潤羽るしあ
潤羽るしあが初めてその声を聴いたのは、去年の始め頃である。
当時るしあは、学年が1つ上がり、それに合わせ学び舎も変わった頃。
その日も、るしあは1人で中庭に居た。
──疲れたのです。
ベンチへ座り、背もたれに背を預け、橙に染まる、夕暮れ模様の空を仰ぐ。
今日も長い1日が終わった。
「……フフッ」
ふと、るしあが噴出した。
それを皮切りに、るしあは背もたれから体を上げると、体をくの字に曲げて、口元を抑え、肩を震わせる。
暫くして、勢い良くるしあは顔を上げた。周囲を見渡し、誰も居ない事を確認して、安堵の吐息を漏らす。
思い出したのは、今日の授業中の事。
通りすがりの浮遊霊が、何を思ったのか黒板から顔だけ出した状態で止まったのだ。1限目から6限目までずっと。
当然、只の人間である教員がそれに気が付くことは無いから、そのまま授業は続き、浮遊霊の顔なんてお構いなしに板書をする物だから、浮遊霊の顔の部分が丸で囲まれたり、集中線が引かれたり。
浮遊霊の表情が能面のようだった事も相まって、授業中は笑いを堪える事に必死だった。
いっそ、頭でも首でも掴み上げ、そのまま追い払ってしまえれば良かったのだが、授業中でも休み時間でも、クラスメイトの視線が正面の黒板から外される事は無く、そんな中でいきなり黒板の前に立ち、何かを掴んで脅す動作をしようものなら、良くて不思議ちゃん、悪くて頭のおかしい子である。
折角2年間、頑張って普通の子を演じてきたのだ。今更油断して、悪目立ちしたくない。
深呼吸を1つして、気持ちを整える。また思い出しそうになった昼間の事を追い払い、家に帰ろうと思った所で。
『わんわんっ!』
子犬の鳴き声が響いた。
お怒り気味の、威嚇するような声色である。
何事かと再度周囲を見渡して、その元を見つけた。
段ボールを抱えた男子生徒が1人、中庭を横断していた。ネクタイの色から、先輩と分かる。
その先輩の肩の上に、声の主である子犬が居た。肩の上に立ち、先輩と同じ方を向いて、懸命に吠えている。
視線の先に、浮遊霊。るしあを苦しめたのと同一の個体だ。授業中と変わらず、能面のような顔のまま、フワフワと重さを感じさせぬ動きで、先輩を目指す。るしあからすれば、特に珍しくもない、光景であった。
浮遊霊は、存在を維持するために人に憑りつき、生気を奪う。特定の人間に強い恨みを持っているという事が無ければ、憑りつく対象は完全にランダムで、先輩もたまたま目を付けられたにすぎない。
少々珍しいのは、憑りつこうとしている先が守護霊のいる相手だという事。守護霊自体が珍しい存在である事に加え、ただ生気を消耗するだけの浮遊霊と、守護する相手から常に生気を供給されている守護霊では、守護霊の方が基本的には力が強く、それこそ、本来であれば片手間でも追い払えるレベルなのだが……。
──まあ、あの先輩、生気薄そうですし。
子犬自身の力不足もあるだろうが、守護霊の力を保つ為の生気供給元である先輩も、猫背気味の姿勢にげんなりとした表情からは、生気を感じにくい。
放課後だからといって、些か疲れすぎに見える。3時間続けて体育とかだったのだろうか。
あの調子では、憑りつかれる事を回避することは出来ないだろう。まあ、死ぬ事は無い。長くて1週間位、酷い体調不良には悩まされるだろうが、その程度。
運が悪かったと、そう思って貰うしか──。
『わんわん!』
「え?」
先輩の前に、るしあは躍り出た。
後ろから、戸惑う声。お構いなしに進んでくる浮遊霊の腕を掴み、引き下げ、胸倉を掴む。
「どっか行きなさい」
威圧。格を分からせる。
本来なら守護霊である子犬が出来たはずの事をるしあが代わりに行う。
間を置かず、浮遊霊がプルプルと震え始め、霧の様に消えた。
別に成仏をさせた訳でも、消滅させた訳でもない。圧に押され、一時的に姿を維持する事が出来なくなっただけだ。
知らぬ所で再構成されたとして、そのまま生気を失い消滅するか、それより前に誰かに憑りつけるか、存外成仏するか。るしあには興味無かった。それ所ではなかった。
──……やっちゃった。
無視した場合の目覚めの悪さと、幼い守護霊の頑張りに後押しされてしまい、つい動いてしまった。
空中で何かを掴み、ドスを効かせた声を出す。完全に変な子である。
恐る恐る顔だけ微かに振り返ると、肩で嬉しそうにしている子犬とは対照的に、先輩はポカンとした顔をしていた。引いている様子は無い。
だがそれも、まだ理解が追い付いていないだけだという事を、るしあは知っている。
「し、失礼するのです!」
引かれた顔を見る前にるしあはその場を走って逃げだした。
数日後。
賑やかな教室の中で、るしあは自分の腕を枕にして、机に突っ伏していた。
「ハァ……」
今日、何度目かになる溜息。
そのたびに、また別の街に行かないといけないだろうかと、そんな考えが脳裏によぎる。
ホロ学園入学前に居た学校の記憶。そこでもこの前と同じように、同級生に憑りつこうとした浮遊霊をいなした結果、るしあは同級生から不気味がられ、嫌われ、1人になった。
それが嫌で、知っている同級生が誰も居らず、癒月ちょこも居るという事で、ホロ学園に入学し、滅茶苦茶気を付けて生きてきたのに。
「……ううん。あの時よりいいよね」
かつての学校では衆人環視の元で浮遊霊を相手取ったが、今回は1人だけだし、相手は先輩だ。校舎も違うし、来年以降に会う可能性はあるが、その頃には相手も忘れているかもしれない。
成るべく上級生の校舎に向かわないようにしつつ、死霊術を使って何が何でも鉢合わせないようにすれば、このまま音沙汰無く残りの日数を過ごせるに──
『わん!』
「!?」
子犬の鳴き声に、るしあは体を起こした。視線の先。机の上に、尻尾を振り回し、舌を出しながら体で息をしている子犬が居た。
何故ここに。守護霊が、守護対象から離れすぎる事はありえないはずである。
「潤羽さん?」
「は、はい!?」
再度驚き、声の方を向く。
クラスメイトであった。るしあの反応に驚きの様子を見せながらも、彼女は指さした。
「お客さん」
指の刺された方へ、視線を向ける。
そちらに視線を向ければ、数日前に助けた先輩が其処に立っていた。
目が合うと、先輩が会釈。つられて、るしあも会釈を返した。
「誰? 彼氏?」
「……怨敵でしょうか」
「どういう事?」
首を傾げるクラスメイトを置いて、るしあは立ち上がった。
ピョンと机を蹴った子犬は、そのままるしあの肩に乗る。スリスリと擦り寄られ、こそばゆい。
数日前助けたことで、随分懐かれたようだ。それにまだまだ甘えたい盛りのようで、きちんと自分を見て触れてくれるという事が、嬉しいらしい。人目が無ければ幾らでも構ってあげたい所だが、そういう訳にもいかない。
教室を横切り、るしあは先輩の前へと立った。
るしあの緊張と怒りが伝わったのか、先輩はやや引きつった笑いを見せる。
「えっと」
「場所を変えましょう」
それだけ言うと、余計な事を言われる前に、るしあは歩き出した。
後ろから、自分を追う気配。ついて来ているらしい。ついてこなければいいのにと、そんな事を思う。
校舎の中を暫し歩き、適当な空き教室を見繕って、扉を開ける。
「先に入って下さい」
るしあがそう言うと、先輩は特に何の反応も見せることなく、教室の中へと入った。
続いてるしあが、周囲を確認してから中へと入り、扉を閉めた。
振り返ると、先輩は窓から景色を眺めていた。確か、此処から見えるのは校庭や街並み程度で、そんな感心するような景色でも無かった筈なのに、無意識なのか、「おー」という感嘆の声が聞こえてきた。
「先輩?」
「ああ。ごめんなさい。初めて見る景色だったので」
「初めて? ホロ学出身ではないのですか?」
「外部入学で、引っ越してきたばかりなんです」
「そうなのですか」
少しだけ、るしあは親近感を覚え、同時に恐怖を覚える。
ホロ学の制服は、基本的にどの学年であろうと変わらない。男子ならネクタイ、女子ならリボンのデザインや色が、違う程度。
その為、あの日、顔しか振り返らなかったるしあを探すのは、困難だったはずだ。
何せリボンの色が見えないから学年が分からず、外部入学してきたという事は学校内の地図に疎ければ、他の生徒の事も詳しくない筈で。
そんな状況で、態々学年も校舎も違う自分を探しだし、態々話をしに来たのである。
話としては間違いなくこの前の件だろうか。ただ、そこまでして何を話すというのか。
るしあの勘違いで無ければ、振り返った時にスマホなどを手に持っていた記憶は無い。それなら、少なくとも動画を取られたようなことは無いはずだ。
目の前の先輩がるしあが及びもつかないような名うてのインフルエンサーでもない限り、言った言わないの論争になれば、ホロ学歴の長いるしあの方に軍配が上がるだろう。
なら、態々この前の話を、自分を探し出してまで蒸し返す必要は──否。それこそが勘違いではないだろうか。
引っ越してきたと、この先輩は言った。つまり話の内容はこの前の事ではなく、もっと前。それこそ自分がホロ学に入学するよりも前の、引っ越しをして来る以前の話。
前に立つ先輩は、ネクタイの色から1学年上という事は分かる。つまり、自分と同じ時期に、前の学校に居て、自分の話を聞いたとしてもおかしくない。この前の事と、前の学校での事を関係づけて自分の事をまた──。
そう考えた途端、ザワリとるしあの心が震えた。自分を追いかけてきた過去を前に、恐怖を怒りが塗り替える。
そんなに見せて欲しいのなら、見せてやろうかと、るしあの魔力が活性化し、あふれ出す。
先輩の気づかぬ程の速さで、徐々に髪が伸びだした時。
先輩が深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「……え?」
聞こえてきた言葉に、るしあの髪の急成長が止まった。
変わらず魔力は活性化したままだが、幾らかの冷静さを取り戻す。
「この前の件、最初は良く分からなかったけど、もしかして俺の事を元気づけようとしてくれたのかと思って。それならちゃんと、お礼を言わないといけないから」
「……と、とりあえず頭を上げて下さい」
頭を下げたまま先輩に、るしあは声をかけた。
言葉の通り、先輩が顔を上げる。その表情に嘲笑等無く、声同様に真剣そのもの。
──この先輩、滅茶苦茶ピュアか頭がおかしいかのどっちかなのです。
これが演技なら騙されても仕方がないと思える。それ程るしあは、相手から邪念を感じなかった。
「因みに」
「はい?」
だからだろう。先輩の言葉に対するるしあは、普段通りの声色であった。
「あれって一体、何していたんでしょう?」
「……えーと」
当然の疑問をぶつけられる。
貴方に憑りつこうとしていた浮遊霊を追っ払っていましたとは、流石に言えない。
「ひ、秘密です」
「そうですか。残念です」
るしあの言葉に先輩はあっさり引いて、それからポケットからスマホを取り出した。
何だろうかと思うるしあの前で、先輩はスマホの電源を一時点け、直ぐに消す。
「そろそろ戻りましょうか。いい時間ですし」
「え? ……あ、本当だ」
時計を確認すれば、ぼちぼち戻らなければ次の授業に遅れそうな時間だった。
先輩が歩き出し、扉の前へ。扉が開けられる。
「それじゃあ、潤羽さん。お時間頂きありがとうございました。今度何かあれば、自分が助けますね」
「あ、はい」
会釈して、先輩が立ち去る。
空き教室に1人残されたるしあは、暫くして、はてと首を傾げた。
「何で先輩、私の名前を知っていたんでしょう?」