ジェームズ・ポッターが、初めて幣原秋と出会ったのは、普段あれほどの変人さを醸し出し、悪戯好きで天才肌の彼らしくもなく、何の変哲もないのだが、極々普通に、グリフィンドールとレイブンクローの唯一の合同授業である、闇の魔術に対する防衛術の授業の際であった。
始業時間ギリギリに、相棒のシリウスと共に教室に滑り込むと、出席を取っている教授にバレないように一番後ろの席に腰掛ける。二人で「今日も間に合ったな」とばかりにニヤリと笑い合い、背もたれに体重を預けて辺りを見渡して初めて、隣に一人の少年がいることに気がついた。
やけに小柄な少年だった。同室のピーター・ペティグリューもグリフィンドールの一年男子の中で一番小さいが、彼はピーターよりも小さいかもしれない。魔法で赤々と灯された光に輝く、後ろで一つに括られた、珍しいほどに艶やかな髪が印象的だった。この授業では、ただ教科書一冊持ってくればいいだけなのに、彼は教科書どころか、他にも数冊の分厚い書物を机に並べていた。それが、『辞書』と呼ばれるものであるということを、後にジェームズは知った。
教授が、やがて「秋・幣原」と名前を呼ぶ。それに彼が小さな返事をしたことで、ジェームズは彼の名前を知った。英国人ではない、彼の名前。アジア系、響きとしては日本人か、と、ジェームズはなんとなくの辺りをつける。そちらの血が混ざっているのだとしたら、あの髪質も納得できるというものだ。
やがて教授は授業を始めたが、そんなものは聞き流しつつ、ジェームズは隣の少年の観察を、少年にはバレないように続けた。どうして、彼がそんなにも自分の興味を惹いたのかは分からないし、退屈な授業の暇つぶしの一環であったことも間違いではない。教科書なんてものは、数度読めばすぐに覚えてしまえる。その後、学年主席の座を誰にも渡さずに7年間の学校生活を送るジェームズ・ポッターには、すべての授業が退屈で仕方がなかった。
そう、退屈だったのだ。
退屈はユニコーンをも殺す。
ジェームズは、刺激が欲しかった。ホグワーツに入学して、そろそろ一年になる。初めの頃は環境が変わったこともあり、新しい生活を楽しめてはいたのだが、そろそろ限界だ。慣れた友人、飽きた授業。自分を退屈させないのなんて、隣に座ってまた眠りこけているシリウス・ブラックか、同室のリーマス・ルーピン、せいぜいピーター・ペディグリューくらいか。彼らとホグワーツ中を探索したり悪戯を考えたりするのはそこそこ楽しいが、それでも何かが足りない気がした。
幣原秋。
レイブンクロー他寮で、外国人の少年。
声でも掛けてみるか、と考えた折、教授が二人組になるよう指示を出した。どうやら講義は終わりで、後は実践らしい。生徒がバラバラと、杖を手に席から立ち上がる。隣で気持ちよさそうに眠っているシリウスを叩き起こすと、ジェームズも杖を持ち立ち上がる。教授が机と椅子を隅の方に寄せているのを、ぼうっと見た。手の中で、杖をくるりと弄ぶ。
幣原秋の姿を探すと、彼は暗い隅っこの方で、気配を消し、小さく俯いていた。二人組を作るよう言われたのに、動く気配すらない。レイブンクローの誰かとは組まないのだろうか。そう思っていると、金髪で背の高い少年が、幣原秋に近づいていくのが見えた。あの少年は確か、フィスナー家の長男、リィフ・フィスナーだ。純血の家系なら、あらかた見知っている。しかし、一体どういうことだろう、数人のレイブンクロー生が、幣原秋に近づこうとするリィフ・フィスナーを引き止めた。何やら少し揉めているようだ。一体何が起きているのだろうかよく分からないが、レイブンクロー生の誰もが、幣原秋とは一緒に組みたがってはいないようだということは察することができた。
どうして? あの無害で大人しそうな、小さな一人の少年を、なぜ受け入れたがらないのだろう?
「シリウス、ごめんね。今日は違う人と組んでくれないか?」
「はぁ? どうしたんだよ急に、って、ジェームズ!?」
シリウスの声を無視して、ジェームズは幣原秋に近づいた。俯いていた幣原秋は、近寄ってきた人影に気づいて顔を上げる。そこで初めて、ジェームズ・ポッターは幣原秋の顔を正面から見た。
「やあ、初めまして。僕と組まないかい? 余っちゃってさ」
そう言って笑ってみせる。幣原秋は狼狽えたように視線をさ迷わせ、所在なさげにジェームズを見ると、小さな声で「……ぼくでよければ」と答えた。
「いいですか? 3,2,1、で一斉に、『エクスペリアームズ、武器よ去れ!』ですからね――」
教授がそう言って回っている。幣原秋は、先ほどから目を合わせようとしない。初対面の人間に緊張しているのだろうか。どことなく、ピーターと同じものを感じさせた。
「じゃあ僕からいくよ、『エクスペリアームズ、武器よ去れ』!」
教授の指示に従い、幣原秋に杖を向け、呪文を唱える。意図した通り呪文は効果を表して、幣原秋の杖は彼の手を離れ、ジェームズの方に飛んできた。持ち前の反射神経で難なくキャッチし、辺りを見渡す。しかし成功した組はジェームズたちも入れてほんの小数のようで、他はうんともすんとも言わない組が殆どだった。教授は慣れたようで、ジェームズ含め一度で出来た生徒それぞれに対し5点を加点し、「これから使えるようになってくださいね」と、うまく出来なかった人らに声を掛けた後、術を掛ける側を交代するように指示した。
「ほらよ、君の杖だ」
そうにっこり笑って、幣原秋に杖を投げ返す。しかし秋にとっては思いも寄らないことだったのか、慌てて手を伸ばすもうまく杖を取ることが出来ず、指先で弾いてしまった。あらあら、と、代わりに拾ってやろうと手を伸ばす。
「アクシオ」
そのとき、幣原秋がそう呟くのが聞こえた。思わず耳を疑う。彼の手から杖は離れているし、しかもその呪文は、4年生ですら習得に苦労するものだ。1年生で習う程度の呪文ではない。
しかし、杖は地面に触れる直前に、まるで重力がその一瞬だけ裏返ったかのようにふわりと浮き上がると、すとんと幣原秋の手に収まった。
驚愕、なんてものじゃすまない。
凄まじいものを見てしまったと、そう思った。
天才とは、彼のためにある言葉なのかと、そこまで考えた。
そして――理解した。
レイブンクローの生徒が、どうして彼と組みたがらなかったのか。
これは、確かに、僕ですら躊躇う。躊躇する。
教授の声に合わせて、幣原秋がジェームズに杖を向けた。それだけで肩が震え、息が上がった。
あんな才能の持ち主に杖を向けられたこと、それ自体に、恐怖を感じた。
この少年なら、きっとこの程度のこと、造作もなく人差し指一本でやってしまう。杖は、ざっくり言ってしまえば魔力の増幅装置に過ぎない。
じゃあ、この少年が杖を握ったら、一体どうなるのか。
「……エクスペリアームズ」
小さな声で、幣原秋は呟いた。ジェームズの手からするりと杖が抜け、空いていた秋の右手に簡単に収まる。
幣原秋が杖を下ろした。それだけで、身体の緊張が緩んだ。緊張していたんだ、と、そこでようやく気がついた。
ぞくぞくっ、と、背筋に寒気が走った。
彼だ。自分を退屈から救ってくれるのは、彼しかいない。
幣原秋。その名前を、脳裏に刻み込む。
この名前は一生、忘れることはないだろう。そんな予感めいたものを感じた。
事実、彼の名前を忘れることは、ジェームズ・ポッターのその後の人生の中で、一度たりともなかった。
◇ ◆ ◇
幣原秋と(半ば無理矢理にではあったが)友情関係を結んだ後、ジェームズは一番最初に幣原秋に抱いた感想である「ピーターと似てる」という印象をガラリと改めることになる。
「やぁ、秋! 今日も元気かい?」
「元気だよ、お世話様で」
そう言って、幣原秋は頬杖を付いたまま、左手で鉛筆をくるりと回した。周囲が羽根ペンを使う中、好き好んで彼だけは鉛筆やボールペンを使いたがる。「取り止めのない考え事をするのに向いてるんだ」と、以前言っていたっけ。
一度気を許した相手に、幣原秋は優しく素直だった。暖かく純粋な微笑みや、悪知恵を思いついたときの悪どい笑顔。他にも様々な表情を見てきたし、これからもずっと見続けるのだろう。
「また地図を見てるのかい?」
「そう……どうにも上手くいかないんだ。魔法式自体は、考えた通りに出来ている……でも、この前シリウスが言ってた奴、地図上の何処に誰がいるのか描写させたいんだけど、それが上手くいかない。各個人の持つ魔力に反応させてはみたんだけど、それじゃ魔法使い以外は地図に映らないじゃないか……ピーブスだとかゴーストだとか、あの辺りも対応するようにしたいんだけど、考えても出ないんだよね……」
秋は眉を寄せ、ぎゅっと目を瞑った。両手の指を合わせ、力を込めている。
「まぁまぁ、考え過ぎると良くないぜ? 我が友よ」
杖を振って紅茶を出すと、秋に恭しく差し出した。秋は目を開けると苦笑して、鉛筆を置くとカップを持ち上げる。秋の正面に腰掛けると、魔法式が書かれた紙を手元に引き寄せた。綺麗なんだけど何処となく特徴のある文字で書かれたそれは、秋の字に慣れていないと苦労する。だがもう五年生、秋とも四年の付き合いだ。それに、癖字じゃジェームズの方が酷い。
用いる魔法の数は、単純に三桁を超える。膨大で複雑なこの魔法式に、ジェームズらは三年も掛けた。その成果が、そろそろ出ようとしている。
改めて、幣原秋を引き込んで良かった、と思った。自分と対等に話せる頭脳の持ち主を、ジェームズ・ポッターは待ち侘びていた。
幣原秋がいると、退屈することはなかった。あの時のあの少年が、今や、命よりも大切な友人の一人になった。
「リーマスの件は、どうなったの?」
秋の声に、羊皮紙から目を離さないまま「あぁ、あの、ちっちゃくてふわふわな問題のことかい?」と笑ってみせる。
「そ。どんなご様子でしょ、プロングスさん?」
「あと数週間で形になるかな。出来たら見せるよ。ただ、ピーターはもう少し時間が掛かるかも。僕とシリウスが手伝ってんだけどさ」
ふぅん、と秋は頷いたようだった。
「君も、やってみればよかったのに」
「悪くはないと思ったんだけどね。流石にそこまでしたら、セブルスとリリーに勘付かれちゃうよ。あの二人は、ぼくがこうして君らの悪戯にまだ付き合ってんのも渋い顔をするんだ」
秋の口から出てきた二人の人名に、ジェームズは顔を上げた。
セブルス・スネイプ。スリザリンの中のスリザリンみたいな奴で、『暇潰し』のいい対象。何でスネイプのような、闇の魔術に首までどっぷり浸かっているような奴と秋が友達なのだろうか。彼との間で一瞬友情めいたものが芽生えた時期もなくもなかったが、今となってはそんなものの欠片すら見当たらない。向こうだって先手を取ろうと、出会ったらすぐに呪いを掛けてくるのだ、どっちもどっちだろう。
そして、リリー・エバンズ。ジェームズの想い人でもある彼女だが、未だにジェームズのことを虫ケラ以下の存在以上には認めてくれない。彼女の隣にいれる秋が羨ましい程だ。
「スニベリーとエバンズが仲違いしたって聞いたけど、あれは本当なのかい?」
「あぁ……」
秋は切なそうに目を伏せた。「その通りだ」と呟き、カップを置く。
「何かね、色々……思い知ったよ。父さんと母さんが死んだ時と同じくらい」
「……そう」
何と言葉を掛けてやればいいのか、ジェームズには分からなかった。代わりに、魔法式を見て思いついたことを言ってみる。
「あのさ、秋。ホムンクルスの術なんてどうかなぁ?」
ホムンクルスの術。それは最高学年にならないと習わない、いや、習うかどうかも怪しい、教科書の隅に書いてあるような、恐ろしく高度な魔法だ。錬金術の範疇に含められ、取り扱いには最大の注意を要する、最高難度の魔法の一つ。
秋が知っているかは分からなかったが、知らなかったら教えてやればいい。秋ならばすんなり飲み込むだろう。
でも、彼は幣原秋、『呪文学の天才児』だ。
秋がジェームズの期待を裏切ったことが、過去に一度としてあっただろうか。
四年生にして、ホグワーツ魔法魔術大会で優勝し、悟られないようにしていたリーマスの秘密をたった一人で暴いた、彼ならば。
秋は表情をパッと明るくさせた。その表情の変化に、思わず笑った。
「ジェームズ、それだっ!!」
ほら。
幣原秋は、ジェームズ・ポッターの期待を、決して裏切らない。
◇ ◆ ◇
(……何故それを、今思い出すかな)
『リリー! ハリーを連れて逃げろっ!』
杖も持たずに、ジェームズはそう叫んだ。
『僕が奴を引き付ける!』
玄関にヴォルデモートが現れた。ハリーを、ジェームズとリリーの息子を、殺しにやってきた。
ポケットから、ヴォルデモートは見慣れたネズミを引っ張り出した。そのネズミが、ピーターが裏切ったのだということを、ヴォルデモートは見せつけるように、ネズミを指でつまみ上げる。次の瞬間、もう10年近くずっと一緒にいたはずの友人の姿に変わるのを、息を呑んでただ見つめた。
「ピーター、お前は逃げろ」
シリウスとリーマスは、確実にお前を捕まえ、殺そうとするだろう。親友を殺人犯にはしたくなかった。
秋、どうか気付いてくれ。秘密の守人のカラクリに気付いて、ピーターを捕まえてくれ。シリウスとリーマスが、ピーターを殺す前に。君の手で、ピーターをアズカバンに入れてくれ。
三人とも、怒りに我を忘れて、ピーターを殺さないでやってくれ。あいつもきっと、何か事情があったんだろう。僕はピーターを恨まない。ピーターの事情に気付けなかった、気付くことが出来なかった癖にピーターの親友を名乗っていた自分こそを、恨もうじゃないか。憎もうじゃないか。
怯えるピーターを後ろに突き飛ばし、ヴォルデモートが杖を構える。ぞわっと髪の毛が逆立つほどの魔力を、恐怖を感じた。奇しくもそれは、一番最初に秋に杖を向けられた時と、全く同じ気分だった。
――秋。
お願いだ、秋。
君は今まで一度も、僕の期待を裏切ったことはなかったよね。
頼む、秋。
僕とリリーが好きならば。
リリーを、愛していたのならば。
この世界は、確かに生き辛いけれど。君にとって残酷な時代だけれど。
この世界を、嫌いにならないでくれ。
どうか、どうか、僕らの希望を――
「ハリーを、守って欲しい……」
ヴォルデモートが杖を振り上げる。その様子が、秋に重なった。
あぁ、秋に殺されるのなら、別に構わないかな、なんて、巫山戯たことを考える。
緑の閃光が、視界いっぱいに広がって――
やがて、何も見えなくなった。
◇ ◆ ◇
「ねぇ、ジェームズ。ジェームズはどうして、ぼくに声をかけたんだい?」
「相変わらず、君は自己評価が低いんだね」
「ぼくの持つ、人並み外れた魔力のせい。そうとしか思えない」
「まぁ確かに、それも要因のひとつではあるんだけど……その魔力を見るよりも前から、僕は君に眼をつけてたんだって言っても、君、信じないでしょ」
「信じないね、確かに。ジェームズは口が回るから」
「詭弁だって言うのかい? 酷いなぁ」
「……まぁ、ぼくはさ、たとえジェームズがぼくの魔力目当てで近付いてきたのだとしても、それでも、仲良くなれて嬉しかったよ」
「どうしたんだい? 珍しく素直じゃないか」
「ぼくはいつだって素直さ、君とは違ってね」
「僕だっていつも素直じゃないか。……まぁ、そうだね、うん」
「? どうしたんだい?」
「君を敵に回すよりは、いつだって君が味方でいてくれた方が、僕としてはありがたいかな。『呪文学の天才児』さん? それとも『黒衣の天才』って呼んだ方がいいかい?」
「その恥ずかしい呼び名はいい加減に止めてくれ。本当に耳聡いんだから。どこから聞き知ったのか……」
「今更だろう?」
「うるさい。ごちゃごちゃ言うな」
「はいはい」
「…………」
「……ねぇ、秋?」
「何?」
「もし、僕が死んだらさ」
「不吉なたとえ話はよしてくれよ。秘密の守人は絶対の魔法だ。ダンブルドアとぼくが保証しているんだ。その仮定は、友人を疑うことになっちゃう」
「その辺りのことは取っ払ってさ、聞いておくれよ。聞き流してくれたって構わないから」
「……はー、ま、いいや。話だけは聞いてあげる。そんなに話したがっているんだしね」
「ありがと。……もし、僕が死んだらさ」
「うん」
「ハリーを守ってくれよ」
「……色々前提条件からして間違ってるような気がするんだけどさ。大体ジェームズ、君が死んで、ハリーが生き残ることなんてありえないだろ? それに……守るのは、ハリーだけでいいのかよ」
「あぁ、秋としては、リリーを守りたいかい?」
「っ、違うだろ! ジェームズ、君はいつだってそうだ、君はいつだって飄々としていて、冷静で、憎たらしいほど落ち着いていて……それで……」
「……分かってるよ、秋」
「……何を」
「僕らを、守ってくれ。僕と、リリーと、ハリー、全てを、守ってくれ」
「……一体、誰に言ってると思っているの?」
「そうだね、幣原秋、君には今更のことだったね」
「約束しよう。全部守ってみせるよ。ぼくが絶対に守ってみせる」
「たとえ、何度ぼくの魂が引き裂かれようとも」