第22話 ガーブ・オブ・ロード、進化
理事会の、次の日の放課後。
生徒会室から出てきた愛理を、呼び止めた男子生徒がいた。
「あ、多岐川先輩。どうしました?」
「うん。会議が終わって早々で申し訳ないんだけど、ちょっと音楽室まで付き合ってくれないかな? トランペットのソロパートのチェックをしてほしいんだ。そんなに時間は取らせないから」
「いいですよ。行きます」
「ちょっと待って!」
歩き出そうとした愛理を、文明が止めた。
「僕も、一緒に行っていい? トランペット、ちょっと聞いてみたい」
「え? ああ、そういえば天宮君も軽音楽部ですものね。いいですか、先輩?」
「……いいよ。一緒に来てもらおう。折角だから、聞いてもらおうか」
キチンと刈りこんだ頭を擦りながら、多岐川はじろっと文明を見た。
そして三人は、第三校舎へと向かう。
「珍しいですね。天宮くんが歩きスマホするなんて」
「うん。本当はよくないんだけど、ちょっと急ぎの用件があるから。すぐ終わらせる」
そんな二人の会話を背中で聞きながら、多岐川は足を進める。
そして、彼らは〈音楽室〉と表札が出ている部屋まで着いた。
多岐川が扉をガラリと開けて入った音楽室。その中は、ほとんど何も置かれていない。折り畳み式の小さいテーブル付きの椅子が、積み重ねられて壁際に集められている。黒板の前には指揮台があり、反対側の壁には棚があって、小さな楽器がいくつか置かれている。
二人を中に招き入れると、多岐川は扉をキチンと閉め、そして内側から鍵をかけた。
「!? 多岐川さんでしたっけ。どうして、鍵をかける必要があるんですか!?」
「……君も、ノコノついてこなければ、死なずにすんだものをな」
冷たい表情で、多岐川が振り返った、その時だった。
ゴロン、と床に何かが落ちる音がした。
ハッとして、文明がそちらを見た。
ソフトボール大の容器が床にゆっくりと転がされてきた。部屋の真ん中で止まり、数秒静止した後、真ん中から二つに割れた。白い煙が、急激に広がり始める。
「間庭さん! 煙を吸っちゃダメだ!」
「何だこれは!?」
文明と、多岐川がほぼ同時に叫んだ。
だが。
煙が、完全に動きを止めた。広がるどころか、揺らめきすらしない。
次の瞬間、煙がスッと消滅した。
(麻酔薬が消えた!? どういうことだ)
椅子の陰で、ガスマスクをつけて様子を伺っていた笠間は、予想しない事態に驚いた。
「部屋の中に、誰かいるな!? 出てこい!」
文明が叫んでいる。
(そうだよな。部屋の奥から、今のを投げたのはバレバレだからな。こうなれば、強行策しかない!)
笠間はガスマスクをむしり取ると、〈クリスタル・チャイルド〉を出して、椅子の陰から飛び出した。
「笠間! やっぱりお前か」
「え、笠間さん!? どうしてここに」
文明と愛理が、同時に叫んだ。
委細構わず、〈クリスタル・チャイルド〉の鎌の切っ先を、愛理の傍にいた多岐川に向けた。いきなり、その切っ先が螺旋状に伸び、襲い掛かっていく。
「させるか!!」
先端の伸びていく先に、〈ガーブ・オブ・ロード〉が出現した。文明自身も、多岐川を守るべくその前に立ち塞がる。
スタンドの両腕から布が伸び、切っ先を迎え撃つ。
切っ先と、布が触れ合った瞬間。
ガシュッ! という音が発せられたかのように、双方が絡みついた。
「何だと!?」
笠間は、仰天した。
切っ先が、文明のすぐ目の前で布に絡まれ、完全に止められていた。スタンドの両腕から伸びた布が、真横に引き絞られていた。
文明の両腕から、ポタリ、ポタリ、と、鮮血が袖から流れ出ている。苦痛に歯を軋らせながら、鋭い眼光が笠間を捉えていた。
(イカれてるのか、こいつ!? 止め損なったら、確実に死んでたぞ!)
様々な敵と遭遇してきた笠間が、言いようのない怖気を感じていた。
ガコン……!
〈ガーブ・オブ・ロード〉の、布が伸びている手首。そこが、変化した。両手首それぞれを切り落とすように、半円状の板が出現していた。その直径は、顔程度の大きさ。どちらの半円も、その中心からわずかに伸びた細い軸で、手首とつながっていた。。
「な……何? どうなってるの?」
青ざめていた愛理が、言葉を漏らした。
傍にいた多岐川が、横に飛びのいた。
次の瞬間、音楽室に、ベートーベン〈運命〉の有名なフレーズが、実際の音となって轟いた。
「ぐあッ!」
「あうッ!」
動きの止まっていた二人を、突然、全身が激しく揺すぶられるような衝撃が襲った。内臓を、容赦なく痛めつける。
たまらず、両者ともスタンドが消えてしまい、床に片膝をついた。
「揃ってマヌケな姿だよな。そんなんじゃ、俺の〈オーケストラ・ジ・アース〉の餌食になるだけだ」
冷たい視線を、二人に送る多岐川。
二人がそちらを見ると、多岐川の前に、両腕を真横に広げたくらいの長さの舞台が出現していた。
反射板を背にし、板の間の上に、手のひらサイズのスタンドが多数整列していた。手に手に、金管楽器に木管楽器、打楽器などを持っている。
そして、そのすぐ前に、倒れ伏している愛理がいた。
「間庭さん!?」
「何てことしやがる、このバカ!!」
笠間が、眼前の文明を怒鳴りつけた。
「彼女を狙ってるのはアイツだ! 俺は、アイツをやっつけるつもりだったんだ! 割り込んできやがって、この大バカが!!」
「え? ……僕らを毒殺しようとした癖に、何言ってるんだ!」
「あれは、ただの麻酔薬だ! お前、早トチリが多いってよく注意されるだろ絶対! 観察力が足りない証拠だ、この特上バカ!!」
「う、うるさいな! ついでにバカバカ連呼するな!」
愛理は、そんな騒ぎをよそに、無意識にポケットの中の守り袋に指を指しこみ、中身に触れていた。
文明から渡されたロケット。それを彼女は、不安に感じた時には触る癖がついていた。
(一体これはどういうこと……? ひいおじい様、あたしを、守って……)
そう思った時、いつもと違う感触があった。
(痛っ……!?)
ロケットが開き、中から出てきたものが、彼女の指を傷つけていた。
それがまるで合図となったかのように、彼女の意識は途切れた。
「バカだからバカっつってるだけだ! このトンチキが」
笠間がまだ文明に怒鳴っている間に、〈クリスタル・チャイルド〉が素早く動いた。床に這わされていた紐が、グッと引っ張られた。文明との怒鳴り合いは、多岐川の気を逸らすためのフェイクだった。
先ほどまで笠間がいた椅子の陰から、何かが多岐川目掛けて飛んだ。
「!」
多岐川の頭上で、それは弾けて広がった。小型の網が、多岐川にふわりと被さる。
(愛理を巻き込むから、毒も銃も爆弾も使えねー。本体の動きを一瞬封じる手立てがやっとだ!)
間髪入れず、〈クリスタル・チャイルド〉の鎌の螺旋が多岐川を襲った。
反射板の一部が、次々と分離した。面を斜めにして空中に並ぶ。
切っ先が、反射板の一枚に当たる。止めきれないが、方向が微妙に横ズレした。何枚も反射板を弾いている間に、切っ先の方向がどんどんズレていく。
わずかに避けた多岐川のすぐ横を、切っ先が通過して黒板に穴を開けた。冷めた目つきで、多岐川が網から抜け出すと、横合いに放り出した。
「甘いな。この〈オーケストラ・ジ・アース〉に、遠距離からの攻撃は効かない」
「なら接近戦だ!」
笠間の姿が掻き消え、その場に倒れたままの愛理が出現した。
今まで愛理がいた場所に、笠間が現れた。すぐ目の前に、多岐川がいる。
笠間の傍らにいた〈クリスタル・チャイルド〉の鎌が、多岐川の首を切り裂くべく、横へと引きつけられた。
が、その動きが止まった。引き付けられたまま、鎌が動かない。
鎌の切っ先を、何枚も重なった反射板が遮っていた。
「ぐ……」
「突くにしろ、斬るにしろ、強烈な攻撃には『引き付ける』動作が必要になる。引き付けきったところで動きを封じれば問題はないってことだ。そして、この反射板は自動防御だ」
冷静に、多岐川が述べた。
スタンドの楽団が、左右に分かれて舞台を降り、笠間を取り巻くように半円状に散開する。笠間が慌てて飛びのくが、すでに遅かった。
「オッフェンバック〈天国と地獄〉」
ぽつりと、多岐川が呟いた。
演奏が、始まった。速いテンポで、金管楽器が一斉に吹き鳴らされ、打楽器が連打される。
金管楽器の音色が見えない拳と化し、打楽器の連打は衝撃波と化した。その全てが、笠間一人に襲い掛かる。
「かはっ……!」
たまらず、笠間がもんどりうって倒れた。
「他愛無いな。次はそこの眼鏡、お前だ」
演奏を中断した多岐川がそう言いかけた時、扉がガタガタと揺さぶられた。
多岐川が、はっとしてそちらを見る。外から、声もしてきた。
「鍵がかかってやがる! ブチ破るぞ」
「私がやるわ!」
ドンッ!
扉の鍵のところが、外側から破壊された。開いた穴から、槍の穂先が突き出されており、すぐに引っこんだ。
扉が、勢いよく開かれた。
飛び込んできたスタンドを見て、笠間が呻いた。
「あ、明日見……!?」
「助けに来たわよ! 〈パラディンズ・シャイン〉登場! ってね?」
ニコッ、と笑う、制服姿の明日見。傍らに佇む、槍と翼を持つ天使の姿をとったスタンド。
それを見た文明の目が、彼女に吸い寄せられた。
(かっ……かわいい! こんな時だってのに……どストライク……!)
「えーっ!? 何で愛理さんが倒れてんの!? 彼女を守るんじゃなかったの!? ホント、イザって時に頼りにならないんだから!」
「うっせ……これからだよこれから……」
そう言いつつも、笠間は気を失ってしまった。
「あーあもう! ここからは私がやるから」
「待てよ。女の子ちゃん」
明日見の後ろから出てきたのは、京次だった。すでに〈ブロンズ・マーベリック〉を身にまとっている。
「俺に任せろや。あいつをブッ飛ばせばいいんだろ?」
「あらそう? じゃ、お手並み拝見ね」
あっさりと引き下がる明日見。
「舐められたもんだな。それとも、スタンドの数が増えて、窮地に陥ったというべきか?」
「あぁ、俺一人で充分だから心配すんなって。行くぜ!」
「……ドヴォルザーク〈新世界より〉」
バイオリンやチェロの低い旋律が、京次と明日見に向けられた。
途端に京次の足が止まる。
「どうしたの!? 行くんじゃなかったの」
「足が進まねぇんだよ! 見えねぇ糸で遮られてるみてぇだ」
「何よそれ……え!?」
自分が行こうとした明日見も、一、二歩進んだところで止まってしまう。
旋律に金管楽器が加わり、京次も明日見も、両腕ごと胴を縛られる感覚に襲われた。続いて、全ての楽器による重低音。ドンッ! と全身に叩きつけられる圧力に、二人は床に倒れこんだ。
「女の子ちゃん! 槍使え! 俺は身動きできなきゃどうしようもねぇ!」
「……〈パラディンズ・シャイン〉!」
明日見の傍にいた天使姿のスタンドの槍が、グンと伸びた。槍の柄が途中で何か所も分裂し、その間を銀色の鎖がつないでいる。
が、その穂先も、反射板が何枚も行く手を遮り、跳ね返されてしまう。
微かに、多岐川が口元に笑みを浮かべた。
その笑顔が、凍り付いた。
腕に、布が伸びて巻き付いていた。宙に浮く反射板の間を、布がすり抜けている。
「隙あり!」
文明が、ぐんっと腕を振った。
引っ張られた多岐川の体が、前方に引き倒されて、床に叩きつけられた。演奏が中断される。
「僕のことを忘れてるんじゃないか!? まだ、僕は負けたわけじゃない!」
少しよろけながら、文明が立ち上がる。
京次は、ニヤリと笑った。
「へっ、やる気満々じゃねぇか。任せたぜ。俺は、楽団の効果がまだ続いてるらしくて、動けねぇんだ」
「まともに動けるのは僕だけか……。間庭さんを死なせないためには、ここで僕が勝つしかないってことか」
多岐川が、片腕を布に掴まれたまま立ち上がってきた。
「負けられん……! 俺は、間庭愛理をしとめないといけないんだ……!」
「どうして!? あなたの部活の後輩だろう!?」
「……俺の親父は、副理事長の秘書なんだ」
多岐川が、絞り出すようにそう口にした。
「親父は、お袋と離婚してから、男手一つで俺を育ててくれた。失業してた親父を拾ってくれて、秘書にしてくれたのは副理事長だ。今、親父とお袋の復縁話が決まりかけてる。家族一緒に、もう一度暮らすんだ……!」
「そのために、間庭さんは死んでもいいっていうのか? スタンドで人殺しして、家族が幸せになれるっていうのか? 僕には認められない!」
「お前らに何が分かる!! 俺にとっては、家族が全てだ!!」
ギッと、多岐川は文明を睨みつけた。
「そんなこと、もういいじゃねぇか」
鬱陶しそうに、京次が遮った。
「俺のお袋はもう亡くなってるけどよ。そんなことを、戦いの理由にゃしねぇ。もっとよぉ、純粋に戦いを楽しめや。勝った方が、ワガママを通す。それでいいんだよ!」
「どうも共感できない部分があるけど……君らしいな」
文明は、多岐川の腕から布を外した。
そして、両者が、正面切って対峙する。楽団が、多岐川の眼前の舞台に集合した。
「……どの曲で殺されたい? なるべく、リクエストに答えるが」
「さっきの〈運命〉でいいよ。僕はクラシックに疎いし、僕にあなたの攻撃が効くのは分かってるだろう?」
「俺の反射板も、お前には通用しない、か。お互い、攻撃はガードできない。公平と言えば公平だな」
二人が、じっと睨み合う。
一瞬で、勝負が決まる。二人の間に高まる緊迫感に、全員が呼吸すら遠慮していた。
「ベートーベン〈運命〉ッ!!」
「〈ガーブ・オブ・ロード〉ッ!!」
両手首からの布が、多岐川に伸びる。
衝撃波が、文明に飛んだ。
バッ! と、二本の布の先端が衝撃波で弾かれて左右に分かれる。
そして、衝撃波が〈ガーブ・オブ・ロード〉に叩きつけられた。
「ぐうッ!」
しかし、文明は耐える。崩れそうになる足を、必死で踏みとどまる。
〈ガーブ・オブ・ロード〉の両腕は、伸ばされたまま。
その腕の、両手首のところにまたも半円状の板が現れた。いや、両腕が正面に伸ばされたことにより、両方の半円は結合され、円盤と化した。円盤は、やはり融合した一本の軸で、密着した両手首とつながれていた。
「う、あぁぁぁぁーっ!!」
中央の軸が回りだし、円盤が急激に回転を始めた。
円盤から伸びた、二本の布が渦を巻く。衝撃波を回避するように、回り込みながら螺旋を描き、多岐川に迫る。先ほど笠間が使った、鎌の螺旋の攻撃が、文明にヒントを与えていた。
布が、片方は右腕に、片方は左足に絡んだ。と見えた瞬間、多岐川の体は、風に煽られた凧のように急回転した。
激しい音を立てて、多岐川は肩口から床に叩きつけられた。楽団も、舞台も、全てが消滅した。
文明は荒い息をしながら、まっすぐ立って、肩を押さえて呻く多岐川をじっと見下ろした。
「……僕の勝ちだ。降参してもらいます」
「ああ……分かった。無念だが、な」
多岐川は、よろよろと身を起こすと、あぐらをかいて座った。肩が砕けたらしく、残った手で押さえている。
「あなたに聞きます。間庭さんと、校長を狙っているのは、あと何人いるんですか?」
「……俺と、親父だけだ。俺は娘、親父は校長。そういう手はずだった」
「え!? じゃ、校長先生は」
「今、親父が襲ってるはずだ。親父もスタンド使いだからな。だから、副理事長の秘書になれたんだ」
「ん? それ、おかしいぜ」
ようやく動けるようになった京次が、スマホから目を離した。
「今、神原先生と連絡してたとこだ。あっちは、何も異常なしだそうだぜ」
「そ、そんなバカな!」
多岐川が血相を変えた。
「……重ねて聞きます。本当に、あなた方親子だけなんですか? そちらには、たくさんスタンド使いがいるわけでしょう? 今までだって、ずいぶん大勢差し向けてきたんだし」
「は? 何のことだ」
多岐川が、目を瞬かせる。
「副理事長が抱えるスタンド使いは、俺たち親子だけだ。他のヤツがいたとは思えない。……待てよ。もしかしたら」
急に、多岐川の言葉が止まった。
その目が、ガッと開かれ、口が開閉する。
そして。
「ガハッ……!!」
夥しい量の吐血が、口から吐き出された。その血の海の中に、体が力なく倒れこむ。跳ねた血が、文明の足元まで飛んだ。
「多岐川さんッ!!」
文明が、叫んだその時。
何度か体験してきた感覚が、体を襲った。
「これは! 〈消滅する時間〉」
「窓の外だ! 逃げていきやがる」
京次が指さす方向に、駆け足で遠ざかっていく男の後姿が見えた。
「待ちやがれ! この」
窓を開けると、京次が飛び降りてそれを追いかけ始める。それに文明もついていこうとした。
「ちょっと待って! あなたまで行かないで」
明日見の声に、文明の動きが止まる。
「私たちも、ここから移動しないといけない。ここにいたら、私たちがその人を殺した疑いをかけられる」
「で、でも!」
「お願いだから聞いて! 私一人で、二人も人間を運べないのよ。愛理さん、すごい熱……!」
「何だって!?」
文明が近寄って、額に手をやると、明日見の言葉が嘘でないことがハッキリ分かった。
「兄さんは私が連れていくけど、愛理さんは保健室に寝かせましょう。付き添ってあげて」
「な、なんでいきなり熱が? 今の攻撃で?」
「そうじゃないと思うけど……。放っておいていい状態じゃないわ。お願い」
「分かった。……一つだけ教えてくれ。君の名は?」
そう聞かれて、彼女はかろうじて口元だけわずかに微笑んだ。
「私は、笠間明日見。そこの、笠間光博の妹よ。兄さんと違って、それほど悪人じゃないつもり。今度、この学校に転校するつもりだからよろしくね?」
「あ……そうなんだ……」
その場には血の匂いが立ち込め、すぐ側には多岐川の死体がある。
こんなシチュエーションで出会いたくなかったな、と、文明は思わずにはいられなかった。
執務室の扉がノックされると、未麗は書類から顔を上げた。いつものように、部屋にはバイオリンの音色が流れている。
入るように声をかけると、扉が開き、茶髪にサングラスの若い男が現れた。
「平竹。どう? 首尾は」
「オールオーケーですよ。多岐川シニアは、襲撃前にデリートしました。多岐川ジュニアは、神原チルドレンが倒したには倒したんですがね。とどめを刺さずに、我々の情報を聞き出そうとしてたんで、デリートしておきました」
いつもながら、帰国子女であることが自慢のつもりか、無駄に横文字の多い会話をする男だ。未麗はそう思って、うんざりしながら応答した。
「そう。愛理のところには、笠間もいたんじゃないの?」
「ふん。未麗さんはずいぶん彼を買いかぶっておられるが、ブランクのせいでヤキが回ったんじゃないですか? あんな雑魚にハード・ワークしてたようですから」
どうせ、妨害でもしたのだろうと未麗は思ったが、口にはしなかった。
「メインディッシュは、用意してきたのでしょうね?」
「それがナッシングでは、満足なさらないでしょ? ちゃんとテイクアウトしてますよ」
平竹が部屋に入ると、その後ろからついてきたのは、二人の男だった。意識のない女性一人の、上半身と下半身をそれぞれ担いでいる。
「ご苦労様。そこに置いといて」
無造作に、床に女性を放り出すと、男たち二人は一礼して去っていった。
未麗はゆっくりと立ち上がると、その女性の側まで足を進める。
そして、女性の腹を思い切り蹴りつけた。
「うっ!? ……何!? 未麗!?」
「目が覚めた? お・か・あ・さ・ま?」
侮蔑的な笑みを浮かべて、未麗は倒れている亜貴恵を見下ろした。
亜貴恵はようやく、自分の両腕と両足が縛られていることに気づいたらしく、必死で身動きする。
「どういうつもりなの、これは!?」
「ちょっとしたニュースを教えてあげる。多岐川親子、どっちも死んだわよ。これでアンタの手駒は、完全になくなった」
「な……!」
絶句する亜貴恵。
「今までの苦心が、完全に水の泡よね。頑張ってきたのにねえ。私と聖也を自分で育てることもせずに、くだらない金儲けのために散々利用してきたってのに……!」
「な、何よ! いつまで聖也のことなんか言ってるのよ。あんな出来損ないが、うぐッ!!」
鬼の形相になった未麗が、全力で亜貴恵の顔面を蹴りつけた。その口から、歯が何本か飛び出す。
「あ……が……」
「ウジ虫が這いまわってるゴミ溜めみたいな口で、私の聖也を
「ア……アンタ、何、言って……あがっ!」
亜貴恵の頭を、未麗はヒールで踏みつけた。
「安心なさい。あんたは殺さない。そう簡単に殺すもんか。今まで、あんたは私たちを道具扱いしてきたんだから、これからは私と聖也の役に立ってもらう。ああ、それから、城南学園は私たちが頂いてあげる。感謝しなさいね」
未麗の哄笑が、執務室に響き渡り、なかなか止まることはなかった。