アサルトしないリリィ   作:坂ノ下

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素顔を見せて (紗癒×雪陽)

「ユキの怒ってる顔が見たいわ」

 

 始まりは唐突なことだった。

 ある昼下がり。百合ヶ丘女学院カフェテリアのテラス席にて。真っ白な大理石のカフェテーブルを挟んだ向かい側から、そんな言葉が妹島広夢(せじまひろむ)の耳に飛び込んできた。

 どこか猫っぽい広夢のツリ目が一瞬だけ前に向くが、すぐにテーブル上のスコーンに戻る。今はお菓子を楽しんでいる真っ最中。「戯れは後にしてくれ」と言わんばかりの反応だった。

 

「ユキの怒ってる顔が見たいわ!」

「いや、聞こえてるから。二回も言わなくていいから」

 

 再び繰り返される熱い主張に、広夢は仕方なく返事をした。一度こうなると、向かい側の席に座っているこの友人が中々収まらないことを知っているからだ。

 金色のストレートヘアを腰まで伸ばした、広夢と同じ一年生。トレードマークとも言える白のベレー帽はテーブルの上に置いてある。彼女、立原紗癒(たちはらさゆ)は友人であると共に、広夢の所属するLG(レギオン)ローエングリンの主将でもあった。

 

「また藪から棒に、何なのよ」

「ほら、ユキが顔色を変えて人を怒ったことなんて無いじゃない。だから怒った顔が見たいな、と」

「はぁ?」

「勿論、いつもの柔らかい微笑みも素敵だし好きですよ? でも色んな姿を見てみたいと思うのが、人の心というものでしょう」

 

 何故か誇らしげに語る紗癒。話に上がった「ユキ」というのは、広夢の友人にして紗癒の幼馴染の倉又雪陽(くらまたゆきよ)のこと。レギオンも無論、二人と同じローエングリンである。

 ちなみに現在は所用のため、カフェテリアに雪陽の姿は無い。だからこそこんな話をしているのだが。

 

「まあ確かに。雪陽が怒ってるとこ、想像できないかな。幼馴染の紗癒が見たこと無いなら、誰も見たこと無いんじゃない?」

「ただの幼馴染じゃないわ! 幼馴染で恋人で将来の伴侶で半身ですから! 間違えないでちょうだい!」

「めんどくっさ」

 

 身を乗り出しかねない――お嬢様だから実際にはしないが――紗癒の勢いに、げんなりとした広夢が溜め息を吐く。

 今の紗癒を止められる者がいるとするなら、それは彼女のシュッツエンゲルである竹腰千華(たけごしちはな)だろうか。

 しかしながら、広夢はその考えをすぐに捨て去る。

 

(千華様も、紗癒と雪陽の件についてはあまり口出ししないのよね)

 

 これがもしも、紗癒が雪陽にかかずらってばかりで学業やレギオンの活動を疎かにしたならば、ドSでスパルタな千華からきついお灸を据えられるに違いない。

 ところが紗癒は雪陽のことも学業もレギオンも、万事抜かりなくこなしていた。むしろシュッツエンゲルである千華の方がシルトの紗癒に世話をされることもある。そんな状態で、誰が紗癒を窘められようか。

 外野の人間の中には、仲睦まじい二人を可愛らしいと微笑ましく見る者も少なくない。しかし、すぐ傍に居る広夢にとっては微笑ましいで済むものでもない。

 

(でもまあ、付き合ってあげましょうか)

 

 それでも結局、広夢は紗癒の話に加わることにした。大体いつも、こんなパターン。

 何だかんだ言って、広夢は友達付き合いが良いのである。

 

「それで広夢さん、妙案はないかしら? どうにかしてあのユキを怒らせるための」

「う~ん……」

 

 神妙な顔の紗癒に問われ、広夢はスコーンに伸ばしていた手を止める。小首を傾げて紫色のツインテールを上下に傾け考え込む。

 しかし、いざ案を求められると浮かんでこない。

 無理もなかった。広夢は中等部セレクションを突破して百合ヶ丘に入学し、紗癒や雪陽とはそれ以降からの付き合いだった。共に過ごしてきた年月のずっと長い紗癒が悩んでいる問題に、広夢がおいそれと答えを出せるはずがない。

 

「雪陽って何言われても腹立てなさそうだし」

 

 今となっては過去の話だが、雪陽がレアスキルに中々覚醒しなかった頃、心無いことを言う人間も中には居たらしい。

 そんな時でも雪陽は怒らず、言い返さず。むしろ彼女本人ではなく、紗癒が激怒し怒りを振り撒いていたぐらいである。

 

「仮に紗癒の悪口でも聞いちゃったら……。やんわり注意するか悲しむかってところかな」

 

 やはりあの温厚な少女が眉を吊り上げたり他人を罵倒する場面を想像するのは難しかった。こればかりはどうしようもない。

 二人の計画は早くも暗礁に乗り上げかけていた。

 

「どんな突拍子もないことでも良いの。私の視点からでは思いもつかない方法が何かあるはずだわ」

「そうは言われてもねえ」

 

 紗癒は諦めない。分かってはいたが。

 とは言え浮かばないものは浮かばないので、広夢は本当に突拍子もない案を出す。半ば投げやり気味に。

 

「じゃあ紗癒が浮気でもしてみたら?」

「あり得ないっ。そんな浮気だなんて、あり得ないわ! 鎌倉の鴨サブレが生産停止するよりあり得ないっ!」

 

 案の定、紗癒は椅子から立ち上がって猛抗議する。もし彼女がお嬢様でなかったら、テーブルの上を両手で思い切り叩いていたことだろう。

 広夢は首を左右に振ってツインテールを揺らす。

 

「本当、面倒ねえ。それならその反対で」

「反対?」

「学院のどこか人前で、わざと雪陽にイチャイチャベタベタするのよ。恥ずかしがって怒るんじゃない?」

 

 更に投げやりになった広夢の提案。売り言葉に買い言葉、とは少し違うが、今しがた思い付いたことをそのまま口にした。

 それを耳にした紗癒は押し黙り、体の動きもピタッと止める。

 いい加減な提案に、流石に怒るか呆れるかしたのだろうか。そんな広夢の予想は直後に呆気なく裏切られる。

 

「……天才なのでは?」

「えっ」

「広夢さん、貴方は天才よ! いいっ、これはいいわ! まさに一石二鳥!」

 

 却下されるどころか予想だにしない高評価。先程の反応と比べると、掌を返すよう。

 目の前で盛り上がる紗癒に、提案者の広夢の方が不安に包まれてしまう。

 

「ね、ねえ紗癒――」

「そうと決まれば明日実行ね。人の目が集まると言ったら、やっぱり登校中かしら。うん、それが一番確実ね」

「おーい、紗癒ったら」

「ふふふっ。広夢さんも明日の吉報を楽しみにしてて。あ~、楽しみだわ!」

 

 紗癒はまたもや椅子から立ち上がると、今度は広夢に挨拶をした後、軽い足取りでテラスから去っていった。午後からの講義を受けるために。

 講義は広夢も、件の雪陽も一緒である。さっきの発言からすると、幾ら人目があるとはいえ講義室では自重するようだ。

 けれども広夢の中に湧いていた嫌な予感が消え去ることはなく。

 

「ま、なるようになるでしょ。私、しーらない」

 

 嫌な予感からあえて目を逸らすかのように独り言ちる。

 ただ表面上そんな態度を取っていても、後から絶対関わってしまう。妹島広夢という少女はそういう人間なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、早朝訓練に励む者を除いた大多数のリリィが登校してくる時間帯。

 百合ヶ丘女学院は広大な敷地を誇るものの、学生寮と本校舎の間に大した距離は無い。故に、一年生の暮らす新館から本校舎の食堂を目指すまでの道程も短いもの。

 だがその短い道程の間でも、紗癒たちは十分目立っていた。

 紗癒の金髪と同じく腰まで伸びている、ウェーブのかかった赤毛。その赤毛が頭のてっぺんでは、犬耳みたいに左右に跳ねている。

 紗癒よりもほんの数センチだけ低い彼女は、紗癒の左にぴったり寄り添って食堂までの道を共にしていた。二人の手は指を絡め合わせて一つと化している。

 

 二人、特に紗癒の方は有名人だ。何もしなくても自然と人の注目は集まってしまう。しかし彼女が今考えていることを実行に移したなら、更に耳目が増すのは確実だろう。

 首を僅かに横へ動かし無言で赤毛の少女を見る。すると少女もまた首を傾け、紗癒と目を合わせてきた。

 

「紗癒ちゃん、今晩楽しみだねえ。材料はちゃんと用意してあるからね」

「ええ、ありがとう。ユキにだけ準備させちゃったみたいで、ごめんなさい」

「紗癒ちゃんはレギオンの訓練計画纏めてたんだから、いいんだよ」

 

 ユキこと倉又雪陽が話しているのは本日の夕食について。ルームメイトである二人は寮の部屋に広夢も招き、手料理を披露しようと約束していたのだ。

 百合ヶ丘の寮には共用の調理スペースが幾つか設けられていた。使用に際して、レギオン単位など大人数ならば事前の申請が必要だが、基本的には自由に使うことができる。多くのリリィは大抵の場合、本校舎の食堂やカフェテリアを利用するからだ。

 わざわざ自炊しようとするのは料理が得意なリリィか、あるいは娯楽やイベントとして料理を楽しもうとする者のどちらかだろう。

 

「またユキの好きな激辛作る?」

「もーっ、今日は普通のご飯作るよー」

 

 一限目の講義まで大分余裕があった。ゆったり歩きながら、取り留めの無いお喋りをする。

 話の最中、紗癒は自然な形で雪陽の方へと顔を寄せた。金と赤の長い髪が触れ合い、混ざり合って、相手の頬をくすぐるように撫でた。

 

「ふふっ。紗癒ちゃんの髪、さらさらで触れると気持ち良いね」

「ユキのふわふわな髪だって。ずっと触っていたいわ」

 

 女子にとっての髪というものは、単なる体の一部というわけではない。俗に「女の命」と言われているように、重大な意味を持っている。

 その髪でこんな風に気兼ねなく触れ合っている点からも、彼女たちの並々ならぬ仲が窺えた。

 

 よく晴れた陽の下、繰り広げられるじゃれ合い。

 いつまでもこうしていたい。そう思う紗癒だが、しかし本来の目的は忘れていなかった。広夢発案の「人前で恥ずかしいことをして照れさせて怒らせよう」という目的を。

 紗癒は急に無言になり、隣の雪陽をジッと見つめる。

 それに気付いた雪陽が不思議そうに小首を傾げてくる。

 

「んー? どうしたの?」

 

 今まさに紗癒が為そうとしている行為など露ほども知らない様子。

 そんな彼女に対し、紗癒の中に今更ながら後ろめたさが湧いてくる。

 だがそれよりも、すぐ傍に居る恋人の仕草、手の感触、ほのかに甘い香り、純真無垢な笑顔に対する愛しさが勝った。

 不意に、紗癒の顔が一段と接近していき――――

 

 チュッとほっぺたに口づけた。

 

 雪のように白い雪陽の顔がほんのりと赤く色付く。両の瞳を丸くし、小さな口が半分ほど開く。

 しかし雪陽が呆気に取られていたのは僅かな時間だけだった。すぐに口元を緩ませて普段通りの微笑を見せると、今度は彼女の方から顔を寄せてきた。向かう先は勿論、紗癒の頬。

 

「も、もうっ! ユキったら……」

「お返しだよ」

 

 いつも通り微笑んでいるはずの雪陽が、今は少しだけ悪戯っぽい笑みに見えた。

 気恥ずかしくなったのはむしろ紗癒の方だった。

 そんな中で、二人のやり取りを一部始終見ていた周囲のリリィたちから、ちょっとしたざわめきと黄色い声が上がる。「あら~」だの「たまりませんわ」だの「朝っぱらからなんちゅうもんを見せてくれるんや」だの。

 留学生の珍しくない百合ヶ丘では挨拶程度のキスも珍しくない。だが紗癒と雪陽の関係は割と知られているため、周りの反応も変わってくるのだ。

 もしこの場にゴシップリリィが居合わせていたら、興奮してカメラのシャッターを連射していたことだろう。そうでなくとも、寮生活で娯楽に飢えがちなリリィたちは興味津々といった様子。

 紗癒自身とて誰か他のリリィのこんな現場を目撃したら気になってしまう。しかし今の彼女は当事者。それに加えて周囲からの目をはばかる気も無くなっていた。

 紗癒は「えいっ」とばかりに再び雪陽のほっぺたに向けて身を乗り出した。

 

「あっ、も~、またやった」

「ふふふ。お返しのお返し、ですわ」

「朝ごはん遅れちゃうよ?」

「大丈夫、一限までには間に合うから。だからこのままゆっくり行きましょう」

「そっか。うん、そうだね~」

 

 結局、食堂に到着して他の友人たちと合流するまで、似たようなやり取りが続くのだった。当初の目的は捨て置かれたままで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で? 首尾は?」

「ユキが可愛かったわ!」

「ねえ、私もう帰っていい?」

 

 その日の午後、講義の終了後に昨日と同じテラス席へ集まった広夢と紗癒。

 初っ端から頭を抱えたくなる広夢だが、今朝の出来事を具体的に聞くと、やはり頭を抱えてしまう。

 

「あんたねえ、本来の目的を忘れて何やってんのよ」

「勿論忘れてはいません。収穫もありました。ユキは恥ずかしくなっても、照れ隠しで怒ったりしないことが分かったわ」

「聞いてるこっちが一番恥ずかしいんだけど」

 

 惚気を聞かされるために呼ばれたのかと嫌そうな表情を隠さずに、広夢がジト目で突っ込みを入れた。

 そうは言っても、実際は紗癒も雪陽も分別ぐらいつくことは分かっている。広夢を含め他のレギオンメンバーや友人が一緒の時はちゃんと自重していた。訓練や任務の最中は言うまでもない。

 だがそれはそれで、広夢にとっては釈然としない部分がある。

 

(私が居るからってあの二人に気を遣われたら、それはそれで癪なのよね。いや、だからって公衆の面前でイチャつかれるのも困るけど。程度ってものがあるけど)

 

 広夢も大概、面倒臭い性格をしていた。

 

「それでは広夢さん、次の手を考えましょう」

「えぇ……まだ諦めてないんだ」

「むしろますます見たくなったわ」

 

 紗癒が居住まいを正して表情も引き締める。

 しかし議題が議題なだけに、広夢からしたらいまいち格好がついていない。

 

「もう本人に直接頼んだら? 『私を怒ってください』って」

「そんなことをしては自然な表情や仕草が出ないでしょう。不審に思われるかもしれないし」

「不審って自覚はあったのね……。でも幼馴染なんだから、頼めば引き受けてくれるわよ」

「ただの幼馴染じゃないわ! 幼馴染で恋人で将来の――」

「そのくだり毎回やるわけ?」

 

 途中、紅茶で喉を潤し一息ついて、作戦会議を再開する。

 広夢も表向きは「やれやれ」と肩をすくめるような態度を見せるが、本当に席を立つ気はなかった。やはり付き合いが良い。

 ただ、作戦が成功したら何か奢らせようとか、失敗しても何か奢らせようとか、そんなことを考えていた。

 

「講義をサボったら雪陽も怒るんじゃないかしら」

「駄目ね。任務も無いのに学業をおろそかにしたら、千華姉様にもレギオンの皆にも心配かけるから」

「そうなると、難しいわよ。そもそも人に心配や迷惑を掛けるようでないと、あの子も怒らないでしょ」

 

 広夢の至極もっともな意見に、紗癒は低く唸って考え込む。それっきり黙って思考に没頭しているようだった。

 学業において、レギオン運営において、そして何より戦闘において非凡な力を発揮する紗癒の頭脳。百合ヶ丘一年生の中でも屈指の頭脳が、恋人の新たな一面を見たいがために、フル回転しながら悩んでいる。

 字面にするとシュールなことこの上ない。

 けれどもリリィが十代の少女である点を鑑みると、そうおかしな話ではないのかもしれない。

 

「ではユキをピンポイントで攻めましょう」

「ピンポイント……やはり浮気」

「却下。駄目です」

 

 テラスで行われるたった二人の会議は当初の予定から外れ、時間を超過し、混迷度合いを増していた。

 だからこそ紗癒も雪陽も直前まで気付かなかった。渦中の人物がすぐ傍まで近付いていたことに。

 

「紗癒ちゃん、広夢さん?」

 

 その声はカフェテリア屋内とテラスを隔てる扉の方から聞こえてきた。

 広夢にしてみれば別段後ろめたいことはしてなかったはずだが、一瞬ドキリとしてしまう。冗談でも浮気などと口にしたせいだろうか。無論、本気でそんな事態を望んではいない。

 一方で、本来動揺するべき紗癒は見た感じ落ち着き払っている。ずるい、と八つ当たり気味に広夢が睨む。

 

「ユキ、ちょうど良かったわ。一緒にお茶にしません?」

「うん、ご相伴に与ります」

 

 ロングの赤毛を揺らして雪陽が二人のカフェテーブルにやって来る。髪のてっぺん部分、左右に跳ねたくせ毛が意思を持っているかのようにピコピコと上下していた。

 

「二人とも何のお話ししてたの?」

「色々よ。例えば食堂のメニュー。解放地域も増えてきたし、魚料理がもう少し増えてもいいとは思わない?」

「うん、そうだよね~」

 

 このまま何事もなく話が進むのか。

 そう思って広夢は紗癒と雪陽を交互に見やった。

 ところが幸か不幸か、広夢の予想は裏切られる。

 

「私の話もしてなかった?」

「……ええ、まあ。してたわ」

 

 雪陽に尋ねられ、紗癒は拍子抜けするほどあっさりと認めた。それどころか、今日の件だけでなく昨日の件も含めて全容を明かした。

 まさか全てを話すとは。広夢にとっては意外である。

 外面は取り繕っていたが、実は雪陽の登場に動揺していたのか。それとも彼女に隠し事を続けることが嫌になったのか。

 どちらにせよ、広夢は肩の荷が下りたような気がした。

 

「え~っ、私の怒り顔が見たいって。それで一生懸命話してたんだ」

 

 雪陽は相変わらず穏やかな口調だった。

 ただ幾らか困惑しているようにも見える。

 

(そりゃあ困るわよねえ)

 

 二人のやり取りに耳を傾けながら、広夢は視線をテーブルの皿に落としてお菓子を摘まむ。本日はチョコレートを練り込んだバウムクーヘンだ。顔が自然と綻ぶ。

 そんな風に茶色の輪っかを見つめていたので、広夢の目はその瞬間を見逃した。声だけは聞いた。

 

「広夢さんを困らせたら駄目だからね。めっ!」

 

 視線を上げる広夢。

 だがそこにはいつもみたいに微笑む雪陽。そして口を震わせ、瞳を輝かせる紗癒。

 

「もっ、もう一回! 今のもう一回見せてユキ!」

「え~? もう終わりだよ~」

「お願いっ、何でもするから!」

 

 どうやらついさっき紗癒の本懐は遂げられたらしい。まだ何やら欲を張っているようだが、まあ無視しても構わないだろう。

 

「一件落着かあ。全く、お騒がせなんだから」

 

 そう呟いて、広夢は手にしたバウムクーヘンを口に運んだ。

 内心よかったよかったと噛み締めながら、口の中で小麦粉とチョコレートの甘い生地を咀嚼する。

 

「……待って、全然よくない」

 

 口内の物を飲み込んでから、広夢は静かに口を開く。

 

「今までの流れは何だったの」

 

 何のために相談に乗ったのか、はたと疑問に思ったのだ。最後の最後であまりにも呆気ない解決だったから。

 

「私の時間を返せー!」

 

 叫ぶ広夢の顔は、台詞と裏腹に緩んでいた。

 

 

 

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