幼い頃の、話だ。
まだ、ハリー・ポッターとアキ・ポッターがホグワーツからの入学許可証を受け取る、ずっとずっと前の話である。
◇ ◆ ◇
ハリー・ポッターの双子の弟、アキ・ポッターは、眠っている時によくうなされた。理由はいまいちよく分からない。同じベッドで眠っていたハリーが、アキの苦しげな呻き声で目を覚まし、慌てて揺すり起こしたところで、アキが明確にどんな夢を見ていたかを話すことはなかったからだ。
まだ幼く、夢の内容を人に伝えられるほど細かに説明出来なかったということも原因の一つではあるだろう。その状態のアキを起こしたところで、アキは自失したまま泣きじゃくり、ガタガタとその細く華奢な身体を震わせるしか出来なかったのだから。
指先一つまともに動かせないほどに震える、アキの冷え切った身体を、夜中抱き締めた。ポロポロと涙を零すアキの頭を、自身の胸に押し付けた。やがて、アキの冷え切った身体が温かみを増し、涙が止まり、落ち着いたように身体の震えが止まる。「ハリー」と兄の名前を掠れる声で呟いた後、「ありがとう」と言い、安心したように力が抜ける。穏やかな寝息が聞こえてくるまで、ハリーはずっと、アキを抱き締めていた。
普段は明るく元気で、体力がない割に遊ぶことが大好きで、意地悪な叔父叔母の言うことも素直に聞く弟が、いつしか眠ることを恐れるようになった。
それでも遊び疲れた小さな身体は、いつしか夢の世界へと雪崩れ込み、そして悪夢にうなされる。
どうしていいのか、幼いハリーにはさっぱり分からなかった。
助けてやりたいと何度も願い、でも、どうすることも出来なかった。
日中楽しげに外を駆け回るアキに、何の夢を見ているのかと、何度も尋ねた。
アキの夢の中の存在である『幣原秋』を、ハリーは知っている。その夢で、何か辛いことでも起きているのか?
「うーん、違う……ような気がする。よく分からないんだけど」
アキは困ったように眉を寄せて、首を傾げた。
「幣原秋の夢は、全然怖くないんだ。優しいお父さんに面白いお母さん。楽しい学校。なんにも怖くない、むしろ楽しいくらいなんだ。……でも、あの夢は……」
その頃は、まだアキが髪を長くし始める前のことだった。短い髪の毛でもなお、さらさらで艶やかな髪や大きな瞳、愛らしく整った顔立ちから、アキはよく女の子に間違われた。間違われてもアキは決して怒ることはなく、ただただニコニコと笑っていた。
幼い頃から、アキはそんな子供だった。いつも笑顔で、いつも楽しそうなことばかりしている。人を恨むこともなく、たとえお気に入りのおもちゃがダドリーに取られたところで、そんなの別にどうってことないとばかりに怒ることもなかった。誰に対しても優しく公平で、純粋で裏表のないアキは、どこにいても人が集まってきた。ダドリーやその仲間にはよくいじめられたが、アキは何をされても笑って許していた。おもちゃが壊されては、歳に対して器用な指で直し、壊されたことに怒るよりも、自分が直したおもちゃの出来栄えを楽しげに誇るほどだった。
誰も、アキの涙なんて見たことがなかった。
自分を除く、誰もが。
「あの夢は……暗くて、怖い……楽しいことも嬉しいことも、全部がなくなっちゃいそうな夢で……大切なものが、全部なくなっちゃうようで……そんな、夢なんだ……」
アキが眠りについた後、隣で、アキの髪を優しく撫で、祈った。
今日は、アキがうなされませんように。
アキが『幣原秋』の夢だけを見て、幸せに目覚めますように。
そう願ってアキの額にキスすると、気分なのかもしれないが、そうしない日よりも、アキがうなされることが心なし減った気がした。
「いや……いやだっ、そんなことはぼくはしたくないっ、ぼくは……っ!」
隣でうわごとのように呟くアキの声で、跳ね起きる。苦しそうに歪められた顔、ぎゅっと閉じられた瞳から、涙が一粒零れ落ちる。
「なんで、そんな……たすけて、いやだ……っああああっ!!」
「アキっ!」
アキを抱き起こすと、背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。アキが目を開けるも、その目は目の前のハリーに向けられることはない、暗い闇の中でも、その時のアキの瞳は、闇よりも暗い色を帯びている。
「たすけて……たすけて、だれか……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「アキ、僕はここにいるから……」
落ち着かせるように小さな背中を叩くと、やがてアキの声が小さくなっていく。小刻みに震える身体をそのままに、アキが助けを求めるようにハリーを抱き締め返す。泣きじゃくるアキの小さな頭を、優しく撫でる。
「僕がアキを助けるから。ちゃんと、助けてあげるから。どこにいても君を助けに駆けつけるよ。だからアキ、どうか安心して……」
そう言うと、アキの身体の震えが少し収まる。荒い呼吸が、やがて普段のゆったりとしたものに戻り、冷たいアキの身体が温かみを取り戻す。抱き合ったままゆっくりと横になって、アキの肩に毛布を掛け、アキが落ち着くのをいつまでも待ち続ける。
時折アキは、うなされる中で、何か人名のようなものを口走る時がある。その名前は時によって違ったが、いくつかの名前を覚えて日中のアキに尋ねてみたところ、訝しげに首を振って「誰それ、全然知らないよ」と言う。
アキは記憶力が相当いい。ずっと昔の頃の話を、いつまでも覚えていたりする。そんなアキが「知らない」というのだから、本当に知らないのだろう。
じゃあどうして、アキは夜にうなされながらそれらの名前を口にするのだろう。時には涙ながらに、時には悲痛な叫びを伴って、時には切なげな響きと共に。
ハリー・ポッターにとってアキ・ポッターは、何よりも身近な存在であり、何よりも大切な人間であり、守るべき家族であり、そして一番最初に知る『他者』であった。
アキ・ポッターを助けること。
アキ・ポッターを守ること。
それはもうハリーにとって、頭で考えるまでもなく当然のことだった。
アキが悪夢にうなされるのは、歳を重ねるにつれ、段々と減っていった。アキが髪を伸ばし始める頃には殆どなくなり、ホグワーツに入学する頃には、もうずっと遠い昔の話のように思えていた。念のため、ホグワーツに入学してからも時々それとなく、アキと同室であり一番の友人であるアリス・フィスナーに探りを入れたりしてみたのだが、うなされたりはしていないらしい。
だから、安心していた。
夏休みにダーズリー家に帰ってきて、久しぶりに二人で一緒のベッドで横になった夜の話だった。
微かな呻き声に、目が覚めた。最初は風の音かとも思ったが、そうではない。しかし、アキのことに思い当たるのに、そう時間は掛からなかった。
「アキ……っ、アキ!」
ぱっと起き上がり、肩を揺さぶる。苦痛に顔を歪めたアキの瞳から、つうっと涙が零れ落ちる。
「やだ……助けて、誰か……誰か……っ、ごめんなさいっ、ごめんなさい……」
これ以上、アキの辛い表情は見ていたくなかった。昔のように抱き起こすと、背中に腕を回す。ハリーが知る同学年の男子の中で、一番華奢なアキだったが、それでも昔より随分と重くなった。その重みすらも愛おしい。
「アキ、僕はここにいるよ。ずっと君のそばにいるよ。僕がアキを助けるから、アキは僕が助けるから」
耳元で静かに囁くも、アキは聞こえた素振りを見せず、狂ったように「ごめんなさい」と呟き続ける。ガタガタと震える身体は汗ばんでいて、やるせなくて、ハリーは更にアキを強く抱き締めた。
「ねぇアキ……アキ……僕は、君にとってどんな存在なのかなぁ?」
唯一の家族。二人きりの兄弟。大好きな人。
「アキ……君は一体、誰なのかなぁ……」
違和感には気付いている。きっと、本当の兄弟ではないのだろう。血は、繋がってはいないのだろう。
全然似ていない兄弟だと言われ続けてはきたけれど、いざ血が繋がっていないと考えるまでは時間が掛かった。
アキの両親は、どうしているのだろう。
どうしてアキは、毎晩『幣原秋』の夢を見るのだろう。
「アキ……大好きだよ」
そう呟くと、頬にキスをする。
その時、ふと、アキがぼんやりと目を開けた。焦点の合わない瞳を覗き込み、「アキ!」と呼びかけると、アキの瞳がハリーの緑の瞳を捕えた。
「…………あぁ」
アキは、ほっとしたように微笑んだ。ふ、と肩の力を抜く。
「そこにいたんだね、リリー……」
アキの、真っ黒で大きな目から、涙が一筋零れ落ちるのを。
愛おしげな色を讃えた瞳が、そっと閉じられるのを。
ハリーは、息を呑んで見つめていた。
ハリーの胸に、コトンとアキは頭を預けた。安心し切ったように眠っている。呼吸は穏やかで、表情も憑き物が落ちたかのようにすっきりとしていた。
「……アキ」
アキの身体を、そっとベッドに横たえる。アキから手を離してやっと、自分の手が小刻みに震えていることに気がついた。ぎゅっと拳を握りしめる。
「アキ……君は」
言いかけて、言葉を切る。目を伏せると、アキの身体に毛布を肩まで被せてやった。アキの隣に横たわると、アキの頬に手を伸ばす。そっと確認するように触れた後、ハリーはアキの左手を取ると、両手で包み込んだ。
「……おやすみ、秋。愛してるよ」
優しく微笑んで、ハリーは静かに目を閉じた。
◇ ◆ ◇
その日以降、アキがうなされることはなくなった。
もう、こうしてうなされはしないのだろうと、ハリーには妙な確証があった。
アキには、今まで何一つ隠し事をしたことはなかったのだけれど。
ハリーは、この日アキが呟いた一言だけは、アキに伝えることは、出来なかった。