「よっこら……せっと!」
スコップを両手に持ちドブをさらう。キー坊が立っているのはドブ川であった。
流れは緩やかではあるがドブが堆積してその場で立つことすら難しい。そんなドブ川でキー坊は器用にドブさらいを続けている。
普通の人であれば川の流れと不安定な足場から簡単にバランスを崩してしまうであろうがキー坊はまるで川の流れも足元の不安定なドブにも気づいていないかのようだった。
「ま~たドブさらいやんか。梅さんもうちょっとええ仕事用意してくれればええんやけどなあ」
唇を尖らせながらもキー坊は作業を続ける。梅から受注されたいつもの雑用だ。
報酬は8時間で5千円。昼食と夕食付きである。
時給で換算すれば低賃金にも程がある。
しかし梅の家は定食屋を営んでおり、昼食も夕食もまかない飯ではあるが食べ放題と破格の待遇。今のキー坊の財布事情では自らの食事を賄うこともできず
せっかく出来上がった筋肉も落としてしまいかねないのだ。
そんなわけで梅さんに頭の上がらないキー坊はどんな雑用でもこなさなければならなかった。
「ふ~! キリいい所まで後少しやな!」
キー坊は天を仰ぎ大きな息を吐き出す。すでに時刻は午後6時。作業の終了時刻が近づいていた。
最後のラストスパートを駆けようかとしたキー坊の目にとある影が映り込む。
財布だった。財布が川上からこちらへ流れてきたのであった。
「さ、財布か? 誰かうっかりさんが落としたんやろかなあ。ポリさんとこ届けに行くのめんどくさいのう」
とは言え見てしまったからには無視はできない。
免許証でも入っていればいいが。そう思いながらキー坊はバツが悪そうに流れてきた財布を手に取り中を開く。
「ん?なんも入ってないやんけ」
財布の中身は空だった。正確には金銭が一切入っていなかったのだ。
残りは古本屋のポイントカードにパン屋のスタンプ。その程度のものだ。
訝しがるキー坊の背中に声がかかる。
「あ、あの……!」
振り向いたキー坊の目に入ったのは一人の学生服を着た少年だった。
年は15歳前後。中学3年生か高校1年生か。そのくらいだろう。
サラリとした髪質。眉目秀麗とはまさにこのような少年を指すであろうほど少年の顔立ちは整っていた。
息をゼェゼェと切らしたその少年はこのドブ川の中でも一切のバランスを崩さずに見事に直立していた。
「おお。少年のかこの財布」
「は、はい。ありがとうございます拾っていただいて……」
「もう日も落ちかかっていたし見つかってラッキーやったな少年。ホレ返すで」
「ど、どうも」
キー坊は少年に向かって財布を投げ渡す。真正面ではなく少し逸れた足元へと投げ返されたその財布を少年は難なく身を屈めてキャッチする。
「ナイスキャッチ」
「どうも……」
少年は照れくさそうに軽く会釈する。
「あ、せやった! なあ少年。その財布ワイが拾ったときにはもう中身入ってなかったで。言っとくけどワイは盗んでへんで!」
身を翻して川から上がろうとしたその背中にキー坊が声を掛ける
「知ってます……元から中身が入っていないことは」
少年は背中で返事をする。
すでに第三者に金を抜き取られていることを少年は知っているようだった。
「金取られて財布を川に投げ捨てられて、追いかけてきた。そんなとこか」
「……」
少年は返事をしない。こちらを振り返りもしない。
「なあ少年!ズボンびしょ濡れやしどうや。ワイの道場で乾かしていかへんか?」
キー坊は葉に絹着せぬ。警戒心を覚えさせないよう少年を道場へ誘った。
太陽のように人と接することが出来る。キー坊の格闘技以外の数少ない長所であった、
「道場ですか?」
少年がこちらを振り向く。
「道場やってるんや。灘・真・神影流っていう道場。知らへんか?ちょっと前に朝刊の折込みチラシに挟まってたんやけど」
「いえ……知りません」
「そ、そうか。まあええわ! ほれ! ついてきいや!」
キー坊は少年の手を強引に握り川から上がる
「あ、ちょ、ちょっと」
「ええからええから! 自己紹介がまだやったな少年。ワイは喜一。宮沢喜一や。みんなはキー坊って呼んどるわ」
「キー坊さん……ですか」
「さんはつけてもつけなくてもどっちでもええで!そんで少年!名前は⁉」
キー坊の強引な自己紹介に少年は戸惑いつつも初めて笑顔を浮かべる。
「龍星……長岡 龍星(ながおか りゅうせい)と申します」