「御曹司、演武が始まりやしたぜ。ほとんどの連中が集まってます」
「今行く」
私室から出てきた赤い髪の青年が、付き人の小男から赤紫のマントを受け取って聖堂へと続く長い廊下を歩いていた。
靴音が堂内に響く。燭台の火が揺れたとき、彼は立ち止まった。
それに呼応するかのように高い屋根の方向から声が降ってきた。
「名高い南斗の紅鶴。少し時間をいただきたい」
「……何用か」
いきなりの呼びかけでえっえっと周囲を見渡すコマクの目に、どこからか語り掛けてくる者の姿は見当たらない。
前を向いたまま微動だにしない主人を窺って、小男は懐中の暗器に手をかけた。
「小物よ。死にたくなければ懐から手を出しておけ」
「なにをこの」
憤慨しかけたコマクが押し黙る。ユダの反応が薄すぎて、かえって
「よく飼いならしておられる。さすがは赤い衝撃」
くっくっと喉の奥で笑った見えない誰かが用件に入ろうと告げた。
「貴方の演武の相手。どなたでもよい、手心を加えていただきたい」
「……」
「わざと負けろだぁ?! おんしゃ」
「雑魚は黙っていろ」
「コマク」
「はっ」
忠義の小男が再度激怒するも、主人の一喝で押し黙る。
影のわしにもわからぬほど気配が小さい、と歯軋りしていた。
「そのほう」
初めてユダが首を上に動かした。その先にある声がすぐさま位置を変えた。
赤毛の青年が虚空に視線をさまよわせている。それを止めて言った。
「南斗の智将の手の者か」
「だったら」
「リュウロウ?! そういえば御曹司が演武で勝ち進めば、当たるのはあの小賢しいガキ」
黙っていられないコマクが憤懣やるかたないリアクションを示しながら罵るも、実際リュウロウなる者の年齢は主人とそう変わらない。
「あの方をガキとは口が過ぎるぞ」
「推参者がほざきおって……南斗の穏健派にして門下生きっての人格者が聞いてあきれる。ユダ様をどう脅そうってんだ?!」
「うるさい小物だな」
「わしの目の前にあらわれてからほざけ小僧! 卑劣な輩め」
ついには彼を無視して、どこかに潜む何者かが目的を語りだした。
「演武の頂点に立つことが確実なあの鳳凰の地位を唯一揺るがすことが可能なお人。それが貴方だ。つまり強すぎるのが問題なわけで」
「……」
「サウザーは帝王の矜持にかけて貴方と決勝で戦うことだろう。つまり模擬ではなく死合いになる。それだけの覚悟をきめて彼はあの聖堂に身を置いている」
話が大きくなってきたことで中年の従者が唾を飲み込んだ。
潜伏者が話を続けた。
「
「……」
「彼が未だ百八派を掌握しきれていないのは、貴方という存在があるからだ。あとの六星候補、人を率いる器に
ユダはわずかに目を細めて言った。
「つまり、この演武における混乱を避けるために私にあえて敗れよと」
「然り。鳳凰の帝王への道は、貴方という強敵を倒してこそ舗装できる。だが紅鶴は自分を恐れて引いたという侮りがあれば、彼とて少しは隙ができようというもの」
「それがリュウロウの目論見だってのか。だとしても決勝であのサウザーにお前の主人が挑んだところで、ボロ雑巾にされるだけじゃ」
「……あの方は知将にして南斗流欧拳の使い手。六星候補にも引けはとらぬ。帝王に食らいつくことも苦戦させることも可能なはずだ」
潜む何者かはコマクの叫びを聞き入れながらも、赤毛の青年に向かって言った。
「いかにわが主リュウロウが手練れでも、帝王が暴走してその武を奮うことはありえない。その狂気は赤い衝撃のみ向けられる。貴方が敗れたとなれば、彼は正気のまま演武の頂点に立つことができる。南斗は混乱せず、他門に横やりを入れられることもない」
「……南斗六星が乱れることも、今の時点であのリュウケンが健在の北斗があらわれることもない、か」
「御意」
「私は負けることは一向にかまわんが」
「ユダ様!」
コマクの剣幕に主人が珍しく言い訳を口にする。
「余興だ。それもまたよかろう」
「ユダ様はそのつもりでも、当事者以外は誰もそうは思いませんって。われらが御曹司が頭でっかちのパーマ野郎(リュウロウのことらしい)に負けるって、そんな番狂わせはこのコマク、承服できませんぜ」
頭を抱える付き人の顔に笑みを誘われた赤毛の青年は、ここにいない金髪の少年のことを思い浮かべた。あれならばリュウロウの代わりに帝王のよい相手になるだろうと。
光を失ったばかりのシュウや、生真面目で腹芸のできないレイではその役を全うできるとは到底思えない。そう考えながらユダがすっと手を上げた。
「?!」
潜んでいた影が赤い衝撃に気が付いたときには遅かった。足の一部に斬撃を食らい、天井から崩れ落ちた。
「てめ、この野郎」
コマクが廊下に叩きつけられた影に飛びかかろうとしたものの、背後の靴音を聞いたことで大きく後退し、主人を振り返った。
「ま、まさか居場所がわかっていたのか……なんという暗視」
冷や汗を抑えきれず、斬られたことより叩きつけられた打撲で体を押さえる男が、リュウロウ様の見通しは正しかったと内心で独語した。
影すら見えない恐るべき高速の拳に、帝王たる自負のあるあの司空の拳士が自制しながら戦うはずもない。
全力をもって相手の全力を引き出し、その上で完勝しようとするだろう。
そうなれば凄惨な同士討ちになる。どちらが勝っても無傷ではいられないだろう。
双方とも死ぬという可能性すらあるのだ。
「南斗はあの二人によって隆盛する。が、相食む結果となっては他門を利するのみと仰られておりました。そうならないためにも、ユダ様には名を捨てて実を取っていただくしかないと……あの方が」
「実とは」
「百八派随一の名門の跡取りとして南斗の崩壊を防ぐ。それこそが歴代紅鶴拳の至上の命題と聞いております」
「……なるほど」
影に向いていたユダがマントを翻した。
「御曹司」
コマクが後を追いかける。その主人が背中で語った。
「策士策に溺れる。六星に次ぐ権威、南斗九龍衆が確実だと言われる男でさえも計れぬのが帝王たる
「お待ちください」
「まあよい。リュウロウもこの際サウザーという存在を知るがよい。乗ってやるが、そなたの主に負けるのではなく、もっと優雅で華麗な男に敗れるとしよう」
§§§§§§
「お、おい。あれは演武の域を超えているぞ。誰か止めたほうがいいのではないか」
「バカを言え。我々の腕ではあの二人の間に入ったら両断されるぞ」
聖堂内の演武会場が歓声から驚愕のどよめきになるのは、試合開始からそう時間はかからなかった。
「ユダ貴様……本気で」
「鮮血が目に入ったか。これで私の動きは読めまい」
殺気を込めた赤毛の斬指を、アイスブルーの髪の美男子が避けきれずに石畳にもんどりをうった。
「この天才と同時期に生まれたことを後悔するがよい、凡人め」
そう言いながらユダが致命の突撃を放とうとしたとき、レイが音もなく浮かび上がった。
水鳥は風になり、紅鶴のすぐそばをすりぬけた。舌打ちしながら着地したユダが背中を向けるレイとの間合いを詰めていく。
「逃げるばかりが水鳥拳か」
そう罵りながら赤い爪を薙ぎ払おうとしたとき、誰かがユダの腕を取った。その体術といい、高速の拳であるユダの腕を絡めとった見切りといい、一門下生はもとより、百八派でさえもそんな神技を見せられる者はほとんどいない。
それを成しえた男が言った。
「これ以上六星候補の名を汚してもらいたくはないものだ」
「……お前は」
隻眼の男だった。長い銀髪を後ろで結んだ南斗きっての勇将と
その鋭い片目と赤毛の青年の美しい瞳が交錯した。
「ダガールか。私を阻むとは、殺されたいのか」
「いいのかな。いま貴方の拳のクセを見せてもらったばかりだが」
「……」
「やるかね。わが隼の拳、絶影の鶴に及ぶかこの際試したいところだ」
道場のざわめきが止まった。
そのなかで見物していた大物たち、座席には盲目の闘将と呼ばれることになるシュウ、しかめっ面で肘をつくジュガイ、腕を組んで聞き入るように目を閉じて立っているリュウロウの三人は何かを感じとった様相だった。
その他は赤い衝撃と独眼竜の一触即発を驚天動地の思いで眺めている。
「くだらぬ」
ジュガイが立ち上がる。すでに腰を上げていたシュウも踵を返す。リュウロウが誰にも分らない程度に軽く口角を上げた。
不在のサウザーを崇める何人かの拳士も姿を消していく。
息を飲んで見守っていた南斗の群衆が一斉に安堵の息をついたのは、それからしばらく経ってのことだった。
「御曹司が去っていくぞ。ユダ様が自ら負けを認めたのか」
「さすがは独眼竜。あの傑物を引かせるとは」
「珍しいご乱心。若君におかれては何か事情がおありになったのだろう」
「レイ様もとんだ気まぐれの巻き添えだったな。ともあれ伯仲の二人にわずかな優劣が現れたのは注目に値する」
そんな周囲の連中の声に、憤懣やるかたないお付きの若者が主人の後を追った。
頑丈な扉を開け、暗がりに近い廊下を進む。赤紫のマントの青年に追いついた少年がユダ様、と呼び掛ける。
「なんだ」
「あのそのあの。……確かにレイ様は強かった。あのいけ好かない独眼竜の仲裁も理には適っておりました。ですが、何故ユダ様ともあろうお方があんなにあっさりと引いたのですか?!」
紅鶴拳の宿老ゲンガンの孫ゲンジュ。
南斗
忠義者の彼にしては珍しい声色だった。それほどユダの敗退に我慢がならなかったようだ。
何か言いかけようとして歩みを止めた赤毛の青年は、不意に忠臣の孫の名を呼ぶ。
「ゲンジュ」
「はっはい」
「戦いの後だ。あれを所望しよう」
「……ユダ様、こんなときに」
忠犬は冷静な主人の声と求める内容にご乱心ではないと思ったのか、すぐに持ってまいります、と脱兎のごとく別室へと駆けだした。
長く広い廊下で一人になったユダが、柱の陰から姿を見せた痩身の男を背中で感じて横顔を見せる。黒いチリチリ髪の彼が静かに言った。
「わが提案を受け入れていただき、感謝いたします。紅鶴の御曹司」
「リュウロウ」
「はい。これで貴方と帝王が決勝で相対することはなくなりました。あとはこのリュウロウにお任せください。先程の乱入で独眼竜も失格となったことですし、あとに残るは」
秀才として名高く、六星候補のレイだがこのときの彼はまだ純粋に過ぎ、老獪な自分が付け入るスキは十分にある。盲目のシュウは欠場、ジュガイは決勝までにサウザーと当たり、帝王の麾下もまた若く対抗策もある、と知将は告げた。
「名家の貴方には未だかつてない無様を演じさせてしまって申し訳ないと思っています。ですが」
「これで騒乱は避けられるか」
「御意」
「虎の尾を、いや龍の逆鱗に触れる所業だな」
「……は?」
間髪置かず、赤紫のマントが揺れた。空気が振動した。
「なっ」
リュウロウが驚きの目を見開く。どこから風が入ってきたのだろうか。
そう思った知将からは見えない何かが、ユダのいた場所へと十字の斬撃を叩き込んだ。衝撃でリュウロウと大理石の破片がぶわっと浮かび上がった。
すさまじい音を立てて岩のような大理石の亡骸が廊下に落下し、飛散した。
完全に防音であり、紅鶴の私室へと続くこの廊下一帯の所有者は名門の若君のものだった。
騒動を耳にしたところで他流の一般門下生が足を踏み入れることはできない。
「紅鶴」
ズシン、という重圧は帝王の体から発せられる気合の産物である。
タンクトップのような鳳凰拳の道着姿の青年は、
「つまらぬ三文芝居で余の前から逃げるつもりか……!」
空気をも震わせるサウザーの怒気を受けても平然としながら、赤毛の青年は砕けた大理石を見下ろす。その彼に年長者が立て続けに問いかけた。
「下郎の弄する小細工に乗る。
「……」
帝王が敵だと認めた相手へと迫る。
南斗の知将はすぐそばを通るサウザーの動きを見切っていた。その蹴撃を予想しており、十字受けで衝撃を流し、間合いを取ろうとしたのだ。
だがその回し蹴りが来ることは予想していても、その軌道を捉えることができなかった。ボギャっという骨の折れる音を発しながら、リュウロウが弾け飛んだ。
コンクリートの柱を砕きながら奥にある壁へと激突した。
その様子を南斗の頂点に近い、と
ユダが鳳凰の技の名を口にした。
「極星十字拳」
「……見えていたか。下郎には過ぎたる褒美を与えてやった。本来ならばお前かラオウに匹敵する者にしか奮わぬ奥義」
「手心を加えたことに関しては感謝しておこう」
「ほう」
将星が目を剥いた。妖星が初めて激突のほうを眺めやった。
「彼の両腕は折れるだけで済んでいる。本来ならば体は十字に裂けていたはず」
普段は意図的に口角を上げるのみの帝王が、今度こそ楽しそうに声を出して笑った。
得難い獲物を見つけたとばかりの様相だった。
「奥義で命を絶つに値するは余が認めた男のみ。下郎など
「……言ってくれますね」
砂塵の中でリュウロウが両腕をかばいながら起き上がった。
打撲と擦り傷はあったものの、重傷ではないようだ。
ユダとのやり取りの間に、彼は折れた腕とは思えぬ動きで南斗流鴎拳の構えを取っている。
「洗練すぎたる蹴技はかえって仇となる。綺麗に折れた骨は結合させてもらいました。帝王よ、見誤るとはこのことです」
知将の黒髪が揺れた。サウザーがゆっくりと標的へと振り向いたためだ。
その前にユダの影が動いた。
リュウロウほどの拳士が接近されたにもかかわらず、それが二人のうちどちらなのか判別がつかないまま、先ほどから溜めていた気合とともに奥義を繰り出す。
「この妖気、紅鶴拳……?!」
裂破の轟音とともに一滴の血が流れた。
リュウロウが放った円状の衝撃はユダの白い頬をかすめ、その後ろの廊下を大きく切り裂いている。
それはサウザーが少し眉を動かすほどの威力を誇っていたものの、当人は無念の形相で態勢を崩していく。カウンター拳法の持ち主が姿勢を正した。
「これが……
リュウロウの胸に十字の斬裂が入る。サウザーによってつけられたそれは、赤い衝撃によって二度目の重圧を受け、傷口が開いた形となった。
名高い南斗の知将を一撃で倒した青年は致命の傷ではないことを確認し、倒れゆく相手を受け止める。
「サウザー」
殺そうとしたな、とユダが鋭く問いかける。
つまり帝王は知将を拳士として認めたということになる。
ゆえに妖星は機先を制してリュウロウを先に眠らせたのだ。
肯定するようにサウザーが口の端を上げた。
「お前の絶影の拳、間近で見せてもらったぞ。余と対等の相手が同じ南斗だということに、喜色を禁じえぬ」
ユダが一歩後ずさった。
帝王が改めて腕を交差させる動きを見せた。十字拳の薙ぎ払いを放つつもりだ。
「ちっ」
リュウロウを抱えて離さない強敵に、額の司空の位置に印を持つ男が、興を削がれたように構えを解除する。
「下郎など放っておけばよいものを、見かけによらず情の厚い」
捨て置けばサウザーの闘気や斬撃の巻き添えになることは見えている。
そんな赤毛を一瞥した黄金の短い髪の男がくるりと背を向けた。
「重石をつけたお前を屠ったところで何の誉れにもならん。時間切れか」
事態を察した紅鶴の郎党が扉の向こうからやってきた。
主がその手勢を出迎える。気絶したリュウロウを彼らに任せている間に、コマク、ゲンガンなど名のある部下が次々と現れた。そして驚愕の反応を示していた。
帝王の存在に揺るがない人物は赤毛の青年だけだったが、新たに姿を見せた独眼竜の登場で、サウザーも改めて潮時だと悟ったのか、遊びは終わったとばかりに聖殿のほうへ去っていった。
「研ぎ澄まされた刃を首元に当てられているようだ。冷気すら感じさせる」
銀色の髪の勇将がサウザーを見送ってそう評した。
ダガールでさえ戦慄する気当たりの持ち主であり、コマクや他の配下などは圧倒されすぎて声もない。
かろうじて普段通りの虚勢を張れた老ゲンガンが、郎党ではない隻眼の男に頭を下げている。
「おぬしには今日だけで二度助けられた。水鳥のときと今だ。独眼竜がいなければ事態は一層深刻なものになっていた」
歴戦どころか古強者の老人の丁重なる礼に、ダガールがよしてくれと言いたげに首を振る。
自分が生まれる前から南斗の拳士として名を轟かせる相手に対し、少なからず尊敬の念を抱いていたからだった。
やがて時は過ぎ、窓からは夕陽が差している。
騒動が一段落した広い廊下はユダとダガールの二人だけになっていた。
「いつもよいところに顔を見せる。演武での茶番といい、もはや私の片腕と呼んでもいいのではないか」
「……覇王すら
「
赤毛の青年が微笑した。ダガールは肩をすくめている。
「ラオウ、サウザーといえば地上最強の拳士にも等しい。ところがあの傑物たちとの駆け引きを楽しめるような貴方も大概じゃないですかね。少なくとも拙者にはついていけない」
「私はラオウには興味がない……それより
「……考えておきますよ」
南斗の勇将が高い壁の小さい窓を見上げた。
演武の勝者は当然、帝王の異名を持つ存在であることを、聖堂からの歓声で知った。
そこへ宿老の孫がやっと見つけましたよ若君ー、とワインを抱えて戻ってきた。
そこでようやく荒れ果てた廊下の惨状に気付いたのか、なんですかこれはぁ、と素っ頓狂な声を上げ、ダガールの雄姿に慌てて礼を施していた。
リュウロウ。南斗流鴎拳。ラオウ外伝 天の覇王に登場したキャラクター。
本作では六星の下、南斗九龍衆のひとり。