ガララ、と、神原は軽音楽部室の扉を開けた。
憔悴しきった様子で、部室の椅子に座り込んでいる航希に、他のメンバーが相対している様子を見て、神原は眉根を寄せた。
「……〈スィート・ホーム〉に入らないのかね?」
「先生! キャビネットが見当たらないんです。先生もご存じないんですか?」
「いや、知らない」
文明に返事しながら、神原は不吉なものを感じていた。
「……誰かが、持ち出したということかね?」
「少なくとも、ここにいる誰も、そんなことはしていないそうです」
「どういうことだろうか……。しかも、柳生操くんも、行方が分からないというではないか」
航希が、力なく頷いた。
「昨日、剣道部の練習が終わってから、帰る途中で他の部員と別れて。それから、誰も見た人間がいないんです……。操のお母さんも、捜索願出すかどうか、考え始めてるって言ってます」
「当然だろうな。丸一日、家にも学校にも連絡すらしないというのではな。それまでに、何か変わったことはなかったのかね? 昨日に限らず、それ以前にも」
「……オレには、分かんないです。部員もクラスメートも、特にいつもと変わりなかったって」
それを聞きながら文明は、先日聞かされた寺での一件を、打ち明けるべきか迷った。
(……こうなったら、仕方ないか? スタンド絡みのトラブルに巻き込まれてるなら、ジョーカーズのみんなの協力が必要かもしれない)
「あの、みんなにも聞いてほし……」
「ブンちゃん!」
航希が遮った。可能な限り、操がスタンド使いであることを、明かしたくなかったのだ。
だがその様子に、神原は違和感を感じた。
「服部くん、今は天宮くんが話そうとしているところだ。君らしくないぞ」
「……すいません」
「天宮くん、続きを聞こう。どんな些細なことでも構わない。何かのヒントになるかもしれん」
促されて、文明が口を開きかけた時。
「ちょっと待ちな!」
遥音が、スマホを見たままで制止してきた。
「愛理から緊急LINEだ! 負傷してるから、アタシに治してくれって!」
「何と!?」
神原も血相を変えた。
「彼女は、ここまで来られるのか? 迎えに行く必要がありそうなのか?」
「部室まで行くって言ってるけど……」
その時、明日見が何かに気づいたように、小さく叫びをあげた。
「どうしたの、明日見くん?」
「え、ううん、あの、大丈夫かなって……」
文明にはそう返事したものの、明日見の内心では、嫌な予感を打ち消しきれなかった。
(兄さんは今日、学園に来るって言っていた! その日に、愛理さんからの緊急LINE……)
全員が、ジリジリしながら待っていると。
外の様子を見ていた遥音が、
「あ、来たよ! え? あの子、誰だかに肩貸してるンだけど、負傷はアッチかよ?」
明日見はそれを聞いて、矢も楯もたまらず、外に飛び出した。
近づいてくる二人を見て、明日見は自分の予感が的中してしまったことを知った。
「兄さん!!」
「え!?」
「先生! 文明くん! 愛理さんと代わって」
皆まで聞かずに、神原が外に出ると、愛理に駆け寄っていった。ぐったりとしている笠間の肩を担ぎ上げると、
「天宮くん、君も来てくれ! これは火傷だ、かなり酷い!」
ハッと気づいて、文明も駆け寄った。愛理と代わり、神原と共に、笠間を部室まで運んでいく。
中へ入って、床に横たえられた笠間だったが、よろよろと上半身を起こすと、背中を壁に付けて座り込んだ。息も絶え絶えなのが、傍から見ても明らかだった。
明日見はそれを見て、
(すぐにでも、治さないとまずい! だけど、兄さんはジョーカーズのみんなに敵視されてる。治療してもらえるかどうか……)
躊躇っている間に、扉を閉めた愛理が、遥音に向き直っていた。
「遥音さん。LINEで曖昧な書き方をしたのは、お詫びします。笠間さんを治してください」
「治す、ったって。コイツって、噂の笠間だろ? さんざんアタシたちに仕掛けてきたヤツだってのに」
「そこを曲げてお願いします! あなたしか、今は頼れる人がいないんです」
「え、いや……」
珍しく、遥音が迷っている顔をして、他の面々を見まわしていた。
その目の前で。
愛理は、床に跪いて、頭を下げていた。
「お願いします。お願いします。お願いします。お願いしま……」
「もうやめな!!」
遥音が、大声で怒鳴った。
愛理は黙ったが、頭は下げたままだった。
「アンタ」
遥音が、ボソリと言った。
「なんで、ソイツのために、そこまでするんだよ?」
愛理は少し黙っていたが、やがて、意を決したように口を開いた。
「笠間さんは、あたしの……初恋の人、なんです」
「え」
思ってもみなかった返答に、明日見を除く全員が、絶句していた。
笠間自身は、虚ろな目で、切れ切れの息をしている。
「笠間さんは、あたしを庇ったあげくに、こんな目にあったんです。死なせたくないんです。お願いです、治してくだ……」
「だから、やめなって言ってンだよ!!」
遥音は、憮然としながら〈スターリィ・ヴォイス〉をその手に出現させた。
何かを感じ取ったように、遥音は文明を見た。
「止めンなよ。気に入らないのは分かるけどさ」
「あ、ああ……」
曖昧な返事しか、文明はできなかった。
続いて遥音は、へたりこんでいる笠間を睨みつけた。
「治す前に、一言言っておく! アンタ、女にここまでさせたんだからね。愛理の気持ちを踏みにじるような真似をするなら、アタシは絶対に許さないよ!!」
「……好きにしろ」
投げやりな調子で、笠間は言葉を返した。
「好きにしろって、アンタ……!」
「俺のことが気に入らないなら……殺すなりなんなり、好きにすればいい。そうされたところで、仕方のないことを……俺はやってきた。本来なら……彼女の前に、現れる資格なんざないんだ」
「……」
「だが……今はまだ死ねん。愛理が、安心して、生きていけるようになるまでは……」
「もう喋ンな!! ったく……この二人は揃いも揃って……」
遥音は鼻を短くすすると、大きく息を吸い込み、そして歌い始めた。いつにも増して、感情を込めた歌声が、部室の中に鳴り響いていった。
笠間は、自分の体から、急速に苦痛が和らいでいくのを感じ取っていた。手足の火傷も、小さなところは淡雪のように消えていき、大きなものも皮膚がみるみる再生されていき、端から元の肌に戻っていく。
気分が徐々に平静に戻っていく中、自分をじっと睨んでいる文明の視線が、気になってきた。
「おい。何か言いたそうだな?」
「……あなたが、自分の身を投げ出して愛理くんを守ろうとしてるのは、僕にも分かる。僕らに対してだけじゃなく、今まであなたがやってきたことについては、あなた自身が振り返るべきことだから、僕からはどうこう言わない」
「……それで?」
「愛理くんのためにも、約束してもらいたい。もう、スタンドを悪用するのはやめにしてほしい」
「フン……人の妹に、チョッカイかけといてお説教か」
「明日見くんのためでもある! 彼女にも辛い思いを」
肩を後ろから叩かれ、文明がそちらを見ると、当の明日見がそっと指で横を示してきた。
その先で、遥音が『今は余計な話すンな!』という表情で歌い続けている。
仕方なく、二人とも黙って、歌に聞き入ることにした。
フルコーラス歌い終わり、遥音が息をついた。
「ふぅ~。まだ完全じゃないだろうけど、かなりマシにはなっただろ? ただし、体力的なダメージは、充分な休息がないと回復しないだろうから、今日は無理はやめときな」
「ああ……世話になった」
立ち上がろうとする笠間を、神原が手で制した。
「落ち着いたところで、こちらとしても聞きたいことがある。笠間、そもそも今日の一件は、どういう経緯で起こったのだ? 間庭くんが通りがかる前のことだ」
笠間は少し黙ったが、小さくため息をついた。
「亜貴恵の娘である未麗の秘書に、平竹という野郎がいる。この前、夫婦者のスタンド使いに、明日見たちが襲われただろう? あれは平竹の指金だ」
「貴様は関係ないと?」
「当然だ。ヤツらのターゲットは、明日見だからな」
そう言われると、明日見には思い当たる節があった。
「未麗は、平竹より俺を買ってるみたいなんだが、それがヤツには気に入らないのさ。それにヤツは、俺とお前が裏でつるんでると踏んでいる。だから明日見を人質に取って、俺を言いなりにさせる。それでお前もやりにくくなるって考えだったんだ」
「それが失敗したと。だが、それと今日の件は関係あるのか?」
「妹を人質にされかけたことを知った俺は激怒して、当然報復に動くと思い込んだのさ。その点は平竹の想像通りなんだがな。俺はヤツの弱みを幾つか握ってる。経費の使い込みとか、盗んだ骨董品の売りさばきとか。未麗にブチまけられる前に、息のかかったスタンド使いに俺を始末させようとした。そういう経緯だ」
神原は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「話を聞く限りでは、いたずらに策謀を弄ぶだけで、後先考えない男のようだな?」
「まさにその通り。無能な働き者の典型だ」
「なるほど、説明は理解できた。それで、今後貴様は、どうするつもりなのだ? それが肝心だ」
笠間は、黙って神原を見据えている。
「今の話によると、貴様はその平竹とやらと、完全に敵対関係になってしまっているな。私が思うに、おそらく未麗も貴様を心の底から信用してはいまい。貴様の妹の明日見くんは、我らジョーカーズの一員であるしな。第一、ここで我らから治療を受けた以上、言い逃れは効かんぞ」
「……それで?」
「そろそろ、腹を決めたらどうなのだ? 未麗と手切れして、我らの側につけ」
「先生!?」
文明が、割って入った。
「本気ですか!? 一切手を引けというならまだしも、この男を仲間にするつもりなんですか」
「文明くん、まずは先生の考えを聞いてからにして。曲がりなりにも私の兄のことだし」
明日見が宥めにかかるが、文明は首を横に振った。
「明日見くん。僕は君のことが好きだけど、それとこれとは話が別だよ。僕らもこれまで、命のかかった戦いもしたし、むしろこれからもっと厳しい戦いになるんじゃないか、僕はそんな気がするんだ。だからこそ、京次くんを修行に送り出したんじゃないか?」
「それは、私も同じ意見よ。だからこそ……」
「だからこそ、僕は信頼できる人間を仲間にしたい。これまでの経緯を考えれば、無条件で信頼しろと言われても無理だよ。僕の言ってることはおかしいかな?」
明日見が言いよどんでいると。
「やれやれだな。ちょっと勝ったからって調子に乗るガキは、これだから困るんだ」
「何だって!?」
口を挟んできた笠間に、文明は噛みつきそうな表情で返した。
「俺に言わせれば、お前は戦いってものが何も分かっちゃいない。これはな、命も運命もチップに変えての〈ギャンブル〉なんだ。自分のも他人のもゴッチャ混ぜにしての、な。勝てば全てが手に入り、負ければ全て失う。勝たなきゃ、理想も大義もゴミ箱行き、さ。つまりだな」
笠間は、ギッと文明を睨み返した。
「まずは勝つことが、何よりも優先されるんだよ! 俺はそのためなら、やれることは全てやる。お前はママゴトみたいな勝負しかしてきてないから、フワフワした綿菓子みてーな理想論を振りかざして、得意でいられるんだ」
「なっ……偉そうに、今度はそっちが説教するのか!? そうして勝つことしか頭になくって、振り向いたら倒した相手の亡骸だらけか。まるで死神だ!」
「おお、汚らわしい死神で大いに結構! 目の前で、大切な人が死んでいくのを見るより、よっぽどマシってもんだ!!」
その、血を吐くような怒号に、文明は次の言葉を失った。
「笠間さん」
愛理に声をかけられ、笠間はそちらを見た。
「確認させてください。あたしが乗り越えなければならない真の相手は、城之内未麗さん。ですか?」
笠間はじっと愛理を見つめていたが、やがて、大きく頷いた。
「未麗さんは、あたしを人質だと言っていたそうですね。誰に対しての人質で、何が目的なのですか?」
「……君のご養父であり、校長でもある間庭数馬さんだ。未麗は数馬さんを理事長にするべく工作した。君を人質として数馬さんを操り、学園の実権を握るために」
「あたしを、捕らえて監禁するという意味でしょうか?」
「違う。この学園に君が在籍しているうちは、いつでも手を下せるという脅しだ。スタンドを使えば、いくらでも揉み消せるということだ」
「学園の実権を握って、未麗さんは何をやろうとしているのですか? 単純に、学園内での権力や資産を手に入れたいだけなのですか?」
「亜貴恵なら、それで良かったんだろうな。だが未麗は……それだけではないような気がする」
「と言いますと?」
少し考えて、笠間は言った。
「未麗は、スタンド使いを生み出せる〈矢〉を持っている」
それを聞いて、神原の目の光が強くなった。しかし、あえて口は挟まない。
「適性のある人間に〈矢〉を打ち込み、スタンド使いを増やしているが、どうやら特定の能力を有する者が必要らしい。なかなか目当ての能力者が出てこないようだがな」
「そうですか。学園の実権を握るだけなら、そんな能力者は必要ありませんものね」
「目的が何で、どんな能力を必要としているのか、実のところは分からない。だがな、愛理」
笠間は、唇を引き結んだ。
「君は、未麗と決着をつけると言ったが、とても危険なことだぞ。あれは怖ろしい女だ。母親の亜貴恵に対する憎悪は、傍から見ても凄まじかった。目的のためなら、何でもアリという点では俺以上だ。能力者を増やしていると先ほど言ったが、自分にとって残念な能力しかないスタンド使いを、未麗が何と呼んでいたと思う? 〈産廃〉だとさ」
「……人格すら認めていない、ということなのですね?」
「そういうことだ。というよりむしろ、俺が思うに……もはやヤツは、人間をやめたつもりなのかもしれない」
愛理は、黙りこんだ。
「今からでも考え直せ。在学中は普通の学生として過ごして、卒業したら学園に一切関りを持たなければいい。その間は、間庭校長や俺が、何としても君を守り抜く。卒業後は間庭校長が理事長から降りれば、もう人質としては使えないから、未麗は君への興味をなくすだろう。その後は、君なら幾らでも素晴らしい人生を送れる……」
「そうですか」
愛理は続けた。
「そしてこの学園は、笠間さんが言うところの、人間をやめた未麗さんの私物になり果てるのですね」
「それは……」
「私の母である間庭信乃は、この城南学園が、大好きだと言っていました」
説得の言葉を続けようとしていた笠間の口が、止まった。
「母は、亡くなるまで学園寮の寮母をしていました。笠間さんも、寮生としてそこにいました」
「ああ……」
ひどく辛そうな表情を浮かべる笠間を見て文明は、この男にこんな顔ができたのかと見入っていた。
「城南学園が悪い方に変貌する様なんて、母が見ていたらどれだけ悲しむか。学園をお創りになったひいお爺様も、理事長であるお爺様も。そしてあたしも……この学校が好きです。背を向けたくはありません。だからと言って、お父様に対する人質にされて、ただ重荷になるのも耐えられません。ならば、あたしの行くべき道は、たった一つです」
愛理は、やや青白くなった顔を上げた。
「未麗さんと戦います。あたしは……大して強くもないスタンドを持つだけの小娘に過ぎません。だけどやります。たった一人しかいなくっても。確実に負けて殺されると分かっていても……」
膝元に置いた手が、ガタガタと震えだしていた。彼女の脳裏には先ほどの、自分の指が、自分自身の目を潰そうと迫る映像が映し出されていた。
震える右手を、左手が抑えていた。その左手も震えていた。
「それでも……人生の肝心要のところで逃げ出したと、後悔しながら生き長らえるよりはマシです。あたし、まだ16歳ですよ!? これからの一生、惨めな思いをし続けながら、残りの長い人生を送れと言うんですか!?」
「……分かった」
笠間が愛理に寄って行くと、ポン、と肩を叩いた。
「俺も一緒にやるよ。何となく、そうなるんじゃないかって思ってたよ。実はね」
「笠間さん……!」
目からこぼれそうになった涙を、愛理は手の甲で拭いた。
神原が、小さく頷いた。
「私も一緒しよう。君たちも……そのつもりのようだな? 明日見くん、須藤くん。天宮くんはどうだね?」
「……行かない選択肢なんか、僕の中にはありません。僕にもこんなことになった責任がありますし。納得できないことも正直ありますが、もう仕方ないです」
「君らしい返事だ。それから……」
部屋中を、神原は見回し始めた。
「……服部くんはどうした? 姿がないようだが」
「アイツなら、歌の途中で出ていったよ。後はよろしく、ってね。操をもう一度、探しに行ったんだろ」
「ああ! これは失態。柳生くんのことを失念していた」
神原だけでなく、実は文明もそれは同様だった。
「先生。さっきの話の続きですけど。実は……」