ヤサカの茶髪が千切れて飛んでいた。
首だけ動かして相手の突撃を
鋼製のベンチの背もたれを音もなく貫くその拳を見た彼が、緑の瞳を細めて告げた。
「南斗聖拳……元斗と同じく陽の拳か。しかし北斗にすら届かぬそなたら程度ならこのままで十分」
言い終えた瞬間、ヤサカがシンを蹴り上げた。
遠くから見守るレスティエが主の名を叫ぶ。
肘と膝の組み受けでその衝撃に耐えきった金髪の青年ながら、あまりもの威力で大きく空中に浮きあがった。
芝生に転がったシンがわき腹を抑えつつ、膝を立てて身を起こす。
口の端から血を流すシンの様子に違和感を覚えつつも、彼女が蒼白になりながら呟いた。
「……シン様をあそこまで翻弄できる拳士が帝都にいるなんて」
「雷を纏う闘気。光を伴うあれのなかにうかつには入れぬ。しかしあの拳法は一体」
何かを思い出そうと考え込むジョーカーがときおり渦中から視線を外しながら呻く。
その間にも庭園が瞬間に煌めいている。
挑んでは弾き飛ばされるを数度繰り返してから、シンがようやく構えだした。
「なるほど噂通り。利き手を上に、そうでないほうを下に、単純だがそれが南斗
感心したように頷く彼の、タバコ休憩だといわんばかりの姿に緊張感はない。
煙を吐き出す男が指一本で来いと誘うのにつられ、シンが踏み込んだ。
必殺の間合いで南斗千首龍撃を放つ。
それを見たヤサカがほう、と緑の瞳をわずかに見開く。
「ギドゥオーンとともに南斗の流派をいくつか討ち取ったことがある……しかしそのなかでもそなたは別格よのう。楽しませてくれる」
千の牙を全てを見切ったようで、ヤサカが無数の手首をつかみながら嬉しそうに笑った。
凄みのある笑顔に当事者ではないレスティエが小さく悲鳴を上げる。
「当たれば我とて危ないが……だがそなたの牙がこの身に届くことはない。もう逃げられんぞ」
獲物の手首をねじると同時に、ヤサカが気合を発するために咆哮した。
「死の抱擁を食らうがよい」
座ったままのヤサカがシンを正面から抱くようにして両腕を回り込ませ、背中に拳を突き入れた。
かつて同門ギドゥオーンがレイに放ったものと同じ型だった。
相手の力量を推し量る西斗の緒戦の技のようだ。
「経絡秘孔を操る頂上拳こそわが西斗月拳。月氏の生贄に相応しいかどうか……南斗の若僧、すぐには死んでくれるなよ」
拳是を口にしながら、ヤサカが指をめり込ませていく。
「シン様!」
「そうか西斗月拳! 幻ともいわれた
影の部下と上司が同時に叫ぶ。
それを耳にしたヤサカが哄笑しかけたものの、そんな笑いは途中で消えた。
「んぬ?」
己の突き入れようとする両手が押し広げられていく。
「こやつ……!」
柔拳と思っていた相手の思いもよらぬ力に、ヤサカの形相が鬼と変わる。
対するシンは涼しい顔をしていた。
「南斗
「っち」
自分の両腕が完全に押し広げられたことでヤサカが仰け反った。
しかしそれはしなりを利用した頭突きだった。
流血を見てほくそ笑んでいた彼が今度こそ大きく目を見張った。
「なに?!」
額から流れ落ちる血を舐めとったシンがぬん、と力を込めると同時に、西斗の拳士の脇腹から血が吹きあがった。
泥臭い戦いはシンのもっとも得意とする戦法であった。
その彼が静かに告げた。
「座ったまま南斗の千手を受けきった。そう思っているのはお前だけだ」
脇腹、二の腕の外側がえぐり取られ、ヤサカが上半身の態勢を崩す。
拘束を解かれたシンが後ろに飛びずさり、そして上空へと舞った。
「ほざいたなぁ若僧……!」
ヤサカの帽子はすでに千首龍撃の威で吹き飛んでいる。
キセルを放り投げた漆黒の服の男は額に指をあてた。そこから流血していることにようやく気付いたのだ。
死合いに慣れている南斗の男が急降下で迫ってくる。ヤサカは舌打ちを放ちながら椅子を踏み台に蹴り上がった。
「必中の飛び蹴りだな、そうはさせん」
南斗獄屠拳の発動を膝蹴りで防いだ西斗の男が横薙ぎの剛拳で相手を殴り飛ばす。
いつもの受け身を取れず、シンが芝生に叩きつけられて転がった。
「フン。体がしびれて思うように動けまい。最初の雷撃でお前の体術は半減して……」
降り立ったヤサカが押し黙る。
ベンチから離れてしまった己を見下ろし、ゆっくりとシンに向き直った。
彼が牙を剥いた。その瞬間に風圧が巻き起こった。
周囲の草木がざわめくほどの怒気だった。
「座して仕留められると思っていたが……やるじゃねえか……!」
「立ち上がらねば獄屠拳でお前は死んでいた。いい判断だ。しかし口ほどにもないな西斗月拳」
死と紙一重の戦いに、シンは痺れるわが身のことを忘れて構え直した。
それに対し、月氏の血を引く拳士が喉の奥で笑っている。笑いのなかで彼が言った。
「舐めていたよ南斗聖拳。褒めてやろう……ただ我を立ち上がらせた以上、そなたに勝機はない」
相手の高言を聞いていたシンの、残像が残る構えが止まったのを合図に双方がぶつかり合う。
ヤサカの正拳突きを伏せてかわすのと同時に、シンが南斗迫破斬を撃ち放った。
「ふっ」
宙返りを決めてそれを避けた髭男が鼻で笑う。
胴着が裂けた胸の部分の傷を見せつけるように反り返った。
「ば、バカな」
それを確認したジョーカーが愕然とする。
彼に与えたはずの
「戦うほどに相手から受ける傷は浅くなる。研ぎ澄まされていく感覚が心地よい。それにしても見切りの才があるな、目つきの悪い男」
異様な気の持ち主に眼光を向けられた死神が思わず身構える。
そんな細身の彼を一瞥し、ヤサカが対峙する金髪の青年に飛び掛かる。
闘気に頼らぬ実の拳の威力は凄まじく、それを避けるたびに、シンの体の端々に血しぶきが舞った。
シン主従が知るはずもないが、先程からまるでレイとギドゥオーンの戦いを再現しているかのような展開だった。
「すばしこいネズミめ。だが」
間合いを詰めたヤサカは、生身で龍の刃を受けていた。
それが対南斗の必勝法だと西斗の拳士たちは知っていた。
「刃先なればとて、そなたの龍の息吹は感じられる。根本に当たればただの打撃。そしてその程度ではわが剛体には通じぬ」
少々痛いがな、と補足したヤサカがシンを掌底で押し出した。
「別格の南斗の男よ、褒美を授けよう。わが秘拳を見せてやる」
「?!」
西日を背にした男の奇妙な構えに、シンが手をかざして相手を窺う。
「腕が消えた……」
「雷を纏いしわが秘技、どこから来るか見えまい」
背に拳を隠し、その筋を悟らせぬ態勢に入ったヤサカが石畳を蹴る。
「西斗月拳秘奥義、真・相雷拳」
静かな怒号を放ち、ヤサカの指突とシンのそれが交錯した。
今までの強敵は彼の渾身の一撃によって粉砕されてきたのだが、今回に限っては、シンのほうがヤサカの拳の軌道を読み違えていた。
逆に南斗の龍の牙は、西斗月拳による雷撃や秘孔により、その威力と速度を封じられていた。
さらにいえば、正統伝承者ヤサカの相雷拳は同門のギドゥオーンのそれと比べて威力に違いがありすぎたのだ。
「き、KINGが……」
「シン様が貫手の激突で敗れるなんて」
影主従の震える台詞をシンは遠くからの声のように聞いていた。
初めて撃ち負けた大敵の前に膝をつく。
指突を抜いたヤサカが手についた血を振り払いながら宣言した。
「複数の点穴を突き、弱ったのちに止めを刺すがわれらが西斗。苦しみの中で悔いながら死ねい」
「……弱ってからだと? まどろっこしい野郎だ。見物せずにかかってこい」
「ふははほざけ若僧! 仕上げを御覧じろ」
ヤサカが高笑う。
一矢報いようとしたシンだったが、力を込めたとたんに胸から血を吹き、突いたほうの腕を砕かれて仰向けに倒れこんだ。
「見納めだ、わが神に祈れ」
すでに昏倒している相手に近寄り、正拳を振り下ろそうとするヤサカが腕を止める。
蒼白い頭巾をかぶった女が絶叫とともにシンに覆いかぶさっていたためだ。
彼は思わず嘆息して拳を引き下げた。
「……な、なぜだ」
ジョーカーが仰天しながら一歩引いたヤサカを見る。
彼は両手を広げ、やれやれといった体で告げた。
「月氏の末裔の誇りがある。いい女は殺さぬ。ましてや南斗ごとき、これ以上痛めつける必要はないか。そのうち総身から血を吹き出して死ぬであろう」
ヤサカが庭園から去るために背を向ける。
それを察して死神も主に駆け寄った。
転がっていた帽子を手にとり、極星を沈めた西斗月拳の拳士はキセルを口にしながらふと微笑し、帝都を後にした。
「北斗神拳よ、長年の怨敵よ……うぬらはあの若僧以上に楽しませてくれるのだろうな」
真・相雷拳。正統伝承者ヤサカの切り札。妄想の奥義。