僕が沙織さんの家の鍵をもらってから大体二か月というそこそこ長い時間が過ぎた。
その間に彼女がやっている占い屋はそれなりに客足が伸びつつあり、ときたま僕が手伝い──とはいえたま~に列の整理や会計を任せられているだけだけど──に入ることも多くなってきた。
「う~ん、ここまで一日にいっぱい占ったのは初めてですね……。少々疲れたかもしれません」
店仕舞いをして二人きりになったタイミングで、沙織さんは座ったまま体を伸ばす。いっぱい客が来た、と言っても今まで一日中開いていても五人来れば多い方だったのが二十人弱来ただけなのだが、やはり占いというのはかなり神経を使うのだろう。
「まぁでも繁盛してきたのは良いことじゃないですか。今までほとんど二人で雑談してたら閉店時間、みたいなことになってましたし」
それでも全く客が来ずに暇を持て余すよりは繁盛して忙しい方がいいだろう。何せこの労働で入る収入が、これ以外の労働をしていないらしい彼女の生命線なのだから。
どうせ客足も少なく暇をしている。そう合鍵を渡されたときに言われたのは記憶に新しい……いや、新しくはないが今でも鮮明に覚えてはいた。
彼女の好意、あるいは期待に甘えて度々この家を訪れるようになってから、この店が潰れかけであるというのはすぐにわかってしまった。いつ訪れても客はおらず、来たとしても一人占ってその日は終わりというのが常でありどうやって生活しているのか疑問になったほどである。
そんな僕の疑問を見透かしたのか、沙織さんは息を一つ吐いて椅子から立ち上がりながら言葉を吐き出した。
「えりくんの言う通りで、全くお客さんが来ないよりありがたくはあるんですけど……。ぶっちゃけた話をすると、実はそれなりに不労所得があるのでここまで忙しくならなくてもいいんですよね」
「……なんとなくそうなんじゃないかとは思っていましたが、まさか本当にあるとは思ってませんでした」
なんとなく予想は付いていた。株なのか不動産なのか知らないが、ともかくこの閑古鳥の繁殖場と化している占い屋とは別の手段で金銭を捻出しているのだろうと。
故に淡々と言葉を返したことに驚いたのか、彼女は目を丸くしながら僕にコーヒーが並々と注がれたカップを差し出した。
「あまり驚いていないようですね」
「そりゃそうですよ。あの客足で入る収入でまともに生活するだなんて、到底不可能なのは子供の僕でもわかります」
「……こう改めて事実を羅列されるとすごく痛いです、心が」
ぐぅ、と言いながら沙織さんは胸を抑える。店が繁盛していないという事実は、それが自身の生活に関わってこないとはいえかなり気にしていたことだったのだろう。
「いや実際繁盛してくれるのは嬉しいんですけど……。寄せられる悩みが青春のそればかりなのが、なんだか歳を食ってしまったことを自覚させられるようで苦しいんですよね」
と苦々しい表情を浮かべながら言葉を漏らした。確かにそれは彼女の言う通りで、聞こえてくる依頼は恋愛の機運や進路、部活の試合の結果などいわゆる青春真っ只中といったものがほとんどだ。
どうやら彼女はそこに思うところがあるようで。
「若いって良いですねぇ……」
などとしみじみ呟く。自分だってまだ二十代前半じゃないか、とは思うが恐らくそういう問題ではないのだろう。過ぎ去っていった青春を懐かしんでいたり、こんな年齢になってしまったと焦りを感じていたり。
それは子供の僕にはまだわからない感情で、難しい顔をしながらコーヒーを口にする。砂糖を入れなかったせいか、少し苦い。
「えりくんにもいずれわかる時が来ますよ」
「あまり来てほしくはないですけどね」
「時は流れることを止めませんから」
少し深いようなことを言って、彼女は本棚から一冊抜き取った。運の付き方、なる胡散臭いことこの上ないタイトルのそれを真剣な眼差しで読み始めた。
僕はそれを見ておもむろにカバンから藁半紙を一枚取り出し、そこに印刷された数学の問題と向き合い始める。
閉店後、こうして過ごすのが最近の日常風景になっていた。
沙織さんは占い関係の本を──たまに単に彼女が気になっていた小説であったり興味を引いた星々の論文だったりするけれど──読み耽り、僕はそれを横目に宿題をする。
互いに干渉することはなく、ただこの部屋に二人の息遣いと何かを書き込む音やページを捲る音が僅かに木霊する。
ただそれだけの何気ない空間だったけれど、僕はそれが他の何よりも心地良く感じられた。
わざわざ明るい子を演じる必要も、深い憎悪に心を支配されることもない。文字通り、自然体の僕でいられる唯一の空間だったから。
▽▽▽▽▽
ほぼ毎日やっている沙織さんの占い屋が、珍しく休日となったある日の夕方。
僕は彼女の家へと向かって歩を進めていた。
「どうせ行くことになるならもう少し早く出ていればよかったな……」
行くかどうか昼ご飯を食べながら葛藤し答えが出ずに時間が過ぎ、そうしている間に日が沈み掛けており、つい先ほど夕ご飯のための食材がないことに気がついた。それならばと買い物ついでに寄ることにした結果がこの時間だ。
僕はもう少し決断力というのを付けるべきなのかもしれない。もしくは、素直に甘えることを覚えるべきか。
いくら長い時間を……とはいえ二か月程度でしかないけど、それだけの時間を一緒に過ごしてきたとはいえ、家に押し掛けるというのは流石に気が引ける。
占い屋がやっているのならば手伝いのためという言い訳ができるが、休日に限っては単に遊びに行っているだけになってしまう。それがどうにも気恥ずかしくて、なかなか気が進まないのだ。
「歓迎は、多分してくれるんだろうけど」
彼女が迷惑そうな顔を僕に向けてきたことは一度もない。いつ訪れても優しい笑顔をして出迎えてくれているけれど、それでも何の連絡もなしにいきなり押し掛けるのは、いくらなんでも迷惑だろうし申し訳ない。
途中でスーパーかコンビニに寄って、何か手土産でも買っていこうか。しかしそういうことをすると逆に気を遣わせてしまうかもしれない。
「……人付き合いって難しいな」
思わず言葉を漏らし、視線を前にやる。あれこれとウジウジ悩んでいる間に沙織さんの家に着いてしまった。
どうやら僕は相も変わらず優柔不断らしい。決断力を付けるべきなのかも、などと考えていてもそう簡単には変われないようだった。
そんなことを考えながら溜め息を吐き、ポケットへと手を突っ込んで、その手を止める。
「ドア、開いたままだ……」
どういうわけか、ドアが開いたままだ。全開というわけではないが、だとしても不用心にも程がある。
どうせ鍵を持っているのだから、と自分に言い聞かせながら半分ほど開いているドアに手を掛けて、再び立ち止まる。
ドアの向こう。
そこから香ってくる匂い。
いつも彼女が焚いているアロマの香りの他にもう一つ、嗅ぎ慣れないものが混じっていた。
眉を潜めてそれを嗅ぎ分けようとして、一気に血の気が引く。
僕はその匂いを知っている。
あの日、あの場所で嗅いだ匂い。
忘れたくても忘れられない、脳に深く刻み込まれた血の匂いだった。
嫌な予感がする。
心臓の鼓動が早まるのを感じながら、僕は音を立てないように気をつけながら家の中へと侵入した。
物音がするのはキッチンのある方。
耳を澄まし、ゆっくりとゆっくりと近付いた。
「……頼む」
想像している最悪の結末。そんなことはないと思いたいが、記憶が状況があの時と同じだと訴えかけてくる。何より普通に生活していてここまで血の匂いがすることなどありえない。
あるとすればそれは、包丁か何かで派手に切ってしまって血が止まらなくなったかあるいは……。
どうか後者でないことを祈りつつ、意を決してチラリとキッチンの中を覗き込む。
視界に入ったのは、口の端から血を流しながら床にへたり込んでいる沙織さんの姿。
そして、僕に背を向け、彼女を見下ろしている異形の何かだった。
天球儀のようなものを頭に、その背からは星々が縫い付けてあるマントのようなものを羽織っていた。
どう考えてもあれはドーパントだ。頭とマント以外何も見えていないがそう察するのはあまりにも容易で、それを脳が認識した瞬間何も考えられなくなって体が固まってしまう。
恐らくドーパントがこちらの方を振り向けば、すぐさまバレてしまうだろう。そうなれば、次に危害を加えられるのは確実にこの現場を目撃してしまった僕だ。
そして、僕にドーパントに対抗できるような力なんてあるはずもなく。
早く何処かへ逃げなければならないのに、体が動かなくて。
浅くなる呼吸。
狭まる視界。
早まる鼓動。
飛びかける意識。
その中で、沙織さんと目が合った。
彼女はどうして今ここに、とでも言いたげな表情を浮かべて僕を見る。
次に痛みに顔をしかめ、口を僅かに動かした。
に、げ、て
恐らくはそう言いたかったのだろう。
そんなことはできないと首を横に振り、助けに入りたかった。
だが、そんな思いとは裏腹に体はキッチンから離れてダイニングへと向かっていく。テーブルの下に潜れば、誰も入ったことに気がついていない様子のドーパントから隠れ切る事ができるはずだ。
物音を立てないように気を付けながら体をテーブルの下へ隠れる。
フラッシュバックするトラウマとあの惨状。それらの光景が重なって吐きそうになるのをなんとか押し留めていると、キッチンの方から男の声がした。
「お前が悪いんだぞ、渡会。俺から客を奪って天狗になったお前が」
俺から客を奪った、ということはこの男は沙織さんの同業者で占い師なのだろう。
恐怖に塗れているくせに嫌に冷静な思考を回す。この街にそう何人も何人も占い師がいるとは思えない。顔こそ全くわからないが、虱潰しに店を訪れていけば似た声の男に当たることだろう。
当たったらどうするか、なんてことは考えてもいないけれど。
そうしている間にドーパントは満足したのか、何か音を響かせてから──多分人間の姿に戻ったのだと思う──ペタペタと足音を響かせながら玄関の方へと向かっていった。
ガチャリ。音を立てて半開きになっていたドアが閉まる。
そこからほんの少し間を置いて、僕は急いでキッチンの方へと向かう。
「えりくんに危害が及ばなくて、良かったです……」
僕の顔を見るやそう言い、胸を撫で下ろす沙織さん。何も良くないでしょうと思わず語気を強めて返し、彼女の元へ駆け寄った。
チラリと見ただけでも多数の打撲痕や切り傷があり、先は気が付かなかったがどうやら頭にも切り傷があるらしく血が彼女の頬を伝ってカーペットに赤い染みを作っていく。
急いで彼女を横にし、出血点を心臓より高い位置に置かなければならないらしいというどこかで聞きかじった知識に従って僕の膝の上に彼女の頭を乗せる。
贅沢な膝枕ですね、なんて冗談めかして沙織さんは言うが今はそれに構っていられるほどの余裕はない。
「急いで警察を、いや救急が先か……!?」
思考を止めている暇はない。急いで応急処置をして、然るべきところに連絡をしなければ彼女は死んでしまう。
僕の選択と行動で、彼女の未来が決まると言っても過言ではない。
希望はまだある。
あの時と違って、まだ息があるのだから。
あの時と違って、まだ助かるかもしれないのだから。
だから思考を止めるな。
だから動きを止めるな。
そう言い聞かせ、震える手でガラケーを取り出して人生で初めての119を打ち込んだ。
焦りながら彼女の状態を伝えている僕の震え声を聞いて、恐らくオペレーターの人もただ事ではないと察してくれたのだろう。まず落ち着くよう言ってくれ、次いで警察にも向かうよう指示を出したと伝えてくれた。
救急車や警察官が到着するまで、恐らく十分程度かかる。そう言われ、通話は切れた。
用事の済んだガラケーをズボンのポケットに突っ込み、僕は急いで近くにあったタオルを彼女の頭に押し当てる。オペレーター曰く、圧迫止血を試みてほしいとのことでそういった方法を教えられたからだ。
「あと少しで救急車が来ますからもうちょっとだけ踏ん張ってくださいね!!」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言って、沙織さんを鼓舞する。
段々と赤に染まっていくタオルと、僕の手。それとは対照的に、彼女の顔は徐々に青褪めていっている。
「あまり、こういうタイミングで言うべきでないというのは承知の上で……えりくんに伝えたいことがあります」
息も絶え絶えで、限界スレスレのところにいるのがよく分かるほど弱々しい声で彼女はそんなことを言い出した。
喋ったら傷口が開く、等と静止する僕の声も聞かずに彼女は言葉を続ける。
「もしこれで私が死んだとしたら……。どうか、その時は私のことなど全て忘れてはくれませんか?」
「なにを、いって」
理解できない、と言わんばかりにそう呟いてしまった。
沙織さんのことを全て忘れろ?
「そんなこと、できるわけないじゃないですか……」
できるわけがない。
忘れられるわけがない。
一緒に過ごしたこの二か月と少し。なんてことのない日々だったけれど、それでも僕にとっては掛け替えのない時間だった。穏やかで、心地良くて、これ以上にないほどに安心できる時間だった。
そんな幸せに満ちていた記憶を、忘れられるわけがない。
「私は、えりくんの心に傷を付けたくないんです。あなたの心は、既にいつ壊れてしまってもおかしくないのですから……」
そこで言葉を切り、彼女は苦しそうに咳き込んだ。口から夥しい量の血を吐き出し、彼女の白かったはずの部屋着が真っ赤に染まる。
「もう喋っちゃダメですって!! 本当に死んじゃいますよ!!」
単に喋るだけでも、今の彼女にとっては文字通り命を削る行為に他ならないのだろう。
そこまでして僕に伝えようとしなくたっていい。体が無事に治ってから伝えればいいだけの話で、今無理してまで話さなくたっていい。
だというのに彼女は、言葉を紡ぐことを止めない。
「泣かせて、しまいましたね……。この場所が安らぎの場所になればと、そう言ったのは私なのに……」
後悔したような表情を浮かべ、僕の頬に手を添える。その華奢な指先でとめどなく溢れる涙を拭うと、激痛に苛まれているはずなのにいつもと変わらぬ優しい笑みを浮かべた。
どうして、そんなに優しいんですか。
生死の境にいるというのに、なぜ僕のことばかり気にするんですか。
言いたいことは色々あった。聞きたいことも、伝えたいことも。
そのどれもが口にしようとしても、言葉が纏まらずに喉の奥で支えてしまう。口を開いても、何も言えずにただ空気をわずかに吐き出して閉じるのみ。
そんな僕に向け彼女は、頭に浮かんだのだろう言葉たちを次々に口にしていく。
「元はといえば私の独りよがりな善意だったのに、それを受け入れてくださってありがとうございます……。それと、それのせいでこんな事件に巻き込んでしまって……」
「あ、謝らないでくださいよ!! そんな死ぬ間際みたいなこと言わないでくださいって!!」
彼女が喋る度、彼女の死が刻一刻と迫っているのを感じてしまう。
声も弱弱しくなり、目の焦点だって合っているのかわからない。彼女の体から溢れ出る血が床で水溜まりのようになっているし、手にも力が全く入っていない。
「もう少しで救急車が来ますから!! それまで耐えて……」
脳裏に過ぎった助からないのではという嫌な想像を否定するようにそう叫び、圧迫止血をしている手に一層力を込める。
その手を、彼女は震える手で握って胸の方へ寄せた。
「さ、沙織さん……?」
一体何を、と言いかけた僕を静止するように顔を横に振る。
その表情を見て悟ってしまう。
彼女はもう、死を受け入れているのだと。
「もう、大丈夫です。きっと到着したころには手遅れでしょうから……。それなのに、えりくんの手を汚してしまうわけにはいきません」
「そんなこと言ってる場合じゃ……。それにまだ希望はあるんですから」
「……自分の体は自分が一番、よくわかりますから。もう目もほとんど見えませんしね」
そう言って、僕の方を見る。やはりその焦点は合っていない。
「正直なことを言うと……。最期に、手を握っていてほしかったんです……。えりくんが、そばにいると思うと……安心するので……」
「そんなに手を繋ぎたいなら後でいくらでも握ってあげますから、だからそんなこと……!!」
「今が、いいんです」
そう言われ、僕は彼女の手を優しく握る。
握り返してくれはしたが、しかしその力はもうほとんど感じ取れないほどまでに弱弱しい。
「あなたと出会えて、私は幸せでした……。まるで夢のようで……、でも、それもこれでおしまいです」
どこを見ているのかもわからないはずの目を、真っすぐと僕に向けて彼女はそう言った。
残されたわずかな力を振り絞る様に、たどたどしい口調で。
「願わくば、えりくんの未来が、抱えきれないほどの幸せに彩られていますように……」
それを最後に、彼女は口を止めた。
先までわずかにあった、握り返されているという感触も、ついに消えてしまった。
「沙織さん……?」
返事を期待して発した呼びかけに、しかし返ってくる言葉はない。
彼女の手越しに伝わっていた心臓の鼓動も、今は全く感じられない。
嘘だ。そんなわけがない。
そう否定したくて、歪む視界の中必死に彼女の胸に僕の手を重ねて心臓マッサージを開始した。
遠くから微かに聞こえる、近づいてくる救急車のサイレン。
かなりの速度で近づいているはずなのに、それすら遅く感じられた。
▽▽▽▽▽
「これは、もう……」
ようやく家に着いた救急隊員が彼女を診た後の第一声は、それだった。
残念そうに首を横に振る救急隊員の胸倉を掴んで激昂してしまったのも、骸と化した冷たい彼女の体を抱いて慟哭したのも、仕方のないことだと思う。
ドーパントのせいで、大切な人を二度も亡くしてしまったという事実を受け入れたとき。
僕の心が音を立てて壊れていくのを、まるで他人事のように、それでも確かに感じていた。