迎えたライブ当日、瑞希は黒のコーチジャケットの下に灰色のオーバーサイズパーカーと黒のスキニーパンツという私服姿でライブ会場へと足を運ぶ。天気はチケット買った時と比べて、清々しい程に晴れやか。天色と白のコンストラクトが絶妙に混ざり合った空の下、薫風が爽やかに通り抜けて新しい出発の瞬間を祝うかのよう。
「意外と人いるんだな……」
会場付近に到着すると、人々があちらこちらと出入りしていた。新人バンドのライブイベントだから、少ないと思っていたが、案外人は集まるのだなと感嘆する。つと近くを通りかかった観客の会話が耳に入る――雨の中でチケットを配っていたバンドがいるぐらいだから今回は豊作だろうと。
その雨の中でもチケット販売をしていたバンドから実際に購入した瑞希は一人苦笑いを零す。結構噂になっていたんだな、だから人が集まっていたのか。集客の良さに納得しつつ、スマートフォンで時間を確認する。
また開場時間まで時間があると分かり、コーヒーブレイクに使おうと近くを散策することに。適当に歩き回っている内に自動販売機を発見し、そこでコーヒーを買おうと思った――が、あいにく無糖のコーヒーは売り切れていた。苛立たしげに舌打ちをして別所へ向かうおうとした時、背後から呼び止められる。
「そこのあなた、ちょっと待ちなさい」
聞き慣れた声だなと思いつつ振り返ると、そこにはTシャツと舞台衣装らしい華やかなスカート姿で千聖が立っていた。瑞希は予想外だと驚くも、すぐさま次の疑問が思い浮かんでは口に出す。「おいおい、こんなところにいて大丈夫なのかよ?」
「今は休憩時間だから大丈夫よ」
いつも通りに
それを見て、瑞希は
そして開けて一口流し込む。苦さがあるが、それ以上に甘さが打ち消すように口の中を満たし、思わず噴き出しそうになる。「……甘っ!!」何とか飲んでから吐いた言葉は、驚嘆と怒りが混ざっていた。
「あら、そうなの?」
女優は首を傾げて知らなかったような態度を見せ、「微糖だからそこまで甘くないはずよ?」どこ吹く風と言わんばかり
「無糖じゃねえじゃん! アタシは甘いコーヒーは大っ嫌いなんだよ!」
「ごめんなさい、あまりコーヒー飲まないから疎くて」怒声を浴びても千聖は動じることなく、簡単に謝る。けれど、悪びれる様子はなく鉄壁の微笑みは崩れる気配はない。
「コーヒー飲まなくても、紅茶ばかり飲んでいるから背伸びなくなったんでしょ」
「それでもコーヒーばかり飲んでいる人よりは高いわよ?」
仕返しと言わんばかりに悪態をつくが、さらりと言い返されてしまい、閉口せざるを得なかった。確かに千聖は女子の中でも小柄な方だが、そんな彼女より瑞希の背丈は低い。こればかりは認めるしかないのが、腹立たしいところ。
「それじゃ、私はここでお暇するわ」
用が済んだのか、千聖は踵を返して躊躇いなく来た道を戻っていく。「……頑張れよ」その背中に投げかけたのは純粋な応援の言葉。もう録音した音源ではなく、自分の音で演奏するバンドなのだから、誹る声なんて出ない。
「え?」
「いいから、とっとと行けよ」
足を止めて振り返る千聖に、瑞希は普段通りの不機嫌そうな
彼女の意を感じ取ったのか、千聖は何も言わずにそのまま立ち去る。背中を見届けた後、コーヒーを一気に飲み干して空き缶を片付け、瑞希も足早に会場の方へと足を運んでいく。口の中には苦味よりも甘味が残っており、余計に眉を
会場内に入ると、劇場が会場だけあって座席がずらりと並んでいた。瑞希は迷わず指定された席につく。頭の上には今日演奏するバンドの情報が飛び交い、様々な感情が
電灯が消えて辺りが暗くなっていき、ざわめきが静まり返る代わりに席を立つ音が耳に届く。周囲につられて瑞希も立ち上がる……ということはなく、座ったままだった。頭上から降ってくる場内アナウンスが、明瞭に響き渡る。
やがて静寂が訪れ、呼吸音だけがやけに大きく聞こえてくるような緊迫感が包み込む。トップバッターを務めるバンドの音が、空隙を切り裂いた。
緊迫した空気は吹き飛び、一気に会場は盛り上がる。色とりどりに輝くペンライトと統一された合いの手、ステージで奏でるバンドサウンドが一体となり、熱気に溢れかえっていく。
荒削りな演奏を聞いて、瑞希は苦笑いを零す。新人バンドというのだから、そこまで洗練されてなくて当然か。技量を推し量りながらも、かつての自分達を重ねるかのように、苦笑は止まらなかった。
次のバンドも、その次のバンドも荒削りながらもそれぞれの熱を秘めた音を奏でる。生きている音を生で体験できるのがライブの醍醐味といったところ――これは昔から変わらない、と瑞希の口元がやがて楽しそうに緩んでいく。
そして目当てのバンドの出番になると、ようやく立ち上がる。視線の先にはパステルカラーの華やかな衣装を身にまとった五人の少女たちが、各々の楽器をセッティングしていた。周りがざわつく中、いよいよPastel*Palletの演奏が始まる――。
歌い出しの声は可愛らしくもあるが、緊張で声が若干振るえている。ギターやキーボード、ベースの音も非常に粗いが、ドラムが丁寧にまとめているおかげで粗さも目立たない。完成度で言えば、他のバンドと比べて頭一つ抜けている訳ではないが、それでも洗練されている方だろう。
周囲は本当に生演奏なのかと疑っている中、生音ならではの音の震えを肌に感じて、瑞希は思わず口角を上げる。やりゃあ、できるじゃん。視線はベースを弾いている大女優――いや、Pastel*Palletのベーシストへと向け、楽しげに
ふわりとふわりと綿飴のような柔らかさがありつつも、その裏には綿飴が巻きついている棒のように硬い音が鳴り響く。ピックで弾き出された力強い低音が、瑞希の耳に届く度に
ボーカルの音が一つ、いや二つ三つと外れた時、ようやく生演奏だと認知する観客の声が出始める。そして思い思いの言葉が合いの手を潜り抜けて、飛び交う。――これは生演奏だ、当てフリのアイドルバンドじゃない、と。
その言葉を受けて、瑞希はにやりと笑う。アタシが音源を提供していない、純粋なバンドサウンドに決まっているだろ。決して洗練されているとは言い難い荒削りな音、けれどそれが彼女達が込めた情熱だと思い知り、だからこそ瑞希が奏でた低音はそこにないと証明する。
途中で音が消えることもなく、目の前の少女達は自分の音を奏で終えて、満面の笑みを浮かべた。それから謝罪と再出発への意気込みを伝え、舞台袖の方へ去っていく。彼女達の行く先を見つめながら、瑞希は決して誰にも届かない言葉を呟く――あんたらの音、届いたからな。