紫様は一向に目覚める気配がない。しかし、さとりのメールの内容から
状況は芳しくなく、危機が刻一刻と迫っている事だけはわかった。
『国道40号ばばばばばばえおうぃおい~べべべべべべべべべえべえええべえべべべえ』
起こすしかない。私は紫様を起こす事にした。
私は禁断の領域に踏み入る事になる…。
私、八雲藍は紫様の式である。
式である私は、紫様の『冬眠』の間に代わって仕事を行っている。
今、私はとても困っていた。
『――勝手な頼みだとは承知ながら、とても困っています。何卒、お情けを』
重役会議メンバーの1人、古明地さとりから1通のメールが来た。一言で言い表しがたい妙な妹を追って船に乗った所、遭難して無人島にたどり着いたらしい。現実的に帰国する方法がないため、紫様に助けを懇願している。
河童や天狗と協力したらしく、およその位置を記した地図の画像も添付されていた。
毎日送られてきた。メールを返したい気持ちは山々だった。紫様に代わって仕事をしている私は、明確に紫様の名前を名乗りさえしなければ紫様としてメールを返す事を許可されている。…メールは返せる。しかし、助ける事はできないのだ。
日に日に心の余裕がなくなってか、メールの内容が少しずつ悲哀さが増しているのが分かった。『冬眠』している紫様を『起こす』。それをしなければならない。
しかし、私にはどうしてもそれができなかった。…いや、しないのかもしれない。
今、私は紫様の寝てらっしゃる部屋の前までやって来ている。中に入る勇気がない。だから今日は橙を連れてきた。この子がいれば勇気が湧く気がしたのだ。
「橙、私にできるかしら…」
「藍様にできない事ってなあに?」
ああっ、可愛い!橙可愛い!!
私は橙を抱き上げ、首筋から匂いを嗅ぐ。医学に基づく根拠はないが、橙の体臭には強い鎮痛作用がある。これにより私は緊張感とストレスと痛みを何度も和らげてきた。橙さえいれば、紫様の強い八つ当たりや体罰にも耐えられる。
余りに強い多幸感や、依存性などの問題であると八雲紫様の式である八雲藍が警鐘を鳴らしており…。まあ、それはいいんだ。
『国道40号ばばばばばばえおうぃおい~べべべべべべべべべえべえええべえべべべえ』
これがあの少女さとりから最後に来たメールである。もう一刻の猶予もならない。
私は意を決して紫様の部屋に入った。
「紫様、お話したい事があります!」
「あ、流れ星。うふふ、綺麗ね。私、あれを掴んでみるのが夢だったの」
…私が誰にも言えない秘密……それは、紫様の熱烈な現実逃避だった。
紫様は日に日に考える事が増え、『年』という事に関する鋭いツッコミを受け見た目とその胡散臭く図太い雰囲気を漂わせる割には根はかなり繊細な紫様はストレスに耐え切れずこうして妙な現実逃避をするようになった。
これが終わればいつもの紫様に戻って、数か月分の問題をあっさりと解決してしまう。…なのだが、この光景は何度見ても慣れない。
最近、めでたくない方の紅白から言われたひとことが致命傷になったようだ。
『ねぇ、霊夢。私達って似た者同士だと思わない?』
『そうかもね。違いと言えば、年ぐらいかな』
人と妖怪という事ではない。そういうボケを踏まえた冗談のつもりだったらしい。
しかし、これがいけなかった。
傷が癒えると、いつもは何もせずとも部屋からのっそり出て来ていつも通りの紫様に戻る。私があの世界を邪魔するなどもってのほかなのだ。というか怖すぎる。怖すぎてとても邪魔できない。…この紫様の世界へ踏み入り、冬眠を起こそうという私を誰か褒めてください。
「見て、育てていたソレイロリアが花をつけてる。うふふ、私この花がとっても好きなの」
「ゆ、紫様!何卒!何卒こちらの世界に戻ってきてください!!」
「私ね、雲のベッドに横になって星をつまんで食べてみたい。金平糖みたいで甘そうだもの。お月様に腰をかけて地上を眺めたいな」
「紫様!!」
「綺麗ね…。この光景を切り取って、永遠に保存出来たらいいのに。今日という1日を、何度も繰り返せたら…素敵よね」
「おい、戻って来い!戻って来いってんだよ!」
「ねぇ…、私を月へ連れてって…」
ロケットに詰め込んで打ち上げてやろうか?
「ねぇ、藍様。いっそ紫様のペースに合わせてみたら?」
「この世界観のペースに!?」
この少女趣味の世界に入れってか!?私が!?それならむしろ橙の方が…。
いや、この世界に橙を入れるわけにはいかない。理解しようとするな。感じろ。
紫様の世界に入り、連れ戻すのだ。
「私ね、草の原に寝転んで、汚れた服で無邪気に笑うあなたが好きだったの。もう、今年は会えないの?」
「…今月の中頃、休みを取ったよ。僕らが恋人になった日さ。忘れる訳ないだろう?一緒に行こう、思い出のスキー場に。メレンゲの上で手を取り合って、ロープウェイを上ったね…」
瞼をキュッと瞑りながら一生懸命に紫様の世界観に合いそうな相槌を打ってみた。鏡を見なくても分かる。こんな恥ずかしいセリフ、シラフで言うだなんて…。頭が沸騰しそう。紫様が何も言わなくなった。
おそるおそる、私は眼を開けた。
「いや草なんだが。何言ってんだお前」
紫様は凄い人を馬鹿にしたニヤケ顔で私を笑っていた。
私は気が付くと紫様を引っ叩いていた。
「そうやって人を馬鹿にして…!」
「今のは痛かった、本気で殴ったね!」
「人の痛みが分から、分かるように教えてやる!」
私はもう一遍引っ叩いた。
「……っ!…あ、あれ。意外に悪い気しない」
「えっ」
紫様がこちらに好奇心の目を向ける。え、何それこわい。
「藍、私を罵りながら引っ叩いてみてくれない?」
「な、何を言い出すんですか!」
「…ごゆるりと」
橙が何か察した様子で襖を閉めた。いや、こんな所で1人にしないで!!ただならぬ雰囲気の紫様と2人きりにしないで!助けて!助けて橙!!!
私は走って逃げようとするも、逃げた先をスキマに繋げられまた部屋に戻って来る。
「ねぇ、藍…。私があなたにするみたいにやればいいのよ。ほら、スカッとするわよ?」
「ひぇぇ…何卒お許しください紫様、殴った事は謝ります!冬眠を妨げた事も謝ります、何卒、何卒ご容赦を…!!橙、助けて!私を置いて行かないで!橙!橙!ちぇぇーーーーーん!!!!!!」
すぅー、すぅー…。
寝息が聞こえる。姉だ。私が先に起きるから聞ける、私の特権。
抱きしめている腕を起きないように放すと寒くない様にシートを胸元までしっかり覆った。
今日の朝は寒くない。涼しい。とても目覚めのいい朝だった。
毎日こんなだったら良いのに。
メールの確認をする。やっぱり紫からの返信はない。今日は何て書いておこう。
およその内容は姉が伝えてしまっているので、後は繰り返しお願いするしかない。
コピペメールでは味気ないと思って毎日趣向を凝らしているが、ちゃんと見てくれているだろうか?
段々と腹が立ってきた。よし、内容を決めた。
私は携帯をポチポチと操作してメールを送信した。
『子供が生まれました。名前はことりにしようと思います』
どうよ。これは無視できまい。
私は干していた洗濯物を取ると着替える。生乾きだが今日は探索もあるし肌の露出は少なくしなきゃいけない。草で編んだ服は水で洗って干した。
それから昨日の肉の残りを食べる。姉にはこれぐらい残しておけばいいだろうか。
昨日の雨で、寝床が少し濡れた。酷い大雨になると水浸しになってとても寝れない。床を少し高くするように何ら工夫を試みるべきか。あるいは木の上に…家の様なものを作るのはさすがに無理か。
「お姉ちゃんが起きるまでに一度、下見でもしておこうかな」
そう思ってると、寝床でもそもそ聞こえる。見やると姉が起きた様だった。
「ん…、おはよこいし」
「おはようお姉ちゃん」
私は着替えを渡した。お姉ちゃんは何も言わずに草で編んだ服を脱ぐと元の服に着替える。そして食事を済ませると塗り薬をした。
姉はまだ眠そうにうとうとしている。私は心配で手をつなぐ。
「お姉ちゃん、ふらふらしてるよ。もうちょっと寝て行こうか?大丈夫?」
「大丈夫…」
無理に笑って見せるが、笑えてるようで笑えてない。私の微妙に心配する顔を見ると慌てて両手の指で口角をぐいっと上げて見せる。
そんな調子で一緒に探索にでかけたが、探索開始1時間ほどで姉は寝ながら空中を漂い浮遊し続けるという器用な遭難芸を見せてくれたので私はそれを捕獲、負んぶして拠点に戻った。寝てる姉を背負ったまま低空飛行しながら探索しても良かったが…。
しばらくこの後どうするか考えたが、ボイスメモを録音して携帯を近くに置いた。開いたら画面すぐにそれがある。再生してくれることを願うが…。
いや、きっと大丈夫だ。心を閉ざしても姉は姉。昨日の様な事にはならないはず。
「じゃ、行ってくるね。すぐ戻るから」