休日は少年が工房にこもり、ピアが修行で迷宮に行き、アルマは一人で採石者の勉強に時間を当てていた。現状では、迷宮の探索において少年に頼っている部分が多い。少年も技師を目指してやることも増えた今、少しでもその代わりを務めようとアルマは考えていた。
戦闘面でも、探索面でも、今のアルマでは探索者としてあまりに未熟であることを痛感している。少年はドラジッドの姉である彼女を慕って無理に働かせようとすることはないが、それではアルマ自身の気が収まらなかった。
弟の最期を看取ることができ、こうして新たな人生を歩むことができたのは少年のおかげだ。採石者となることを志したのも、その恩に報いるためである。今後、資格を取るためにも採石者試験の勉強は必須だった。
「うーん、わからないよぉ……」
しかし、アルマは読み書きが苦手だ。上流階級にとっては、いまだ知識は独占されるべきものという風潮が色濃く残り、平民の識字率向上に歯止めがかかっている現状がある。都市から離れるほど読み書きのできない人間は多い。
試験自体は過去の問題を丸暗記しておけば、実用性はともかくとしてとりあえず合格できる内容になっている。ピアだって合格できたのだ。試験費用の高さと、文字が読めないという部分でつまずく受験者は多かった。
アルマはこれでもだいぶ読み書きができるようになってきたのだが、まだ誰かに質問しながらでなければ勉強がはかどらない。少年もピアも今は忙しく、休日はホトグレスも相手をしてくれなかった。ホトグレスは戦闘面の指導以外はおざなりである。
勉強は午前中で一旦切り上げて、昼からは道具の調達のため買い物へ向かう。アルマが採掘で壊してしまったつるはしをどうにかする必要があった。もう既に何本かダメにしているので何とか修理できないかとベルネオールに頼んでみたのだが。
「うちの工房は鍛晶蔵が専門だからねぇ。つるはしはつるはしの専門店で見てもらった方がいい。ダンさんの店なら品質は確かだ。昔気質で物言いは乱暴だけど、女子供には弱いからそんなに怖がらなくていいよ」
そう言って紹介状まで書いてもらった。教えられた通りに道を進むと、路地の角にこぢんまりとした構えの店を見つける。中に入ると、所狭しと大小さまざまなつるはしが並んでいた。
一言につるはしと言っても用途によって種類がある。採石者の象徴としてバッヂの意匠にもなっているピッケルは、元は未整備の迷宮において悪路を乗り越えるための杖である。迷宮鉱脈の採掘という概念は比較的新しいもので、ピッケルから派生する形で多様な形状のつるはしが作られるようになった。
採掘だけでなく、同時に戦闘時の武器としても使える『ウォーマトック』という種類まである。その頭部の片側は通常のつるはしと同じだが、もう片方は斧やハンマーになっている。武器を兼ねることで荷物の軽減になる。
アルマは棚の商品を眺めつつ、持ち込んだつるはしの修理のため店の人を呼んだ。奥に声をかけるとしばらくして小柄な男が片脚を引きながら出てくる。背は低いが体つきはがっしりしており、顔もいかつかった。
「客か。おう、これから俺ぁ用があんだ。手短に済ませてくれよ」
「あの、チップベル工房の紹介でこのお店を教えてもらって……」
紹介状を差し出すと、男は一瞥しただけで封を開けることなくカウンターの端に置いた。
「チップベル工房の紹介で」
「だから何だ」
店主であるダンは見た目通りの気難しい男のようだった。まるで役に立たなかった紹介状のことはさておき、荷物から壊れたつるはしを取り出して修理を依頼した。
「なんだこれは? 山猿にでも使わせたのか?」
「わ、私がやりました……」
ダンは白状して縮こまるアルマを一睨みしてつるはしを見分していく。
「駄目だ。直したところですぐまた壊れる。買い直せ、他の店でな」
「え? このお店で売ってくれないんですか?」
「こんな使い方する客に俺の商品が売れるもんかよ」
つるはしを突き返され、さっさと出ていけとばかりに手で払われる。いくら職人気質と言っても客商売とは思えない対応だった。
「まったく、この忙しい時に余計な手間かけさせんじゃ、ウッ……!?」
仕方なく他の店に行こうとしていたアルマは、去り際に店主の様子がおかしいことに気づいた。椅子から立ち上がってカウンターに手を置いた姿勢のまま固まっている。気になってしばらく見ていたが、その状態から全く動かない。
「ど、どうかしたんですか?」
「なんでもねぇよ! さっさと帰れぇ!」
どうやら急に立ち上がったのが悪かったらしく、腰を痛めているようだった。なんでもないと言いながら、やはりその状態から動けないでいる。近づいてみると、いかつい顔をさらにしかめて油汗まで浮かべていた。
「確かこの後、急用があるんですよね?」
「ああ、すぐにモンヤンのところに行かなくちゃならねぇ。テメェと喋ってる時間なんざねぇんだよ」
「でも、このまま放っておくわけにも……あっ、私がおんぶしてあげましょうか!? おんぶには自信があるんです!」
「女におぶわれるだとぁあ!? 馬鹿にしてんのかテメェは!」
なんだかんだで罵声を浴びせられた後、結局アルマがおんぶして行くことになった。市街部から少し離れ、街に面した河に沿って上流へと向かう。急勾配の山側の斜面には一つの隙もなく石垣で作られた段々畑が広がっていた。降り積もる灰を押し流すように、白い河はその谷間を流れている。
「もあぁ……こんなところに畑があるんですね」
「先祖代々この地に受け継がれてきたハイカブリヤシの畑だ」
その石垣の一つ一つが手作業で運び込まれ、積み上げられてきたものだ。とても人力で作り上げられたとは思えない。はらはらとまばらに振る灰の中、自然と人間の営みが調和した光景が広がっていた。
畑の中の滑りやすい小道を登っていく。その途中で大きな籠を両肩に担いで坂を降りていく男たちと会った。お互いに異質なものを見る目ですれ違っていく。坂を登るとダンが言っていたモンヤンという人物がいた。
「おぉやぁ~? ダンさん、どぉおしたんだぁ~?」
「うるせぇ! ちょっと腰をいわせちまっただけだ!」
間延びした物言いをするモンヤン。この辺りの果樹畑を任されている農夫の一人だ。土地は貴族のものだが、長らく小作農を勤めてきた家である。今は収穫期らしく、大勢の人夫の姿があった。
シダ状の葉を茂らせる果樹の高さは3メートルほどの低木で、葉は灰にまみれて白く、枯れているようにさえ見える。硬い樹皮で包まれた実は『ベネファ』と呼ばれ、植物がほとんど育たないこの地では貴重な栄養源とされてきた。
ダンはここでモンヤンから仕事を請け負っているらしいが、収穫の手伝いではなかった。壊れた石垣の補修である。
「でもぉ、その腰じゃあ、今日は無理かぁ~」
「馬鹿野郎! 直す前に次の雨が来たらどうすんだ! 俺の腰が悪いのは昔っから、こんなもんは騙し騙しやってきたんだ! いつもの調子よ!」
仕事を断るつもりはないようで、補修が必要な場所までアルマが運ぶことになった。雨が降ると土が重くなり、低い方へ流れようとする。古い石垣だとその負担に耐えられず、壊れてしまう。壊れたところから順次直していくしかない。
腰の調子は少し落ち着いたのか、ひょこひょこと片脚を引きずりながらダンは崩れた石垣の下の土を掘り出して上の畑へと上げていく。土も財産であり、常に下へと流れて出ていくものだ。なるべく高所へ上げなければ畑が傾斜してしまう。
アルマは手伝おうとしたが怒鳴りつけられて退散した。しかし、心配だったのでそのまま帰ることもできず、遠くで見守っていた。そこにモンヤンがやってきた。今は休憩中らしい。
「これさっき採ったベネシュだよ~」
果物までごちそうになった。場合によっては小作農夫が作物を一つたりとも勝手に処分してはならない土地もあるのだが、ここはそれほど厳しくないようだ。素手で樹皮を二つに割ったアルマを見てモンヤンが仰天していた。
「うん、さっぱりして爽やかというか、それでいて独特の風味があって、おいしいですね」
「いやぁ、これまっずいよぉ~。ちょっとぉ、若かったよぉ~」
アルマの気を使った感想がばっさりと切り捨てられる。確かにそれほどうまいものではない。その主張しない味わいからこの地方では生食より料理の材料として使われることが多いという。保存食にもされるが、渋みが増して味が変わる。
「昔はみんなこれしか食べるものがなくてねぇ。もっと盛んに作られてたんだけどぉ、今は外からおいしいものがいっぱい入ってくるからねぇ」
ネラニカの街は工業化を売りにして発展を遂げた。それにより主要産業も変化した。徐々にこのヤシ畑も軽視されるようになり、管理が行き届かない畑が増えてきたという。そのため石垣が崩れても以前のように迅速な補修ができなくなってきている。
「ダンさんはつるはし屋さんなのにどうしてここへ?」
「昔からこの街はぁ、職に関係なく畑の補修をみんなで協力してやってきたんだぁ~。今じゃあ、そんな仁義もなくなっちゃったけどねぇ……」
大切に守られてきた理由があった。草木の生えないこの土地では地盤が緩く、大雨が降れば地表の灰ごと雪崩のように土石流が起きる。山肌を覆うヤシ畑は、多発する水害が街に及ばないように食い止める役目も担っていた。
一か所でも石垣が崩れれば、そこから崩壊は広がって、補修に要する労力も大きくなる。ヤシ畑は食料源であり、治水の要だった。街に住む者が皆、他人事ではなく畑仕事に携わっていた。
ネラニカが発展した後は国が力を入れ、河のさらに上流に堤を造る工事がなされて昔ほどの被害はなくなった。その結果、ヤシ畑のありがたみも減ったのだろうとモンヤンは冗談めかして語る。
「でもぉ、全く水害がなくなったわけじゃあないんだぁ。もう10年くらい前になるかぁ……ダンさんの奥さんと娘さんが亡くなったのは……」
ダンは採石者をしていたらしい。脚を怪我して引退し、実家の鍛冶屋を継いだようだ。妻子にも恵まれたが、家族は水害に巻き込まれて今は独り身だという。
歩けなくなる程ではない脚の怪我も、それを抱えて力仕事を続けていれば体の各所に無理が来る。腰も痛めるはずだった。それでも彼がこのヤシ畑を守り続けることには理由がある。それは体の痛みなど気にしてはいられないほどの理由なのだ。
「……よし! 私、ダンさんを手伝ってきます!」
うっかりダンの昔話を喋ってしまったモンヤンは聞かなかったことにしてくれとアルマに念を押した。もちろん、事情をダン本人に言うつもりはないアルマだが、聞いてしまった以上は知らんぷりなんてできなかった。
「テメェ、まだ居やがったのか! 媚売ったって俺のつるはしは売らねぇからな!」
散々にどやされたがアルマは笑顔で強引に作業に割って入った。持ち前の体力を活かして桶に入れた土をどんどん運び出していく。各段に早くなる作業により、ダンも文句を言うことはなくなった。
「もうかなり積み上がってますね」
「ふん、そう簡単にいくかよ。雨が降れば濁流のように水が上から来る。新しく積んだところがもう崩れるなんてことはざらだ」
ヤシ畑の石垣は、迷宮跡から採れた重岩石を丁寧に積み重ね、さらにその内側からヤシの根が張り巡らされることで完成する。度重なる水害にも負けない強さを得るためには、10年、20年という歳月がかかるのだ。
「ちっ……思った通り石が足りねぇな。しょうがねぇ、採りにいくか」
足りなくなることはあっても余ることがないのが、この石だ。崩れた石垣の石を再利用するのだが、形の良い石を選んで組み直すうちにどうしても足りなくなってしまう。その分は新たに運び込む必要があった。
それもわざわざ距離のある迷宮跡地まで行かなければならなかった。ダンの歩きに合わせていては時間がかかるので、アルマがおぶって坂を駆け降りていく。
石切り場は既に停止期に入って長い小迷宮の跡地だった。死んだ迷宮の鉱脈は魔力を失うが、そこからの風化の仕方は元の鉱脈の性質によって変わってくる。砂のように分解されてなくなる迷宮もあれば、逆に硬度を増していくものもある。
「この辺りは昔から石垣用の採石に使われている場所だ。まあ、硬すぎてそれ以外に使い道もないんだが。好きに掘って構わない。やってみろ」
そう言ってダンは自分のつるはしをアルマに貸してきた。
「い、いいんですか? 私が使っても」
「いいからさっさと掘りやがれ!」
恐る恐る、壊してしまわないように慎重につるはしを握り、切り出し場の壁に向かって叩きつけた。キン、と硬質な音が響いて火花が散る。想像以上に硬く、壁には傷一つつけることができなかった。力を抜きすぎたかもしれないと、もう一度構える。
「馬鹿かテメェこの野郎馬鹿野郎! 駄目だ何一つなっちゃいねぇ! 俺に貸してみろ!」
口角泡を飛ばして怒るダンがアルマからつるはしをひったくる。
「いいか、この道具はただの鉄の塊じゃねぇんだ! 特殊な製法で魔石の粉末を混ぜた合金によって、手に伝わる振動を鮮明にしている! 切っ先を壁に当てた感触から石層を感じ取れ!」
ダンはコツコツと軽く壁を叩き、それからつるはしを勢いよく振り上げた。その一撃によって、鋼のように硬い壁に亀裂が走る。
「すっ、すごーい!」
「へへっ……まぁ、俺にかかればざっとこんなもんよ。これでも俺が現役の頃は、4等級採石者まで上り詰めた……」
アルマは素直に感心していた。足腰にガタがきてまともに磨法も使えなさそうなダンに、これだけの力があるとは正直思っていなかった。アルマが同じことをやろうとすれば、つるはしの方を先に壊してしまっただろう。
「コツさえつかめば余計な力はいらねぇ。よく見とけよ」
気を良くしたのかダンがさらにつるはしを振るってみせる。だが、そこで腰の爆弾まで調子づいてしまった。
「はあああああん!?」
「ダンさん!?」
アルマが崩れ落ちたダンに駆け寄って腰をさする。この様子ではあまり無理はさせられないと、アルマが採掘作業に当たることになった。
「なんだその腰の入れ方はぁ!? 腕の振りもなってねぇぞ! もっと足を踏ん張れ足を! 腕から入った振動を足から地面に流すイメージで全身を使って掘れ!」
「はい!」
怒鳴られはするが、アルマは楽しかった。自分のやりたいことが見つかった気がしていた。
少年たちと迷宮に挑んでいた時も感じていたことだ。アルマはその体質から採掘作業を率先してやっていた。ホトグレスから採って来いと言われた課題の魔石を見つけた時、アルマはとても嬉しかった。
アルマ一人で成し遂げたことではない。ピアが戦闘を受け持ち、少年が石質を調べ、アルマが掘りまくって採石した。その功績の一端を担えたことが最高に嬉しかった。
思えばその時から気持ちは決まっていたのかもしれない。彼女は漠然とした目標ではなく、『採掘』という技術を磨きたいと思った。
「ダンさん! 私、またここに来てお手伝いしますね!」
「はぁ!? 何言ってやがる。テメェを雇うつもりなんかねぇぞ」
「お金はいりません。その代わり、勉強させてもらいます!」
ダンは承諾しなかったがアルマは押し切った。その日はモンヤンから抱えきれないほどのベネシュをお土産にもらって工房へ帰った。
それから休日になるたびにアルマはダンのもとへ手伝いに行くことになる。ダンも次第に自分の知識を伝授するようになり、そこで採石者としてのノウハウを身につけていった。
* * *
三人が各々に自分の技術と強さを磨く中、数か月の時間が飛ぶように過ぎ、季節は春から夏へと変わっていた。ホトグレスを含めた四人は迷宮の中層、散在する立ち枯れ菌原の中でも深い地点に来ていた。
空気はさらに薄くなっているが、その環境に慣れるための訓練は十二分に積んでいた。それでも三人の緊張はこれまでになく高まっている。一行が目指す先はさらに下。人の手が届かぬ領域、深層へと向けられていた。
下る道を進むごとに光は強くなっていく。壁には中層を越えたことを示す赤布の楔が突き立てられていた。どこからどこまでが中層、深層と決まっているわけではない。そのため楔はたびたび現れる。まるでこの先に行ってはならないと警告するかのように。
ガスマスクの遮光効果をもってしても視界の確保に難儀するほど強い光で埋め尽くされていく。足元は一面に生い茂る菌類によってふわふわとした雲の上に立っているかのようだった。天国とはこのような場所なのだろうかと場違いなことを思ってしまう。
「声がする……」
ピアがつぶやいた。少年が耳を澄ますと確かに誰かの声らしきものが聞こえた。
おいで おいで
光の向こうに誰かいる。うっすらと人の輪郭が浮かび上がる。こちらに向けて手招きしている。寒気が走った少年は即座に拳を構えた。
「惑わされるんじゃないよ。誰の声もしない」
ホトグレスが仙覚を放った。茨の触手が少年たちの周囲の変質魔力を払いのける。現実と幻覚の境がまるでわからなかった。踏み込んだだけでこのざまだ。想像を絶する変質魔力の濃度である。
「深層域の変質魔力に対抗するためには『仙覚』か『巌殻』のどちらかを覚えないことには話にならない」
魔力を遠ざける力を持つ感覚強化の極致『仙覚』と並ぶ、身体強化の極致『巌殻』。装甲のように硬化した皮膚は、魔力の毒素を通さない。また、高められた再生力によって魔力による汚染を軽減できるという。
しかし、それも一時しのぎだ。肉体をすっぽりと覆い纏えるほどの『全仙覚』や、全身の皮膚や筋肉を硬化させる『全巌殻』を使える者は限られる。たとえ使えたとしても深層における活動限界は必ず生じ、それを越えれば生存は絶望的になってしまう。
菌根坑道の深層は輪をかけてひどかった。バダルサナ迷宮の深層はまだ魔力の偏在が見られたが、ここではほぼ全域が高濃度の魔力汚染地帯だ。新生する小迷宮同士がぶつかり、融合しながら生長している弊害だった。
少年は仙覚を使っているが、自分自身の周囲に展開するのがやっとの状態だった。荷重がかかっているかのような圧迫感に全身が包まれている。精神を強く保たなければ押しつぶされそうな気さえした。
仙覚の役割は感知能力の強化に留まらず、肉体の外への魔力的な干渉も可能とする。使い手の頭の中だけの幻ではなく実在する力である。具体的には、敵の感覚を阻害する。敵を威圧し、感覚を害し、有利な戦況を作り出せるというわけだ。
仙覚は変質魔力を退ける力を持つ。原理的に推測するなら、変質魔力である微小型寄生炉に干渉し、その機能を一時的に停滞させることができる。これにより中毒の原因となる毒素の放出を止めることができ、微小型に対する忌避効果を発揮する。
「小僧、お前の仙覚に関する適性はハッキリ言って異常だ。その長所を伸ばすことがお前の強さへの近道となるだろう。ここの環境はその修行にうってつけだ」
しかし、現状では自身を守るだけで精一杯だった。とてもではないがホトグレスのように泰然とはしていられない。さらに彼女は自身の仙覚を拡げてピアのことまで保護していた。アルマはいつも通り平気そうだったので放置されている。
「見ての通り、ここはまだお前たちが来ていい場所じゃない。だが、慣れておかなければいつまで経っても来ることのできない場所だ」
ホトグレスの先導のもと、深層の入口周辺の探索を始める。修行を経て、この街に来た頃に比べれば大きく成長できたように感じる場面も増えたが、ホトグレスは常に先を見据えて目標を高く置く。慢心する暇さえ少年たちに与えなかった。
足元が悪く、少年とアルマは何度も転びそうになった。地面はスポンジのように柔らかく穴だらけで、さらにその上から大量の光る菌糸と胞子が新雪のごとく積み上がっている。こんな足場でまとな戦闘ができるとは思えない。
「来たね。この大きさは……中型か」
だが、ここは迷宮深層。寄生炉がもたらす脅威は中層を遥かに凌ぐ。遭遇せずに済むなどという甘い見通しは立たない。いち早く敵を察知したホトグレスの言葉に少年たちは緊張を高める。
意外にも騒々しい音はしない。海綿状の地面や床が音を吸収しているからだ。だが、その異様な寄生炉の大きさは見上げるほどもあった。
「ヨロイガサホムラグモ……!」
「ああ、それも中型変異だ」
菌根坑道の中層で見られる中型寄生炉の一種だ。全長6メートル程の蜘蛛の寄生炉で、機械装甲は菌糸に冒され、巨大なキノコを背中で育てている。菌類との共生は、この迷宮特有の寄生炉の特徴だった。
ホムラグモの武器は炎だ。背中のキノコは傘全体から油脂を分泌しており、接敵状態に入った個体はこれを燃焼させて身を守る。キノコ自体は耐炎性があって燃えることはないが、油脂は一度着火すると、寄生炉が壊れて停止しようが数時間は燃え続ける。
さらにここで現れた個体はただの中型ではない。変異体と呼ばれる成長途中の、大型に近づいた寄生炉である。
中型寄生炉には『
捕獲した人間を機械化し、それを材料として自己強化に当てるのである。捕食による強化をある程度繰り返すと、今度は人間ではなく他の中型を襲って食べるようになる。深層へと潜りながら中型同士の合体を重ね、徐々に大型へと近づいていく。
「なに、中型変異だろうが深層では最底辺の寄生炉だ。必要以上に臆することはない」
そうは言っても、少年の知るホムラグモとは大きさからして違う。脚は十を優に超える数が生えており、目のカメラもびっしり生えていた。背中のキノコも育ちに育っている。戦闘に入ることでごうごうと燃え盛った。
ここは湿気ているので辺りが火の海になるようなことはないが、この寄生炉の何が厄介かと言えば、燃焼による酸素の減少だ。ただでさえ薄い空気から酸素が奪われていく。早急に破壊し、場合によっては魔石の回収も諦めてその場を離脱する必要がある。
先手必勝とばかりにホトグレスは駆ける。さすがに弟子たちに任せていい敵ではないと判断した。その手に握る得物は、身の丈ほどもある巨大なウォーマトックだ。鍛晶蔵代わりの間に合わせの武器である。
ホムラグモは燃える油脂弾を口から飛ばす。この粘着質の油脂が一度こびりつけば簡単には取れず、その間も燃え続ける。大火傷は必至である。さらにそこから空気中を漂う胞子が入り込み、1時間後にはカビが生えてくる。最悪のコンボだ。
ホトグレスはその油脂弾をかわしていく。飛んでくる場所を予知するような動きだった。足を止めることなく接近し、戦槌の一撃を叩き込む。だが、無駄に多い蜘蛛の脚に阻まれた。一振りで脚の数本を吹っ飛ばしたが、敵の胴には届かない。
「ちぃっ、やはり鍛晶蔵なしでこの強さの敵はきついか……撤退だ」
ホムラグモが慌てて後退する。ホトグレスは深追いしなかった。油脂弾をかわしながら飛び退り、弟子たちに撤退を告げた。
逃げずに戦えば倒せないことはないかもしれない。だが、それは賢明な判断ではない。最適な撤退の判断は採石隊全体の指揮を執る上で欠かすことはできない。余裕がなくなってから逃げようとしても遅いのだ。蛮勇は得にならず、少しでも損と思えば逃げろと教わった。
ホムラグモは痛い目を見たのが効いたのか、遠くから油脂弾を吐いてくるだけで近づいては来ない。だんだんとこの場所も飛散した油脂により戦いにくくなっている。逃げるなら今が好機だろう。
「お嬢……?」
すぐに指示に従おうとした少年だったが、ピアの様子がおかしいことに気づく。ホトグレスの仙覚で守られているので変質魔力の影響はないはずだ。しかし、その場から微動だにせず、正眼の構えで剣を握っていた。
「おい、お嬢! 危ねぇって! うおっと!?」
ピアに当たりそうになった油脂弾を少年が掴んで燃やす。炎だろうと少年の魔法の炎なら燃やし尽くすことができる。ホトグレスはその光景を黙って見ていた。ピアを取り巻く気配を仙覚で察したからだ。
ピアはかつてなく集中した状態にあった。その胸中にある感情はただ一つ、不甲斐なさだ。
この場にいる者の中で、ピア以外の誰もが自らの力で立っている。少年にしてもアルマにしても変質魔力の中で行動できる。ホトグレスに守られなければ居ることすら叶わない自分が許せなかった。
『最強』の名を継ぐと父に誓い、これまで修行に明け暮れてきた。剣の腕前しか彼女が誇れるものはない。ならば、ただそれのみに、己の全てを捧げるまでだ。
握りしめていた柄の感覚が消える。だが、それはそこにあった。“在る”ということが感じ取れる。肉体の感覚に頼らずとも、その真理が正しいものだと認識できる。
「開眼したか!」
少年はピアの仙覚を目の当たりにした。脈打つ血管が剣の表面に張り巡らされている。その剣で、気合と共に宙を捌いた。破魔の剣撃が変質魔力を切り裂き、ホムラグモへと至る道を切り開いた。
「これなら、いける」
ピアはしなやかに体を沈めた。獲物目がけて駆け出す前の獣のごとき前傾姿勢だ。その視線は真っすぐに敵だけを見据えている。
「いけるわきゃねーだろクソガキが!」
それを横合いからホトグレスが思いっきり殴りつけた。それからアルマに気絶したピアを運ぶように指示を出した。
「帰るぞ」
「はい」
誰が異を唱えられるだろうか。前途多難な初の深層探索だったが、ピアの仙覚開眼という思わぬ戦果を得て幕を閉じたのだった。