「百十一…百十二…百十三…」
桜乃は壁に向かってボールを打ち続ける。テニスを始めたころは十回も続かなかった壁打ちが今では百回を超えても続けることができるようになった。確実に上達しているのだ。
「百十四…百十五…百十六…」
けれど勝てない。勝てなくても良いとは、桜乃は思わなかった。もちろん、勝てなくてもテニスが楽しいことは知っている。けれど、桜乃がテニスを始めたのはリョーマのテニスを見たからだ。あのテニスに少しでも近づきたい。リョーマが見ている景色を自分も見てみたい。その一心で桜乃は今日もラケットを振るう。
「百十七…百十八…百十九…」
「ヒジも肩もバッチリじゃん」
「え?」
一心不乱にボールを追っていた桜乃だが、ここにいるはずのない王子様の声を聞いて思わず止まったしまう。
「でも、髪は相変わらず長いまんまだね」
「リョ、リョーマ君!?」
全国大会と日本代表としての活動を終えた後、リョーマはアメリカに戻ったはずだ。どうして自分の目の前にいるのか、桜乃には意味がわからなかった。
「どうしてここに?」
「あー、そのことなんだけどさ…」
ひょっとして、伸び悩んでいる自分を助けに来てくれたのか。だとすれば申し訳ない。こんなところで彼の歩みを止めてはいけない。と考えていた桜乃にとって予想外の一言が返ってきた。
「ねえ、竜崎、俺を助けてくんない?」
「え?」
リョーマが桜乃をではなく、桜乃がリョーマを助ける。その言葉の意味を桜乃は瞬時には理解できなかった。
「『教育期間』?」
「そう、そんなのがあるんだってさ」
『教育期間』。入部したての一年生、特に未経験者に対して一年先輩である二年生が担当を持って指導をするという制度だ。その制度自体は桜乃も知っている。というよりその制度によって先輩にお世話になった側だからだ。
「俺はそんなの受けてないんだけど…」
「まあリョーマ君はね…」
誰が一年生からレギュラーを取るスーパールーキーの指導ができると言うのだろうか。しかし、その制度とリョーマの突然の帰国に何の関係があるのだろうか。
「先週の夜中にさ、アンタのオバサ…先生から電話があったんだよね」
「お婆ちゃんから?」
桜乃の祖母のスミレは男子テニス部の顧問だ。豪放磊落な彼女の性格を考えると時差など気にせずに電話をしたことは想像に難くない。
「『アンタも青学に籍を置いている以上、指導してもらうよ!』って言われて…」
なるほど、確かにリョーマは青春学園から留学していることになっているので筋は通る。
「でも俺教えるの下手みたいでさ、みんな途中で逃げちゃうんだよね…」
「え?リョーマ君優しいのに…」
桜乃はその事実に驚きを隠せなかった。リョーマの指導は言葉こそ厳しいが、できるまで諦めずに根気強く続けてくれることを桜乃は知っていたからだ。
「だからさ、俺、アンタにすることにしたから」
「え?何を?」
「だから、教える相手、アンタにするから」
「えぇぇぇえ!?」
夜の公園に近所迷惑になるくらいの桜乃の絶叫がこだました。
「竜崎先生、お話があります」
「おや?あんたが話なんて珍しいね、手塚」
リョーマが桜乃への指導を始めた次の日、青春学園の職員室にはテニス部を引退した手塚の姿があった。
「プロ契約の話だったら、代理人から聞いた方が早いんじゃないかい?」
「いいえ、俺が聞きたいのは越前のことです」
「あぁ…あんたのところにも連絡したんだね…」
リョーマが帰国していることは部員たちには伏せている。練習の混乱を避けるためだ。幸いにも冬休みに入っているので登校することはない。しかし、個人的に手塚には連絡を取っていたらしい。
「なぜこのタイミングでこんなことをされているのでしょうか?」
「教育期間の話かい?『こんなこと』なんて言い方はどうなんだい?」
「確かに、部員同士で指導するこのシステムは良いものだと思います。けれど、今海外を拠点にしている越前にやらせる必要があるのでしょうか?」
それは手塚にとって正直な疑問だった。確かに部員同士で教え合うというのは教えられる側だけでなく、教えた側の技術も向上する。しかし、それはあくまで一般的な二年生と一年生だった時の場合だ。
「お言葉ですが、越前の実力は今の段階でずば抜け過ぎています。当時の海堂や桃城の比ではありません。本人の性格を考えても…」
「そうだね、リョーマの性格を考えると、あいつは教えることには向いていない…その辺が南次郎との違いさね…」
よく言えば正直、悪く言えば唯我独尊な性格だ。あれだけ仲の良さそうに見える桃城とでさえダブルスが成立しているとは言い難かった。そんなリョーマが他人の指導などできるのだろうか。
「正直、越前が指導に向いているとは思えません」
「向いてないからやらせるのさ」
スミレの言葉に手塚は目を見開く。
「できることばかりやらせても面白くないだろう?テニスも同じさ、できることばかり練習してるやつが強くなんかなるものかい」
大人びてきたと思っていたけれど、なんだお前もまだまだだね。とどこかの王子様の様に続けるスミレになおも手塚は反論する。
「越前と俺は似ています…あいつもきっと、言葉よりも背中でチームを引っ張っていく人間です…あいつには大石のような人間が…」
「なんだ、それなら大丈夫じゃないか」
「え?」
「お前…気づいてなかったのかい?最初は上級生と揉めていたような人間が、今じゃあ後輩を呼び出して発破かけるようになったじゃないか」
「…知ってたんですか?」
「大人を舐めるんじゃないよ」
なんだかんだ言ってもこの人には敵わない。手塚をしてそう思わせる風格がスミレにはあった。
「それだけ変われば充分さ、リョーマがあんたを理解したように、あいつもきっと理解されるだろうよ」
「…先生は、これで越前が強くなると考えているんですよね?」
隠し事がバレていたという事実を知り、少し気恥ずかしい気持ちをごまかすように、手塚は話題を変える。
「強くなるかだって?そんなのあいつなら何をしようと勝手に強くなるさ」
それが当然とでも言うようなスミレの言葉を手塚は不思議と、けれど自然に信じることができた。
「でもね、ここらで知っておくのもいいだろう?教える楽しさってやつも」
「教える楽しさ…ですか?」
「私らを見てみなよ、選手としてはとっくにあんたたちに抜かれてるさ。だけど、今も楽しくテニスをやってるさね」
「…」
「あんたもプロになるなら覚えときな。テニスってのはね、プレイヤーで無くなってからだって楽しむことができるスポーツなんだよ」
六角のおじいも、氷帝の榊も楽しそうにやっているだろう。と続けるスミレの目はいつか見た、リョーマの目とそっくりだった。
「しかし、問題は誰をつけるかだよ…リョーマの場合、新入生には容赦が無いだろうから同い年にしようと思ってこの時期に呼び戻したんだが…」
「ええ、それは越前も悩んでいたようです」
何を隠そう、手塚がこの件について知ったのはリョーマから相談を受けたからだ。
「あいつ自身自覚はあるんだろうねぇ…でも大好きなテニスだからこそ妥協はできない…」
大人びているとはいえまだ中学一年生。自分の想いを相手にも求めてしまうのは致し方ないことだろう。
「はい、なので俺も『同じくらいテニスが好きな人ならば教えられるのではないか?』と返したのですが…」
「そんなやついたら苦労はしないよ…」
「それが、その一言を聞いた途端越前は…『なんだ、アイツがいたじゃん』…と」
「アイツ?」
一体誰のことだろうか。スミレが首を傾げていると、着信音が鳴り響く。スミレの携帯にメッセージが届いた。
「おや?噂をすればリョーマからだよ…なになに…『教える相手を見つけたから教えておく』…って、相手は誰なんだい!?」
まさか相手が自分の孫娘だとは知るはずもなく、スミレの絶叫はリョーマに届くことはなかった。
「さ、練習メニュー考えてきたから」
「うん…」
次の日、部活を終えた後、桜乃はリョーマの家にあるコートを訪れていた。
「え?」
「どうかしたの?」
「いや、こんなメニューやったことないから…」
初めて見るメニューばかりで困惑する桜乃。厳密には全く初めてということではない。女テニの先輩やリョーマたちがしているのを見たことがある。けれど自分ではやったことがない練習ばかりだ。
「当たり前じゃん、逆にいつまで壁打ちしてたんだよ」
「うぅ…」
自分一人でできる練習には限りがある。スミレに声をかけても良かったのだが、指導で疲れているであろうスミレを呼びつけるのも申し訳ないし、何より贔屓してもらっているようで嫌だった。その結果どうしても練習は壁打ちや素振りに偏ったのだ。
「…ま、無駄ではないけどさ」
自分でもキツい言い方をしてしまった自覚があるのか、リョーマが珍しく自らフォローに回る。
「いつまでも同じことしててもしょうがないでしょ?」
それが当然だと言うようにリョーマは言葉を続ける。
「できることばかりやっても面白くないじゃん」
「…うん!」
「…さ、始めるよ」
「あ、待ってよぉ、リョーマ君!」
同じ歳の人間、それも女子とコミュニケーションを取ることの少なかったリョーマにとって桜乃は珍しい存在だった。今までリョーマにテニスを教えてほしいと言っていた人間は大抵この練習メニューを考えて渡した段階で諦めていた。リョーマ自身がしている練習と比べればずっと易しい内容なのだが、それでもキツすぎるからだ。
「俺はお前とは違うんだよ」
と何人の人間から言われたかわからない。けれど、桜乃は笑って取り組んでいる。
「ねぇ、部長…」
リョーマはここにはいない手塚に声をかける。
「教えるって、いいもんだね…」
リョーマの声は誰にも届かずに静かに夜の空に消えていった。