校舎から出て来たアリス・フィスナーの姿を見つけ、ユークレース・ベルフェゴールは、手に持っていたボールを放り投げ駆け寄った。
後ろで同級生がユークに文句を言っているが、知ったことではない。
「アリス・フィスナー!」
名前を叫んで勢いよく飛びつく。
アリスはネクタイを緩めながら息を吐いていたが、ユークの来襲に一瞬驚いたようにその碧の瞳を見開いた。しかし軽々とユークの小柄な体を受け止めると、ゆっくりとその顔に笑みを灯す。
「ユーク、お前か……また姉待ちか?」
「です。アリスが出て来たのなら、もうすぐですかねぇ」
そうかもな、と小さく呟いて、アリスは背後の校舎を見遣った。
プレップ・スクールは大半が男女別学だ。しかしここは、英国魔法界における良家の子女がホグワーツに通う前の受け皿という一面を帯びた、英国随一の学校である。
そのため、プレップ・スクールにしては珍しくも共学であった。
「アリスと姉上が、同じクラスなら良かったのに」
「なんだ、ドラコと一緒だから安心じゃないのか?」
「ドラコは姉上のこと大切にはしてくれないですからっ。アリスは優しいですもの!」
「別に俺、優しくないよ」
「いいえっ、優しいです!」
何を言ってるんだ、とアリスは苦笑しながらユークの髪をわしゃわしゃと撫でる。その手の温もりを、目を細めて受け取った。
「お前の母親は? 来てるんだろ」
「はい。アリス、一緒に帰りませんか? それともオペアが迎えに来られます?」
ユークの言葉に、アリスの瞳が一瞬陰った。下からその顔を覗き込むと、ふいっと逸らされる。
少し顔を上に傾けられれば、ユークには表情を伺うことが出来なくなった。
「……母さんとこに行こうと思って。オペアには迎えに来るなと言ってある」
「……あっ」
思わず口元を覆った。
アリスの母が、今は病院に長期入院していることを思い出したからだ。
「ご、ごめんなさい」
気にするな、と先ほどよりも強い力で頭を撫でられる。
アリスは少し不安定な瞳で、それでも微笑みをユークに向けた。
「……僕も、行きたいです」
「ダメだ」
アリスの返事はにべもない。
「俺の母さんと会うの、お前の両親は嫌がるだろ。……だって俺の母さん、アレだから」
直接的な言葉を使わずに表現し、それでも言葉の最後は声を潜め、一瞬周囲を伺った。思わず身を硬くする。
アリスの母親はマグル――非魔法族の人間だ。魔法が使えない人の存在を、ユークはアリスの母親で初めて知った。恐らくはユークの姉、アクアマリンも、そうだろう。
現在八歳のユークにとって、本当に魔法が使えない人がいるということは俄かには信じられなかったが、しかしアリスがそうだと言うのならばそうなのだろう。
「でも、僕、アリスのお母様を見たことがないんですよ……? 姉上がこっそり教えてくれました。すっごく綺麗な人だって。姉上はよくって、僕はどうしてダメなんですか」
その言葉に、アリスは顔を顰めた。
「あれは、アクアが……どうしてもって押し切るから、仕方なかったんだ。お前はベルフェゴールの長男だろう。お前と母さんを会わせたら、俺は今度こそお前の家の地下牢から出られなくなる」
「……ドラコは許した癖に」
「ちょっ……お前、そんなことまで知っているのかよ……」
アリスの、黒色の制服の裾をギュッと掴んだ。アリスを見上げる。
「……ダメ、ですか……?」
う、と碧の瞳が揺れた。手応えを感じる。
もう一押し、と背伸びをしたところで、アリスがふと視線を横に向けた。つられてユークもそちらを向くと、思わず顔を輝かせる。
「姉上!」
ユークの姉、アクアマリン・ベルフェゴールは、氷のような無表情で校舎から出てきたが、ユークとアリスの姿を認めると、瞳を瞬かせほんの僅かに微笑んだ。
アクアの表情はあまり変わらない。楽しい時も、いつも上品に笑うだけだ。感情表現が希薄な姉に変わり、ユークは姉の分まで笑ってあげようと思っている。
「……ユーク」
「聞いてくださいよ、姉上。アリスが、僕がアリスのお母様のお見舞いに行くことを許してくれないんです!」
「ダメに決まってるだろ。お前からも何か言ってやってくれ、アクア」
アリスの言葉に、アクアは少し考え込むように首を傾けた。頤に指を当てながら、ユークを見る。
「……母様を誤魔化してくること、出来る?」
「おいアクア!」
「お安い御用、です!」
なぁにその言葉、とアクアは笑った。
姉の笑顔を見るのは好きだ。ふわりと優しい気分になる。
校舎の門を出た先で、母親の姿を見つけた。駆け寄ると、演技を始める。
姉上と共にハイストリートにお買い物に行きたいんです、アリスのお誕生日が近いから、彼のプレゼントを選びに行きたくって。
実際アリスの十歳の誕生日は一ヶ月後に迫っていたため、これは嘘ではなかった。
「……通信販売ではいけないの?」
「嫌です! 実物を見ないと納得出来ません!」
ユークの頑固さを知っている母は、案外簡単に折れてくれた。
五時までには必ず帰ってくることを約束すると、母親は『姿くらまし』でその場から消える。
ホッと胸を撫で下ろし、姉とアリスの元に駆け寄った。
「オッケー出ましたぁ!」
ユークの声に、露骨にアリスは苦々しい顔をする。しかし口元が緩んでいることは見逃さない。
アリスに拒絶はされていないことを確信して、アリスの手を取った。自分より大きな、それでも一般的に見ればまだ小さな子供の手。同年代の子に比べれば背も高く体格もいいが、それでもまだまだ薄い身体。
「行きましょう、アリス。僕も、アリスのお母様に会いたいです」
にっこりと微笑むユークに誘われたか、アリスも笑ったようだった。碧の光がふと和らぐ。暖かい海のようなその色が、ユークは好きだ。
『絶対に魔法は使うなよ』とアリスから厳命され、校門を出ると歩いて行く。
公共交通機関を乗り継ぎ(ユークにとっては初めてのマグルの乗り物であったが、好奇心丸出しでキョロキョロするのはみっともないという自覚からなんとか堪えた)、病院へ。聖マンゴとは違う外観に感動し、自動ドアに驚きつつも中に入る。
と、アリスの姿を視認した受付の方がパタパタとこちらに走ってきた。その表情は焦りをも感じさせるもので、不穏な雰囲気に小さく身構える。
アリスも何かを感じ取ったのか、ユークとアクアをその場に押し留め、一人で彼女と数言会話する。アリスの顔色が、サッと変わった。
「お前ら、今日は帰れ」
やがてこちらに戻ってきたアリスは、アクアとユークそれぞれを見てそう言った。
「一体、どうしたんですか?」
「いいから」
「アリス、もしかして」
「早く帰れって言ってんだよ!!」
叫ばれた声に、息を呑む。
普段優しい瞳を向けてくれていたアリスは、見たこともないほど険しい表情を浮かべていた。アクアはユークの手をパッと掴むと「……ごめんなさい」と小さな声で呟き、強い力でユークを引っ張った。
出口へと向かうアクアに手を引かれながらも、ユークは背後のアリスを振り返る。
アリスは受付の方と深刻な顔で話をしていたが、やがて会話を切り上げると病棟の方向へと駆け出して行った。
黒の制服を纏ったアリスの背中は、やっぱり小さかった。
◇ ◆ ◇
マグルの通貨を持っていなかったため、帰りは交通機関を使うことが出来なかった。道を尋ねながらもずっと歩き、何とか帰り着いた時には、時間は夜の八時過ぎ。
両親に散々叱られ、一体どうしてこんなに遅かったのかと詰問されたが、姉弟共に沈黙を守り通した。
翌日も、そのまた翌日も、アリスは学校に姿を見せなかった。幼心にも、何かがあったのだ、と直感した。
アクアは、きっとユークよりももっと多くのことを感じ取っていたに違いない。微笑みさえも滅多に見せなくなっていった。
アリスの母親が亡くなったのだと知ったのは、それから数日後のことだった。段々と、アリスがいない日常に慣れて来た頃合いだった。
姉と共に行った、幼い頃から利用している商店街で出会ったのは、アリス・フィスナーの父親、リィフ・フィスナーであった。
「アリスのお父様。お久しぶりです」
アリスの父を見るのは、本当に久しぶりだった。二年近くになるかもしれない。
アリスの父親、リィフ・フィスナーは「大きくなったね、アクアにユーク」と微笑んで二人の頭を撫でたが、微笑みにはしかし、隠し切れない疲労が滲み出ていた。
「君たち、うちのアリスと仲が良かったよね。ここ最近あいつを見たりはしていないかな?」
「見てないですけど……どうしたんですか?」
リィフは僅かに周囲を伺うと、疲れた笑みを浮かべて「実は、家出されちゃってね……」と呟いた。その言葉と意味に、目を瞠る。
「ど……どうして?」
「……きっと、私に嫌気が差したんだ。ずっと我慢させてきていたし……あいつも、きっと限界だったんだろう」
リィフは、どこか他人事のようにそう言った。
ふと、アクアが口を開く。
「……アリスのお母様、どうかされたんですか……?」
その声に、リィフは表情を凍らせた。
やがて深々と息を吐くと「……あいつが喋ったのか」と囁き、目を瞑る。
「……あいつは、君たちのことを信頼していたんだろう。なら、こちらも打ち明けないといけないね。シャーロットは……アリスのお母さんは、亡くなったんだ」
思いもしていなかった死の告白に、ユークは一瞬茫然とした。
アクアは、しかし予想はしていたのだろう。ショックからユークよりも早く立ち直ると「……お悔やみ、申し上げます」と目を伏せる。
「いや……いいんだ。ありがとう」
「……式は」
「身内だけで済ませた。呼ぶのも……すまないね。あぁ、もしかして。病院の人が言っていたよ、うちの息子が連れて来ていた銀髪の男の子と女の子……」
「……私と、ドラコです」
そうか、と瞳を揺らしながら、リィフはもう一度アクアの頭を撫でた。
「……ありがとう、ね」
「……アリス、言ってました。お母様にお父様を会わせたい、会ってもらわなきゃ……もう会えなくなるかもしれないのに、って。……間に合わなかったらどうするつもりだろう、って……そんなことないって、わ、わたし……きっと、お父様は帰ってくるわって、言って……」
アクアは言葉を震わせると、滲んだ涙を指で拭った。
リィフは、アクアの頭に手を置いたまま、奥歯を噛み締め顔を伏せる。
「……わたし……私、アリスのお母様のこと、好きでした。凄く綺麗で、最近はお話は、あの、出来なかったんです、けど……むかし、アリスのおうちに伺ったとき、マドレーヌがすっごく美味しくって……アリスが、甘いものあんまり好きじゃないんだけど、でも私お菓子作るのが好きなのよ、って、笑って……だから、作ったお菓子を食べてくれて、美味しいって言ってくれる人がいて、嬉しいって……ちょっと難しい子だけど、アリスと、仲良くしてねって……髪の毛、可愛くしてくれたり、女の子も欲しかったな、って、言って、だから私、また来ますって……あれが、さいごで。その『また』のやくそくに、なんども……」
止まらぬ涙を、アクアは両手で拭った。
アクアの小さな身体を、リィフはそっと抱き締める。大人の男の人でも、瞳に涙を浮かべることがあるのだということを、ユークはそのとき初めて知った。
大人は泣かないものだと、ずっと思っていたから。
「……ありがとう、ありがとう、アクア……」
◇ ◆ ◇
それから丸々一年が過ぎた頃、長い家出からアリスは戻ってきた。
戻って来たアリスは、口調も性格も随分と変わっていた。今まで穏やかだった彼は、いつの間にか周りに人を寄せ付けない雰囲気を纏っていたし、荒い口調と空気に、どう接していいのか周りは戸惑っていた。
それでも、ユークは嬉しかった。ずっと慕っていた彼が、やっと帰ってきてくれたのだ。
「アリス・フィスナー!」
飛びつけば、なんだかんだで無下にはされない。きちんと受け止めてくれる。
驚いたとき僅かに見開かれる目も、穏やかな海のような色の瞳も、変わってはいないのだ。
頭にはぐるりと巻かれた包帯に、頬には絆創膏。最近のアリスは、いつ見ても怪我をしている。
父親との喧嘩で出来た傷なのだと、アクアは少し怒ったように言っていた。
「よっくも飽きずに俺に構うよな、お前も」
「だって、アリスはアリスです。そうでしょう?」
昔よりも随分と着崩された制服。左の耳には、雪の形をしたピアスが揺れている。
随分と背が伸びたし、昔は薄かった体格も厚みを増していた。
「ホグワーツにご入学、おめでとうございます」
やっと帰ってきたのに、すぐ会えなくなってしまう。ユークがホグワーツに入学するのは二年後だ。まだ、待っていないといけないのか。
それでも、待てばアリスはそこにいる。
アリスの行方が知れなかった今までと違って、アリスの居場所はちゃんと分かっている。そこは、全然違っていた。
「おぉ、どうもな」
軽くアリスは頷くと、ふと思い至ったように制服の上着を脱ぎ、ユークに着せかけた。
小柄なユークはすっぽりと包まれてしまう。
「やるよ、それ。あとこれも」
ネクタイも投げ渡され、ユークは手が袖から出ていない状況ながらも慌てて受け止めた。
「僕、もう制服持ってますよ……?」
「知ってるよ。でもそれ、お前の歳の時俺がピッタリだったやつだぜ。やっぱお前、ちいせぇな」
笑うアリスに唇を尖らせる。
背が伸びないのはユークの小さな悩みの種なのだ。父は普通に背丈があるから、きっとそのうち伸びるだろうとは信じているものの、姉であるアクアも小柄であるから少し心配している。
「俺がいないと泣いちゃうだろ、お前」
「なっ、泣きませんよ!」
慌てて頭を振った。誰だ、本人にバラしたのは。後でとっちめてやる。
そう胸の中で誓いつつも、アリスのネクタイを胸に抱く。
「……お前のその変わらないところ、俺、結構好きなんだよ。変な奴ってやっぱ変わんねぇよな」
「……アリスも、変わってないですよ」
「そんなこと言うの、お前だけだよ、本当に」
それじゃあよ、と、アリスはユークの髪を乱暴に撫でた。わ、と頭に手を遣ると、楽しげにアリスは笑う。
何かから吹っ切れたような、そんな笑顔だった。
「…………」
魔法界の『中立不可侵』を守るフィスナー家。その直系であるアリス・フィスナー。
彼のように真面目で勤勉でありなさいと、ベルフェゴール家長男であるユークに、両親は事あるごとに言っていた。文武共に優秀で、家柄に決して驕ることなく、家業を継ぐに相応しい人物であると。
しかし、その頃のアリスと今のアリスを見比べると、今の方がずっと、ずっと自由で、楽しそうだった。
きっとアリスは、自分を繋ぐ全ての鎖を一度振り払ったのだ。
親からも、魔法界からも一度離れることで、全てのしがらみから逃げたのだ。
そこまでの勇気は、自分にはない。
そこまで吹っ切ることは、ユークには出来ない。
それでも。
「待っていてください、きっと、追いつきますから!」
背を向け歩き出していたアリスは、振り返るとひらひらと手を振った。
憧れ続けることくらいなら、背中を追いかけ続けることくらいなら、僕にだってきっと出来るだろう。