ご了承ください。
「はぁ、はぁ」
さて、状況を整理しよう。
帰宅途中の弱音は、石造りの橋の上に大の字で寝転がっていた。
正確には仰向けで息切れを起こしているという条件付きで、だ。
その為、背中からは石造りならではの凹凸ある感覚があり、空からは小ぶりとなった雨が顔面だけで無く全身を濡らしてくる。
詩人は雨を天然のシャワーとでも表現するだろうが、今の彼にとっては雨が肌を叩く感覚が鬱陶しくて仕方がなかった。
荒い呼吸を安定させようとして口を開けても、それを邪魔するかのように口に雨粒が入り込んでくる。
酸性雨や排気ガスが問題となっている今日、詳しくは知らないが、謎の化学式が出てきた時点で綺麗なものとは言えないだろう。世界最高水準の殺菌技術や安全を誇る水道水に対しても別途のろ過器を使ってやっと口に含むお国柄。弱音も潔癖症ではないが、安全が保証されていないものを口に入れるのは抵抗がある、菌に触れなさすぎて風邪を引きやすくなる現代っ子であったため、結局のところ口を閉じることにした。
だが大前提、雨の綺麗さや石造りの感触を楽しんでいる場合ではない。
そもそも弱音が寝転がっているのは立派な公道だ。彼一人だけが使っているものではなく、他の人も使う公共財である。それ以前にこの状態を第三者が見れば、不審な目で無様な姿を見られてしまう。
他者の目線が気になってしまう年代の男、弱音。
ここは早いうちに起き上がった方が良さそうだ。
弱音は上半身を起こす。
背中に張り付いた制服が不快感を煽るが、自然乾燥の効力に期待するしかない。
そして、その効力を期待する人間はもう一人いた。
彼のすぐ側に、両手両膝をつけて息を整えている少女。
長くて艶のある黒髪に、それを強調させるような白い肌。他校であろう白を主体とし、襟と前を止める部分が薄い青で構成されたセーラー服から伸びている手足は綺麗な筋肉の付き方をしており、全体の体型は華奢だが女性特有の病弱な印象はなかった。むしろスポーツ少女といった活発なイメージを抱かせるほどだ。
だがこの少女こそ、今の弱音の息切れを引き起こした張本人なのだ。
「はぁ、はぁ。なぁ、オイ。大丈夫か?」
「は、はい。な、なんとか・・・」
途切れ途切れの声で問いかける弱音に、同じく途切れた声で答える例の少女。
四つん這いの状態から少女は顔を上げる。
長い黒髪で隠れて見えなかったが、ここで初めて少女の顔が明らかになる。
優しい目つきをした穏やかな少女であった。少し目尻が下がった垂れ目に小さな唇。オドオドとした話し方からして、内向きの性格を表しているような感じさえするほどであった。
「返事できるってことは大丈夫そうだな・・・」
「あ、あなたは大丈夫ですか?」
「な、なんとかな・・・」
「と、とりあえず、ここから移動しましょうか。ここにいたら通行人の邪魔になりそうですし・・・」
どうやら周りの様子を見て行動できる子であるらしい。
その考えを汲んで、弱音は少女と一緒に橋を渡りきる。
この石造りの橋の下には比較的大きな川が流れているが、堤防のような坂のようになっており、その坂には緑が広がっており、近所の子供にとっては定番の四つ葉のクローバー探しスポットになっていた。
もちろん、坂の先はバリヤードが建てられており、子供の落下事故を防いでいる。
上から落ちない限り、川に触れることは不可能と言うことだ。
彼ら二人は橋を渡りきった後、少し坂を下って腰を下ろすことになった。
少し地面は湿っていたが、全身びしょ濡れとまではいないがある程度濡れている彼らにとっては気にならならなくなっていた。
彼女の提案に素直に従う弱音。隣り合って座る二人の姿は傍から見ればカップルを想起させるかもしれないが、彼ら二人の関係はあの橋がファーストコンタクトであり、二人の表情はどこかしら疲れているように見える。
さて、この完璧な対応によって何事もなかったかのような雰囲気となっているが、目の前のセーラー少女が事の発端であることを忘れてはならない。
これがなければ、弱音もこの湿気が高い空気の中、ただでさえ帰宅部で体力がない彼が意識的に呼吸を行わなければいけない事態にならなくて済んだのだ。
あまり乗り気はしないが、彼らしからぬあんな行動を起こしてしまったのだ。ここでハイさようならと後ろを向いて今日の出来事を無かったことにするのは、あまり社交的ではないと自分では思っている弱音にとっても気が引けることであった。
そう
橋から故意に足を滑らせ、雨で増水した危険極まる川に頭から飛び込もうとした少女を引っ張り上げたのだ。
空中に身を投げ出した少女の手を寸前のところで掴んだ弱音は、橋から弱音が手を掴んだ状態で宙ぶらりんとなった彼女を、自らの足腰のみで引っ張り上げたのだ。
細身ではないが決して筋肉質とは言えない体で持ち上げられるかどうか掴んだ時点で心配になった弱音だったが、その心配は杞憂だった。
本人には失礼だろうが、そこそこ重量を感じられた。筋肉は脂肪よりも重いことは有名な話だが、その点で考えれば、見た目に寄らず助けた少女はスポーツ少女らしい。
いくら女性であっても、人一人の体重を丸投げされたのだ。彼自信、引っ張り上げる最中腕がちぎれるかもと冗談無く思った。
だが、結果はこうだ。
胸に手を当て呼吸を頑張って整えようとするほどだったが、ご覧の通り橋の上でピンピンしていた。
「ま、まずは感謝を。助けて頂きありがとうございました」
ご丁寧な言葉遣いで、隣の弱音に感謝の意を表す例の少女。
ここは素直に受け取るべきなのだろうが、弱音は彼女の言葉に違和感を感じた。
「ちょっと待ってくれ、何かおかしくないか?ええっと・・・」
「は、はい!日野。日野咲と申します」
「日野さん、か。醒ヶ井弱音だ」
なんとも簡易的な自己紹介を行う二人。
川へ落ちかけた後、手をとって助け出した流れでの自己紹介。なんともシュールな光景だった。
正直言って弱音にとって目の前の初対面の少女の名前などどうでも良い事柄なのだが、ここから話を繋げていくための通過儀式とでも割り切ることにした。ここでいちいち気にしていても始まらない。
基本的に弱音は、他人事に関して深く追求しない。
友人関係を張り巡らしていく過程にて、彼は最小限の関わりしか持とうとしない。
休み時間に話すぐらいの関係。教科書を忘れてた、課題の答えが分からないといった困ったときにお互い助けるぐらいの関係。つまり学校という限られた小さな箱庭で生きていくために、彼なりに必要だと思うぐらいの関係性しか持たないということだ。
友人とは、どこまで行っても他人でしかない。血がつながった両親や兄弟ではない。特別という冠をつけるには、親友や恋人という位までランクアップさせなければならない。このランクアップの必要条件とは人による感性が大きいとは思うが、最低限として他とは深い関係性であることは断言できる。この深さこそ人それぞれだろうが、この深さとは他人の心理への浸食度だ。
人間、いい面も悪い面もある。
光があれば影ができるように、人間として生命維持をしているのなら当然として持ち合わせている人間らしい側面。この心理におけるパーソナルスペースへの侵入こそ、特別な関係へ至るための方法とも言えるだろう。そんな風に考える弱音にとっては、この特別な関係とやらは自分自身へのデメリットの部分の方が大きいと感じてしまうのだ。
深く踏み入るとは、その分関係にヒビが入る可能性があるということ。その癖、一度切れていしまえば修復困難かつこの一本道に専念しなければ簡単に崩れてしまうきたものだ。
人間関係とは利害の一致である側面が大きい。
過去の自らの失態とそれに対する評価にてそう結論づける弱音にとっては、この一本道のみならず、先が不透明な道は作ろうとは思わない。
よって、弱音は今後関わらないであろう人間とは積極的に関係を持とうとしないのだ。
そのため、周りの環境がどうであろうと、初対面の人間に話しかけるような人間ではないのだ。
道端で困っているような人へ、利益さえなければ手を差し伸べようとは思わない、そんな人間であった。
だからこそ、彼の行動に一番驚いているのは彼自身だった。
何故、あのとき手をとったのか?
何故、見ず知らずの少女を助けようとしたのか?
そんな答えが出なさそうな問いを頭の中で回しながらも、成り行きとして彼女に話しかける。
「初対面で悪いが、いくつか質問させてくれ」
「は、はい」
「何故、お前は俺に助けてもらってありがとうなんて言ったんだ?」
「え、えっと。それは、川に落ちそうなところを助けて頂いたので当然ではないですか」
「いや、そういうことを言ってるんじゃない。だったら聞き方を変えよう」
彼自身、特定の個人に深入りすることはほぼ無い。
彼が望むのは、彼にとって最適な環境全体であり、構成する一部一部ではない。
全体さえ良ければ、ある一部分は切り捨ててしまえる、そう自覚している人間だ。
だから、自分に利益が発生しなければ助けの手など差し伸べない、そんな冷酷な人間だと自覚しているつもりだ。
では何故目の前の少女を切り捨てないのか?
見ず知らずの人間です、と反対を向いて知らんぷりできてしまう、その程度の関係性。
この少女がどうなろうが、彼にとってはメリットもデメリットもない。
では何故、自分は今もここにいる?
今日の担任の言葉が頭をよぎる。
自分の守りたいものを見つけなさい、と言ったか。
フラットな見方しかできない弱音に、人に対する好き嫌いの感情は薄い。
容姿も性格も、各個人を構成する付加情報、付加価値でしかない。それ以上でもそれ以下でも無い。
隣に座る少女も、社会的に好まれる容姿であるのかもしれないが、彼の心に刺さることはない。
よって、彼女に特別な感情を抱いた訳ではない。庇護欲が刺激されてた訳ではない。
では、走り出した時のあの緊迫した衝動は何だったんだろうか?
自分にとって守りたいもの
そんなものあるはずがない。自分自身を偽りの姿で保つのに精一杯だ。
担任は言った。守りたいものが傷つきそうになった時は自然と行動しているものだ、と。
ではどこに自分の守りたいものはある?
まるで蜃気楼に写った自分を掴もうとする感覚。
目に見えて手の届く距離にあるのに、伸ばしても掴めない。
分かりそうで分からない、もどかしい感覚。
彼にとって一生分からなくてもいいのかも知れない。
知らなくても生きていける、その程度のものでしかないのかもしてない。
しかし
ただ漠然と
この正体をはっきりさせたいという、彼らしくない欲求が彼を襲うのだ。
たかがクラスの担任に言われた言葉によって作られた催眠のような仮初めの感情だろう。
しかし、そう割り切ろうとしても、胸のざわめきが主張をやめない。
ならば、除去するしかない。
この原因不明の衝動を。
その衝動の正体を、少女を通して解明してやる。
これは無意味な寄り道である。自分にとってメリットになるかも不明だ。
全ては自分の行動に意味あるものに変えられるかの問題だ。
よって踏み込むこととしよう。見ず知らずの少女のバックストーリーに。
その第一歩として、少女の行動の矛盾点を突くとしよう。
文体としてはこうだ。
「何故お前は飛び込み自殺をしようとして、それを阻害した人間にありがとうなんて言ったんだ?」
いくら橋といえども、下に流れる川に落下することはまずあり得ない。
橋の側面に人間の身長程度のバリケードがないとはいえ、成人の腰ぐらいまでの手すりはどの橋でも突いているはずだ。間違っても足を滑らして落下、とはならないはずだ。それこそ、自分から足をかけて乗り越えようとしない限りは。
それに加え、天気は雨。
それなりの量の雨が降れば、川の水量が増えて荒れることは明確だ。弱音が座っているところからでもどれだけ川が地面の泥を巻き込んで暴れているかなど把握できる。
こんなところに身を投げ出すならば、命の保証はできない。
それがわからないということは、話し方からしてこの少女に関しては決して無いだろう。
ならば、答えは一つとなる。
「あはは・・・。やっぱりそうなりますよね・・・」
咲は隠していたものが見つかったように、後頭部をかく。
自殺しようとしたことを暗に肯定している台詞だが、自殺を指摘された後ろめたさよりも、見られてしまったという恥の方が強いように感じる。
「確かに私は川に飛び込んで死んでしまおうと思っていました。でもそれだけではないんです」
「他に何があるんだ?」
「私を引っ張り上げるときに何か不思議なこと、起こりませんでした?」
横目で意味ありげに問いかけてくる咲。
弱音は顎に手を当てて考えてみる。
ただ弱音は、咲に聞かれた時点で該当することが一つあった。
どれだけ痩せていようと、健康的な女子高生の体重は50後半から60前半。
数字だけ見れば、いくら筋肉が発達する高校生でも一人で持ち上げることは難しい。
小、中と運動していたがそれっきり特別なトレーニングなど積んでいない弱音ならなおさらだ。
しかし、結果としては持ち上げることができた。
総合的に見て不可能だ。
それが可能になった原因は
「察する限り、私の体が突然軽くなったといった感じでしょうか?」
弱音が口にする前に、咲はあらかじめ分かっていたかのように答えを示す。
その通りだった。
彼が引き上げようとした途端、まるで無駄な荷物を下ろしたかのように重みが消えたのだ。
咲が身を投げ出したとき、彼女は何も身につけていなかった。よって本当の意味で荷物を脱ぎ捨てたことはまずない。かといってその時だけ体重が減少するような構想を人間はしていない。
理解不能で不可解な出来事。そう結論づけるしかできない。
「やはり今回もそうでしたか」
「今回も?」
「はい、今回に似たようなことは何度も起こっているのです」
そういって咲は手に持っていたリュックサックに手を伸ばす。
少しファッションを意識した、実際に使うには小さくないかといいたくなるような小さなリュックサックから、これもまた女子高生しか使えなさそうなカラフルな筆箱を取り出す。
そこからまたチャックを開け、お目当てのものを取り出す。
筆箱から出てきた咲の手に握られていたのは、カッターナイフ。
近所のスーパーで売ってそうなごく普通の市販品。使い込まれた形跡はあまりなく、刃も見る限り錆びも刃こぼれしている様子はなく、新品同様だった。
すると咲は、カッターを握っていない方の腕を前に真っ直ぐ伸ばす。
突然の行動に眉をひそめる弱音などお構いなしに、咲は親指を上へスライドしてカッターの刃を出す。
この後の咲の行動を察したのか、ギョッとした表情でカッターを取り上げようと弱音は手を伸ばした。
だが、ワンテンポ遅かった。
彼が静止の言葉を書ける前に、咲は自らの左腕に迷い無く右手を振り下ろした。
カッターナイフが握られた右手を。
咲の悲鳴が閑静な住宅街を駆け回る。
それを誇張するかのように鮮血があふれ出る。
そんな未来が予測できた弱音は思わず逃げるように目をつぶった。
だが、そのような鋭い声が弱音の耳を叩くことはなかった。
ガキンッと
その代わりに、小さな金属音が彼の耳に届いた。
恐る恐る目を開けると、腕と胴体がきちんとつながった、健康体の咲の姿があった。
彼女の腕に傷など無く、血は一滴も流れていなかった。
それを裏付けるように、弱音の足下には中途半端なところで折れたカッターナイフの刃が転がっていた。
弱音は咄嗟の出来事に愕然としながらも、驚きを口に出さざるを得なかった。
「カッターが、折れた・・・?」
「う、うん。そういうことになるかな」
人間の皮膚はタンパク質でできている。
保水性に秀でているが、熱に弱い。
そして、刃物による切り裂きにも。
鋭利な刃物を皮膚になぞらせれば、下に潜む血管が破れ、出血する。
人間として当たり前のことであり、誰もが生きていくにあたって必要な共通認識。
この概念に則るのならば、皮膚が刃物をはじくことなどあり得ない。
非日常で非現実的。
自らの認識を根本から否定する出来事が、目の前で起こっているのだ。
「似たようなことは以前にも起こっているんです」
繰り返すように、不可解な現象を強調する咲。だが言葉の内容に反して彼女の声色は困惑の色であった。
「似たようなこと?同じ事ではなく?」
「は、はい。全く同じとは言えないのですが、あり得ないという点では一緒だと思います」
「具体的には?」
弱音は少し彼女の方に身を乗り出して追求する。
何故ここまでこの少女にこだわるのか、という疑問が湧いてきたがそれは後回しだ。
やがてポツリ、ポツリと。
咲は語り始める。
「そう、ですね・・・。先ほどのように自分の体に刃物を突き立てようとしたら刃物の方が折れた。、高いところから飛び降りようとしたら、地面に激突する直前に急ブレーキがかかったようにふわりと体が浮いた。と、いったところでしょうか」
「・・・・・・」
「つまり、私が死にたいと思って自傷行為に走ったとき、そのときに限って私の体は傷つかなくなるのです。普段の生活、道端で転んだときは膝をすりむいて出血しますし、料理中に謝って包丁を滑らせたときも、皮膚に触れただけで折れることはな無かったのです」
「それは・・・」
嘘だろう、と言いかけた弱音は慌てて口を紡ぐ。
にわかに信じられないことの数々だが、飲み込むしかない。
人間は自らの目で実際に見たことしか信じない。
ある誰かが幽霊を見たといっても、相手が実際に現場へ赴いて発言者と同じ体験をしないと信じないことと同じだ。
であれば
このルールに従うのならば、弱音は咲の荒唐無稽な話を信じるしかない。
なぜなら、弱音は自分の目で見て、自分の肌で感じたのだ。
『現実』ではあり得ない、『非現実』を。
「待ってくれ、じゃあお前は自分は死なないだろうと分かった上で川に飛び込もうとしたのか?」
「確証はなかったのですが、まあそうなるだとうと・・・」
「確証はなかったって・・・いくら何でも無責任すぎないか?」
「そうですね・・・。すみません・・・」
弱音の言葉に罪悪感を感じたのか、咲はうつむいて謝罪の言葉を口にする。
この謝罪は弱音に向けてではなく、自分自身に向けて放つ言葉であるべきだが、弱音には彼女の言葉はただの形式上の決まり切ったコマンドのような薄っぺらな印象を抱いた。
「きっかけは些細なことだったんです」
弱音が聞いたのは、何故川に飛び込もうとしたのかという点。
言い換えれば、何故自殺しようとしたということにもなる。
一番最初の問いに答えるべく、なんでもないことを話すような軽い口調で吐露する。
「私の所属する部活動は、全国とはいかないものの毎年県大会の上位に食い込む強豪校なんです。日々の練習は辛かったですがそのおかげもあってレギュラーに抜擢されたんです」
そう語る彼女の顔は、昔を懐かしむような表情をしていた。
「私自身、そのチームに入りたくて入学したようなものでしたからレギュラーになれたときは今までの努力が報われたような気がしてとても嬉しかったんです。他の同級生ともレギュラー争いで時々険悪な関係になったりはしたんですけど、それらを通してライバルのような、そして一番の味方のような友達を作ることができて自分で言うのは恥ずかしいんですが、とても充実した学校生活を送ることができていたんです」
彼女が想起する学校話はなんとも青春溢れたキラキラストーリーか。
己の目標にひたむきに進む姿、切磋琢磨する仲間、そして報われる努力。
実にありきたりで、誰もが尊きものとして賞賛するであろうサクセスストーリー。
だが、忘れてはならない。
そんな順風満帆の青春テンプレートを歩いていた少女が、今や橋から身を投げ出そうとしていたのだ。
山があれば谷がある。
それこそ上り坂があれば下り坂があるように。
彼女の話の先は考えるまでもなく悪い方向に向かっていくことは、彼女の今の姿が示していた。
「私の不注意でした」
この部分だけ、彼女の声色は後悔するような色が含まれいた。
「練習の前のストレッチを怠ったのが原因だったのでしょう。大会が迫っていて少し焦りが出ていたのかも知れません。連日の疲れを感じつつも練習したいという気持ちが先走ってしまって。そして・・・」
「大会に出場できないほどの、怪我をしてしまった」
「・・・ドリブルで相手陣地に切り込もうとスピードを上げたときでした。突然、右足をから破裂音が聞こえ、直後強烈な痛みが襲ってきて、立てなくなって倒れ込んでしまったんです。その後、救急搬送されて・・・」
pop音
人体における破裂音を指す言葉。
この表現が使われる怪我は一つしか無い。
「病院で診察してもらったいけない結果、アキレス腱断裂と診断され、アキレス腱と骨をつなぐ手術と固定するためのギブスの着用、そして過度な運動をしてはいけないと言われたのです」
努力した末の突然の挫折。
自らが積み上げた功績が、時間が、経験が、一度にして目の前で無に帰ってしまう瞬間。
果たして、これで心折れない人間が何人いるだろうが。
その失敗を糧に這い上がる者、自らの汚点を拭いきれない者。
弱音の隣にいる少女は後者だった。
自らの足、自らの行いによっては防げたかもしれない怪我を負った右足をさすりながら
「せっかくレギュラーになったのに。一度の、たった一度のミスがこれまでの道のりを台無しにしてしまった感覚になって、そんな自分自身が情けなくなってしまったんです。こんな自分を見せたくなくて、怪我が治った後も部活に参加できなくなってしまい、それを繰り返していくうちに自分の居場所がなくなっていくような気がして・・・」
「自殺を図った、と」
「死ぬ気なんてさらさら無かったんです。『こんな自分消えてしまえばいいのに』といった、軽い願望みたいなものだったんです。自らを罰するような感覚でリストカットをしようとした。そして、自分の肌がカッターをはじいたんです。それからです、あんな現象が起こるようになったのは」
「・・・・・・」
「・・・怖いんです。自分が人間ではなくなったかのような感じがして。いつか他の人に迷惑をかけてしまうような力が働いてしまうかもしれないと思うと怖くて怖くてどうしようもないんです」
人間は、未知に対して恐怖を抱く。
普遍的な人間とはかけ離れた自分。理解不能の自らの認知の外側にある謎の力。
それを怖がるな、というのは無茶な注文だ。
恐怖の対象が一番身近な存在、自分である。
休み暇も無く、何が起こるかわからないという恐怖に怯えて生活しなければならない。
こんな生活など心が擦り切れる一方だ。
死にたいという気持ち。
これが謎の力のトリガー。
死ぬつもりはなかった。
でも死にたいって思うほど苦しんでいた。
彼女の場合、一番のやりがいであり、心のよりどころであった部活動が突然無くなったことによる喪失感によるものだろう。
一つのことにこだわり、熱中し、努力する人ほど、それが失敗したときのフィードバックが大きい。
自分を自分たらしめるもの、その紛失。それに対する虚無感や失ったことに対する自己嫌悪。
これが、自分へと向いたことが彼女の自殺につながったのだろう。
リストカットは自傷行為の代表例だが、『自らを傷つけることで自己嫌悪や罪悪感を解消する』といった精神安定剤といった側面を含んでいる場合がある。
今回の初期衝動もこれに似たように推測される。
さて、ここまで弱音が、理解できたとしよう。
しかし、分かったところで弱音に何ができる?
そもそも、彼の理解自体が間違っているかもしれない。咲の話した内容が全て真実ではないかもしれない。何か別の感情を隠しているのかもしれない。
人の感情は、その人にしか分からない。
ましてや弱音はスクールカウンセラーでも、精神科の先生でもない。
専門知識も無ければ、対処したという経験もない。
どう、対応すればいいのか分からないのだ。
「・・・お前はどうしたいんだ?」
聞くだけ無駄だろう質問を咲に投げかける。
彼にできることは彼女の要求を聞いてあげることぐらいだ。
ここでいくら励ましの声をかけても、人生経験など薄っぺらな人間の説教をかまそうが何も好転しないことは明白だ。無駄なことはしない。人間の情緒が少し足りないが、彼らしい合理的な考えだった。
だが、その欲求を叶えてやれるかどうかと言う点は別問題である。
結局、彼がやっていることは彼女の目的を明白にだけで、根本的な解決には何もつながっていない。
弱音はそう自覚しながらも、聞かざるを得なかった。
「私は・・・」
咲は答えがない問題を解くかのように、口をどう動かすか迷いながらも、一言一言ゆっくりと言葉にしていく。
「・・・私自身、どうしたいかなんて分からないんです。何をどうすればいいかなんて分らないです。ただ、今はこの謎の力をどうにかしたい。誰かの迷惑になるかもしれないという恐怖から逃れたい、それが一番の願いです」
人間の感情による問題は、最適解と言える模範解答など存在しない。
人それぞれ感性や主義、過去や生い立ちが違うから当たり前だ。
多様性という言葉で片付けられればよいが、この中身は善の側面だけがあるわけではない。
不鮮明で不確定。そんなクルリクルリと姿を変える感情に理解が及ばず、自らが生み出した者に翻弄されて、命を絶とうとする人間もいる。
そうならないために、彼らは一つのはっきりとした答えを勝手に作り出す。
その枠組みにはまるように自らの感情をコントールして、自分なりの解釈をするものだ。
この整理する段階はちょうど青年期と言われている。よってこの作業は、大人になるための第一歩とも捉えられるかもしれない。
だがその点において、隣でうつむく少女は子供だ。
それを自覚しながらも、必死になって自分なりの解答を探す。彼女はその段階にいる。
自分の感情をコントロールするということは、自分の内面を見ることだ。
決して楽なものではなく、自分の認めたくない部分を目の前に突きつけられる苦痛を味わうことを意味しているといってもいい。
彼女は自分の内なる存在と、外面としての日野咲という姿の在り方の狭間に立たされ苦しんでいるのだ。
冷たい風が、膝に顔を埋める咲の頬をなでる。
それでも、長い髪の毛が風にそって靡くだけで、彼女が今どんな表情をしているのかは隠れたままだった。
だが、それよりも気になるものがあった。
風で靡いた髪の毛の下、正確には彼女のこめかみの部分。
そこに何かがひっついていた。
大きさは少々派手なヘアピンに近いだろう。
だがヘアピンにはほど遠い、厚みを含んだ無骨なシルエットをしていた。
何本か光の線が入っており、その行く先には超小型LEDが動作を正常に行っているように一定間隔で点滅していた。
「これは・・・」
「ああ、これですか・・・」
弱音の視線に気づいたのか、咲は髪をかきあげその正体を露わにする。
「ETCMという機械です。搬送先の病院で研究のためにつけて頂きたいといわれて装着しているんです」
ETCMというワードに、今日の担任の顔を思い浮かべながら
「ETCMって確か、頭の中で想像したものを読み取って実際に作れるように設計図を書き出す装置ような気がするけど、そんなものなんでつけているんだ?」
「先生方のお話によると、ETCMはそういった人間の思考データとは他に、人間の筋肉や内臓の動きを電子信号を通して観測するという側面も持っているみたいなんです。それで筋肉が治っていくプロセスを電気信号という観点から見たいということで装着しているんです」
「・・・なんか、胡散臭い話だな」
彼女の言葉を聞いて、弱音は何らかのとっかかりを覚え、眉をひそめる。
「どういうことですか?」
「いや、ETCMってニュースで散々騒いでいるアレだろ?そんなに有名になりつつある機械が一般人に使っていいのかって思っただけだ。臨床試験だのデータ収集だのいいながら、何も知らない素人に使っても問題ないのか。それこそあの不思議な現象だってそのETCMのせいなのかもs
「おや、私以外にも答えに辿り着いた子がいたのはびっくりだな!」
突然の声で弱音の話が遮断されてしまった。
声がした道路沿いの方を見てみると、そこに声の主がいた。
いつの間にか話していくうちに雨雲が去ったのか、分厚い雲の間から日が差し込むようになっており、ちょうど逆光になるところで胸を張って立っていた。
光の関係で顔や服装は分らないが、腰に手を当て仁王立ちしている時点で普通ではないとは思えるほどの、いわゆる不審者であった。
「ふむ、見る限り知らない顔ということはほんとのほんとに一般人みたいだね。まあいいや、とりあえずお目当ての人は見つけれたのだし。それでもやっぱり予想外の展開というのはあるものとはよく言ったものだ。いやー、やっぱり何かを学ぶには足を運ぶのが一番だね」
話しかけてなお、弱音達二人に関係なく納得したかのように独り言を話す謎の男、もしくは女。
謎は謎を呼ぶ
推理小説でありがちなパターンだが、どうやらこれは現実でもありえるらしい。