剣道美少女の代わりにボコボコにされるオリ主くん 作:カネナリ#2560
女が一人、居た。破壊されて惨状と化し、泥濘を残した池の底で孤独に身を横たわらせていた。
暮れ行く日の光が女の眼孔を焼き付くそうと、女は瞳を閉じず、更には瞬き一つすらしない。それは暗殺者として受けた訓練の賜物か、はたまた、ただ単に放心しているのか見ているだけでは推し測る事は出来ない。
女の名は
数字落ちの際に並み居る親戚から受け入れを拒否され、最終的に親交の有った千葉家に保護された。
満葉亜音が思い出すのは自身がまだ少女であった、その頃の記憶だ。
同い年だからと、保護された満葉亜音の世話役に千葉寿和が付けられた。厄介払いとも取れるが、少女の他人に対する不信感と千葉寿和の適当さが上手く噛み合い、表面上は問題が発生しない奇跡が起きていた。
身の上の世話はするし会話もする。千葉寿和は父である千葉丈一郎に言い渡された仕事は果たすが、だからこそ満葉亜音に対する過干渉を控えていた。見るからに面倒事を引っ提げているのに、敢えて突っ込むような物好きな真似は、空気の読み方を最近知った千葉寿和はしようとはしなかったのだ。
だが、一ヶ月も接すれば情も湧くし絆が繋がる。唯一作られた繋がりに、満葉亜音が自身の心情を明かしてしまうのも時間の問題であった。
満葉亜音は日課の素振りをする千葉寿和に、知っているであろう身の上を敢えて語り、この先生きていく展望が見えないと己の心情を述べた。
困ったのはそんな話を突然された千葉寿和だ。千葉寿和は目の前の身寄りの無い満葉亜音にやるせなさを覚えていたが、抱えている問題はどうしようもなく難解に尽きる。
千葉寿和は自身は未熟で尚且無力であり、その問題を解決することは出来ないしする積もりもなかった。事実、この時の千葉寿和がどう足掻いたところで満葉亜音の現状を変えることなど出来はしなかっただろう。
しかし、千葉寿和は満葉亜音のお世話をする身だ。名目上、持ち掛けられた相談には答えなくてはならない。意外と律儀な性格の千葉寿和は、悩んだ末に自身が抱える夢を語った。
大分昔、それも千葉寿和が初めて剣を握った日。偶々居合わせた京沢才児に稽古を付けて貰った話をした。緩やかで優しい手合せであったが、それなりの才を持っていた千葉寿和は名も知らぬ不審者にこてんぱんにやられていることを理解していた。
並みの幼子であれば剣の道を放り出す程の挫折が与えられたが、それを糧にして憧れとなったあの人に追い付きたいと思えたのは、単に千葉寿和の根性が強靭であったためであろう。幼いながらも築き上げたポリシーさえ曲げて、今剣を振るっているのもそれに尽きる。
「まあ、詰まりだ。信じているものを我武者羅に追いかけりゃあ、生きる分には十分なんじゃねえの? それこそ、悩みなんて抱えている暇が無い位によ」
幼い千葉寿和は口下手であったが、心には確固たる信念を根付かせていた。その熱は、満葉亜音を腑に落ちないながらも納得させた程には熱かった。
その翌日、満葉亜音を探し当てた暗部の頭領が、能力を見込んで身を買い取った事により、満葉亜音と千葉寿和の関係は断たれた。
千葉寿和はその事に思わないものが無いわけでは無いが、同時に自身ではどうしようもない事であると理解していた。千葉家が内包する穢れは根深いものであり、弱い千葉寿和では祓うことが叶わない膿である。
何時かはその膿を取り去って見せると意気込み、そして千葉寿和は強くなるため、何時の日もまた剣を振るったのだ。
満葉亜音を買い取った暗部の頭領は、満葉亜音に内在する熱、詰まり千葉寿和に与えられた火種を自身に対する忠誠心へと焚き付け、執着という火でもって組織への帰属意識を芽生えさせた。境遇を考えれば従順であるはずの無い満葉亜音が、身命を賭してまで働いた理由がこれである。
だが、この洗脳は堅い意志さえ有れば抗える程度の軽い暗示だ。例え熱が伝播しようと満葉亜音の根本的な弱さは覆しようが無いのだ。熱が有ろうと無かろうと、結果は然して変わりはしなかっただろう。
満葉亜音が思い悩むのはその心の強度についてだ。自身が愚かな選択をしていたことなど、冷静となった今では容易に理解できる。だが、今理解したところでこの先生きていく内にまた同じ過ちをしてしまうかもしれない。
いや、確実に繰り返すだろう、と満葉亜音は客観的に自身を鑑みて思った。内向的で軟弱な精神は縋り付けるものに容易に手を伸ばしてしまう。
何か自分をどうにかして変えれないかと思索するも、十三年間他人に任せっきりだった思考回路は働いてくれない。
「(誰か……誰か教えてくれ)」
かつて千葉寿和から伝播した熱は取り払われた。心の支柱となる存在が消失したのだ。自身では答えを見いだせない満葉亜音は、教授してくれるだろう誰かに助けを求める。
「(私は、一体何をすれば……。何を支えに生きていけば良いのだ)」
友を救うために奔放する男を見た。かつて垣間見た熱は燻っていたが、此度の死線によって開花し見事生き長らえてみせた。
自由と憧憬を得るために父と死闘を繰り広げた少年を見た。何度叩きのめされようと折れない芯の強さでもって、見事鳥籠の鳥を羽ばたかせてみせた。
満葉亜音では一生をかけても成し得ぬことを、その者たちは眼前でやってのけたのだ。それらに尊敬の念よりも先に嫉妬心が芽生えるのは、満葉亜音が持つ心の醜さを如実に表している。
その事実が満葉亜音の心情に自己嫌悪に似た何かを発生させ、すぐにでも変わらねば瓦解してしまうと焦りを生ませた。
「(頼む……誰か……お願いだ)」
満葉亜音は声も上げぬままに、ただ焦燥感を燻らせ、時間だけを無益に浪費していく。日はすっかり落ち、夜の蚊帳が空を覆った。
そうして漸く、満葉亜音は自ずから行動しなければ答えを得ることなど叶わない事に気付けた。
思い出すのは千葉寿和の夢。それを聞き出せたのも満葉亜音自らが尋ねたからだ。満葉亜音が尋ねなければ、千葉寿和は憐れな少女に対して何も語ることは無かっただろう。
必要に迫られない限り千葉寿和は語らなかった。何故なら当時の千葉寿和に、情けない停滞者を気に掛ける余裕など無かったのだから。
行動だ。行動しなければ何も始まらない。自ずから動かなければ、先へ続く道どころか聳え立つ壁すらも認識できない。
満葉亜音はその様に決意し、泥濘の底から遅やかに脱却した。身を起こすだけでも体が精神的疲労で悲鳴を上げる。苦節の十三年間で味わってきたどんな苦痛よりも、身を起こす疲労が勝っている。満葉亜音はそんな錯覚を覚えた。
満葉亜音はここを動いて何をするか全く考えていない。少年から与えられた四つの選択肢さえも忘却の彼方に追いやっている。今、満葉亜音は動かなければという強迫観念でもって体を動かしているのだ。
月明かりが夜を照らす中、崩壊した道場で何者かの人影が瓦礫を漁っている。満葉亜音は光に寄る虫の持つ虫の様にそれに吸い寄せられた。
「む? 臭うと思えばお前か。何だ、自分を殺しに来たか?」
「ぁ、いや……」
「ならば何用か。見ての通り自分は忙しい」
少年が崩落した屋根の一部を退かせば、板張りの床に出来た大きい穴が覗く。そこに降り立った少年は何かを探しているように瓦礫を漁った。
そして見つけ出し、拾い上げたのはひび割れた木片。良く見ればそれは木刀の柄のような物であり、片面に『京沢』と達筆に彫られている。
少年はそれを握り込み何事かを呟いた。木刀の柄は光輝き、更には断面から伸びて刀の形状を形作る。掲げられたそれに、周囲の瓦礫から微小の木片が浮かび上がっては吸い込まれるように付着していく。
「何を……しているんだ?」
「なんだ、まだ居たのか。何、父との思い出の品がぼろ布一切れでは寂しくてな。未熟さから壊してしまった木刀を集めているところだ」
集結する木片群は刀の形状を形作っていくが、不自然に欠けた部分が散見される。幾ら魔法力が高くて情報強化に優れようとも、元から壊れている物では無意味に等しい。少年の行動は無駄そのものである。
「……それで戦う積もりか」
「自分程の強者であれば、基本武器は選ばん。木で斬ろうと鉄で斬ろうと、相対する者が死ぬという結果は然して変わらんからな。
無論、この壊れかけの木刀だとしても、並み居る人間では太刀打ちすらできんだろう。これを傲りとは言わせん。その言葉は自分に勝ってから初めて言える言葉だ。
最も、自分は負けんがね」
少年は武器や魔法に頼らずとも、肉体術だけで人を簡単に殺めることが出来る。そんな少年の一振に耐え得るのならば、それは大層立派な武器であると言えるだろう。例え持つだけでも自壊しそうな木刀だとしてもだ。
少年は木片がもう飛んでこない事を確認すると、そのボロボロの刀身に何らかの魔法式を書き込んで、何時の間にか腰に差していた鞘に収めた。
少年は手に付いた土埃を打ち払い、そして不可解な動作で全身の土埃も落ちていく。魔法を使っているのだろうが、魔法師としての教育を終えていない満葉亜音では、どんな魔法であるか検討も付かない。
「さて、お前がここに居るということは何らかの選択をしたのだろう。それを意思表明する事に何ら意味も見いだせないが、一応聞いておいてやる」
「……私はまだ、何も。ただ、何か事を起こさねば、何も出来なくなると思って……」
「そうか、実に詰まらん事を聞いたな」
平坦な顔付き、抑揚の無い声色、心無い台詞、しかし瞳だけは確かに満葉亜音を見ていた。満葉亜音の奥に存在する何かを、少年は見ていたのだ。
そして興味を失ったのか少年は目を離して平屋へ向かった。薄情だとか、鬼畜外道だとか思うかもしれないが、ここで重要なのは少年の視線が満葉亜音を捉えたことにある。少年のお眼鏡に叶う何かが、満葉亜音の中に存在するのだ。
それが何であるか満葉亜音には理解することすら不可能であるが、その事実は足を動かす燃料には成り得た。少年の後ろをカルガモの様についていくのに何の意味も介在しない事など、満葉亜音は承知の上である。
だが、それでも尚、ついていけば何かが変わるはずだと直感して行動に移しているのは、少年の足跡は満葉亜音にとって模範とすべき道標であると知っているからだ。
偉大なる殺戮者にして日本が誇る汚点である京沢才治を、再び世へ送り出した最大の戦犯者である京沢唯一。行った業の大きさではなく、そこに至るまでに高めた決意の強さを満葉亜音は讃え崇めたのだ。
少年に倣って靴を脱いで縁側へ上がる。扉を開いた先に布団に稲垣が眠っているのが見えた。その傍らには袴を着こなした千葉寿和が立ち上がって満葉亜音を睨み付けていた。妙にマッチするその出で立ちは、腰に真剣を差せば剣客そのものだと言われるろう。
「てめぇ……何の用だ」
「そう殺気立てるでない。今の此奴は戦意も無ければ意志すら希薄な、謂わば糸の切れた人形よ。遣い手を求めて彷徨う木偶の坊に過ぎん。好きにさせよ」
「んな事は分かってんだよ……。だがよ、そいつが稲垣にしたことを忘れた訳じゃあねえんだ、オレはよ。稲垣に指一本でも触れてみやがれ。今度こそてめぇを殺すぞッ!!
おいコラッ! 聞いてんのか!! てめぇに言ってんだよ、てめぇに!」
満葉亜音は千葉寿和の恐喝に一切応えなかった。呆然と稲垣の寝顔を見詰め、瞠目し、眼を見開いて眉を吊り上げた。スーツから滴り落ちる泥の混じった水滴が、やけに重量感のある音を立てる。
「責任を……」
「は?」
思わず、といった風貌で満葉亜音は呟きを発した。何の脈略の無いそれに千葉寿和は困惑とした声を上げるしかない。
「責任……そう、責任だ。その男には私を助けた責任が有る。今こうして私が苦悩の最中に在るのも、あの時私を助命したからだ。そうだ、そうでなくてはならない」
「ならば願うが良い。今一度救いを請うのだ。さすれば彼らは普遍的な良心でもってお前を保護するだろう。お前の様な憐れな存在は、他人の支え無しに生きて行けぬからな」
「……ァアッ!! 違う! 違うだろう! それは救いではない!」
少年の蔑みの言葉に満葉亜音は狂乱し、頭を振るっては掻きむしり纏わりついていた泥を辺りに撒き散らす。少年は飛んでくるそれを払い除けるが、全てを防げる訳もなく、畳に多くの染みを作らせる。最早この住処に用は無いが、それでも綺麗なまま去りたい少年にとって汚れが付くのは眉を潜ませざるを得ない。
「私を救えるのは私だけだ! 私が私として生きるにはそれしか道は無い!
他人に人生を振り回されるのは、もう、たくさんなんだ……」
「だからなんだってんだ。そんな事オレ達に言ったところでの話だろ。満たされんのはてめぇの自己満足だけだ」
千葉寿和の吐き捨てる様な言いがかりに、満葉亜音は振り乱す動きをピタリと止め、仄暗い眼差しを前髪から覗かせる。得体の知れないその様に千葉寿和は臆すること無く、かえって馬鹿にする様に見下した眼差しを返した。
「違う、断じて違う。先の告白は単なる前振りに過ぎない。私がお前たちに求めるのは救いでも保護でも無く、私が己のままに生きる手立てとなることだ。それ以外の些事は求めないし興味も無い。
幼子が突発的な家出をして日を跨ぐ前に帰宅する様に、私が孤独に生きようとしても同じ過ちを犯すだろう。貴方達がその思いを踏み留まらせる枷となることで、真っ当な私によって私が救われるに至るのだ。
故に、お前たちには私を助けた当事者として、その責務を全うしてもらうぞ」
「随分と図々しい要求じゃあねえか。こりゃあ助けねえ方が良かったか?」
「所詮は女児の戯れよ。聞き入れて流すが吉」
満葉亜音が求めるのであれば、千葉寿和の心中には満葉亜音の保護や救助を行っても構わないという考えがあった。
満葉亜音の経歴は警察としての立場や、千葉家の蔵書に残されていた契約書などによって調査済みだ。満葉亜音が関与する事件を何度も追い、居場所を突き止める一歩前まで行ったが、上部からの指示により打ち切られている。自分では何もしてやれなかったという罪悪感が、僅かながらも千葉寿和の心中に燻っていたのだ。
満葉亜音が仕出かした罪は大量殺人や国家機密の情報漏洩など重く大きいものだが、その対象となった人物の何れもが満葉亜音が犯した罪より業の深い事をしていたので、千葉寿和は即刻逮捕する様な短慮な真似はしなかった。
謂わば満葉亜音は社会が生み出した一つの歯車。その方面に才能を持って生まれたが故に嵌め込まれたに過ぎない。詰まるところ成るように成っただけで、全て仕方の無い事だったのだ。
だからと言って千葉寿和はヘラってる女──それも暗部の諜報員──の世話などやりたくは無いのだが、それはそれ、これはこれだ。千葉寿和は、雨に打たれて震える子犬を思わず拾ってしまった様な、これからどうするべきか分からなくて途方に暮れているあの感じになった。
国籍や経歴が抹消された満葉亜音には人権が無いため、立場が捨て犬とそう変わらないのも千葉寿和をより一層苦悩の淵に叩き込んでいる。
「はあ……チッ、クソが。オレじゃあ判断が鈍る。
稲垣クンが起きたらてめぇの事をある程度話す。オレとてめぇ、次いでに
話しは終わりだと言わんばかりに、千葉寿和は床に寝転がって欠伸をかいた。唯一の懸念材料である満葉亜音が敵で無くなったからだろうか。ずっと張り巡らしていた警戒心を解いている。
「これがお前の選択か」
「……分からない。この決断が、果たして自分が下したものなのか、今の私にはとても……。だが、いつかは分かるようになる。ならなくてはいけない」
「後回しなど時間の無駄でしか無いが、まあお前が良いのならば良いのだろう。それはさておき、同行を願うのであれば風呂に行くことを推奨する。正直、臭くて叶わん」
「……」
京沢家の男児はデリカシーの無さが標準装備である。道具となった時に、性差など筋肉量の差でしかないという認識になった満葉亜音でも、少年の言葉には些か傷付いた様子だ。
汚れているのも事実なため、勝手知ったる足取りで風呂場へと進む。床に泥の足跡と点々とした染みを作る度に、少年の顔がしかめっ面になって時々舌打ちが漏れる。それでも着替えを用意してやる辺り、少年も父親の様にツンデレさんなのだろう。
久方振りのシャワーは心が洗われる様だったと、満葉亜音は思った。そもそも、水を使わずとも綺麗になれる機械や魔法など幾らでもあるが、それでは積み重なったストレスは解消されない。
手入れを怠っていた髪は痛みきっており、シャンプーで頭を洗っていると指に絡み付いてくる。慎重に解さなければ引きちぎってしまうだろう。
「(この香り……確か、あの人の)」
満葉亜音は昔親身になって接してくれたある女性の事を思い出していた。抱き締められる度に鼻腔を擽ったこの香りが、当時の満葉亜音にとって唯一の癒しであったと、今更ながらに満葉亜音は理解した。
「(元気にしているだろうか。……生きていたとしても、私があの人に会う資格は無い……か)」
桶に溜めた水で泡を流し、満葉亜音は鏡で自身の姿を見詰めた。過剰な鍛練によって成人前に成長の止まった肉体には、銃弾の痕や刃物による裂傷、散見する火傷の痕などかつての任務で負ったそれらが散見される。
満葉亜音はそこに手を宛がい自身が受け継いだ唯一無二の魔法を行使する。指の腹に触れた傷痕は瑞々しい肌へ置き換わっていった。かつて勲章だとかふざけた理由で遺していたが、表の世界に出る以上最早必要ないものだ。
数十分もの魔法行使の末、満葉亜音の体は傷一つ無い真白の身体となった。肉付きが薄く、僅かに艶が付いたがそれでもボサボサな髪では、折角の端正な顔付きも美しさが半減しているだろう。最も、当の満葉亜音は全く気にしていないが。
論理感の欠如。取り分け、自分の事を道具としか見れないアイデンティティーの喪失によって、満葉亜音は自身に対する頓着が存在しない。その辺りは良い男な千葉寿和の手腕に期待しよう。
魔法で体表の水滴を弾き、用意されていた服を身に纏った。服からも懐かしい匂いがした。
「(たった数年しか経っていないのに懐かしいとは……可笑しなものだ)」
母親の様な人であったと満葉亜音は思い出に浸った。親族には碌でもない人間しか居なかったが、理想の親という例を満葉亜音は実際に知ることが出来た。監視対象に惚れ込んで子を成した時には、その子供へ嫉妬と羨望を覚えたがそれも過ぎたことだ。
「上がったか。明星が出た。直ぐにここを発つ故仕度を済ませておけ」
「……ああ」
「お前の命運を決める者が目を覚ました。礼の一つや二つ捧げて機嫌でも取ることだな」
「……そうしよう。…………なあ、あの人は今……」
「何かね」
「……いや、何でもない」
満葉亜音と問答を続けながら、少年は床の泥を丹念に拭き取っている。出ていく上に二度と戻れないであろう家を掃除する必要は無い気がするが、それを言及する程の気力は満葉亜音にはなかった。
満葉亜音は少年に聞きたい事があった。少年の母親は今、何処に居るのかと。
満葉亜音は監視の任に就いていた故に、少年が母親と姉をこの地から脱却させた仕立て人である事に薄々気付いていた。また、それに同行可能だったのに敢えてそうしなかった理由も同様に。
少年の関心は母親と姉に一欠片足りとも向いておらず、如何にして父親を再起させるかという計画の基に行動していた。そんな少年の事だ。母親の現在地は何らかの手法で認知しており、またその情報を尋ねた満葉亜音に躊躇いもなく渡すだろう。
だからこそ、満葉亜音は少年の母親の所在を聞けずに言い淀んだ。聞けば最後、満葉亜音は衝動のままに少年の母親の元まで駆け付け、実親に向けられなかったあらゆる感情をぶつけ、甘え、直ぐにでも依存するだろう。
満葉亜音の無駄に大きい自尊心が、年齢的に独り立ちしてなければ可笑しい自身が、そんな駄々っ子の様な醜態を晒す事を許す筈もなかったのだ。
満葉亜音はゆらゆらとした足取りで廊下を歩き、突き当たりで足を止めた。襖の取手に手を掛けるも、その手が横へ動くことは無かった。
何せこれから会う相手は、自身が殺そうとした人物だ。命の危機から救ってくれたとは言え、何らかの確執が発生しているのは至極当然の事だろう。織り混ぜになった感情は満葉亜音の身体に悪影響を及ぼし、嘔吐する一歩手前にまで悪化させる。
カチリ、と満葉亜音はスイッチを押す様に思考を切り替えた。諜報員の技術をこんな下らない事で使うとは思わなかったが、精神的弱者の満葉亜音にとって必要不可欠な行動なのだろう。
満葉亜音は襖を開けて部屋に入った。出立の準備を終えたのか、千葉寿和が稲垣に肩を貸して身体を起こしていた。稲垣の顔を直視した満葉亜音は緊張によって嘔吐感が再発するも、それを尾首に出さず飄々と言葉を連ねた。
「この度、貴殿らに同行することと相成った満葉亜音だ。稲垣とやら、私が私として生きる支えとなる事を望もう。それが私の命を助けた責任と知れ」
「おい……てめぇ。命の恩人相手にそうするってんならてめぇの処遇も──」
一瞬で凄まじい形相となっていた千葉寿和を、稲垣は手を上げて止めた。稲垣は気付いていた。満葉亜音の異様な状態に。これ以上の負荷は危険であると、普遍的な思考でもって千葉寿和を抑えたのだ。
「警部、ここは自分が」
「……ッ! チッ」
稲垣の声によって千葉寿和も気付いたのだろう。やるせなさを舌打ち一つに込めて押し黙った。
「満葉亜音さん……ですよね。貴女の事は警部と
ググッ、と満葉亜音の顔が強張った。例えどんな言葉が投げ掛けられようと、責任だのどうのこうの言って押し付けがましく同行する積もりでいる満葉亜音でも、拒絶される事には恐れを抱いてしまうものなのだ。厚顔無恥も良いところである。
「本来ならば貴女の犯罪行為は罰せられるべきですが、貴女が組織に操られていた件によって情状酌量の余地ありと本官は判断致しました。
本官は貴女を監視、もとい保護すると決定しました。貴女が所属する組織が政府公認のものであり尚且つ世間に公表されていないものであるのならば、確実に貴女は政府による情報規制の名目でもって消されるでしょう。
そんな横暴、許される筈がありません。助命の責務以前に、秩序を守護する警察官としての職務を全うさせて頂きます」
「ああ、それで同行出きるのなら……私は構わない」
それを知ってか知らずか、稲垣はその声と表情に何の感情も出さず、ただ淡々と警察官だから満葉亜音を護ると言った。満葉亜音が望む言葉では無かったが、自立を促す最適の解答ではあった。
満葉亜音が諜報員として生きていた事を教えられていない稲垣だからこそ、満葉亜音をただの一般魔法師であると誤認している稲垣だからこそ、言えた事であった。
性根の腐った千葉寿和と少年では、こんな綺麗事抜かせる筈もない。
「しかし警部、本当に良かったのでしょうか。末端である自分が重要な選択をするというのは、かなり問題になるのでは……」
「言っただろうが。オレと
「甘い男よ」
サッ、と千葉寿和の背後の襖が開き少年が姿を現す。最後のお掃除を終えたようだ。
「何時の間に後に……てか、お前さんが稲垣クンを焚き付けたんだろうが。
まあ、兎に角だ。てめぇの支えになるかは知らんが衣食住は保証する。次期当主様ぱぅわぁ~で何とか出来るだろ。出来なかったら知らん。そん時はそん時だ。
先ずはこのしみったれた場所から出ていく事からか。ま、何とかなんだろ」
「……ここら一帯には認識阻害の魔法が掛けられている。この魔法が作動する限り、私もお前たちも出口を認識できない。どの様にして抜ける積もりだ」
「何、宛はある。付いて来るが良い」
少年の案内の元、一行は台所へやって来た。各々が怪訝な表情を浮かべるなか、少年はそんなことなどに気にも掛けず、想子を宿した手で床に触れた。すると突如として魔法式が顕在化し、何らかの作用を及ぼして一部の床がスライドした。
床に開いた穴は大人一人が普通に通れる程度の大きさであり、梯子が下に伸びている。
少年は何の気負いも無く飛び降りて、3秒間の空白の後に着地音を響かせた。意外と深さは無いようだ。
「早う来んか」
「ヘイヘイ、せっかちさんめ。オラ、行くぞ稲垣クン」
「えっ、ちょっ」
貧血の稲垣を思って、千葉寿和は先に投げ入れた。下に少年が待っているならキャッチしてくれる筈だと、千葉寿和は思ったからだ。間を空けて軽やかに着地すれば、案の定稲垣は五体満足で青い顔になって床に寝転んでいた。因みに満葉亜音は普通に降りてきた。
「……抜け道、か。まさか本部を経由して脱出していたとは……。確かに、ここなら認識阻害魔法の作動範囲外であるし、セキュリティの甘い出口がそこらにある」
「暗部の連中は頭が緩いのか? 穴だらけも良いところだろ」
そこは満葉亜音にとって非常に見慣れた環境であった。暗く、鬱屈で、湿っぽい、暗部の本部に当たる地下施設。更にはリニューアルによって使い道が無くなった機材を置く部屋であった。所狭しに並べられた機材が窮屈さを際限無く与え、舞い上がる埃が喉を殺してくる。
換気のために少年が扉を開けば、廊下から血生臭い濃密な死の臭いが漂ってきた。扉の先を真っ先に見た少年は、血糊がベットリと付着した生首と目が合った。
その生首は疲れきった顔つき、言わば戦闘とは無縁の表情のまま硬直している。
「こりゃあひでぇな。ひでぇが、すげえ光景だ」
見渡せば同一の状態である遺体が幾つもある。察知する前に、痛みすら感じない一瞬の間に一閃の刃でもって首を断たれたのだろう。それを証明するかのように、周囲に一切の戦闘痕が存在しなかった。
こんな芸当が出来るのは、京沢才児以外に考えられないだろう。
「どうやら、父は仕事を終えた様だ。そうとなれば最早ここに用は無い」
「……最終的に何処へ向かう? 場所によっては足を確保しなければならないだろう」
「色々と候補はあるが……オレのオススメは東京にある千葉家の本家だ。あそこなら国家権力の介入をある程度防げるし、紙屑になった書簡の事も分かるだろ」
「紙屑になったのは九割五分、警部のせいですけどね……」
「うるせえ」
「東京、か。格納庫にヘリがある。それなら短時間で行ける筈だ」
四人の足音のみが響く異様な静けさが、この地下施設に存在する生命がこの場に居る四人だけであることを指し示している。満葉亜音が先導し、奥へ地下へと進んでいく。
進むに連れて、すれ違う遺体に戦闘員と思わしきものが増え、遺体の数も多くなっていっている。鼻腔を抉る様な死臭が強まっていき、そして山の様に積み重なった死体群を前にして最高潮まで達した。
通路を塞ぐ文字通りの肉壁には、流石の少年でも眉を潜めざるを得なかった。
「おいおい、これを通るのかよ。流石にきちーぞ」
「……私が退かそう」
満葉亜音がそれらに手を翳し、範囲を示すかの様に想子光を迸らせる。一瞬光が強く煌めいたと思えば、そこにあった筈の遺体の山が忽然と消失していた。何の痕跡も遺さずに。
「この感じ……オレを奇襲した時と同じ魔法か。見るからにとんでもねえモン持ってんな」
「……この場で教えるのは、些か不適切だろう。何れ話す」
肉壁が消え、道が開いた。
床を覆い隠す血溜まりから、何かが引き摺った跡が一筋奥へと伸び、突き当たりの角を曲がっている。肉壁に遮られて聞こえなかったのだろう。その角の方から苦し気な呻き声と、何かを引っ掻く音が聞こえる。
「この声は……まさか……!」
何かを察した満葉亜音が、音の聞こえる方へ駆け出した。少年はそれに追従し、千葉寿和と稲垣は急ぎ足で追い掛けた。
音の正体は床を這いずる男であった。四肢の内、両足と右腕が切断され、それぞれの切口は止血の為に焼いたのか炭化する程に焦げていた。
移動に使っていたと思わしき左手は、全ての指の第一関節が切り落とされており、そこから皹割れる様に裂傷がはしっている。
男は今、その左手を使って何処かの扉を抉じ開けようとしている。扉の上部に位置するプレートには"医療関係倉庫"とある。見るからに手遅れなのに、その男はどうにかして生き延びようと足掻いているのだ。
「生きて……いたのですね」
男の全身は自身の──或いは他者の──血でまみれ、如何様な服であったか判別不可能である。
だが、満葉亜音には分かった。十数年もの間、身近に居た満葉亜音だからこそ分かった。惨たらしい姿で生きようと無様に踠いている男が、暗部を統べる頭領その人であると。
まだこいつら山から出てないのかよ……。