にはタメ口でコイツには敬語なんだい!?」
「いやなんか常識人に見えたからここはしっかりしとかないと思ってな」
「あっさり手のひら返しされた!助けて一人は怖いよお嬢ちゃん!」
「あはは・・・」
突然の美玲の振りに咲は戸惑いながらも受け止める振りをする。
どうやらあの険悪ムードは去ったようだ。
さて、本題に移ろう。
「で、ここが今回の実験場になるのか?」
「その通り!いかにも秘密の実験って感じがしてわくわくするだろう?」
「いや、それよりもこんなにスペースがいるのか?確かコイツのETCMが読み取る無意識のデータを打ち消すか、別のデータに書き換えるだけだろ?」
今回のゴールは咲の不可解な現象を引き起こす元凶の完全排除。
原因はETCMが人間の頭の中のイメージから作り出した設計図のデータの中に、人間の深層心理におけるO元型のイメージが入り込んでしまったこと。
そこで挙げられる解決に向けてのアプローチは、ETCMが作り出した設計図のデータから元型のデータを消し去るか、害のないデータに書き換えること。
ETCMが生み出す設計図とは、インターネットを駆け巡る電気信号と同義。
よって、特定の電子的なコマンドを入力することで全体像を歪めようとしているのだ。
ならば、警察の取調室のような対面型のスペースの横に、分析官である美玲が配置するだけで十分なのではと思ってしまうのだ。
コマンドを送る機械とやらがどれほどの規模のコンピュータなのかは知らないが、初期のビル一部屋を丸々占領するほどの規模ではあるまい。仮にその大きさだとしても、大型飛行機がすっぽりと入るまでの広さはいらないはずだ。
ああなるほど、と弱音の疑問に正当性を感じた美玲は感心したように腕を組みながら
「その質問はご尤もだね。君の言うとおり、ETCMのデータを書き換えるコマンドを入力するだけならこんなにスペースはいらない。いくら専門のコンピュータがいるといってもご覧の通り尊き科学技術の発展で一人で台車を押して運べるほどにコンパクトになっているからね」
そう言って美玲の親指が指す先には、例のコマンド入力の為のコンピュータ。
一般企業のデスクに一人一個設置されているものと比べれば一回り大きいという感想を抱くだろうが、驚くほどの大きさでもない。
「じゃあなんでこんなところで実験なんてするんだ?もっと他に問題でもあるのか?」
「大アリさ!君も見ただろう、お嬢ちゃんの奇妙な現象を引き起こした元凶が
ビクッと肩を揺らす咲。
その彼女の背後。
あの橋にて出現したナニカ。
そのナニカは
「お嬢ちゃんの背後に表れた正体は、『信仰の概念』に基づいてETCMの情報を基にオカルティックな力が集まった結果だ。その本質は電気信号として捉えてもいいかもしれないが、現実として
この世には、公式では表せない力がある。
大前提、人間が暮らすこの世界には様々な力が存在している。
これに規則性を見いだし、人間に利益を被るように変化させるのが科学。
逆に言ってみれば、規則性が見いだせない力があるということも又事実なのだ。
これが美玲の言うオカルティックな力。
本質は自然界に溢れるものでありながら、人間には未だ理解できない不可思議な力場。
科学者は、未知の力に規則性を加える者だ。
様々なアプローチを用いて、未知のベールを剥がそうと全力を尽くす。
長ったらしい化学薬品や説明書が電話帳の厚さである専門機械など、人間達が築いてきた文明の成果を武器に、未知に立ち向かう勇者なのだ。
自然に対して非力な人間が立ち向かう、この不利な勝負を何度も勝利をもぎ取ってきた。
一度目は奇跡、二度目は偶然、そして三度目、四度目と繰り返していくごとに一本の道が確立され、それを人間は王道と呼ぶ。
この王道を支えてきた、何も持たない人間が編み出した、普遍的であり全ての現象を理解する上で重要となる手法がある。
それは観察。
人間の科学を成立させてきた、基礎中の基礎。
脳の処理の大半を占める視覚情報から、類似点や相違点を見つけ出す。
言葉にしてみれば、科学者ではない一般人が日常的に行っていることと変わりない。
美玲が今回行った観察においても、その本質は変わらない。
違うのは、物事を捉える観点の量と、核を明らかにする知識量か。
視覚情報、彼女の目に映る範囲にて、あらゆる変化を見逃さずに捕まえ、過去に明らかにされてきた物理現象と照らし合わせることで分析する。
これが、第一線で活躍する科学者の思考回路である。
彼女は観察に観察を重ねることで、咲に取り付くナニカは物理的な現象であると判断しただけのことであった。
「あの正体不明の物体は俺たちに触れられるものであり、それが引き起こす俺たちが知っている物理法則を完全無視した現象が俺達に降りかかる可能性があるってことだよな?」
「彼女の身に既存の物理法則や生体構造の理論をぶっとばした現象が起きているからね。その仮説は的を得ているといっていいだろう。少年は気づかなかったかも知れないが『何かしらの獣の形をしたナニカ』が出現した真下には足跡らしき凹みが見受けられたし、その他の細かな行動に対する流動体の変化も物理的な動きをしてたしね」
つまり火炎放射器顔負けの炎も、細胞ごと凍らされる絶対零度の冷気も自分たちの現実世界で襲ってくるということだ。
ファンタジー小説の世界に飛び込んだような、といった表現が適切かも知れないが、人生にセーブポイントはどこにもない。
怪我を負えば自然治癒の効力の為に時間を費やす必要があり、人間が忌み嫌う死も不可逆性から可逆性になるわけでもない。
ETCMが読み取った情報が、現実となる。
人間の奥底で眠る、醜くくて攻撃的な感情が、神話を脅かす怪物となって。
「この変態女が言うことに信憑性が感じられないことは重々承知だが、僕も同意見だ」
彼女の心底信じられない話に賛同したのは、以外にも対立関係の私市だった。
「日本に限らず、世界には様々な伝承がある。妖怪、怪異、妖精、悪魔、天使、幻獣、怪物。これら人間や動物の能力を遙かに越えた生命体が、世界中の神話や伝承、国家ぐるみの記録帳から個人の日記に至るまで様々な書物に描かれてきた。心理学者ユングはそこから共通項を見いだし人間の感情を分析したようだが、その研究対象となった書物を書いたのは誰でもない僕達人間だ。人間は基本的に自らの目で見たものを信じる生き物だ。そういう理屈で言えば、それらの書物を執筆した者は実際にその奇妙な生物と遭遇している可能性が高い」
腕組みをしながら、科学者でありながら真反対の存在を肯定する私市。
競争相手である美玲の意見に賛同するのは好ましくないのか、苦虫を噛み潰したような顔になりながらも、声のトーンは理性的であった。
「人間は考える生き物だ。しかしその演算能力をもってしても遭遇したことがない『未知』をきめ細かく描写するのは難しい。必ずその発想に至るには何かしらのリソースがあるものだ。極度の混乱状態だった、薬の副作用だとの意見もあるが、それを否定する物的証拠も数々残っているのも事実だ。『信仰の概念』も人間独自の思考回路が編み出した概念であると言えるし、UFOやネッシーなどのUMAも人間の無意識が作り出した産物とも言われているからな」
人間は不可視の存在に価値を与える。
人間の心が壊れないようにするための防衛装置なのか、はたまたただの欠陥なのか。
それでも、人間の心理は未知の領域からは未だ抜け出せていない。
ただ、それだけだ。
「・・・それにしても、まさか君から私宛の弁護が飛んでくるとは思っていなかったなぁ。意外すぎて何を考えているか恐怖を覚えるぐらいさ」
彼の思わぬ援護射撃に、美玲は驚きを隠せず目を丸くする。
同じ研究室の仲間。だからといって必ずしも馬が合うとは限らない。
むしろ磁石の同じ極の如く反発し合う人間だっているはずだ。
その尤もたる例が目の前の無愛想な眼鏡男。
そんな者から、自分の説明のアシストが来るなど思いもしない。
「何、貴様の説明があまりにもわかりにくかったため合いの手を入れただけだ。それに、彼らを僕の実権に参加してもらう為のお駄賃として彼らの為に説明を加えただけだ」
「はぁ!?少年達が君の実験に参加するなんて一言も聞いていないぞ!」
突然の実験参加の話に、美玲は私市に問い詰める。
「無論、知らないだろうな。何せ言ってなかったからな」
彼にとっては、美玲の詰問もどこ吹く風であった。
そっぽを向きしらばっくれる私市に、苛立ちしか湧かない美玲。
額に欠陥を浮かばせ握りこぶしを作りながらも、なんとか振り下ろす前に内なる衝動を沈める。
その代わりとして、恨み満載の視線を浴びせながら
「ケッ、実験場の件といい今回の件といい、君はずいぶんと悪知恵が働くようだね。それをちょっとは研究に回す気はないのかい?」
「お生憎だが、僕の思考回路の大半は研究の向上に向けて稼働中だ。君みたいな間抜けに心配される権利はない」
「そんな屁理屈ばかりこねるから私に負けるんだよ根暗眼鏡」
「貴様との会話などこれで十分だと言っているんだ変態」
段々会話の流れが不穏となってきた。
所々に棘が見え始め、仕舞いには攻撃性を帯びてきたみたいだ。
またしても変人科学者達の罵り合いが勃発しかねない。
不穏な空気を感じたのか、空気を読んだ咲が戸惑いながらも私市に声をかける。
「そ、そういえば交野さんも同じ大学の方なんですよね?大学では何の研究をされているのですか?」
気を少しでも美玲から切り離そうとしただけの軽い質問。
だが、彼女は失念していた。
インテリ層は、おしゃべり好きだと言うことを。
「ほう、いい質問だな」
咲の言葉に目敏く反応した私市は、中指で眼鏡のブリッジを軽く押し上げながら
「私の研究は、『人間の神経伝達における、人間の五感の完全情報化』だ。人間が活動するために使用される筋肉や内臓から発生される命令コマンドを、神経系に電子ケーブル等を直接接続せずに皮膚の上から反応を観測し、それぞれの動きや活動に応じて分析を行うことを目的としているんだ。新家系を形成するシナプスはとても複雑な形を形成していて非常に特定の電子コマンドを観測するのは難しいのだが、そこは僕が開発した非接触型シリコン製・・・」
後悔した。
彼の饒舌ぶりを認識した瞬間、聞き手である咲はそう痛感したであろう。
それを表現するかのように、額に汗を浮かべ貼り付けられた笑みを継続するのに必死なのか、ピクピクと口角が震えていた。
科学者は、自分の好奇心に貪欲だ。
美玲の反応から学んでいた弱音は、可哀想な子を見るような視線で彼女を見守ることしか出来なかった。
誰だって好んであの専門用語のオンパレードに突っ込みたいとは思わないはずだ。
「はいはーい、ストップストップ。君の引くほどの研究愛は分かったから一旦お口チャック。お嬢ちゃんなんか若干青ざめてるよ」
ここで止めに入ったのは、同じ研究者である美玲。
流石のマシンガントークに見かねたのだろう。
あなたも人のことを言える立場ではないのでは?と言いたくなるが、彼の一方的な説明を止めてくれただけ感謝するしかない。
一息ついた美玲は、彼に代わって端的に説明する。
「この喋りたがりアンポンタンが研究しているのは、『人間の五感の完全情報化』。つまり私達が普段感じている視覚や聴覚を、パソコンやスマートフォンなどの電子デバイスでも理解できるような形にすることさ。この点は私のETCMと目的としては似ていると言えるかな」
彼女の突然の割り込みに眉をひそめながらも、私市は彼女に乗っかるように
「今僕が研究しているのは人間の皮膚、つまり外部に接するための感覚だ。特に手に重点を置き、固形物を握った時の対象物の形状の推測や、その温度、強度や質感などの情報を解析中だ」
と説明を加えると、白衣のポケットから何かを取り出した。
一見、ただの手袋に見えたが、至る所に薄い線が浮き彫りになっている手の込んだ代物であった。
伸縮性や密着性が高いところを見る限り、シリコンやそれに準ずるもので作られているのか、どこか近未来を連想させるデデザインをしていた。
そんな手袋を片手で軽く振りながら
「まあ簡単に言ってしまえば君たちは、これを両手にはめて指示された物体を掴んでくれればいい、それだけだ。簡単な作業だろ?」
そういうと、弱音に歩み寄り、彼の小さいジーパンのポケットに上から無理矢理押し込んできた。
突然すぎる行動に驚いた弱音は、何も言えずそのままであった。
彼が離れたときには、弱音のポケットは歩きづらいと言えるほどに膨らんでいた。
「ふむ、これでよし。じゃ、頼んだよ」
満足したのか、頷きながらさっさと持ち場に向かってしまった。
何かに優れた人間はどこか抜けている。
よく言われる台詞だが、弱音はそれが理解できた気がした。