時は午後9時。場所は龍星の自宅である長岡家。龍星はリビングで食事を取っていた。
龍星の住まう住居は豪邸だ。
元華族である長岡家は華族制度が廃止された現代でも由緒正しき華やかたる生活を維持していた。
そんな長岡家に嫁いだのが龍星の母 佐伯 信子(さえき のぶこ)だ。
信子が長岡家に嫁いだ頃にはすでに龍星は14歳。龍星は連れ子として佐伯龍星から長岡龍星となって家に入ることになったのだ。
信子が長岡家に嫁いで数ヶ月。癌が発見されてしまう。
それも末期であった。
信子はそれから半年も持たず逝去し、龍星は長岡家では半ば居候と同じ扱いを受けることになっていた。
義理の父である長岡 吾郎(ながおか ごろう)は母の死後、仕事に居場所を求めることとなった。
今では月に一度帰ってくるかこないか。それほど心が家から離れていた。
食事は雇った家政婦が作り置いた料理を龍星が温め直して取っていた。
龍星は一人で食事を取っているわけではなかった。
食事の場であるリビングではとても和やかとは言えない空気が張り詰めている。
そしてその張り詰めた空気の発生源が龍星の兄、長岡 陽一(ながおか よういち)だ。
彼の周りだけでなくリビング全体を、いや、この豪邸全てを彼の空気が支配していた。
陽一は家政婦の作り置いた料理をつまらなさそうに頬張りニッチャニッチャと音を立てて咀嚼する。
「おい龍星」
陽一はテーブルの向かいの龍星にぶしつけに声を掛ける。
「はいなんでしょうか兄さん」
龍星は背筋を伸ばして返事をする。
「飯食ったら”稽古”だ。道場に来い」
「……わかりました」
陽一の言う稽古は稽古では到底すまなかった。
組手と称して一方的に相手をなぶるシゴキであった。
元々陽一と龍星はそこまで険悪な仲ではなかった。
実際龍星が長岡家に入った当初は一緒にテレビゲームをしたり食事の時には軽い談笑すらしていた。
当時長岡家に入ったばかりで不安だらけの龍星にとって陽一の存在はとてもありがたかった。
そして龍星の母、信子が逝き、父が家を留守にしがちになった頃に合わせて陽一は空手を習うようになった。
陽一が変わり始めたのはその頃からだった。龍星に言いがかりをつけては空手の突きを見舞い、稽古というなのいじめを行うなど様変わりしてしまった。
それでも他に居場所のない龍星は陽一からのいじめに耐えることしかできなかった。
「よし。組手だ。お前も打ってきていいぞ。出来るものならな」
陽一が残酷さを帯びた笑みを浮かべる。
道着に着替えた二人は自宅に備え付けの道場で相対していた。
すでに陽一の頭の中ではボロボロになった龍星の姿が見て取れた。
「オラッ!」
陽一が突きを放つ。空手特有の真っ直ぐで重い突きだ。急所でなくともどこかに当たればダメージになる。そんな重い突きだ。
龍星はその突きに合わせて掌底を斜め上から放つ。
正拳突きが当たった際の「ドスン!」という音が響くことはなく
パシッ!という軽い音が道場内に響く。
陽一の突きが龍星の掌底で捌かれた音だった。
「ああ?」
陽一は何か狐につままれたような表情を龍星に浮かべる。
いつもなら肩でも胸でも自分の正拳が突き刺さり龍星が苦悶の表情を浮かべる。
それがいつもの”稽古”の流れだった。
だが龍星は平静な表情を浮かべたままこちらに相対している。
「この!」
立て続けに突きを放つ陽一。だがその拳が龍星に届くことはなかった。
キー坊の突きに比べれば陽一の突きは遅く、愚直だったのだ。
右の突きを左の掌底で逸らされ左の突きは右の掌底で空を泳がされる。
陽一は混乱していた。つい先日までは好き放題痛めつけることができたサンドバックに攻撃が当たらなくなったのだから。
「しいいっ!」
業を煮やした陽一が鋭い呼気を吐きながら左の上段蹴りを放つ。バットをまとめてへし折ることのできる程の威力だ。これは捌けまい反らせまい。陽一に再び笑みが戻る。
その瞬間、洋一の左足に、正しく左脛に大きな痛みが走る。
「があっ!?」
陽一は見た。自らの左脛に突き刺さる龍星の右肘を。
自らの蹴りの威力がそのまま脛に収束されて帰ってきたのだ。
痛みから左足を抑えてしゃがみ込む陽一。その顔が大きく歪む。
そこにはあの残酷な笑みは一片も残っていなかった。
「て、てめえっ…」
陽一は苦痛に歪んだ顔で龍星を見上げた。そして見た。
龍星が自分の足を心配している顔を。想像以上のカウンターになってしまった威力に
陽一の身を案じていたのだ。
「ふ、ふざけんじゃねえっ……!今日の稽古はここまでだ!掃除しとけ!」
屈辱にまみれた表情を浮かべながら陽一は左足を引きずり道場を後にする。
残された龍星は道場で一人目を閉じ呟いた。
「先生……ありがとうございます」