【認識差異】
“いわいちゃん”の元の姿を知っている人間は、意外にも少ない。伊地知を初めとした彼と同期達と、その担当教師。そして上層部の人間と、施術を担当した術師ぐらいだ。
彼は一般家系の出身で、呪術師の世界とはほぼ無縁だったし、施術を受けたのは高専3年の時である。つまり、呪術界の扉を叩いて僅か3年にも満たない年数で、ああなったのだ。
であるから、いわいちゃんのことを、ただの萌えキャラコンテンツとして見ている層が一定数いる。猪野琢真も、その1人である。
「いわいちゃんって本当に可愛いですよね!」
「正気ですか」
「え、七海さんは嫌いなんですか?」
「……とても役に立ってくれているとは思います」
「わかります! 仕事もバリバリできて、可愛いですよね!この間、友達から手作りのいわいちゃんグッズ貰っちゃいましたよ」
「はぁ……」
七海は、深くため息をついた。この猪野の反応が、普通なのだ。ひたすらに好意的にいわいちゃんを見ている。だが、七海はいわいちゃんの中身を知っているが故に、そんなふうには思えない。
いわいちゃんの中の人こと、岩永壱朗は、七海の二つ下の後輩である。一緒に任務に赴いたこともある。それなりに話しやすい後輩だった。
礼儀正しくて、落ち着いていて、呪術師にしてはまともな部類だったと思っていた。だが、
「七海さん? どうしたんすか?」
「いえ、なにも」
「?」
実際は、一番イカれていた。
また溜息をつく。猪野が「幸せが逃げますよ」なんてほざいているが、誰のせいで溜息をついてると思ってるんだ。
「あー、中の人ってどんな女の子なんですかね!」
「……………………」
七海は口を噤んでサッサと歩き始めた。
なにも話したくなかった。
■■■
「なんです、これは」
「……同人誌っす」
「同人誌」
猪野が落とした袋から顔を覗かせたのは、R18と銘打たれた薄い本だった。表紙には、扇情的な表情を浮かべているいわいちゃん。
正気か?
丁寧にラメ加工まで施されている。
「同期に、こういうの得意な奴がいて……つい、」
「…………」
思わず、凝視してしまう七海。無理もない。かつての後輩()が、エロ本の題材にされてるなんて、誰が思うだろうか。そりゃ凝視する。
「読みます?」
「……………………読みません」
「どういう感情の顔ですかそれ」
と、言っていたのに。
あろう事か、猪野は車の中にその本を忘れていった。運転手は伊地知。見せる訳には行かないと、七海が回収した。そのため、いま、そのエロ本が手元にある。
「………………………………」
七海は、ひたすらに手元にあるそのエロ本を睨みつけていた。
表紙のいわいちゃんは、淫らに服をはだけさせている。
「…………」
ぺらり、
「…………」
ぺらり、
「…………」
ぺらり、
「…………」
…………。
これを描いたやつ、正気か?
■■■
「猪野君」
「あっ、七海さん! ……俺、この間」
「返します」
「そうそう! ありがとうございます! いやぁ、無くしたと思ってましたよ……読みました?」
「…………」
「その顔な読みましたね! どうでしたか?」
「……これを、書いた人は、精神科をオススメします」
七海は、苦々しく呟いてその本を猪野に突き返した。ひたすらに、見たことを後悔していた。
【彼岸の定義】
人は、声から忘れられるらしい。
毎日聞いていた筈なのに、ふとしたした瞬間に思い出せなくなっていることに気が付いて、途方に暮れる。
呪術師なんてものは、そんなことはしょっちゅうだ。昨日まで共に語らっていた同胞が、次の日には冷たくなって帰ってくる。いや、帰ってくるだけ御の字だ。大体の場合は、遺体なんて残らない。ただ『あいつは死んだ』という事実だけが遺る。
なら、伊地知潔高の親友であった“岩永壱朗”は、どうなのだろうか。
肉体を失い、声を失い、性別を失い、名前を失い、人格を失い、人間性を失い……遺っているのは、桃色の塊と電子に変換された魂のみ。
はたして、彼は生きていると言えるのだろうか。
「“岩永壱朗”は、死んでるでしょ」
無理やり連れてこられた居酒屋で、酔っ払ってそんな話を切り出した伊地知に返って来たのは、非道とも言えそうな言葉だった。五条は、メロンソーダをあおりながら、その続きを話す。
「“岩永壱朗は、死んだ”。
“いわいちゃんになった”んじゃなくて、“死んだ”。そう思った方が、精神衛生上よろしいんじゃない?」
「よろしいんでしょうか……」
「よろしいでしょ」
ぐび、と更にあおる。伊地知は、酒のおかげで血色が良くなった顔を、塩辛い水で濡らしながら机に突っ伏した。
「五条さんは、岩永くんと話したことありましたか」
「あるよ。数える程だけど」
「声、思い出せますか」
「無理」
「私もです。思い出せないんです。思い出そうとしても、“いわいちゃん”の声に上書きされてしまう」
消え入るような声。いつにもまして饒舌である。先程から黙って聞いていた家入は、紫煙を燻らせながら、そんな伊地知を観察する。もうそろそろ、呑ませるのをやめた方が良さそうだ。
空いたジョッキを下げて貰うついでに、水を頼む。それを差し出すと、伊地知はへにゃりと眉を下げて受け取った。
「私があの時、彼を止めていれば。そんな馬鹿な事はやめろと、言えていれば。もし、あの時、彼から距離を取らなければ」
懺悔のように、言葉を零す。実際に懺悔なのだろう。だが、現実問題。“岩永壱朗”は、伊地知に止められたとしても、きっと止めなかった。どこまでもイカれていた彼は、早かれ遅かれ、人柱に自ら進んでなっていただろう。
“いわいちゃん”という、最先端の人柱に、彼は諸手を挙げて志願した。
その結果が、あの桃色の塊である。
高専の地下深くの部屋に設置された水槽の中身を見た時、伊地知は吐いた。精密機械が並んでいるのだからと叱られたが、そんな説教なんて右から左。親友だった彼の、遺された部位。
信じられなかった。
本当に、あの桃色の塊が“岩永壱朗”のものなのか、伊地知には分からなかった。
もしかしたら、違うかもしれないと淡い期待を抱いた。だが、現実は非情なもので、追い討ちのように彼の“棄てた”パーツを見せられた。また吐き出した。泣いて、喚いて、また吐いて。
だけど、当の本人は画面の奥であっけらかんとしていて。
はたして、これは誰が悪いのか。
「私が……私のせい…………………」
「寝た」
「だいぶ溜まってたんだな」
「でも、いつもはこんなに“岩永”のことは話さないじゃん。なんで?」
「なんでって五条。今日は、“岩永の命日”だからだろう」
ああ。と五条は納得して、メロンソーダの最後の一口を啜った。今日は、岩永が施術を受けて“いわいちゃん”になった日だ。からん、と氷が鳴る。汗をかいたジョッキを机に置くと、サングラスの下の目を細めた。
「本当に馬鹿だよね。自分から人柱なんかになるなんてさ」
「ああ、馬鹿だよ。……唆した奴もね」
「『“二代目加茂憲倫”を目指してます!』って公言するようなマッドだしね。……本当に、アイツは……」
バキリ、と五条の手の中でグラスが割れる。
「おい。店に迷惑をかけるなよ」
「…………アイツ、殺してやろうかな」
「“私の師匠”は、殺しても死ぬようなタマじゃない。殺すだけ無理だよ」
「…………」
「まあ、気持ちはわかるが」
■■■
“いわいちゃん”は、いつものように電脳空間を漂っていた。ありとあらゆる情報が、一括で処理されていく。それを優先度順に分類しつつ、監視。時折仮想電脳呪霊を見つけては、祓う。
それをノンストップで、ひたすら目まぐるしく繰り返す。
いわいちゃんの処理速度は、最先端のスパコン以上。円周率の果てだって割り出せる。(優先度が低いのでやらないが)
0と1の世界は、何処までも複雑怪奇で、常人なら理解できない。だからこそのいわいちゃんである。いわいちゃんは、たった一人で、この地獄で戦っている。寂しいとかそういう人間的な感情は、とっくの昔に最適化された。
いわいちゃんは、システムだ。
人間性なんていう無駄なバグとは無関係な。
普段、画面に表示されているのは、そんな空虚なシステムを偽装するためのガワでしかない。親しみやすさを持つ事で、円滑に物事を進めることが出来るという合理的判断から生まれたのが“バーチャル呪術師 いわいちゃん”というキャラクターだ。
『岩永くん……』
伊地知のパソコンから、前の名前を呼ぶ声がした。珍しい。彼は、滅多にその名前を口に出さないのに。
《呼ばれてとび出てジャジャジャーン☆
あなたの心に五寸釘☆ バーチャル呪術師のいわいちゃんだよ☆☆☆
伊地知先輩。呼ぶ時はいわいちゃんって呼んでって言ってるじゃん☆☆☆》
すぐさまそのパソコン画面に自らのアバターを表示される。だが、そこにいたのは、泣き腫らした顔で机に突っ伏す伊地知だった。
《あれ☆ 寝ちゃってるのかな?》
『岩永くん……』
《もう☆ 今はいわいちゃんだってば☆》
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
《風邪を引きますよ。先輩》
伊地知の部屋のエアコンは、スマホから遠隔操作できるものであるため、そのシステムを使って暖房を付けた。背に毛布をかけてやるのがセオリーなのだろうが、肉体を持たないいわいちゃんにできることは、この程度だ。
《おやすみなさい》
いわいちゃんは、そう言って伊地知のパソコンから離れた。
■■■
伊地知は、夢を見ていた。
自販機の前で、岩永といつものように歓談する夢。初夏の日差しで揺らいでる地面を眺めながら、他愛のない話をしている。蝉の声がする。
汗が、自分の頬を滑るのを袖口で受け止める。
穏やかな夢だ。
だが、ひとつだけ。
岩永の顔に、モヤがかかっている。
そこで、ふと伊地知は思考を止めた。
__彼は、どんな顔だったっけ。
ざ、と背中が冷えていく。暑い夏の日の思い出を夢で見ているはずなのに、手先が氷になったように感じる。
彼の声に、ノイズのように蝉の声が被る。
蝉の声が、ただひたすらに五月蝿い。鼓膜を破りそうなほど、脳に突き刺さりそうなほど、喧しく騒ぎ立てている。
それが、警告音のように思えた。
「■■■■■■■、■■■? ■■■■。■■」
聞こえない。わからない。彼の声が。
「■■■■■! ■■■■。■■■」
わからない。彼の笑顔が。
「■■■■」
彼の輪郭が、ぼやけて、
「■■■■■」
そして、気が付けば、自販機の前には伊地知1人だけ残されていた。
彼が置いていった缶だけが、ぽつねんと残されている。
伊地知は、それを拾いあげようと身をかがめた。彼が好んで飲んでいたジュースだ。しかし、数年前に製造中止が決まり、もう自販機には売られていない。その缶をじ、と眺める。
だが、缶の中から何かが聞こえた。
飲み口を覗き込む。
そこから、赤い瞳が見つめ返していた。
「ッッッ!!!!!」
驚いて、缶を投げ捨てる。そこから、ドロドロと赤い液体が溢れ出していく。
伊地知は、尻もちを着いてそれから距離を取ろうと後退った。だが、足元にまで容赦なく液体は広がってくる。
どろり
どろり、
どろり。
「伊地知くん」
その時、不意に背後から声が聞こえた。
伊地知は、青ざめたまま振り返る。そこに立っていたのは、岩永の施術を担当し、あの桃色の塊に反転術式を掛け続ける装置を作成した男が立っていた。
「知っているかい。本当に素晴らしいものは、地獄からしか生まれないのだよ。これは、実にいい地獄じゃあないか。実家のような安心感の地獄。ふふ、ぼかァ、彼と出会えて幸運だった」
伊地知に岩永が棄てたパーツを見せた時の台詞である。
ボサボサの前髪で両目を隠した、猫背の男。血で汚れた白衣とゴム長靴がヤケに印象的だ。
「良かったね。伊地知くん。君のお友達は、英雄だよ」
胃の内容物が、迫り上がる。
足元は、もう血で浸されていた。
「いっそ、」
死んでくれた方が、
そう呟いた言葉は、吐瀉物に塗れて消えていった。
「祝福されるべき子、ってことで、彼の新しい名前は“いわいちゃん”。どうだい?」
けらけらと笑う声がする。
■■■
目を覚ます。まだ当たりは暗い。4時ぐらいだろうか。頭が痛い。これは、二日酔いせいか、それとも夢見の悪かったせいか。
「『“岩永壱朗”は、死んだ』」
昨日の五条の言葉である。それだけは覚えている。
伊地知は、泣き腫らして赤くなった目を、乱暴に擦った。ヒリヒリとした痛みが、自分の生を訴えている。
「…………」
のそのそと重たい身体を引き摺って、シンクで水を汲む。それを一気に飲み干して、更にもう一杯汲む。
伊地知は、そのコップを頭上に持ち上げて、頭から被った。
冷たい。
床が濡れる。
だが、頭は冴えた。
「…………」
伊地知は、先程よりもしっかりとした動作で身支度を整え、濡れた床を拭く。
5時を回る頃に、家を出た。早朝の空気は、嫌になるほど澄んでいる。そのまま車を動かして、高専へ向かう。正門前に着くと、五条が待っていた。
「や」
「おはようございます。……珍しく早いですね」
「まあね。伊地知、二日酔いしてる?」
「……してますけど、動けないほどじゃないです」
「そっか。じゃあ行こうか」
「はい」
五条を車に乗せて、走り出す。
「岩永のことですが、」
「うん」
「やはり、死んだとは思いたくないです」
「……ふぅん。じゃあ、どうやって折り合いをつけるの?」
「付けません。一生苦しんだまま生きていきます」
「そっか」
それ以上、伊地知は何も言わなかった。
これは、私への罰。
後輩であり親友の岩永壱朗を見捨てた私への罰。
「馬鹿だよね。お前も」
そんなに顔を真っ青にしておいて、なにが『一生苦しんだまま生きていきます』だ。
五条は、遠ざかっていく高専を睨みつけた。
そこにいるだろう、“いわいちゃんの本体”と“施術を担当した術師”を、睨みつけていた。