小さな絶望の繰り返しで、人は大人になる。
七海健人は、そう思っている。
七海健人は呪術師を一度やめ、一般の社会人としての経験をしたのちに呪術師に戻っている。
彼は一度──任務の際に自らの親友を喪うという経験をした。
呪霊の討伐任務。
二級呪霊の討伐任務と聞かされていたが、実際には一級呪霊と戦う事となり。自身は重症を負い、相棒であった灰原雄はその命を落とした。
大いなる無力感と絶望。
どうしようもない程のそれらを抱えて──七海健人は高専を抜け、社会人となった。
元々自分はやりがいとは無縁な人間
呪いなんぞに関わるから、辛い思いをしなければならないのだ。
適当に稼いで。
適当に人生をドロップアウトして。
一生をなんとなしに終わらせることが出来れば、それでいい。
──自分は何のために生きているのだろう。
証券会社のいちサラリーマンとして生きる。
日々考える事は金の事だ。
そこには何もない。
極端な喜びも。極端な悲しみも。刺激も。何もかも。
ただ日々の時間が浪費されていくだけだ。
睡眠時間が減った。
眼の下に隈が出てきた。
顔色も悪くなってきたかもしれない。
──大いなる絶望から逃げ出した先にあったものは、無為に積み重なっていく小さな絶望だった。
──自分はただ無為に過ぎ去っていく存在であるという事を、ただ再確認していく。金の為だけに存在しているのだと。そう小さく、小さく、自覚が刻まれていく。
枕もとの抜け毛が増えていた。
ストレスだろうか。
まさか。
やりがいなんてもの、関係ない自分が何の重圧を感じているというのか。
コンビニで割と気に入っていた総菜パンが消えていた。
ふと、自身の日常の一部が抜け落ちたかのように感じた。
日常を感じる些細な出来事の喪失と共に──その些細さを生み出している膨大な金に対する思考マージンを思い知ったりもした。
──ああ。
──こうして大人になっていくんだ。そう七海健人は思った。
灰原。
お前が死んだという巨大な絶望から逃げ出した、子供だった心は。
小さな絶望の前に、少しずつ淀んでいったよ。
その淀みを振り払うように。
──また私は呪術師に戻ってきてしまったよ。
労働はクソだ。
金の為に生きていく日々の中。何か心を満たしてくれるものはあっただろうか。ただ日々の中で気づくこともない小さな絶望を積み上げていって、ふと気づいた時に山積したそれらを見てただただ虚無を抱え込んでいた。
呪術師はクソだ。
お前は呪いを祓う為に死ね。あの時の灰原を、自らの号令の下また生み出さねばならない事だってあり得る。
それでも。
それでも──戻ってきてしまったよ。
──何故だろうな。
──これも、お前が遺した呪いなのか。そうなのか、灰原?
小さな絶望を積んでいく日々よりも。
大いなる絶望に晒されながらも生きていく日々が、自分にとって適正だった。
故に、七海健人はここにいる。
※
──なんで俺を連れていかなかったんだ。俺は足手纏いかよ、ナナミン。
眼前には、他人の為に本気で自分の感情を発露できる人物がいる。
彼は、高専の外にいる謎の呪術師より得られたという情報を七海健人に与えた。
その情報は、とうに七海健人は知っている。
なにせ。実際に戦ったのだから。
ツギハギの傷跡に塗れた人型の特級呪霊。
──仲間がそこにいました。でも俺はそこにいませんでした。なぜなら俺は子供だからです。そんなのはごめんだ。
そうだろう。
他人の為に怒りを覚える人間が。自分の無力を悔いない訳がない。
七海健人は思う。
ああ、似ているな──と。
確かにいたのだ。
常に笑顔を振りまいていた──自分とは正反対の人間が。
「駄目です」
今ではない。
この子が、人を殺さなければならないときは。
「敵は改造した人間を使う。──その敵と戦うという事は、必然的に人を殺さなければならないという事です」
七海健人は、一つずつ噛み砕くように──眼前の少年に言う。
いつかこの世界にいれば、いずれ人を殺さなければならない時も来るだろう。
でも──それは今ではない。
子供であるという事は、罪ではない。
──いずれ大きな絶望に染められて大人になる時がこようとも。
──子供が、子供としての理想と、精神を持っている事は決して罪ではないのだ、と。
「明日。二人で吉野順平とコンタクトを取り、監視を行います。敵呪霊が動くと同時に私が始末に向かいますので、そうなった場合は虎杖君に監視を引き継いでもらいます。──よろしくお願いしますね」
※
「さて。聞きたい事は一つです、吉野順平君。──君は映画館で殺害された三人の高校生と同級生ですね」
「....」
「その時君は現場にいたとの事ですが。ツギハギ面の傷跡が残る顔面の男を見かけませんでしたか?」
ジッ、と。七海健人は吉野順平を見つめた。
その眼は。
今まで──自らに向けられた悪意の視線のどれとも重ならない強さと、その強さからなる恐怖感があった。
まるで。
自分の動揺や、心の動きまでも見据えているかのような。子供の対義語としての大人の力を存分に持った存在のように思えた。
「.....いえ。見ていません」
当然。
順平はこう答えるほかない。
その答えを聞き。
七海はそれでも、その眼鏡越しにある視線を変えない。
そして、
「そうですか」
と、だけ。呟いた。
「今の質問は忘れてください。では次に、あの現場で見た事を、出来る限りで構いません。答えて頂いてもよろしいですか?」
その後。
吉野順平は七海健人との質疑応答に移る。
映画館に入った時間帯。死体を確認した際の行動。その他諸々。
──事前に既に知っている情報ばかりをそのまま吉野に質問を投げるという行為を行った。
「....」
その行為をする中。
七海健人の視線は──吉野の頭部にあった。
※
「お。どしたの順平」
その後。
質疑応答を終え、内容について纏めている七海健人と。
その背後で、映画について語り合っている虎杖と吉野に。
声をかける女性がいた。
黒髪の妙齢の女性で、煙草を吸いながら河原に続く階段から、買い物袋をぶら下げそこにいた。
「友達?」
そう声をかけると、
「さっきあったばかりの人だよ...」
と順平は返し。
「さっき会ったばかりの友達ッス!」
と虎杖は返し。
「友人ではありませんね」
と真顔で返す七海がいた。
「それより、母さん」
そう順平が言うと。
その女性に近付き、口にくわえる煙草を取り上げる。
「あー。そうだったそうだった。アンタの前じゃ吸わない約束だったわね」
母親は携帯式の灰皿を出すと、素直にその中に煙草を押し込めた。
「こんにちは、お姉さん! ネギ似合わないっすね!」
「お? わかる? ネギ似合わない女目指してんの」
虎杖とはすぐに打ち解けたようで、謎の会話を繰り広げている。
「どう? ──そこのダンディな眼鏡のお兄さんも、一緒に飯食べる?」
会話の流れを完全に無視し、メモを睨んでいた七海健人は、
「いや──」
ご遠慮します、と呟きかけ。
「....」
顎に手を置き、少し考え。
またしても──吉野順平の頭部に目を向けて。
「....そうですね。まだ少し聞きたいことがありますので、お邪魔させてもらいます」
と呟いた。
※
吉野宅に上がると。
炊事が得意だという虎杖は、吉野母の手伝いを行う中。
テーブルの間。
向かい合う形で、吉野と七海は向かい合っていた。
「──七海さんは、元々会社員だったんですか?」
「ええ」
これは、虎杖からポロリ零れた情報により知った事だ。
呪術師、というワードに関して避けながら──今、こうして呪いに関し調査する公的機関所属の人間と、ぼかしを入れて。
七海は、吉野の質問に、そう肯定した。
「あの、....こちらからも、質問をしてもいいですか?」
「構いませんよ。私も貴方に聞きづらい事を聞いたわけですから」
「その.....七海さんは、会社員だった頃に」
吉野は。
必死に言葉を選択していた。
そして
「──呪いたくなるくらい、誰かを憎んだ事ってありますか?」
「.....」
呪い。
不登校であるという状況。
そして。
七海健人の中での、確実な結論。
それらを総合して。
七海は──口を開いた。
「そんなものしょっちゅうですよ。こちらに責任を擦り付けてくる同僚も、クズ株式を紛れ込ませた金融商品を売りつける上司も、その他諸々。色々いましたよ。誰かを軽蔑して、その先で憎む事なんて珍しくもなんともない」
「.....」
「しかし。──大人は、結局日々の生活の中でそれらを横にひとまず横にのける技術を覚えていきます。憎いからと言ってそれを発露することなく、ただ押し込める。それを繰り返すごとに、誰かを憎んでいる状態というのを特別なものとして扱わなくなっていくんです。要は、関心なんてものを覚えなくなっていく」
──吉野は、この七海の答えを聞いた瞬間。また別な声が聞こえてきた。
生き様に理想なんて要らない。一貫性なんてものも要らない。
憎いと思えば、好きに晴らせばいい。
どう生きようとも、自由なんだ。
──自分を虐げてきた人間たちへの憎しみ。
──それを受け入れたっていいんだって。そう思って。
でも。
眼前の大人は。
憎しみに対して、無関心になれる術を覚えていて。
自分が美徳とする在り方を知っている大人で。
「──吉野君」
七海健人は携帯を取り出し、メールを確認すると。
吉野に声をかける。
「別に貴方は、今無理に大人になる必要はない」
「え...」
「過酷な状況にある今から逃げる事は恥ずべき事ではない。──しかし、逃げる手段に誰かを呪う事を選択してしまえば、もう逃げることはできない。呪いとはどこかで必ず巡るものですから。だからあまりおすすめはしません」
「....」
「それでは。失礼します──丁度仕事が入ったものですから」
そう言って。
七海健人は、吉野順平宅を出ていった。
「──虎杖君」
「うん?」
七海は一旦虎杖を呼び出し、外に出る。
「呪霊の残穢の報告がまた上がりました。私はこれから討伐に向かいます」
「おう! だったら俺も──」
「いえ。虎杖君は引き続き吉野順平君の監視をお願いします。──まだ確定ではありませんが、彼は今回追っている呪霊と繋がりがある可能性があります」
「え!」
七海は。
──事前に得ていた吉野順平の調査報告書と実際の吉野の証言と照らし合わせ、実際の行動と証言との齟齬を調べ。
──そして。吉野の頭部にへばりついた呪霊の残穢を確認し。
──敵呪霊が、人間と変わらぬコミュニケーションを取れる個体であり、脳をいじり人間を改造できる術式を持つ事も併せて。
吉野順平は──あの人型特級呪霊によって術式を覚えたのではないか、という仮定を作るに至った。
「──私は呪霊をいち早く祓います。虎杖君は吉野順平君の監視を行ってください」
仮に。
この可能性を信じて吉野順平を捕えて。
それが事実である事が高専に知られれば。
吉野順平は間違いなく秘匿死刑となるだろう。
呪霊と通じた呪術師なぞ、下手すれば呪詛師よりも悪質と捉えられる可能性がある。更に彼が現在不登校である事から推察するに──いじめを受けている可能性もある。そうなると、その加害者を呪い殺さんと彼が動く可能性だって十分にある。
「....」
「解ってくれましたか? ──それでは、吉野君の事を、明日からも頼みます」
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やあやあこんにちは。
ワタシです。
いやまあ。色々あった訳ですが。
現在のワタシはですね。ある種人生の岐路に立たされているやもしれませぬ。
餓鬼ちゃんがこそこそと呪霊を探し回っている中ですね。
あの──恨めしい人型の特級呪霊がいたのですよ。
恐ろしかったですけど、とても気にもなったので。
その背後を追いかけたのですが。
あのツギハギ呪霊。
ある家の中に入りまして。
とんでもないものを置いていきました。
現在眠りこけている女性のテーブル。
そこに。
──指。
見るだけで解りました。
あの時。
あの少年院で──特級呪霊を生み出した、特級呪物。両面宿儺の指。
今。
あの呪霊がどこぞへと帰っていった中。
指があります。
さあ。
どうしましょう?
このままだと。
この女性はまあ、呼び寄せられた呪霊に取り殺される事でしょう。
そう。
ワタシが餓鬼ちゃんを操作し、この指を持って帰れば。
この女性は──まあこの指が原因で取り殺されることは無いでしょう。
じゃあそうするべきかというと。
それをしちゃうと──もれなくワタシがあの特級呪霊ちゃんに笑顔で追いかけまわされる事請け負いな事ですね。はっはっは。死ぬ。
......。
別に、いいと思うんだけどね。
ワタシのような哀れなニンゲンが。
誰かの幸せを願わなければならない義理が、何処にあるというのでしょう。
どうせ。
ここで助けた所で。感謝すら払われないというのに。
ですが。
何故だか。
ワタシの心の奥底に。
ドカリ、と座る誰かがいるのです。
これを飲み込んだ人間が。
「......」
決断の時。
ワタシは──。