聖拳列伝   作:小津左馬亮

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十三話   魔界

 羅将によって滞空していた大理石が重低音を立てて地上に落ちた。

 屋上の闘技場全体が揺れる。

 跳躍した北斗の男の拳が下降中の侵入者の体を撃ち抜いたかと思われたが、それは残像だった。

 

「ぬっ?!」

 

 背後を取られたハンが咄嗟にオーバーヘッドキックを放つ。十字受けでそれに耐えたユダながら、そのまま地に叩きつけられた。

 周囲の修羅たちがさすがはハン様と歓声を上げる。

 

「今度こそ死ね。鎧破突蹴(がいはとつしゅう)

 

 連撃で仰向けになった標的が二―ドロップを浴びて大理石のなかに沈む。

 今度こそ派手に地盤が崩落した。

 轟音とともに階下へ落ちていく建材と仮面たち、その阿鼻叫喚のなかで宙返りを決めたハンの雄姿を見て、シャチが驚倒せんばかりに呟く。

 

「オレにはまだ会得できない北斗琉拳の奥義……なんという猛威だ。あの赤毛でも疾風には及ばぬか」

 

 銀髪の若い拳士が少年少女を抱えるそばかすの青年のほうを窺う。

 同時にハンが動いた。

 シャチがしまったと叫んだがすでに羅将は影の気配すら消している。

 

「大言を忘れてはいまいな小僧!!」

 

 闘神たる己に暴言を吐き続けたゲンジュに、二本指の貫手、斬風燕破(ざんふうえんぱ)が到達しようとしていた。

 砂蜘蛛との戦いですでに死を覚悟しているゲンジュは子供たちをそっと突き飛ばした。

 天帝の子ルイ、少年レンの悲鳴が響く。

 

 鮮血が吹きあがった。

 周囲は静寂に包まれた。

 北斗の指突を放った側が驚愕の表情を浮かべ、間に入ってきた男にまだ生きていたのかとうめく。

 

「突蹴を受けてすり傷程度とは……だが燕破を身代わりに受けたようだな。わずかな出血といえどオレとお前の戦いでは致命傷に値する」

「ユダ様?!」

 

 救われた青年は主の名を呼んだが、いつもと変わらぬ様子の彼が横顔を向けたことで二人の探し物を再び抱え、後方へと引き下がった。

 

「フン、破孔は外したか。だが嬲り殺しになるのはこれからだ」

 

 そう言い切ったハンがようやく気付いた。敵は片手を上げていた。

 ハンほどの男が戦慄の鳥肌を立てた。

 フゥウウウという風の切り裂く音とともに、ユダは異様な構えを解いている。

 

 疾風を斬った?!

 

 シャチやゲンジュだけではなく、拳の心得がある修羅たちも一斉にそう思った。

 

「うぬら、一体何をおののいて」

 

 彼らの絶対君主が怒号を発しようとしたとき、上空に高く舞っていた何かが落ちてきた。

 浮き上がっていた大理石、その小さな破片かと誰もが思った。

 

「い、いやまてあれは」

 

 シャチがわが目を疑いながら叫ぶ。鋭いが声は震えていた。

 

「あれはハンの……二本の指だ!」

 

 その言葉で闘技会場が騒然となった。

 腰を抜かす修羅もいる。ボロたちはすでに石になったかのように硬直してうめくのがやっとだった。

 

「し、信じられん。あの赤毛……なんの気負いもなしにハンの……北斗琉拳の牙を折りやがった?!」

 

 北斗を修めたがゆえに疾風ほどの男の拳を砕くことがどれだけの難儀か、シャチには身に染みてわかっている。

 しかしかの境地に至った赤紫のマントの持ち主は面白くもなさそうに指についた血を振り払っていた。

 

「……」

 

 突き出しの構えを解いた第三の羅将といえば、自身の利き手を見て絶句している。

 さきほどの出血は自分のものであること、人差し指と中指が根元からなくなっていることを確認して思わずよろめいていた。

 

「あれでは破孔は突けぬ。鍛えすぎたことで痛みを感じなかったということか……それにしても」

 

 滴り落ちる汗をぬぐい、シャチは優雅を絵にかいたような拳士の佇まいを見た。

 一連の動きは彼にとっては造作もないことだと悟る。

 

 一方ゲンジュは当たり前のような顔をしてそれを見守っている。

 主に救われたことに感謝しつつも、羅将をあしらったことに関しては一切の驚きはないようだ。

 

「南斗紅鶴拳、独転葬手(どくてんそうしゅ)。いかに闘気を纏おうと、ユダ様の実の拳に斬れぬものなし」

 

 南斗の若手はうっそりと呟く。

 強敵の奥義の名を聞いたハンがようやく我に返った。

 自負していた妙技は通じず、反撃ひとつで指を失う。

 プライドを粉微塵にされた男は珍しく大きく高笑っていた。

 

「これが北斗神拳と表裏一体とされる南斗の拳。わが疾風の拳が全て通じぬか……ぬはははいいだろう、北斗琉拳の真髄を見せてやる」

 

 リミッターを解除したとばかりに、ハンが魔相の気を孕んでいく。

 ごうっという風圧とともに、全開の気合を放出し始めた。

 

「まっまさかあの男、魔界に……琉拳の到達点と呼ばれる世界に足を踏み入れて」

 

 仰け反りながらシャチが悲痛に吠えたてた。

 第三の羅将、無敵とよばれた男が速さで負け、奥義をあしらわれ、自身の足元にも及ばないそばかすの若僧にさんざんコケにされたことで屈辱は極みに達した。

 そんな憎悪は全て赤い衝撃に向けられている。

 彼が足を踏み鳴らした。歩を進めるたびに闘技場がズシンズシンと揺れる。

 

「魔闘気……あれが北斗琉拳の境地だ。地獄の扉を開けたユダにもはや勝機は」

「違うな」

 

 シャチがいつでも逃げ出せる体勢で恐れおののいていると、その視界の端にいたゲンジュが両腕の中の宝物を守りながらかぶりを振った。

 

「僕が聞いていた本物の闘気というのは、あんな不安定で悲しい闇のものじゃない」

「何だと……」

「拳王……世紀末覇者とも呼ばれる男の極大のそれに比べたら児戯じゃて。あの髭はまさに井の中の(かわず)。自分より強き者と戦ってこなかった不明を恥じればよいものを、ユダ様への憎悪で闇に落ちる。笑止でしかないわい」

 

 代わりに答えたのは若者ではなく、中年の男だった。

 ゲンジュが仰天しながらやってきた丸眼鏡の小男を見下ろした。

 

「コマク?!」

「やれやれゲンジュ様も無事ですな……それにしてもやっと見つけましたぞ御曹司。この年で渡海は疲れましたわ。しかしお目当てのお方は見つけ出したようで」

 

 魔闘気の気圧を受け続ける赤毛の美男子が長年の従者の声を聞き間違えるわけもない。

 涼しい顔で頷いている。

 そんな忠臣が年代物のワインを手に、そろそろ休憩しませぬかと告げてくる。

 神妙な顔のコマクながら、台詞はまるで物見遊山に来たかのように緊張感がない。

 

「ふ……」

 

 それにつられたのか、ユダが思わず口唇(こうしん)をほころばせる。

 ルイ、レンを連れたゲンジュといえば、いつの間にか姿を見せていた影の女、メイエルに二人の子供を託している。

 黒く長い髪をポニーテールに結い上げた彼女が渦中の光景をあらためて眺めたとき、思わず息を飲んでいた。

 コマクもゲンジュも先ほどの余裕はどこへやら、同じ反応を示している。

 

 魔相の羅将が得体の知れない何かを放ったことで、一定の範囲に無重力を発生させたのだ。

 魔界と呼ばれる空間のなかに押し込められ、過去に生還できた者は北斗神拳伝承者リュウケンのみ。

 そしてかの闇の気術を知る者は、この場では誰一人としていない。

 シャチですら初めて目にする異様な光景に、皆が瞬きも忘れて傍観するばかりだった。

 

「コロス……殺す南斗紅鶴拳」

 

 自身の立ち位置を見失い、よろめくユダに、魔道に堕ちたハンが再び白羅滅精を撃ち放った。

 増幅された闇が標的に炸裂した。




独転葬手。百万の覇王乱舞に登場したユダの奥義。
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