心の奥に住まうモノ   作:レコ

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これで、一応終わりとなります。


18話

 絶叫が響いた。

 何もない実験場全体に響き渡り、振動として空気を揺らす。

 音の衝撃だけで遠くに吹き飛ばされるかと感じさせるほどの大声量。

 もちろん、これは弱音のものではない。

 

 私市から渡されたグローブ。

 『人間の五感における、皮膚による感覚をデータ化するための観測機』を身につけた彼の右手は、深々と大蛇の尾に突き刺さっていた。

 故意に壁に激突させても、刻み込まれた『概念』により瞬く間に再生されてしまう大蛇の皮膚にだ。

 観察からしてありえない状況。それを物語るかのように、奴の傷口は未知で溢れていた。

 バチバチッと高電圧が流れるような破裂音が弱音の鼓膜を叩き、現実味を感じさせるように手首から下につれて軽い痺れが駆け巡る。 

 しかし、それ以上に不可思議なのは、切り口。その外見だ。

 先程の激突のように生物らしい真っ赤な血液が噴水の如く溢れ出ている、わけではなかった。

 ()()()()()

 率直に表現するのならこの言葉が適任だ。

 大蛇が発現したときのように、自らの視界が一部分だけ切り取られ、まるでゲーム画面にバグが侵入したかのように左右方向に不規則なタイミングで揺れていた。

 

 陽炎のように不鮮明で

 プロジェクションのように人工的

 

 ホログラムの欠陥だと言われれば、首を縦に振ってしましそうなほどの現象。

 電気が発せられているところを見る限り、アーキタイプの情報の塊というのは間違いではなさそうだ。

 弱音が『規則無き力』、その片鱗に触れたのだ。

 

 「う、おおおおお!」

 強大な敵に立ち向かうための発破か、はたまた未だ拭いきれない未知への恐怖のせいか。

 野太い弱音の叫び声が、大蛇の悲鳴に負けじと放たれる。

 ガクガクと不気味な振動を続ける弱音の腕。

 これも理解不能の斥力によって外に弾き飛ばされそうになる。

 それでも、彼は地に両足を付ける。

 歯を食いしばりながらも、苦痛に顔を歪めながらも、深々と突き刺さった腕を抜いたりはしない。

 目に分かるほどの効果。

 どうやら、美玲が言っていた解析の速度が速まり、彼女のアーキタイプ情報体の解析、アンチコマンドの入力が始まったようだ。

 その効果は、大蛇への精神的苦痛だけには収まらない。

 グローブの拳が突き刺さった大蛇の体、部位的には尾にあたる場所。

 絶叫を上げるほどの衝撃、それなら身を揺するといった行動を本能的に起こしても不思議はない。むしろ当然の行動とも言えるだろう。

 だが、それがない。

 弱音の何十倍の巨体を持つ大蛇が、怒りに身を任せて無造作に体を振り回せば、矮小な弱音など腕もろとも吹き飛ばされるに違いない。

 だが、弱音は今でも地にその両足をつけ、握りこぶしを突き立てているではないか。

 傷口を負った大蛇の尾は、ピクリとも動かない。

 

 『それはアーキタイプの解析が進んで大蛇の正体がどんどん分解されている結果だよ』

 

 彼の疑問に答えるように、美玲がインカム越しに言う。

 

 『私達がアーキタイプの情報を上書きするためのアンチコマンドが次々と設計図に書き込まれている影響が出てきているんだよ!段々と大蛇本体の存在定義が曖昧になっている証拠さ。このままいけば完全消滅まで追い込めるぞ!』

 

 ノイズ混じりの音声で檄を飛ばす美玲。

 言われるまでもない。

 ここまで来たのだ、一歩もここから動くつもりはない。

 その弱音の固い意思が、弱音の存在を地に縛り付ける。

 だが、武器となる尾が封印されただけで大蛇が黙っているわけがない。

 一度、威嚇のような声を上げると、牛を丸呑みできるほどの頭で地面を叩き始めた。

 何度も何度も叩きつけられる衝撃は、その一つ一つが地震規模の威力。

 意識が上下にシェイクされる感覚に襲われてしまう。

 

 「くそ・・・・!」

 

 中身を下から突き上げられる衝撃に意識を放り出されそうになる。

 猛烈な目眩と吐き気を必死に押さえ込むが、いつまで彼の意識が持つかわからない、それほどまでの威力。

 だが、彼は折れない。折れるつもりはない

 

 「い、い加減。おとな、しく、しやがれええええええ!」

 体を大蛇に縛り付けている右腕、そのもう片方。

 同じ大蛇の存在定義を切り裂く刃と化した左腕を突き刺そうとした。

 

 違和感に気づいたのはそのときだった。

 なぜ、彼は立っていられたのか。

 先程の尾を地面に叩きつけた時は()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 「なんで・・・」

 ここで弱音は新たな脅威を認識し、驚愕する。

 

 「なんで、()()()()()()()()()!!」

 

 受け身を取るために犠牲にした右手、ではない。

 動かす分には何一つ支障が無い左腕が、だ。

 本来ならトドメの一撃と言わんばかりの拳を振り下ろすはずだった左腕が、1ミリも動かないのだ。

 機能が停止したのは、左腕に限った話ではない。

 右腕、右足、左足、その他弱音を前へ突き動かすための器官。

 その全てが微動だにしない。

 蛇に睨まれた蛙。

 古から言い伝えられてきた言葉をなぞるのならば、彼の立場はまだ逆転していなかったということか。

 この異常事態が、彼の身体的疲労なはずがない。

 この現象、いやこの力の正体は

 

 「(これも()()()()()()()()()()()()()()()()()って言うのかよ・・・!)」

 人間の普遍的なイメージを集結した形、アーキタイプ。

 それは主に神話や伝承として語られ、その具体的で抽象的なイメージを縁取っている。

 その理論でいくならば

 蛇とは、あらゆる生物における産みの親なる『母親』の側面を持ちながら。同時にあらゆる生物の命を扱う『死神』の側面も持つと言われている。

 見た者を石に変えてしまう、女神アテナの怒りを買い怪物と化したメドゥーサ。

若き娘達を貪り食った、八岐大蛇。

 本来、大蛇とはその強大な力から死を連想させることから畏怖の象徴として、神として称えられるか怪物として退治されるかの二択の道を辿っていた。

 ある意味『死の概念』を司る神聖な生き物。

 だが、一派の宗教や地域に根付いている考え方によって、この存在は別の観点で見ることになる。

 蛇は細長い見た目から、縄を連想されることが少なくなかった。

 それにより、蛇は縄としての側面も見いだされるようになった。

 蛇は好戦的な生き物である。自分よりも大きい獲物の首に巻き付いて、絞め殺すほどに。

 そういった姿から蛇は『何かを締め付ける』『何かを結びつける』といった概念まで付加されることになる。

 それと『死の概念』も合わさって

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が生まれたのだ。

 これが、咲の体に宿ってしまった『オカルティックな力』の正体。

 それと同時に

 『()()()()()()()()()()()()()』も『オカルティックな力』によって生み出されたしまった。

 その結果が

 その因果が

 彼の反撃を食い止める力と化したのだ。

 

 再び、捕食者の目が光る。

 活路を見いだし、逆転の一手を放とうと躍起になっていた餌へと、突き刺さるような視線を浴びせる。

 「う・・・・ああ・・・」

 ぶり返すかのように、必死に押さえ込んでいた恐怖が、腹の奥底から湧き上がってくる。

 今度こそ、弱音の体全体の筋肉は硬直し、身動きが取れなくなる。

 大蛇の『概念』とはまた別の鎖、『恐怖』という人類共通の足枷をはめられたのだ。

 起死回生の一手となった右腕も、今や大蛇と自分を結びつける忌々しい楔にしか思えない。

 せめてもの抵抗として、眼球運動だけで大蛇の動きを捉える弱音。

 だが、何もかもが遅かった。

 彼の視界は既に統一されていた。

 

 黒

 

 全ての色を混ぜることで到達できる最後の色彩。

 意味としては、負の印象を抱くケースが多いとされている。

 言葉としては、その通りであった。

 一切の光が入ってこない、闇。

 希望を押しつぶすかのような黒が、彼の目の前に広がっていた。

 この時をもって、弱音の感覚器官は凍結した。

 寒気すら感じる吐息も、雑音混じりで叫ぶ耳元の声も、一切感じられない。

 比喩表現無く、彼の体感時間は止まっていた。

 

 やがて

 他の誰かが再生ボタンを押したとき、弱音は

 

 ガツンッッッッッ!と牙同士がぶつかり合う音を最後に、大蛇の中の世界へと閉じ込められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『少年!?おい少年!!返事をしてくれ!』

 デスクトップの端に映された実験場のモニターを見ながら、データの解析中だった美玲は絶叫する。

 自分たちが乱した僅かな希望をを手に、強大な未知に体一つで立ち向かっていた一人の少年。

 美玲は必死になって彼の姿を探す。

 『少年、少年!!!くそ、応答がない・・・!』

 未知の集合体、大蛇に()()()()()()少年の安否を叫び続ける美玲。

 誰がみても絶望的な状況。それでも美玲は彼の存在を叫ぶのを止めない。

 ただ何かに縋るかのようにパソコンの画面にのめり込む姿からは、あるはずがない奇跡を信じているとしか思えない。

 現実を見たくない、とも捉えられるか。

 不確定な奇跡を信じる。

 科学者らしからぬ思考だが、そんな些細なことを気にする程度の余裕など、美玲の心にはとっくに無かった。

 現実を見ろ、と言わんばかりに、彼女の目の前にあるパソコンが警告音のような鋭い音を上げる。

 音をなぞるかのように、夥しい量の電子データがデスクトップを埋め尽くす。

 美玲の視界でも、電子機器による内面的な世界でも、危機的状況。

 そう、思われた。

 

 しかし

 「・・・・・・・・・え?」

 顔を上げた美玲は、思わず戸惑いの声をあげてしまう。

 うちひしがれた、風船から空気が抜けるような声ではなく、だ。

 彼女の唯一の未知への対抗武器、パソコンのデスクトップに現われる電子信号。

 先程とは比較すら出来ないほどの量が流れていた。

 だが、彼女の世界による視界は違った。

 彼女の明晰な頭脳による世界では、この現象は・・・・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガガガギギギザザザッッッ!と。

 ノイズの嵐が、弱音の頭の中を埋め尽くす。

 彼の意識が、意思が、決意が、激しい雑音の渦に飲み込まれていく。

 「(う、、、がぁぁぁぁぁ!!)」

 頭蓋骨を割られ、その中に無理矢理鉛の塊を詰め込まれるような感覚に襲われる。

 頭を左右から圧迫され、そのままプロレスラーに握られたリンゴのように粉々になるのではと本気で思ってしまうほどの激痛が、弱音の思考を支配する。

 上も下も右も左もわからない、地に足がつかず宙に浮かんでいる世界。

 大蛇の口を入り口とした未知の領域に閉じ込められてしまった。

 しかし、自分の現状を認識することはままならない。

 冷静に現在の状況を分析できるほどの脳の容量があれば、彼は頭を掻き毟るほど苦しまずに済むのだから。

 自分が何者であるか、自分の過去の記憶がどんどん薄れていく感覚。

 自分として定義するための輪郭が段々と曖昧になっていく。

 それほどまでの、アーキタイプを構成する電気信号の洪水。

 弱音という個人を構成する情報集合体が、全く別の情報を纏った獣に丸呑みされ、消化されると共に同一化される。

 いわば、自分自身という存在の上書き。

 弱音の意思や決意など、『概念』の前では簡単に上塗りされる程度のものだということなのか。

 抵抗など無意味と宣告されたかのように、彼の体中に張り巡らされた神経に鋭い痛みが走る。

 肉体の損傷とは異なった、感電したかのような痛み。

 急激に強ばった筋肉による痙攣が、やがて彼の体全体に広がっていく。

 ガクガクッと電気ショックに似た衝撃に意識まで揺さぶられる弱音。

 「(くそ・・・意識が・・・・・・)」

 頭中に響き渡るノイズ音と瞬きすら許されないほどの拘束力に、彼の体は限界に達しようとしていた。

 しかし、それと同時に彼はあることに気づく。

 意識せずとも彼の脳内を蹂躙する電気信号の波。

 砂嵐の思考回路の中であっても、ノイズとノイズの間という一瞬に、明確な像が現われる。

 古ぼけた映画のフィルムの一コマのように映し出される映像。

 それは。

 「(アイツの記憶・・・?)」

 現状として、弱音は宿主である咲のアーキタイプの中に囚われている。

 具現化したアーキタイプの正体は、彼女の無意識領域に存在する電子信号。

 アーキタイプそのものが電気信号として捉えるならば、その電気信号はアーキタイプの存在を支える根本的な内容となる。

 強い感情を引き起こすもの。

 すなわち、彼女の黒い部分を煮詰めて出来た記憶。

 それに加え、人間にとってあらゆる情報を読み取る感覚器官は、決して一つではない。

 目や鼻といった明らかに目で見て分かる器官だけでなく、『野生の勘』や『虫の知らせ』などといった非科学的で不鮮明なものまで存在する。

 普段、人間は受け取りたい情報を選別し、自分が理解しやすい形に変換した後に取り込まれる。

 目の前にリンゴがあると認識したければ、リンゴの姿形を視界で捕らえ、目という感覚器官によって脳に取り込めるように電気信号の塊に変換することで初めて人間は理解できるということだ。

 決して、認識したい電子情報そのものが転がっているわけではない。

 しかし、今はどうだろうか?

 彼の周りを取り囲むのは、アーキタイプの電気信号。

 脳に取り込まれる為に変換された後の姿をもってして、その存在を確立されている。

 よって、弱音は彼自身が持つ感覚能力の全てによって、変換された情報そのものを大量に吸収しているということだ。

 弱音の意識を揺さぶるほどの咲の記憶。

 尋常ではない痛みに歯を食いしばりながらも、彼は咲の記憶を追いかける。

 内容は、彼の想像通りであった。

 

 記憶の中心には、必ず一人の女の子がいる。

 ポツンと寂しそうに佇む少女。

 走馬灯の如く、場面が彼の意識を駆け走る。

 

 必死に母親の後ろを追いかける少女。

 ランドセルを乱暴に揺らす我が子の姿に呆れながらも優しい眼差しで迎える母親。

 自信満々に100点のテスト用紙を見せる少女。

 彼女の成果を称えるかのように、頭をなでる母親。

 

 場面が切り替わる。

 少女は大きくなっていた。

 

 彼女は才能溢れる子供であった。

 何事も全力で取り組み、その努力する姿勢を続ける努力を怠らなかった。

 そのお陰か、彼女のまわ周りは多くの『肩書き』で溢れていた。

 だが、天真爛漫だった少女には、特に価値あるものとして見えなかった。

 そんなものなどどうでも良かったのだろう。

 母親の笑顔。

 

 テストで良い成績を取ったとき。

 運動会のリレーで1位を取ったとき。

 写生大会で最優秀賞を取ったとき。

 

 それらの功績を母親に伝えるときが一番嬉しかった。

 自分の事のように喜ぶ母親、この姿を見るのが好きだっただけに過ぎなかったのだ。

 笑顔で結果を見せた後、頭を撫でられながら母親の褒め言葉を聞く。

 

 貴方は私の自慢の娘だよ、と。

 

 少女は、この言葉を聞くことが何よりも嬉しかった。

 この言葉を聞けば、何事も出来るように感じた。

 褒められれば自然と顔は笑顔になり 、母親の前には必ず少女の笑顔があった。

 それを象徴するかのように、多くの賞状や赤ペンで描かれた花丸が踊っていた。

 彼女にとって、幸せな時間。

 母親も変わらず、少し高くなったセーラー服の我が子の頭を撫でる。

 しかし撫でる手つきは変わらずとも、彼女を見る視線の色は変わっていた。

 

 場面が切り替わる。

 さらに少女は背丈が大きくなっていた。

 

 彼女の手にはバスケットボールがあった。

 片手でリズム良く、ボールを叩きつける。

 ドンッドンッという音が鳴るにつれて、彼女の周りに人が現われる。

 一人また一人と増えていき、同じユニフォームに身を包んだ子達が彼女の隣に立つ。

 やがて同じユニフォーム姿になった少女は、ボールを片手に走り出す。

 汗を飛ばしながらも、敵をかき分け縦横無尽に駆け回る少女の顔は、晴れ晴れとしたものであった。

 

 

 

 

 しかし、ここで唐突に()()()()()()()()()()()

 

 

 彼女の右足。そのふくらはぎから。

 ポップ音。

 何かが切れる音を合図に、場面は暗転する。

 

 足に手を当てうずくまる少女。

 歯をむき出しにして突然の痛みに耐えるその姿は、見ている側も辛いほどである。

 少女の異変に気づいたチームメイト達が駆け寄り、少女を囲んでいく。

 様々な心配の声がかけられる中、円の中心となった少女は顔をあげる。

 ただ、彼女の目に映っているのは、周囲を囲む部活動の仲間ではない。

 円の外側。

 ただ呆然と佇む母親。

 少女は焦るように必死に手を伸ばす。

 大丈夫と心配して手を差し伸べるチームメイトを払いのけながら、彼女は一心に目先の存在に縋る。

 

 彼女にとって心の支えであり、評価基準であった母親に。

 

 ただ、彼女の悲痛な声は母親には届かない。

 彼女に目を背けるような形で、意識の外側へと歩き出す母親。

 そんな冷たい後ろ姿に大きな隔たりを感じながらも、認めたくない一心で後を追いかける少女。

 使い物にならなくなった右足を引きずりながら、母親の痕跡を辿る。

 

 おいていかないで、と。

 ちゃんと自分の事を見て、と。

 泣き言のような、叫び声を上げながら。

 

 やがて、先を歩く母親が振り向く。

 だが、彼女の纏う雰囲気に以前のような柔らかさは微塵もない。

 半身だけを少女に向ける母親に、自分の声に気づいてくれたと泣き顔で喜ぶ少女。

 しかし、彼女の笑顔はすぐさま消え、一歩も動けなくなる。

 

 視線。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いわば期待。

 自分の娘なら出来る。

 自分の娘ならやり遂げてくれる。

 だって、()()()()()()()()()()()()()()

 

 少女の努力が、才能が、結果が積み上げてきた功績。

 それが、母親の期待を膨らませてしまった。

 いや、膨らませすぎたのだ。

 それに追い打ちをかけるかのような、再起不能と思われる大怪我。

 

 以前とは全く異なった視線を送る母親の目には、もう少女の存在は映らない。

 

 それに気づいた瞬間、彼女の世界は暗転する。

 黒く塗りつぶされた空間が、彼女を閉じ込める。

 そして、浮かび上がってくる、無数の赤い斑点。

 それは、人の目であった。

 

 自分を品定めする目。

 自分を評価する目。

 自分の能力を卑下する目。

 自分の振る舞いに苛立ちを覚える目。

 

 目、目、目であった。

 彼女の中の、絶対的な基準がなくなった故に見えてきたもの。

 それが、別の脅威となって少女を縛り上げていく。

 

 やがて、無数の目からナニカが飛び出し、彼女に殺到していく。

 

 鎖。

 

 彼女を彼女という器に押しとどめようと、巻き付け縛り上げる鎖であった。

 抵抗する間もなく、彼女の体は鎖で埋められていく。

 そして、ぽたぽたと。

 無理矢理に縛り上げた代償として、鎖と鎖の間からどす黒い血が流れ出る。

 ぽたぽた、と。

 彼女の涙を表すかのように、禍々しい鎖を濡らしていた・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 なんとも言いがたい他人の記憶、いや抱くイメージを垣間見てしまった。

 自分とはほぼ無関係な人間。それも会ってから日も浅い少女の記憶。

 そんなものなど見ても、たかが他人事だと言い切れると思っていた。

 しかし、弱音は腹の奥底から湧き上がってくるナニカを確かに感じていた。

 感情というよりも、衝動。

 理屈じゃ判断できない、不確定なもの。

 やがて、彼の思考に妙な音が入り込む。

 

 バギリッ、と何かが砕ける音がする。

 学校から帰る道のりにて、また美玲との説明会でも聞こえた音。

 しかし、ガラスを踏んだ形跡も、奥歯に力を入れた感覚も無かった。

 原因不明の音。ただ、何かが砕けているとだけ分かる音。

 

 バギリッ、と何かが砕ける音がする。

 バギリッ、と何かが砕ける音がする。

 バギリッ、と何かが砕ける音がする。

 バギリッ、と何かが砕ける音がする。

 バギリッ、と何かが砕ける音がする。

 

 謎の音は鳴り続ける。

 その音が弱音の意識の中で木霊するにつれて、奥底の衝動も湧き上がってくる。

 ここで、弱音は初めて、この音の正体を理解する。

 

 これは自分自身の心の壁が崩れる音だと。

 心の奥底に潜む衝動を押さえ込む力の悲鳴なのだと。

 そして、ふつふつと湧き上がる衝動。

 徐々に徐々に、その姿も明らかになってくる。

 

 謎の正体を見て

 ああ、と僅かな意識の中で弱音はふと思う。

 ただ単純に()()()()()()()()()()、と。

 だが、彼の性格上この状況で怒りの感情を抱くのは不自然だ。

 彼の第一優先事項は、自らの付加価値。

 いわば、自分自身をステータス表に記したときに現われる肩書き。

 他人の評価というレートの不鮮明な基準に惑わされずに確立した自分としての定義を望む彼にとって、他人に怒りを向けるのは些か不自然と思わざるを得ない。

 

 彼が怒りの行き先は、自分自身だけであって、特定の個人を向くことはないのだから。

 では、何故?

 今、彼の中での例外が発生しようとしているのだ?

 

 「・・・・・・・・・ああ、そうか」

 

 ギチギチと体が圧迫されていく中で、やっと答えに辿り着いた。

 暗闇に取り込まれた中で、少女の悲痛な記憶を垣間見て。

 初めて少年は理由を知る。

 

 「(コイツは、俺に()()()()()()

 

 既視感、そして同調。

 彼は、知らず知らずのうちに自分自身の姿を、咲に投影していた。

 ただ、それだけの話だった。

 

 自分自身の能力を磨くことではなく、その結果に満足する少女。

 結果を出すことによる快楽を得てしまった少女。

 大きな壁にぶち当たり、自分自身の結果を出せなくなった少女。

 他人の評価に怯え、心を閉ざす少女。

 そして

 

 自分自身の価値を、見失っている少女の姿を。

 

 自分自身を見ているみたいだった。

 内心の古傷を、無理矢理えぐり取られている感覚。

 存在として同じだからこそ、彼は彼女に同調した。

 自分自身の付加価値が第一の彼が、身を乗り出してでも救おうとした。

 付加価値に怯える少女の姿が、自分そのものなのだから。

 

 だから

 だからこそ

 

 

 「ふざっ、けるなあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 彼は、あらん限りの怒りをぶつけるのだ。

 彼は、自分自身が嫌いだ。

 外に価値を求めていた自分が嫌いだ。

 何も自分で価値を見いだせない自分が嫌いだ。

 自分自身の定義が出来ない自分が嫌いだ。

 そんなもの、認められるわけがない。

 その姿が、目の前に堂々と形をもって存在しているのなら。

 

 同族嫌悪。

 結局、彼のいう衝動とはこのことであった。

 彼の感情など、たかが知れている。

 どれだけ感覚がねじれようとも、彼は一人の人間だ。

 心に抱くものなど、ちっぽけでありきたりなものでしかない。

 人間は感情で出来ている。

 所詮、人間は単純に作られており、感情一つで突拍子もない行動に走ってしまう事だってある。

 掲げる主義も、主張も、信念も置き去りにして、駆け抜けてしまうのだ。

 だからこそ

 彼の抱くべき感情は、固まりきった全身を突き動かす、莫大なエネルギーと化す。

 そして

 得体も知れないそのエネルギーは

 

 絶望した世界に、光をともす礎となる。

 

 手元から、だった。

 ぼんやりとした、誰かを温かく包み込むような、そんな光が見えてきたのは。

 確認するまでもなかった。

 私市から託された、少女の心を解き放つための手。

 彼の気持ちに呼応するかのように、彼の拳に光を灯したのだ。

 

 何をすべきかは分かっていた。

 胴を締め付けていた鎖をつかみ、力任せに引きちぎる。

 ピクリとも動かなかった体が嘘のように動き、強靱な硬度を誇っていた大蛇の鎖を粉砕する。

 彼の信念が、信条が、アーキタイプの概念を打ち消した、その瞬間であった。

 上も下も右も左も分からない空間において、確かに自分の足で立ち上がる弱音。

 その鋭い眼光が捉えるのは、目の前にある鎖の巻き付いた球体。

 自らのアーキタイプに囚われた少女。

 彼女を救うために、彼は精神世界の『概念』に挑む。

 

 「オイ!聞こえているかクソ野郎!!」

 

 激昂するかの如く、大声を張り上げる弱音。

 他の誰にでもない、()()()()に向けての怒り。

 そのエネルギーをもってして、自分自身の姿をしたナニカに掴みかかる。

 

 ガキンッッ!と鋭い金属音が弱音の拳を弾く。

 不可視の壁が存在するかのように、鎖に触れる寸前で弾き飛ばされてしまう。

 金属光沢が鏡となって、弱音の表情を映し出す。

 だが、そこに怯えの文字は一切無い。

 あるのは怒りの表情のみ。

 自己嫌悪からなる怒りは、もう止まらない。

 斥力により倒れそうになるも、なんとか踏みとどまる。

 もう倒れない。倒れるわけにはいかない。

 今度こそ、前に進む為の足で踏み込み、全体重を両手に乗せる。

 彼女の弱い心に突き飛ばされないように。

 

「オイ!聞こえているかクソ野郎!!」

 再度、囚われた少女に向けて声を放つ。

 彼を突き放す斥力に両手を前へ突き出して抵抗しながら、猛吹雪の中を歩くような格好で近づく弱音。

 彼の手に宿った光が徐々に徐々に、鎖の塊へと伸びていく。

 

 「いつまでこんな下らない柵の中にいるつもりだ!?いい加減出てきやがれ !!」

 そう叫びながら、やっとのことで咲を囲う鎖の一端を掴む。

 ジャラジャラと不穏な音を響かせながら、鎖は彼の手をもぎ取るかのように、強引な力で引き込もうとする。

 「ぐッ!」

 腕をゴムのように引きのばれるような痛覚に襲われる。

 余りの痛みに目の奥がチカチカと点灯するが、弱音は目を離すことも腕にかける力を緩めることもしない。

 だが、徹底抗戦の意思を読み取ったのか。

 鎖の方にも新たな動きがあった。

 球体の外周を走る鎖が、巻き付いた方向とは反対に動き始め、己の意思をもったかのようにその先端が宙に浮く。

 頭をゆらりゆらりと揺らして動くその姿はもっぱら蛇を連想させる。

 蛇、という言葉は、果たして正しかった。

 一斉に尖った先端が弱音を捕らえると、一目散に飛び込んできたのだ。

 

 突然の攻撃に、弱音は為す術がない。

 最低限の動きで体を揺らすも、ほぼ無意味。

 鋭利な先端が彼の皮膚をなぞり、真っ赤なラインを引いていく。

 それだけではない。

 全身に刻まれたことによる苦痛に顔を歪める暇も無く、周囲を鎖に取られてしまう。

 気づいたときには遅い。

 一本のロープを使って、中間に輪っかを作っていく状況を想像してみよう。

 横に何個も作るのではなく、上へ輪っかを重ねていく。

 出来上がった円柱の中にミカンを入れて、ロープの両端を力一杯引いてみよう。

 さて、中のミカンはどうなるだろうか?

 彼はその答えを、身をもって知る。

 

 巻き付いてきた鎖は容赦なく彼の体を四方八方から押しつぶそうとする。

 メキメキッ!と体全身の骨が悲鳴を挙げる。

 たまらず弱音も声を張り上げそうになるが、奥歯を噛んで耐える。

 そして、手首だけを動かしてなんとか鎖の末端を掴み直す。

 もう同じ手は食らわない。

 軽く捻りを加えて鎖を分断すると、自由になった両手を強引にねじ込む。

 

 鎖が離れたことにより、球体に空いた僅かな隙間に。

 その中に顔をうつむいて座る少女に。

 

 「起きやがれ!」

 隙間に指を掛け、閉めようとする力に抗うように隙間を広げる。

 ここで初めて、中の少女が顔を上げる。

 禍々しい鎖に覆われた空間で、少女は意識を取り戻す。

 その表情は、怯え。

 外の世界に飛び出す事への怯えの色が、少女を染め上げていた。

 でも

 それだからこそ、彼は少女に手を伸ばす。

 

 「()()()()

 

 短い一言。

 その一言が、彼女を大きく揺さぶる。

 同じ境遇にいる者からの、励ましのような怒りの声が、少女を叩き起こす。

 

 「自分の価値を他人に委ねるんじゃねえ!!自分の価値ぐらい自分で決めろ!これが自分自身だって胸を張れるように自分を磨き続けて、つまんねえ価値観をぶっ壊せ!だから、ここで腐ってないでさっさと出てきやがれえええぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 

 

 やがて

 恐る恐ると言った形で、少女は

 差し出された手に、自分の手を重ねる。

 暗闇に割り込んできた手は、少女の手を掴むと、外の世界へと引っ張り出す。

 それに応じて、彼女を覆っていた鎖が消えていく。

 彼女を頭ごなしに締め付けていた鎖の塊が、崩壊していく。

 

 

 美玲達科学者でも出来なかった、もう一つのアプローチ。

 

 その名を、()()()()()()()()

 

 大蛇が出てくるエピソードは、古今東西あらゆる神話において多く存在する。

 そのほぼ全てが強大な力と生命力に畏怖を抱き、ある時には豊作と命を司る大地の神として崇められ、そしてあるときには無慈悲に命を刈り取りに来る死神として恐れられていた。

 これが、母親としての側面を大きく持つアーキタイプ。

 ここまでが大前提。

 しかし、これには続きが存在する。

 大蛇のように、母親の側面を持つ怪物は神話上に多く登場する。

 竜、魔女、山姥、夜叉、ヘカテー、カーリー。

 挙げれば挙げるほど、怪物の名前が羅列されていく。

 しかし、こういった怪物達による悲劇は不思議なことに多くない。

 過程において人が襲われるといった事柄はあるのだが、国一つが滅んだといったバッドエンドはないということだ。

 ここで、一つ有名な話を持ち出してみる。

 ヘラクレスの十二の試練。

 勇者ヘラクレスに課された、十二もの怪物を討伐する物語。

 この中においても、母親なる大蛇は登場する。

 これについては大魚とも諸説あるが、母親としてのアーキタイプの怪物としては間違いない。

 ヘラクレスは、生け贄として捧げられそうになっていた王女ヘシオネを救うため、自ら怪物の中へと入り込む。

 ヘラクレスは、自身の鎌で怪物の下や内臓を次々に切り落とし、最後には腹を突き破って生還した。

 こういったエピソードは、神話の世界では多く見られる。

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 これが意味するは、『母親からの自立』。

 母親の保護下から脱出することを指す。

 自分としての存在を確立するために。

 自分自身として生きていくために。

 育ての親から離れて初めて、人は成長し、強くなる。

 

 これはきっかけに過ぎない。

 少女が自分として生きていくための、ただの過程でしかない。

 だからこそ、今この瞬間こそが。

 少女にとってのターニングポイントとなる。

 自分として生きていくために、越えるべき壁を越えたのだ。

 

 それが自分勝手に怒りをぶつけた、身勝手な勇者がもたらした結果であっても。

 


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