「さらばだ、ケンシロウ」
宿敵たる北斗の男に敗れたとき、確かにシンはそう叫び、ユリアの墓標たるサザンクロスの城から飛び降りた。意識はそこで途絶えた。
……はずだった。
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「ここはどこだ」
見慣れぬ天井を眺めた際、かざしたおのが手の甲に十字に広がる傷を確認した。
ケンシロウの拳に砕かれたほうのそれを見つめてから、シンは痛みに耐えて上半身を起こした。
どうやらベッドに横たわっていたらしい。頭を振りながら呟いた。
「……俺は死んだはずではなかったのか」
「確かにお前はあのとき死んでいた」
不意に聞こえてきた声に飛び跳ねた。身構える自身の体の大きさに違和感を覚えて自失していると、声をかけてきたであろう何者かが白い顎鬚をしごきながら、わしが手加減が苦手でのう、と呟いた。
「お前は」
「口の利き方がなっておらんな、金髪の小僧」
小僧と言われたシンが再び己の体を見回す。たしかに小さい。まるで成長期途中の少年のようだ。
ふと顔を上げた。自分の手の甲に刻まれた傷と同じように、相手も同じ場所に十字の紋章が施している。そんな初老の男を改めて見直した。
南斗の導師クラスの者だけにゆるされる紫の道着を着込んでいる。
南斗六星のひとりとしてそれくらいの見立ては、朦朧とする意識の中でも確認できた。
「思わぬ拾い物をしたと聖大導師に大口を叩いた以上、わしの立場もあって厳しい修行にならざるを得ぬ。わが奥義を食らって生きているそなたの気合はともかく、舐めた口の利き方まで認めるわけにはいかぬぞ」
「……お前は誰だ?」
とまどうような少年の誰何の言葉に、老人がようやく異変に気付いたようだ。薄い眉をひそめている。
「軽い意識障害か? ……まあよい。そなたの立場と使命を思えば、年少の身には重荷にすぎ、逃避したくもなるというもの。だが行き倒れの孤児たるそなたを拾って数年、南斗の拳の薫陶を与えてきた今となっては、もはや放逐することもかなわぬ」
なんだと、と彼は独語した。南斗孤鷲拳を授けてくれた師はフウゲン、師に寸分も劣らぬ相手の威厳を認めつつも、このような男に覚えはない。
「ではお前は、俺の師父であるというのか」
「……わし以外も数人、そんな存在が小僧を支えておる。例えば――」
フウゲンをはじめ、先代の南斗六聖拳の名を口にする男は、どう見ても虚偽を語るような人物には思えなかった。
シンは混乱しながらも、現在自分が置かれた環境について問いただすことにした。ついでに鏡を所望した。
§§§§§§
頭部への衝撃で記憶がとんだ、と勘違いしてくれたヤンと名乗る大導師に休養を与えてもらった彼は、少年時代に逆戻りしたような体を引きずりならがも、現在の状況を把握するために南斗の聖殿に足を運んだ。
最初は過去にもどったのかと勘違いしたものだ。
数多く存在する南斗聖拳の同門たちをはじめ、後の六星と呼ばれる頂点の男たち、年長組である鳳凰拳のサウザー、白鷺拳のシュウや、同年代である水鳥拳のレイなどはよく知る以前の彼らと今のところさほどの違いはない。
しかし下流の数派を率いる紅鶴拳のユダを少し遠くに見たとき、以前とはまるで違うその佇まいに、シンは思わず呆然と立ち尽くしてしまった。
「ここ」は俺の知る過去ではない、と確信したのはことのきだ。
「あれは南斗の名門紅鶴拳の若君、上位百八派の拳修生のなかでも天才の呼び声が高いユダ様です」
通りすがりの門下生が興奮したように赤毛の少年を見ながらシンに説明している。
秀麗な外見は前世以上だった。そして洗練された立ち振る舞いには余裕があり、一目で尋常ならざる人傑だと知れた。
それはシンの知るあの男の挙動にはなかったものだ。
一般門下生に混ざる彼の視線に気づいたのか、居並ぶこちら側に歩みを向けてくる。
「ユダ様」
同世代の若者が主人に続こうとするも、彼は手を上げてそれを制した。
周囲がざわついた。
「金髪の小僧」
まだ口紅はひいていない赤毛の美少年がそう呼んでくる。深淵に充ちた藤色の瞳がふと細められた。
それはシンが赤毛の小僧、と言い返したからだ。
「お前の執念に期待している」
周囲がまたどよめいた。シンも怪訝そうに眉をひそめた。ヤンから聞いた現世の生い立ちは、どこの馬の骨かわからぬ捨て子だったという。
そんな下郎に名門の貴公子が期待する、と声をかけたことで、聖殿の中庭に居合わせた誰もが驚きの声を上げていた。
「南斗の宗家、途絶えた極聖の拳を受け継ぐことができるのはお前だけだ。南斗聖拳のシン」
独り言のようなユダの声は金髪の少年にしか届かなかっただろう。しかしその言葉は雷鳴のごとく彼の身を撃ちぬいた。
反応できずに固まっていると、赤毛のほうは純白のマントを翻し、颯爽とこの場を去っていった。
去り際の横顔には微笑が浮かんでいた。どうやらこの世界の奴は、南斗のなかでも白眉に値する大人物らしい。そうシンは呟いた。
「極聖の拳……俺が修めようとしているのは」
聖大導師様がお呼びだ、という背後からの声に振り返るために、馬の骨の少年は言葉を切った。
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「大導師様は何故このような馬の骨を拾われたのか、未だにもって理解できん」
先を行く導師の独り言はシンの耳にもはっきりと届いた。以前の彼ならば激昂してこの中年の背中を指突で貫いていただろう。
だがここはもう自分の知る世界ではないことを知りつつあった。
闇雲に突っ走ってきた前世とは違い、一歩引いて物事を見ようとするいわゆる他人事のような感覚で彼に続いて歩くのみだった。
南斗大聖殿の門をくぐった際、導師レベルでさえここまでしか通れないのか、案内役の男が舌打ちをしながら聖殿のなかに入るよう促してくる。
少年の自分にそこまでの敵意と隔意を向けてくる理由を、この聖殿のなかで知ることになった。
数人の大導師が並び、そして聖大導師と称される南斗の長老が大仰な椅子に鎮座する前に進んで膝を折る。
平伏に等しい姿勢のまま、面をあげよと言われることもなく彼らは用件を話し出した。
「導師ども以下の者どもは事の次第を知らぬ。ゆえに名もなき小僧が神聖なる殿堂に足を踏み入れることが我慢ならぬようだが」
修練でシンを気絶させた坊主の大導師が同僚にそう告げる。伏せた状態からでもわかるフウゲンの声がそれに応えていた。
「南斗正統血統を守り抜いて死ね、という役目を名家の流派である連中に押し付けるものではない。彼らは生きてこそ神輿が輝こうというもの。拳才はあるが失っても惜しくない捨て子ならば、五車星以上の身代わりが期待できよう。この賭けが成るまではあれらにどう思われようと致し方のないこと」
他の大導師の声がそれに続いた。
「北斗の影におびえ、拳格は元斗の下にあり、西斗にも後れを取る。血筋だけはよいわが南斗の象徴があの美しい少女である以上、後々他の斗の拳を巻き込んだ大乱世に発展する恐れがある」
シンが思わず面を上げる。最後に締めくくったのは聖大導師が口にした拳法の名前だった。
「ゆえに途絶えて久しいわれらが宗家の拳、南斗
長老の背後の扉が開かれた。光に包まれながら入ってきた一人の少女を見たとき、少年は了解を示すように平伏した。金髪が震えた。
俺の欲しかったものは権力でも名声でも、ましてや南斗宗家とやらの拳などではない。
今に至っては目の前の無表情な少女の、際立った美貌ですらない。
かつて自分にはあの女の心を
だが今回は成し遂げてやろう。この目の前にいる慈母の星の、心の赴くままに背中を押してやろう。
そのためにもう一度人生をやり直す機会を得たのだ、と思い込むことはシンにとって自然な流れだった。
金髪の少年の口角は上がっていた。