笠間光博と明日見は、ちょうど10歳違いの兄妹である。
光博は、大会社の幹部と、女性弁護士の間に生まれた。両親ともに収入はすこぶる高かったが、どちらもあまりにも忙しく、育児はベビーシッターなど雇い人に投げっぱなしであった。光博は、両親にほとんど構われずに幼少期を過ごした。もっとも、光博も内向的な子供であり、本やゲームの世界に没頭するタイプだったので、それさえやらせておけばいい、と両親は思って放置していた。
もっとも、両親が光博に関心をあまり寄せない理由は、異なっていた。父親はそもそも子供に関心が薄かったが、母親は女の子がどうしても欲しかったのだ。
そして光博が生まれてから10年後、母親にとって待望の女の子が生まれた。母親は仕事もセーブして、明日見を中心に生活するようになっていった。光博はその姿に、『俺には知らん顔しておいて、妹にはベッタリかよ』と、白けた気分になるだけだった。
だが意外なことに、明日見は不思議なほど光博になついた。母親よりも、光博と遊びたがることも珍しくなく、光博も、面倒くさいとは思いつつも、付き合ってやることもそれなりにあった。
しかし、その様子が、母親には気に入らなかった。自分が待ち望んでいた娘が、自分よりも光博を選んでいるようで、面白くなかったのだ。
光博が高校進学する時になると、母親は光博に言った。
「あなた、城南学園に進むといいわ。あそこは寮があるしね。私たちの元から離れて、早めに自立を志した方が、あなたのためだと思うの。城南学園がダメでも、一人暮らししてもらうつもりだから」
母親の本心は、光博にはお見通しだった。正直、明日見には多少の情が移ってはいたが、自分に無関心な両親の元にいても意味がないと思っていた。
城南学園に入った光博だが、学園生活などに希望など抱いてはいなかった。元々、友人もあまり作るつもりもなかったこともあるが、両親に放置されてきた彼にとって、社会そのものが、自分を拒絶しているようにすら思っていた。
光博は入学してまもなく、〈ダーク・ワールド・オーダー〉に入信しているクラスメートから、密かに勧誘された。自暴自棄の気が強かった光博は、言われるまま入信し、そこでスタンド使いを生み出す〈矢〉によって、〈インディゴ・チャイルド〉を出せるようになった。教祖であるクイン・ビーの、実の娘である未麗の元で活動を始めたのだが、元々頭が切れ、特に策略の才能があることを見出され、スタンドを用いた汚れ仕事の現場指揮を任されるようになっていった。
それと並行して、光博には一つの使命が課せられていた。城南学園の学生寮において、寮母をしている間庭信乃を監視すること。光博が教団に勧誘された大きな理由は、彼がすでに寮生として在籍していたからだった。
間庭信乃の旧姓は、城之内。城南学園の創始者の孫娘であり、当時から理事長をしている城之内茂春の娘であった。
どうして彼女の監視が必要なのかは教えられなかったが、笠間は理解していた。クイン・ビーの正体が、城南学園の理事の座を狙う城之内亜貴恵であり、いずれは学園の運営の実権を握りたい亜貴恵にとっては、信乃は煙たい存在であり、動向を押さえておかずには気が済まないからだ、と。
彼女の姻戚関係を聞かされた時、光博も奇妙に思ったものだ。
(理事長の娘なら、どうして寮母なんかしてる? 理事として学校運営の中枢に関わっていても、おかしくないのに。寮母くらいなら、雇い人で問題ないはずだ)
信乃は、穏やかな印象を周囲に与える、美しい女性だった。常に微笑みを絶やさず、嫌な顔一つせずに寮生の世話を焼き、いつも何かをして働いていた。彼女の伴侶である間庭謙介も、信乃と同じタイプの人間らしく、人の好さが表に出ている人間であり、夫婦揃って、光博の方が心配になるほどであった。
学生寮には、妙に頻繁に、元寮生が顔を出してきていた。寮の催しなどがあると、さまざまな職業の元寮生がやってきて、ボランティアで手伝いに来るのだ。
ある時光博は、寮生の一人に、手伝いにくるわけを、それとなく尋ねてみた。
「この寮はな。昔っから、訳アリのヤツが入ることが多かったんだ。札付きのワルだったとか、家庭に問題のあるヤツだとかな。そういう連中を、信乃さんは積極的に受け入れた。一人一人に、真剣に向き直ってくれた。将来に夢があるヤツのために、東奔西走してくれた。ここに集まる連中は、信乃さんを本当の母親みたいに思ってるんだ」
そう答えた、いかつい顔の男は、まるで初恋の人のことを語るような顔をしていた。言われてみれば、光博自身にも心当たりがあった。
寮母をしている件も聞いてみたところ、男は声を落として教えてくれた。
「信乃さんには、愛理ちゃんって娘がいるだろう? あの子の前にも、実は信乃さんは男の子を身ごもってたことがあったんだ。だけど、流産しちまってな。その子を産んであげられなくて申し訳ない、って信乃さんは悔やんでる。寮生の世話を焼くのも、あの人にとっては償いなんだよ」
当時は8歳だった愛理も、その頃は寮の一室で、両親と共に暮らしていた。
いつも忙しい両親の邪魔にならないよう、どこかで本を読んでばかりいる少女だった。噂に聞くと、ハイパーサイメシアの天才少女だというが、特に両親から英才教育を受けている様子もなく、それよりも人への思いやりを、母親から説かれている姿が時に垣間見れた。
ふと、光博は何の気なしに、愛理に話しかけた。
「その本が好きなんだ? 別のシリーズもあるけど、もう読んでる?」
「え? ……知ってます! まだ読めてないですけど。笠間さんは、読んだんですか?」
「ああ。この作家の本は、みんな読んでる」
本や作家の話をしてくる愛理は、嬉しそうだった。両親を除く大人たちは、この賢すぎる少女に対しては、どこか敬遠しているらしく、話し込む者などまずいなかった。同年代の友達も、同様の理由で、いはしなかった。
光博からすると、離れて暮らす妹の明日見と重ね合わせる部分があり、寂しそうな彼女を放っておくのが、気持ちの座りが悪かったのだ。
「あたし、音楽も好きなんです。だって、答えがないでしょう? いろんな人が、いろんな音楽を楽しんでる。素敵なことじゃないでしょうか?」
目を輝かせながらそう言って、時に楽器の演奏も聴かせてくれたりもした。実のところ、教団で汚れ仕事をしている合間に聴く演奏は、ある種心の慰めにもなってはいたが、目の前の無垢な少女に対して、後ろ暗い気持ちになることが時にあった。
そんな、ある日のことであった。
寮の玄関には、一枚の大きな絵が、常にかけられていた。元寮生の置き土産であり、そのネームプレートには、画壇の若き俊英の名前が刻まれていた。画商がやってきて、絵を売ってほしいと交渉しに来たのも、光博は目にしたことがあった。しかし信乃は売る気が全くないらしく、丁重に断って帰らせていた。もっと値段が上がるのを待っているのか、と光博は思ったこともあった。
その絵が、壁から外れて落ち、傷ついてしまった。しかも、掃除当番だった光博の不注意で。
それを知った信乃は、微笑んだままで言った。
「失敗は誰にもあることよ。これを描いた人に、来てもらって直してもらえないか頼んでみるから。忙しいみたいだから、いつになるかは分からないけど……」
元寮生の画家がやってきたのは、次の日のことであった。
その画家は、信乃に逆に頼み込んでいた。
「あの絵は、こっちで処分しますから引き取りますよ。代わりに、別の絵を描きますから。実のところ、あの絵は見たくないんですよ。今になって見ると、ホント下手クソで。信乃さんには、美大に進む時に親たちを説得してくれましたし、今でも恩義を感じてます。今の自分なら、もっといい絵を描けますんで!」
その言葉を聞いていた信乃は、悲しそうな顔をして、一言口にした。
「どうして、そんなことを言うの?」
「え?」
「あなたはあの頃、この絵を一生懸命描いていた。夜もろくに寝ないで。この絵は、あなたの気持ちが込められた絵じゃないの。それを、まるで出来損ないみたいに。あなた、あの頃の気持ちを忘れてしまったの?」
「え、あ……」
「あなたにしてみれば、未熟な出来なのかもしれない。だけど、あの頃の未熟な自分があったからこそ、今のあなたがあるんじゃあないの? 未熟な自分を乗り越えていくのは、人として成長していくこと。だけど、未熟だった自分を否定するのは、私は間違ってると思うの。それは、今のあなたを否定することになってしまう……」
画家が、嗚咽し始めるのを光博は聞いていた。
「もしあなたが、少しでも私のために何かをしてくれると言うなら、この絵を直してほしいの。この絵の傷も、この寮の歴史の一部だし、私自身としては直さなくてもいいくらいだけど。その時にいた寮生の子も気にするだろうし、目立たないように最低限の直しをした方がいいかと思って。今のあなたなら、あの頃の自分を尊重しながら、良い直し方をしてくれると期待しているの」
それから連日、画家はやってきて、時間をかけて直しをしていった。
なお、この一件が噂となり、問題の絵は価値が数倍に跳ね上がった。後に、城之内亜貴恵はこの絵に執着し、手に入れようと画策したが、次の所有者となった間庭数馬が手放すことを断固拒否したという。
この頃を境に、光博は〈ダーク・ワールド・オーダー〉の活動に意欲を失っていった。信乃の人柄に触れているうちに、自分や教団のやっていることが、いかにも卑小に思えて仕方がなかったのだ。教団をすぐに抜ければ、クイン・ビーの性格からして何をしてくるか分からないため、とりあえず命令を聞いているだけであった。神祖の息子である神原が、実は教団を潰すために暗躍してることに対しても、『むしろ好都合だ』としか思わなかった。
笠間はある日、間庭一家の三人と共に、車に乗っていた。買い物に行こうとしていた光博に、目的地が同じなので、一緒に行こうと誘われたからだった。
車は、崖の下に川が流れている道を走っていた。
急なカーブに差し掛かろうとしている時、光博の頭に、一つの〈予感〉が頭をよぎった。
(謙介さんは、ハンドル操作を誤り、アクセルを踏み込む!)
「どういうことだ、これは!?」
謙介の困惑した声と共に、車はカーブに勢いよく突っ込み、ガードレールを突き破り、崖へと転落していった。
激しい衝撃がして、車は正面を下にして、河原へと突っ込んでいた。
光博と愛理は、後部座席でシートベルトをしていたため、シートで頭をぶつけただけで済んでいた。
「早く車から出なさい! 笠間くん、愛理を!」
信乃が叫びながら、助手席のベルトを外して、後部座席のドアハンドルを引いた。我に返った光博がドアを押し開け、愛理のベルトも外して、抱きかかえるように車から跳び下りた。
「車から離れて! この臭いは」
言われるままに離れる光博が振り返った時、信乃も助手席のドアを開けて、車から出ようとしていた。
その時、車が爆発した。ガソリンに引火したのだ。
光博は、爆風に薙ぎ倒され、愛理を抱きかかえたまま河原に転がった。
「……信乃さん!?」
気が付いて、辺りを見回した光博は、蒼白となった。
信乃は、川の際にあった大岩の側まで飛ばされていた。ぐったりと倒れこんでいて、頭部から少なからず出血していた。
「信乃さん!」
光博は、信乃の側まで駆け寄っていった。
「しっかりしてください! 今、救急車を」
「……愛理は?」
微かな声で、信乃は尋ねた。
「大丈夫です! それよりも信乃さんが」
「ありがとう……。笠間くんに来てもらって、本当に良かった……」
「もう喋らない方が」
「笠間くん……愛理をお願いね。あなたは、本当は人を、愛せる子……」
信乃の体が、力を失ったのが、光博にも分かった。目の前の事態を信じたくなくて、脈を計る。だが、もうその甲斐がないことを、理解せざるを得なかった。
「……笠間さん」
後ろから、愛理の声が聞こえた。
振り返ると、呆然と立ち尽くし、涙を流している彼女がいた。
その時、笠間はようやく全てが分かった。
(クイン・ビーの仕業だ! あの〈予感〉は、スタンドの能力か。あの女……ついに信乃さんを!)
そう思った途端、どうしようもない後悔が、光博を襲った。
(俺が側にいながら! クイン・ビーの元にも俺はいた! 俺が、もっとうまく立ち回っていれば、信乃さんは死なずに済んだかもしれない。それなのに……この子は、独りぼっちになってしまった!)
「ゴメン! 愛理ちゃん、本当にゴメン! 俺が、不甲斐ないばっかりに……!」
河原に突っ伏して、光博は泣きながら詫びていた。
「俺が……俺が、君だけは守るから! 何としても、君だけは……!」
嗚咽の合間に、絞り出すように繰り返す光博を、愛理は涙を流しながら、見下ろすだけであった。
しかし、光博は事故からほどなくして、愛理には会えなくなってしまった。
愛理は、父親の弟である間庭数馬に引き取られていった。そのこと自体は、光博はむしろホッとしていた。数馬が温厚篤実な性質であり、かつては数馬も信乃に魅かれていた時期があることを知っていたので、愛理は大切にされるだろうと考えたからだ。学園の寮も閉鎖が決定され、光博も別の所で一人暮らしを余儀なくされた。
怖ろしいのは、亜貴恵の方だった。愛理が生きている以上、亜貴恵は城南学園を渡すことになることを怖れるだろう、と推測していた。
復讐を考えなくもなかったが、それよりも光博は、愛理を守ることを優先することに決めていた。それが、信乃の心に適うことと直感していた。
〈ダーク・ワールド・オーダー〉も分裂、解散したが、光博にとってはもうどうでもいいことだった。それよりも、どのようにして愛理を守るかの方が重要だった。
光博は考えた末、城南学園に何らかの形で就職することを目論んだ。高校から大学に進学し、学園がネット環境に力を入れ始めていることを知り、ここから入り込むことを狙った。学園のネットワークを手がけた会社にアルバイトで入り、そこからシステムエンジニアとしての技術を学んでいった。
一方で、ネット技術も携えて、裏社会にも出入りしていた。イザとなれば、裏社会の力も役に立つ可能性もあると踏んでのことだった。闇の住人の手練手管も吸収していき、自らその世界の工作にも手を貸したこともあった。
そして、会社からノレン分けされるような形で、城南学園のネットワーク管理を一手に引き受けることに成功した。
その矢先、光博の存在を知った城之内未麗が、クイン・ビーの代理人として声をかけてきた。かつてのように、亜貴恵のエージェントとして働くことを要請されたのだ。信乃の時の後悔が頭にあった光博は、二つ返事で受けた。今度こそ、亜貴恵やその周辺をコントロールして、愛理を守ろうと決意してのことだった。折しも、神原が学園に教師として赴任してきたこともあり、そちらの動向も無視はできないと考えていた。
笠間は、目を覚ました。
まだ、外は暗い。起きるには、時間がある。
傍らに敷かれた布団で、寝息を立てている明日見を見た。
(お前……。俺が、いずれ神原と組むことが必要になった時のために、地固めをしてくれてたんだな。おかげで、あの男が味方についた形で、未麗と戦える)
笠間の微かに開けた目には、感謝の光があった。
(愛理だけじゃない。お前も、必ず生きて返すからな。お前は、俺なんかには勿体ないくらいの、可愛い妹だ……!)