「お邪魔しまぁ~す」
キー坊の道場に足を踏み入れた二人の男。その一人は蛇のような男だった。
唇を舐め回し、視線で舐め回す。そんな男だった。
名は飯田。長岡龍星の兄、長岡陽一の師匠である。
次いで足を踏み入れたのが陽一だ。
二人はすでに道着だった。
「よお来たのうお二人さん。歓迎するで」
道場の主、キー坊が二人に声をかける。道場の中にはキー坊と龍星。
二人はすでに道着だった。
「いえいえ。名高い灘なんとか流さんのお誘いとあっちゃあ無碍(むげ)には断れませんよ」
蛇のような笑いを浮かべながら飯田は灘の名を挑発する。
「言うてくれるやん」
キー坊と飯田。二人の応酬の間、龍星と洋一はただただ無言で視線を交わしていた。
兄を救う。菩薩の拳で。龍星はそれだけを思案していた。
「それでえ。宮沢さん今日はどのようなご用件ですかぁ?私達あなたに接点はないと思うんですけど」
飯田が惚けた表情で唇を釣り上げる。それでも飯田の目だけは笑っていなかった。
「惚けんなや」
キー坊が吐いて捨てるように言い放つ。
「おどれの弟子が龍星に手を出させたんわまだ許せるわ。だがなあ。立ち会い中に声をかけて気を逸らしたり止めに蹴りを入れたんはどういうつもりじゃワレ」
「どういうって。師匠が弟子に協力するのは当たり前でしょ?」
「なんやとこら。それが師匠のすることかおどれ!」
笑みを崩さずにあっけらかんと言い放つ飯田にキー坊が怒りを露わにする。
「あ、それと龍星くんを蹴った理由でしたっけ?ちょうどいい高さに彼の頭があったからですよ」
飯田が口元を抑えてクスクスと笑う。
「ほんまもんのド畜生やなおどれは。こっちは愛弟子ボコられてとっくのとうにスイッチ入っとるんじゃ!」
キー坊が飯田に対して構えを取る。
「じゃあどうするんです? お巡りさんに泣きつきますか? それは怖いですね」
「誰がポリ公に泣きつくかボケが。だから呼び出したんじゃ。おどれを!」
「怖いですねえ宮沢さん」
そう言いながら飯田は笑みを浮かべたままだ
「それで。どうやってケリをつけるつもりですか?2対2ですか?」
「まずは龍星とそっちの弟子で勝負や」
「龍星くんと陽一で。いいでしょう。その後は……」
「お楽しみや」
「それは怖い怖い」
このやり取りの瞬間からすでに龍星は臨戦態勢に入っていた。
「ええか龍星。死中に活あり。死地にこそ道はある。今まで積み上げてきたものを全部出せば絶対勝てるで!」
「はい!先生!」
キー坊の呼びかけで龍星は肩に乗った余分な力が抜けていくことを感じた。
絶妙なタイミングでの声掛けだった。このまま立ち会っていれば筋肉が緊張した状態で戦うことになっていた。
龍星の緊張を読み取ったキー坊の援護であった。
陽一と龍星がお互い前に進み出る。道場の中央で二人は向かい合った。
空気が張り詰めている。もはや不意打ちは効かないだろう。
キー坊と飯田はその二人をはさみ合う形で道場の壁沿いで立ち会いを見守る。
「始めぃ!!」
道場にキー坊の声が響く。
「しぇあっ!」
陽一が掛け声と共に仕掛ける。右の抜き手だ。まともに突き刺されば前のように一撃で勝敗が決する程の鋭さだ。
「ふんっ!」
龍星は抜き手を掌底で撃ち落とす。一点特化した抜き手は横からの攻撃に弱い。
パシィ!
抜き手の不発を示す掌底の音が響く。陽一は抜き手を弾かれたことに異にも介さず更に踏み込む。
「しゃあっ!」
左の手刀が龍星の右斜上から襲いかかる。抜き手はフェイント。本命は首筋を狙った振り下ろしの手刀だ。
「はあっ!」
間一髪、龍星の前蹴りが陽一に当たる。この前と違いカウンターのタイミングにはなっていないが威力としては申し分ない。陽一を突き放して距離も取れた。
陽一の身長は185cm 体重は80kg。
対して龍星は174cm。体重も70kgと体格に大きな遅れを取っている。
近づかれてインファイトでの相打ちを選択され続ければ体格で劣る龍星に勝ち目はなかった。
密着での戦闘は避ける。近づかれたら前蹴りで突き放せとは試合前のキー坊のアドバイスだ。
前蹴りで突き放された陽一はすぐに態勢を立て直し再び龍星へインステップ。徹底的なインファイト狙いだ。
手刀、正拳、抜き手、陽一の繰り出す様々な突きを龍星は見事に撃ち落としていった。このまま捌き続けて焦れた陽一の大振りを誘う。そこを菩薩掌だ。龍星の狙いは菩薩掌による一撃必殺だけだった。
立ち会いが始まって3分。繰り出すコンビネーションがことごとく撃ち落とされ前蹴りで何度も突き放された陽一のスタミナは見るからに衰えていった。
肩で息をしている陽一。フットワークすら刻まずにベタ足の構えへと変貌していた。
「はあ…はあ…」
龍星は次にくる大振りの突きに合わせて菩薩掌を合わせることを決意した。
陽一はこれ以上のスタミナ消費を嫌って決めにくるはずだ。
「あああああ!!」
決意を含めた叫びを上げて陽一が踏み込んでくる。
来る!龍星は両手を組み、同じく陽一に向かって踏み込む。
「しゃあっ!」
「!?」
陽一が龍星に繰り出したのは抜き手でも突きでもなく、前蹴りだった。
今まで全く出してこなかった蹴り。それも最短で相手に届く前蹴りだ。
突きを想定していた龍星は陽一の前蹴りをモロに食らってしまうこととなった
「ぐあっ!」
龍星が叫びを上げながら後方へ大きく吹っ飛ぶ。後ろに回転するほどの勢いだ。
龍星が仰向けへと倒れ込む。その腹部には生々しい傷跡が残っていた。
陽一は前蹴りを抜き手の如く尖らせて放ったのだ。先日の川辺での立ち会いでは陽一はスニーカーを履いていたが今は裸足だ。あの時の陽一は切り札を見せていなかったのだ。
「はあ…はあ…」
疲労の色が見て取れる陽一が飯田に振り返る。
飯田は蛇の笑みを浮かべながら顎で止めを指し示す。
陽一は飯田に逆らうことができなかった。
龍星が長岡家にやってきたときは弟ができたと思うほど嬉しかった。元々人見知りな性格の陽一は最初は恥ずかしくて龍星に話しかけることもできなかった。
それでも夕食の後、勇気を出して陽一はテレビゲームの話題を龍星に振ったところ思いの外食いついてきた。
「じゃ、じゃあこれ協力プレイと対戦プレイできるやつなんだけどさ、協力プレイで遊ぼうよ。お、俺対戦ゲーム苦手なんだ」
「はい!」
義理の弟とは言えこれからもうまくやっていけそうだと陽一は安心した。
だが龍星の母、信子が他界し父吾郎も家を留守にしがちになってからは家の中が広く、寂しく感じるようになった。
そんな時である。陽一が飯田に出会ったのは。
陽一が寂しさを紛らわす為に夜の街をさまよい歩いていた時、酔っ払ったチンピラに絡まれた。そこを助けてくれたのが飯田だった。
己の寂しさ、満たされなさを飯田に吐露した陽一はその日に飯田に弟子入りすることとなった。彼の孤独を飯田は蛇のように巻取り、飲み込んだ。
最初は優しかった飯田だが日が経つに連れて指導を超えた暴力が増えていった。
気づけば陽一は暴力と恐怖で飯田に支配されていた。
そんな陽一の心を仮初めとは言え救っていたのが暴力だった。自分が暴力を振るっている間は自分は傷つけられない。無価値な人間ではない。そう実感できた。
倒れ込んでいる龍星を見て陽一は困惑していた。
俺は本当にこんなことがしたかったのか? どうして俺は弟を傷つけているんだ?
もう何がなんだがわからない。誰か俺を助けてくれ。
陽一は再び飯田に振り向き困惑の表情を浮かべる。飯田の蛇のような笑みから舌が漏れ出る。
「に、兄さん……あなたは…! 僕が救ってみせる……!」
龍星が声を振り絞りながら立ち上がる。龍星の腹部から脇腹にかけて長い傷が走っていた。
本来なら内臓に直撃する尖らせた前蹴り。龍星は咄嗟に『流し』ていたのだ。
それでもダメージは深刻。今の龍星は満身創痍であった。
「龍星。菩薩の心や」
キー坊は腕を組みながら呟く。爪を食い込ませた腕からは血が出ていた。
「拳を交えて、伝わってきました。あなたは本当はそんな人じゃない!」
自宅で、川辺で、道場で陽一の拳を受けた龍星は確信する。
兄は呪縛に囚われていると。助けなければならないと。
どうすれば兄を助けることができるのか。その方法は師から教えてもらっている。
「わ、らああああああああああ!!!」
そんな龍星を見て陽一は笑っているような泣いているような表情を浮かべ、奇声を発しながら突撃してくる。
龍星は目をつぶり、両手を組み腰を深く落とす。慈悲深い菩薩の祈りを思わせる構えだ。
「あああ!!」
陽一は再びあの前蹴りを放つ。体重80kg全てが乗った尖らせた右の前蹴りだ。
「死地に陥れて、後、生く。これ即ち菩薩の境地なり!」
龍星は目を見開き祈りの構えのまま陽一へと踏み込んだ。
その踏み込みは陽一とは比べ物にならない速さだった。
その踏み込みは特訓の時にも見ることがなかった。
その踏み込みはまさに龍の跳ね足だった。
陽一の右の前蹴りを龍星は斜め右にステップイン。蹴りが龍星の脇腹をかすめる。
がら空きな懐に潜り込んだ龍星は慈悲と祈りを込めた両手を陽一の腹部へと真っ直ぐに突き伸ばす。
「灘神影流!!!菩薩掌!!」
龍星の両手が陽一の腹部へと突き刺さる。
その瞬間陽一の時だけが止まったかのように体が静止した。
陽一の腹部に突き刺さる両手を龍星は引き抜く。
そこには菩薩が見事に刻まれていた。菩薩掌が決まった何よりの証だ。
「ぐっ・・・!はあっ・・・・!!」
陽一の肺から全ての息が吐き出される。陽一の足がグラつく。
そして、陽一は床へと崩れ落ちた。決着である。
「兄さん!」
龍星はそんな陽一を抱きとめる。
「ごめん…ごめん龍星……俺、なんかよくわからなくて、怖くて…」
懺悔と謝罪の涙を流す陽一。
菩薩掌。己の慈悲の心を以て相手を打ち倒す。
暗殺術として伝わる灘神影流において最も「優しい」技である。
その慈悲の心が陽一の邪気を払ったのだろうか。
陽一の心は晴れやかであった。
「いいんです兄さん。もういいんです」
「俺はお前をあんな目に合わせたってのに…本当にすまない」
謝罪を繰り返す陽一に向かって龍星は笑顔でこう答えた。
「じゃあ兄さん。次からは対戦プレイじゃなくて協力プレイですね」
「はは……そうだな。兄弟で協力プレイだな」
涙が更に溢れる陽一を見て龍星は兄の呪縛を解き放ったことを確信した。
「はあ~つまんないつまんない。なんだこの三文芝居」
蛇のような男から笑みが消え失せていた。飯田だ。二人に足音も立てずにじっくりと、蛇のように近づいてくる。
「陽一ぃ。負けたら何も意味がないんだよ。わかるかぁ?」
龍星に抱きかかえられた陽一に飯田が吐き捨てるように言い放つ。
「い、飯田先生。俺はもうあなたの弟子をやめさせてもらいます!もう嫌なんです!」
飯田に向かって毅然とした態度を取る陽一。
「はあ~? 何いってんだ? お前がやめるんじゃないんだよ。俺がやめさせるんだよ!!」
そう言い終わるや否や倒れている陽一の腹部に飯田は蹴りを見舞った。
「ぐああああああああああ!!」
「兄さん!」
腰の入った強烈な蹴りだった。肋骨が数本は折れているのだろうか。腹部を思い切り蹴り上げられた陽一は吐血していた。
「はあ~。もういいや。龍星君。君ももういいや」
飯田は同じく満身創痍の龍星に右の抜き手を放つ。狙いは首筋だ。
早く、鋭く。龍星では流すことも弾くこともできない至高の抜き手だ。
避けられない。龍星は死を覚悟した。
バシィ!
抜き手の炸裂とは違う音が道場に響く。
「飯田ぁ……相手間違えてるんちゃうぞ!!」
キー坊が飯田の抜き手を掴み、炎の目を向けていた。