喫茶店での一件から翌日、瑞希は事務所から少し離れた場所にあるスタジオを借りて、千聖の到着を待ちながら自身のベースを調整していた。服装は学校から直接来た為、ブレザーの代わりにパーカーを羽織った制服姿。
秘密の特訓……と聞こえはいいが、実際はトラブルに巻き込まれずに確実な道を歩く手段として選ばれただけという気もする。いずれにせよ、断る理由もないし、バンドとして
「……にしても、遅いな」
壁にかけてある時計を
ただ呆けたまま待つのも仕方ないと思い、シールドをアンプとベースに接続して、左手で弦を弾く。スピーカーから聞こえたのは、鈍くも力強い低音。まるで鈍器で殴りつけているかのように重く響く。
スマートフォンで音楽を流して、そのままツーフィンガーで演奏し始める。リズムキープするように最初は安定した弦捌きで、一つ一つ丁寧に奏でていく。そしてサビに入る前の一瞬にスラップフレーズを加え、ベースラインを激しく動かす。
ここからが本番と不敵に口元を吊り上げて、楽しげに
「遅れてごめんなさい!」だが、サビに本格的に入った瞬間に遮るような声が耳朶を打つ。弦を弾く手を止めて、声がした方へ
「少し仕事で」
「ようやく来たか」その先の言葉を切るように瑞希は、眉間に皺を寄せながら口を開く。先程楽しそうな笑みはなく、いつもの険しい
「分かっているわ。遅れてごめんなさい」
素直に頭を下げる千聖に、特に怒りや申し訳なさはないがこれ以上
つと彼女の視線が自分の手元に向けられているのを認め、「どうした?」と簡潔に訊ねた。対面する紅紫の瞳は、とても不思議そうに白のプレシジョンベースを映す。左利き用のものを目にするのが初めてかと瑞希は料簡を立てるが、予想とは少し違う言葉が千聖の口から紡がれる。
「ベース弾いていたのかしら?」
「ああ、そうだけど?」意図が掴めず、瑞希の眉間に皺がさらに寄っていく。見れば分かるだろうに、何が言いたのだろうと。首を傾げて、眼前にいる少女の答えを待つことに。
それだけでは満足な回答を得られていないのか、千聖は人差し指の腹を顎に添えて考え込むような仕草をして閉口。僅かな空隙を経て、おもむろに口を開いた。「……ベース弾くのって、楽しいのかしら?」
「あ?」唐突に投げかけられた質問に、瑞希は口悪く反応してしまう。「お前、何言ってんだ?」あまりにも理解できない質問へ返せるのは、苛立ちを含んだ言葉だけ。ますます目尻は鋭くなり、
流石に無粋な質問だったと気づいたらしく、千聖はすぐさま謝罪し、「今のは聞かなかったことにして」と視線を逸らす。年相応の冷たさが一瞬だけ表に出た後、即座にいつもの大人びた笑みを湛える。
瑞希も追及する気がないことを示すように首肯して流す。未だに千聖が何を考えているのかは分からないが、ただ一つだけ分かったことがある。――まだベースに対して本気になっていないこと。
彼女は出世の道具として見ていないかもしれないという疑念は、確信に近い形で
互いがベースを弾く準備を整えたら、対面して顔を合わせる。二人とも小柄だが、僅かに瑞希の方が低い。それよりも千聖の意識は瑞希のベースの方に向けれられており、不思議そうな顔で見つめながら指差して訊ねた。
「あなたのベースの向き、反対ね?」
「アタシのは左利き用だからね」
さも当然とばかりに瑞希は簡潔に答える。「そりゃ逆になるでしょ」聞き慣れた質問に半ばげんなりとしているが、こればかりは仕方がない。何せレフティーのものは基本的に数少ないのだから。
納得するように頷くと、千聖は改めて顔を合わせる。いつもの微笑ではなく目尻を少しだけ吊り上げて、真剣な眼差しを送っていた。
彼女の表情に、瑞希は一つ呼吸を吐いて真面目な口調で言い放つ。「まずは手本的なものを見せるから目ん玉ひん剥いて、耳の穴かっぽじってよく聴けよ」パーカーのポケットにしまっていたスマートフォンを取り出して操作し、音楽が流し始める。
スマートフォンをさっさとしまって、手早くベースの弦を弾く。人差し指と中指を交互に入れ替えて、落ち着いた音色を奏でる。基本的にはリズムキープや曲の土台作りがベースの役割、だから派手に目立つ必要はない。
けれど、瑞希は不敵に笑う。ただ単純に同じフレーズを刻むだけならメトロノームで十分だと言わんばかりに。サビに突入した瞬間、スラップで大きく動かしていく。
プレシジョンベースの鈍く重い低音が、鈍器を振り回しているかの如く暴れる。だが、鋭さがない故に丸みを帯びており、温かさも同時に生まれているかのよう。矛盾しているようで一緒に存在している不思議さが、またベース音を引き立てる。
やはり、こうしてベースを弾く時が一番楽しい。このまま一曲ぐらい弾いてしまいたい。
しかし、時間は限られている為、一番が終わったら音楽を止める。心惜しいところではあるが、やるべきことはその先だと気持ちを切り替えて、
「随分と楽しそうにしていたわね」目を合わせた瞬間、千聖が開口一番に感想を述べる。少しばかりの呆れが混ざった嘆息が漏れ、場に溶けていく。微笑みを崩さないでいるが、口調が重たい。
「ベース弾いているんだから当たり前でしょうが」
まだ理解できないのかと、瑞希はやや不機嫌そうな表情になりつつも、なるべく声音は落ち着きを保ちながら言葉を継ぐ。「好きな曲を好きなベースで弾いて楽しいに決まってんでしょ」軽く弦を叩いて、演奏時に見せた笑顔を再び浮かべた。
それを見た千聖は納得したように頷く。視線をベースの方へ向け、少し逡巡するように沈黙した後、おもむろに口を開く。「あなたの音って、激しいけどどこか温かみがあって……」
「そりゃ、相棒がそういう音出すのが得意だからね」
当然とばかりににやりと笑って、瑞希はピックアップを指差して楽しそうに話を続ける。「スプリットコイルっていうプレシジョンベース特有のピックアップのおかげでさ」数回弦を弾いて丸みのある鈍い低音を響かせ、「あんたのベースのフロントもそうだし」千聖のベースについているピックアップを指差して
意図が伝わっていないと思ったのか、千聖は呆れているかのようにため息をついて、一言。「……あなたって、“月が綺麗ですね”を言った通りに聞き取るタイプよね」吐き出された言葉は、彼女の本心そのままのようだが、近くにいても内容を拾いきれないぐらいに空気に溶け込んでいた。
「は?」何を言ったかは分からないが、少なくとも良くないことは言われた……そんな気がして、瑞希は若干目つきを鋭くさせながら口悪く応答する。
「何でもないわ」
首を横に振り、千聖は
言い知れぬ圧にたじろいだ訳ではないが、そろそろ始めないと判断して瑞希は後頭部を掻く。「流石に分かっていると思うけど、ベースのことについて確認していくぞ」一息つき、改めて視線を紅紫の瞳と合わせ、彼女が頷いたのを認めたら話を進めていく。
「いいか、ベースってのはバンドの要だ」
左手で千聖のベースを指差したまま、
「ええ、分かっているわ」
説明を聞いて千聖は首肯するが、何か疑問に思ったことがあったのか一瞬だけ視線を外して、僅かに黙考。「けど、さっきのあなたみたいな音はいささか主張が激しすぎないかしら?」再び
「別にずっと静かに演奏している訳じゃないの」
瑞希はにやりと笑って、答える。「暴れられるかはバンド次第」先程よりも明るく楽しげに喉を鳴らし、「そこはメンバーと相談して決めるところかな」柔らかい語勢で締めた。
確かにベースは縁の下の力持ちという言葉が似合う程に、重要な役割だが地味な立ち位置。けれど、曲や編成によっては派手に動くこともある。実際、そんなバンドで活動していたことがあったから。
だからこそ、この質問については待っていたと思わざるを得なかった。
ふと過去の記憶が甦ってしまうが、今は振り返っても話が進まないと思い留め、「ベースには大まかな弾き方が二つある」と次の話柄に切り換える。「一つは指で演奏する方法」左手側の二本指を立てて軽く指を動かした後、右手でポケットからピックを取り出し、「もう一つはピックで演奏する方法」簡潔に説明していく。
「どちらかを選ぶかはメンバーと相談して決めろってことかしら?」理解したと伝えるかのように千聖は緩やかに首を縦に振ると、口の端を悠々と上げて穏やかな語調で答える。紅紫の瞳を少し鋭く細めながら。
「察しが早くて助かるね」
不敵な笑みを崩さないまま、瑞希は言葉を返す。「どっちで進めている?」
「ピックね」
千聖も大人びた微笑みで答える。「メンバーで決めたというよりかは、先生に決められたことだけど」一瞬間だけ顔を
「それなら指弾きも練習してもらうかな」腕を組み、視線を天井に移して僅かな間だけ悩むと、瑞希はもう一度千聖を見つめて軽やかに口を開く。「別に今はライブの予定が近くにないんでしょ?」
「活動休止状態なんだから、ライブ以前の問題ね」肩を竦めて、千聖は嘆息を吐きながら返答。紅紫の瞳もどこか不満げな様子で細められており、それを隠すように苦笑いを浮かべていた。
「まっ、一万人の前に嘘がバレちまったからな」
当然の結果だろうと意地悪い笑顔を見せながら、楽しげに喉を鳴らしながら瑞希は告げる。「さて、練習を始めるか」
しばらく課題として挙げた曲や
当たり前だと千聖は首を縦に振って、穏やかな語勢で礼を言い、「次もよろしくね」と変わらず年不相応に大人びた笑みで応えた。
「次回はあんたが遅刻しなかったら、みっちりやってやるよ」子供っぽく意地悪く笑い返し、瑞希はそのままドアを開いて部屋を出ていく。足取りは何の迷いもなく、真っ直ぐに。
一人残された千聖は視線を手元にある自分のベースに落として、呟く。「……ベースなんて地味な役割だと思っていたけど」フロントにスプリットコイル、リアにシングルコイル……プレシジョンベースとジャズベースの特徴が合体した如何にも器用な音作りができそうなベースで不器用な音を鳴らし、「そうじゃないのね」と感心した様子でじっと見つめていた。