一方的。
彼の現状を語るには、この一言で十分だった。
美玲達が咲のアーキタイプを分析し終えるまでの時間稼ぎ。
言葉としては簡単に表現できているかもしれないが、実情は真逆だ。
弱音は数回、意識的に瞬きをする。
汗によってぼやけていた視界が、塩水特有の痛みが流れていくとともに鮮明になっていく。
そして見えてくるのは、捕食者の目。
いくら知恵を絞って動き回ろうと、この立ち位置は変化なし。
余裕を兼ね備えた野性的な動きで追ってくる『未知』に、ガクガクと疲労で足が壊れる寸前の弱音。
優劣の関係など、一目瞭然だ。
「はぁ、はぁ!」
短く、そして浅い呼吸を繰り返す。
深呼吸をして息を整えようにも、そんなことをしている間にミンチとなる。
それほどにまで、身体的に追い詰められている状態。
頼みの蔦であるインカム先は応答なし。立っているのが限界と言うほどの体力。
こう、言葉を並べてみると、あまりの絶望的な立ち位置に笑みすらこぼれそうであった。
その笑みすらも、表情筋が恐怖で固まって笑うに笑えない、そんな状況。
時間稼ぎの指示が飛んでから、約5分も満たない時間で、だ。
『未知』からの攻撃は、弱音の体力も、経過する時間も関係なく、無慈悲に飛んでくる。
その言葉どおり、捕食者である大蛇がその膨大な質量を携えて突進してくる。
先程と同様、頭を持ち上げてからの位置エネルギーを加速度エネルギーに変換する形での低空跳躍。
ギラリと光る鋭い牙を見せながら、弱音をかみ砕かんと迫ってくる。
面ではなく、避けることが可能な線の攻撃。
それでも、彼の予測を追い抜くほどのスピードで彼を襲う。
「ッッッ!!」
これもまた這々の体で、弱音は何とか避ける。
駅のホームで感じる風圧の何倍もの風が、彼の頬を叩く。
飛散する瓦礫類が、彼の全身を切り裂く。
度重なる規格外の動きに翻弄され行動不能寸前の体に、追い打ちをかけるように攻撃の余波が襲いかかってくる。
しかし、これはあくまでも余波。本当の攻撃など一度でも食らえば再起不能。
比べることも憚れるような、常識外れの力。
無様にコンクリートの床に転がる弱音では到底太刀打ちできるわけがない。
厄災の前で立ち回る弱音。
だが心身共に削れ落ちる寸前の彼でも、考えなしに動いているわけではなかった。
策なしに走り回っていては瞬殺であっただろう。
今の彼の心臓が動いているのは、そのお陰と言ってもいい。
大前提
今の彼に、目の前の『未知』を倒すことは不可能だ。
奴を上回る攻撃力も、倒すための知識もほとんど無い。
どう足掻こうと、追う側と追われる側が逆転する可能性は著しくゼロだ。
だが、それでもやられる一方で片付けるにはまだ早い。
追われる側でも、追われる側だからこそ絞れる知識があるということ。
獲物と自覚するからこそ、優位に立っている相手に意図しないダメージを負わせることが出来るというだけのこと。
そういうことになれば、彼のアクションは限られてくる。
彼の可能なコマンドは、避ける。ただそれだけ。
だからこそ、彼はこの動作を最大限活用する。
彼の作戦は至ってシンプルだ。
まずは、大蛇の行動を観察する。
普段の行動然りスポーツ然り、人間か否かを問わず生き物には癖が存在する。
ゲームの各面にいるボスを想像すれば分かりやすいかもしれないが、テンプレートの動きというのは確実に存在する。
ゲームに関して言えば、テンプレートの動きとは意図的に作り込まれており、プレイヤーはその隙をついて攻略するというのがプレイヤー達の定石だ。
今、彼が行っているのはその感覚に等しい。
蛇は比較的知能が高く狩りに秀でていると言われているが、所詮野生動物だ。
それに加え、今の彼の相手は生身の蛇ではない。人間が作り出した空想上の蛇だ。
それならなおさら、CPUの固定コマンドの如く型に当てはめられた動きをするはずだ。
果たして、それは正解だった。
それがこの突進。
大蛇の飛び込んでくる速さは、弱音の瞬きが追いつかないと言っても過言ではないほどのもの。
計測器を用いて観測していたとしても、彼を見下ろすほどの大柄な体によって体感速度はその何倍にも跳ね上がるだろう。
その為、大蛇はこの行動を
大蛇の気持ちなど理解しがたいが、距離を詰めるためのアクションとしては最適だ。その意味合いも含んでいるのかもしれない。
よって、彼はこれを利用する。
弱音は特定のポイントを大蛇からの距離を目測することで指定、逃げるフリをしながらそこに移動する。
彼の目測での距離とは、大蛇が突進してくるであろう距離。
案の定、指定したポイントに立つやいなや、想像したとおりに大蛇が突っ込んでくる。
彼は何回繰り返したか分からない、地面に転がる動きでギリギリで回避する。
さて、彼の立ち位置の条件は大蛇との距離だけではない。
ここは大学の実験場だ。遮蔽物がない野外ではない。
風洞実験場だからか、これといって大きな遮蔽物は見当たらない。
だが、ここは屋内。建物だ。必ず遮蔽物がある。
いかなる衝撃に備えるために設計されたであろう、実験場を支えるコンクリート製の壁。
物理学上、一度加速した物体は逆向きに加速度をかけない限り静止しない。
つまり、勢いよく飛ぶ物体は急には止まれないと言うことだ。
その理論を適用するのならば
獲物に食らいつこうとした捕食者が、捕らえようとした勢いのままコンクリート製の壁に激突するのは必然であった。
ドゴッッッ!と実験場自体が大きく揺れる。
頭から突っ込んだと思うと、朝の満員電車のように胴体、尾が玉突き事故を引き起こす。
最初の激突から間髪入れずの己の体での追撃。
運動方程式より、力は加速度に比例する。
脅威となる速さを逆手に取った攻撃。
普通に立っている弱音でも尻餅をつきそうな程の衝撃だ。無傷なはずがない。
その言葉通り、奴の様子は壊滅的だった。
壁に出来たクレータを中心に粘っこい暗赤色の液体が飛び散り、規則通りに種をつけるひまわりのような模様を壁に描き出していた。
やがて重力に従うように、突き刺さった頭を視点として胴体と尾がずるずると落下していく。
その勢いそのまま突き刺さっていた頭部も抜けて、折りたたまれた体の上に添えられる。
特別な部族でない弱音でも、大蛇の有様は酷いものだと目視できた。
至る所から血が噴き出しているところからして、衝突のエネルギーを殺し切れずに頭蓋骨で受けてしまったのだろう。事故に遭った軽トラックのように正面から押しつぶされた形をしている頭蓋骨が全てを物語っていた。
明らかに致命傷。
だが
「くそ、
彼が口にしたのは安堵ではなく悪態であった。
彼の視線の先、無残な残骸が転がっているはずの現場で変化が起こっていたのだ。
至る所に飛び散った暗赤色。
それが
いやそれは間違いだ。
弱音は、自分の目を疑うほどの光景を現在進行形で見ていた。
どろりとした粘着性の液体が、
パックリと開いた傷口はジッパーを閉めるような様子で瞬く間に塞がり、頭部は小刻みに揺れたと思うとゴキリゴキリッッと不気味な音を立てはじめる。
やがてその震えは体全体に広がり、体内で別の生物が動き回っているのかと邪推したくなるほどの挙動となる。
そして
全体の震えが止まると、何事もなかったかのように、無傷の大蛇が長い胴体をもって立ち上がった。
並外れた生命力。それを支える再生能力。
これこそが、美玲の言っていたアーキタイプの象徴。
『規則なきオカルティックな力』が『信仰の概念』によって歪められた故の人智を越えた力。
何度も何度も大きな攻撃を打ち込んでも、全てが無に帰ってしまう。
彼の知恵を絞った努力をあざ笑うかのように、元通りとなった顔をこちらに向けてくる。
振り出しへ戻る。
知恵を振り絞った間接的な攻撃でさえも無に帰ってしまう性質。
理論などなく、ただ『概念』として在るだけで成立する力。
この理不尽かつ不条理な法則を、彼は先程から何度も何度も見てきたのだ。
それこそ、数えるのが嫌になるほどに。
非力な自分を鑑みた上での策。それすら児戯のように扱われる始末に、とうとう弱音も膝をつきそうになる。
その時であった。
『良かった、やっと繋がった!少年、生きているかい!?』
先程まで雑音しか聞こえてこなかったインカムから、はっきりとした音声が聞こえてきた。
その声の主はわざわざ聞かなくても分かる。
「オイ、まだ時間稼ぎはまだ必要なのか!?」
通信が回復したことに安堵する暇も無く、ノイズが入るほどの声を張り上げる。
『正直難しいそうな状況だよ、こっちもなんとか策は練っているんだけどね。問題点が違ったのさ』
「どういうことだ!?」
『私が提示した方法じゃ到底解析が追いつかないってことさ、この方法では君が死体となる方が速いのさ』
「なんだって!?」
衝撃の言葉に強くインカムを押しつける弱音。
軽い目眩を感じながらも、倒れぬように踏ん張るが、力がうまく入らないのか尻餅をついてしまう。
心に関しては、自分の意識すらも保てるか分からなかった。
しかし、彼女の話には続きがあった。
『だから、別のアプローチを行うんだ。これは現状において君にしか出来ないことだ。無理を言っているとは思うがどうか協力してくれ』
「俺は何をすればいい?」
間髪入れずに弱音は返答する。
覚悟など、簡易椅子に座るときから出来ていた。
彼からしたら今更のことであった。
『・・・わかった。ポケットの中を見てくれ』
「ポケット?」
疑問を浮かべながらもゴソゴソと探ってみると、彼の手には一組の手袋が握られていた。
指の関節の間を走るように電線が入った、近未来を思わせるデザインのもの。
「これは・・・」
『そう、あの偏屈眼鏡男からもらったものだよ。これこそがもう一つの突破口だ』
「突破口だって?この手袋が何の役に立つって言うんだ?」
『そこで説明を要求するかい?だったらなるべく手短に説明するよ』
周りの戦況を伺いながら、弱音はインカムに意識を集中させる。
どんなことがあっても敵から目を離してはいけない、その意識を頭の中に残しつつだ。
彼の置かれている状況を表すかのように、切羽詰まった声で美玲は説明を始める。
『そのグローブの開発者である私市の研究テーマは人間の五感の完全情報化。つまり神経系を通る微弱な電流から、脳に送られる電気信号を読み取るといったものだ。まあ私の研究の体バージョンと思ってもらって構わない』
「人間の感覚をそれこそパソコン上で完全再現できるように、感覚を数字で表せるようにするってことだろ?それのどこが現状突破に繋がるんだ!?俺が今対峙しているのは脳にあるイメージだって言ったのはお前だろ!?」
『問題は君の目の前にいる怪物が人間のアーキタイプが『規則無き力』よって実体を帯びたということじゃない。構成、
「益々意味不明だ!もっと簡潔に!」
長々しい用語に苛立ちを隠せない弱音。
そんな事はお構いなしに美玲は声を被せて
『君が対峙しているのはアーキタイプの
「だから在り方自体がアーキタイプって事だろ?人間共通の感情が深層心理の中で具体的なイメージとして存在して、それを忠実に再現しているって言ってたじゃないか」
『その通り。だから逆算方式で考えてみるんだ』
「逆算方式?」
『そう。構造自体がアーキタイプの情報を表している。だったら
目的を最終地点として設置し、スタートまでの道のりを考えることで解決案をひねり出そうとする。
それが逆算方式。
観点を変えたことによる新たな突破口。、
独特の考え方に追いつけない弱音は、思考の余地を設けた上で美玲に再度問いかける。
「・・・現象自体がアーキタイプを表している。そしてその本体が訳が分からない力の集合体だが、成り立ちや在り方はアーキタイプの情報そのもの。だから
『そう、オカルティックな力がアーキタイプの情報に沿って作られているのならば、一つの生物として、もしくは物理現象として、基になったアーキタイプを忠実に再現しているといえる。つまり、情報としてアーキタイプを捉えるだけでなく、どのような形でオカルティックな力が集積、成り立っているのかとして見ることも可能なんだ。新たな解析口を設けることで処理速度を格段に速めることが出来るんだ!!』
未だ回線状況が不安定なためノイズ混じりでの通信だったが、彼の心境に曇りはなくなった。
追い詰められてからの逆転の手。
その存在があることが分かっただけで、彼は再び立ち向かうことが出来るのだ。
「そうか・・・。だから、アイツはなんとか助けられるんだな!?」
『言っただろう?私という大船に乗っかった気持ちで、女の子との会話を楽しんでくれればいいってさ』
弱音の前向きな姿勢に感化されたのか、ここに来て初めて張り詰めていた美玲の声に穏やかな色が入る。
弱音はインカムを人差し指で軽く小突きながら、インカムの調子を伺う。
ここで聞き逃しは致命的。そう思った故の行動。
そう、彼が聞いたのは根本的な理論と現象としての在り方について。
いわば、数学の授業にて実際に使用する公式を隠されたまま、その公式の算出方法を事細かく教えられている状況。
公式の証明など、入試でも出てこないほどのもの。
今、彼が欲しいのは即効性で実用性のある公式。
自分一人の力では傷一つ追わせることが出来ない怪物を、叩きのめす。
その為に、彼が行うべきアクションの指示を。
ここまで来て、自己弁護やエゴイズムによる御託はいらない。
変な遠回りなど必要ない。
自分のことなど考えている暇も無い。
自分にとって一番大切なものは何ですか?
そう問われれば、迷わず自分の付加価値と答えるだろう。
価値のボーダーが沸騰暴落するこの世界で、どれだけ確立した価値を見いだせるかどうか。
そのことが、彼の全てだった。
だが、何故だろうか。
今の彼には、不思議と自らの価値に執着する心はなかった。
腕を少しでも動かせば痛みが体中を駆け巡り、真っ直ぐ立てるかどうか危ういこの状況が。
彼にとっては何故か
理由なんて見当が付かない。
だが今はそんな事など、どうでもいい。
余計なことなど考えるな。
彼の心は、決まっていた。
あの子を、
その為に彼は再び立ち上がる。
膝に手を当て、よろめきながらも、終着点を見いだした人間の眼光は衰えることを知らない。
その力溢れる目が映すのは、荒れ地と化した実験場。
そして、立ち向かうべき敵。
彼が視界の中央に捕らえるのは、少女の心の闇。
光と闇は相容れない。
その言葉が表すように、少女の闇が拒絶反応を引き起こしたかのように雄叫びを上げる。
位置からして、彼の胴体から頭に至る部分を狙った攻撃。
先程の、弱音の体全体を押しつぶそうとしたものとは異なった、特定の部分を狙った打撃。
最適解しか導かない機械にはない、『気に入らない部分をそぎ落とす』といった、どこか生物的な要素を思わせるようなアクション。
威力は十分。僅かでも威力を逃せず直撃すれば、人間である弱音の体は木っ端微塵にはじけ飛ぶ。
だからこそ、彼は攻撃を避けるしかない。
だが、無様な形で床に転がったりはもうしない。
腰を中心にして上半身を折りたたみ、膝を使って重心を下に移動させる。
足は地面に放り投げず、しっかりと踏み込んだ形で。
『
彼の頭上を通り過ぎた尾が風を切る中、僅かに聞こえてきた声を彼は逃さなかった。
絶望的なこの状況を打破するための道しるべ。
残された糸口を、彼は決して手放さない。
『ナルシスト野郎からもらったグローブ、それを装着して大蛇を
重力に逆らうように立ち上がる。
倒れることなく、踏み込んだ足をもって。
そして、駆け出すために体重を前にかける。
一気に加速するために振り込んだ腕の勢いを殺さず、ジーパンの膨らんだ部分に手を突っ込む。
美玲とは性格も目指すゴールも違う、もう一人の科学者に託されたグローブ。
触れたという感触があるかないかという狭間で、彼は素早くグローブを装着する。
隙間なく手になじんだグローブは、持ち主である弱音の意思に反応するかのように光り出す。
新たな突破口を開く鍵。難攻不落な現象を前にして、彼は託された光り輝く鍵を携えて駆ける。
そして
未知を切り裂く刃を、振りかざした。