姉であるアクアマリン・ベルフェゴールがホグワーツに入学してしまった後の日常は、ユークレース・ベルフェゴールにとって、あまりにも退屈で空虚なものだった。
姉が帰ってくる長期休暇だけが、当時のユークの一番の楽しみで。中でも、夏季休暇に家族と、そして姉の婚約者であるドラコ・マルフォイの一家と行く海外旅行を、ユークは心の底から待ち侘びた。
一年ぶりに見た姉は、相変わらず無口で、相変わらず表情もあまり変わらない。それでもユークを見て、安心したように僅かだけ浮かべる微笑みが、ユークはやっぱり大好きなのだった。
旅行先だったアテネの古代遺跡は、たくさんの見どころがあったけれど。パルテノン神殿の夜景は、とても素晴らしかったけれど。それ以上にユークは、姉とずっと一緒にいられることが嬉しかった。
いつでもどこでも、姉にまとわりついては、姉の婚約者であるドラコに「渡さない」とばかりに歯を剥いて。幾度となく繰り返されたその光景に、ドラコもため息を吐いては苦笑していた。
姉上もドラコもずるいずるい、僕も早くホグワーツに行きたいです、そんなワガママを言うユークに、両親も「あと一年だから、我慢してね」と窘めながらも笑っていた。
──あれはそんな、どこまでも幸せな最中に投げかけられた言葉だった。
「お前は本当は、姉のことが疎ましいんじゃないのか?」
──旅行最終日。
船上で水平線に沈む夕日を眺めていたユークレース・ベルフェゴールは、ドラコ・マルフォイから突如投げかけられたそんな言葉に、しばし言葉を失った。
◇ ◆ ◇
ベルフェゴール。
この苗字は、英国魔法界で重い意味を持つ。
家系図を遡れば、元は純血ブラック家、またグリーングラス家の分家であるらしい。傍系であった筈のベルフェゴール家は、しかしいつしか誰も、その名を軽んじることなどできない程の名家に成長した。
『中立不可侵』フィスナーが、英国魔法界の官界を制し、秩序と安寧を齎しているのと同様に。ベルフェゴールはその資金力から、魔法界の経済に多大なる影響力を有している。
かつては分家筋であり、か弱い力しか持っていなかったベルフェゴールは、しかし中世からの変革期、時代情勢を読み切り投資家として急速に力を発展させた。口さがない者は、ベルフェゴールの発展を、その苗字になぞらえこう囁いた。
曰く。
──『ベルフェゴールは悪魔と契約したのだ』と。
本当に悪魔と契約したのか、そんなことをユークは知る由もないが、それでもその言葉を一笑に付せない理由もある。
一族の急激な発展の裏で、ベルフェゴールがしてきたことが、決して綺麗なことばかりでないことを知っている。
かつて一世を風靡した闇の時代。その筆頭たる闇の帝王の思想に賛同したベルフェゴールは、多くの資金を提供した。
闇の帝王が失脚した後、闇側であったベルフェゴールが持ち堪えたのは、ひとえにその資金が、人々の口をべったりと封じ込めたこそ。
アズカバンには入れられなかったものの、闇の帝王に対する恭順は強く、平和な時代となった後も、ひっそりと息を潜めては、闇の帝王の復活を渇望している。
表の顔は、資金力で魔法界の発展を後押しする投資家。
裏の顔は、闇の帝王に跪き頭を垂れる忠実な臣下。
ユークレース・ベルフェゴールは、そんな家の直系嫡子として生まれ育った。
◇ ◆ ◇
ベルフェゴールの一族で、姉、アクアマリン・ベルフェゴールは、たったひとり問題児だった。
ベルフェゴールの直系長子でありながら、一族の思想、ひいては闇の帝王の全てを否定する異端の娘。
普段は大人しい姉が、その時ばかりは声高に怒鳴るのだ。許せないと。闇の帝王は人殺しで、とっても悪い人なのだと。みんな、騙されているのだと。
何度も何度も地下牢に閉じ込められて尚、姉は自分の意見を決して曲げはしなかった。
階下から聴こえる、姉が泣きながら訴えかける声。その声を聞きながら、ユークはずっと、疑問に思っていた。
なんで、姉上は謝らないんだろう。
謝ればいいのに。
謝れば、それで終わるのに。
自分が間違ってました、もうそんなことは言いませんと、ただそう言うだけでいいのに。
そうしたら、すぐに出してもらえるのに。
ユークも、地下牢に閉じ込められたことがある。木の一番高いところから魔法を使ってふわりと着地する、なんてちょっと危険な遊びをしていたら、そりゃもうめちゃくちゃ怒られた。
反省するまでそこに居なさいと放り込まれた地下牢は、夏でも寒さに凍えるほどで、自分以外の音は何一つ聴こえなくて、暗闇に何かが浮かび上がってくる気がして、幼いユークは心の底から震え上がった。
号泣しながらごめんなさい許してくださいと叫ぶと、案外拍子抜けするほどあっさりと出してもらったことを憶えている。もうそんなことはしちゃダメよ、と優しくユークを諭した母に、ガタガタ震えながら頷いた。
両親は、恭順を示しさえすればどこまでも優しく、そして甘かった。ユークに対してだけではない。姉のアクアに対しても、きっとそうだっただろう。
一言、その場しのぎのもので構わない、たった一言「ごめんなさい」と、「私が間違ってました」とさえ口にすれば、それだけで良かったのに。それだけで、間違いなく両親は、即座に姉を許したのに。
姉は絶対に謝らなかった。謝れない人ではない。自分が花瓶を割ってしまった時は即座にごめんなさいと謝っていたし、ユークが父の希少な魔術本を破ってしまったときも、姉はユークを庇って父に謝ってくれた。
ただ、これだけ。
闇の帝王とその思想に関してだけは、姉は決して謝らなかったし、自分の意見を一度たりとも曲げなかった。
何度、地下牢に閉じ込められても。
何日も、出してもらえなくても。
姉だって、地下牢は怖い筈だ。青ざめ震える姉の横顔を、恐怖にすすり泣くその様を、ユークは何度だって見てきた。そのたびに、込み上げる声を噛み殺した。
姉が謝ってくれさえすれば、一緒に暖かい夜ご飯を食べられたのに。
信念を永遠に曲げろとか、そこまでする必要なんてない。たったの数文字。心を裏切る数文字を、ただ唇の上に紡げばいい。
今だけ、嘘をつけばいい。
それだけで、全て終わるのに。
十字架を踏むという簡単なことが出来ずに処刑される異教の者の心情が、ユークには全く理解できなかった。
だって、十字架は彼らの信ずる神
敬虔なる信徒が、神の纏う衣
しかし十字架自体は、ただのモノでしかない。「私が間違っていました」という言葉が、ただのコトバでしかないのと同じように。
目の前にある正解を、姉はどうして見逃すのだろう。
姉はきっと、どうしようもないほどに正直者だった。
姉を地下牢に入れた後、父は決まって険しい顔で『犯人探し』を行なった。
誰が、姉にそんな思想を吹き込んだのか。
親族を疑い、仲間を疑い、時にその矛先は家族へ、母へと向いた。その度に母は、顔を覆って私じゃないと呟いていた。
『私には、あの子がわからない。私のお腹から生まれたはずのあの子が、私とあなたの血を引くあの子がどうしてあんな馬鹿げたことを叫ぶのか、私には全く理解できない』
自分の心を偽れない、不器用で馬鹿正直な姉のことを、ユークはいつしか、守ってあげなければと思うようになった。
姉に一番近い自分が、姉を守ってあげなければ。
『ユーク。お前は、アクアのように馬鹿げた妄言を吐きはしないだろうね?』
父から度々投げかけられる、忠誠を確かめるその言葉。
『お前は、ベルフェゴールを継ぐ者なのだから』
その度に、ユークは頷いてきた。
「──はい。父上、母上。僕はベルフェゴールの長男として、この家に相応しい人間になります」
したり顔で。
「父上と母上の思いを、姉上もいつか、わかってくれる日が来るでしょう」
ユークレースは、姉以上に頑固で不器用な人を、これまで一度も見たことがない。
恐らくはきっと、これからも、見ることはないのだろう。
◇ ◆ ◇
「……どうして、そんなことを言うんですか」
耳の奥で、心臓の鼓動が聞こえる。ドクドクと、普段よりもずっと早く大きなその音に、自分の緊張と動揺を悟った。
否定を。
ドラコの言葉に、否定をしなければ。
僕が、姉上を疎ましく思うだなんて。そんな馬鹿げた妄言は、即座に否定されるべき代物だ。
唾を飲み込む。しかしユークが口を開くより、ドラコが言葉を継ぐ方が早かった。
「お前は、ベルフェゴールの次期当主だから」
ユークを見据え、ドラコは静かに微笑んだ。
「きっとお前は、これまでそう思うことを自らに禁じてきたんだろう」
ドラコが何を言っているのか、ユークには、よくわからなかった。
ユークの思いを知ることなしに、ドラコは言葉を紡ぐ。
「姉のことが好きだと全身で振る舞うことで、お前は姉を守ってきた。ベルフェゴール次期当主、ユークレース・ベルフェゴールのその立場で。姉が孤立してしまわぬよう、お前は空気を読んで器用に立ち振る舞ってきた。愛嬌を振りまいて、どこにも角が立たぬよう、要領よく、愛想よく。お前の器量には、僕も随分と助けられた」
そんなことはないのだと、ただ叫びたかった。
自分が姉を想う気持ちに、そんな裏などないのだと。
ただ純粋な気持ちで、自分は姉を慕っているのだと。
そう言いたくて仕方ないのに、なぜか言葉は喉裏で張り付いたまま、音になることはなかった。
「でも、もういいんだ」
そう、ドラコは続けた。
「ユーク。もういい。もう、いいんだ。僕は、僕だけは、お前の心を肯定しよう。姉のことを疎ましく思っても、良いんだ。お前はずっと、姉に迷惑をかけられてきた。その感情は、正常なものだ。罪悪感に駆られる必要なんてない」
そんなことを、ドラコは言う。
まるで、ユークが姉のことを厭うていることを、確信しているかのようだった。
何を勘違いしているのか。あまりにも見当違いなことを得心顔でのたまうドラコを、一笑に付してしまいたかった。
何を、馬鹿なことを。
ドラコ、あなたは僕の何を見てきたんですか。
そんな筈、ないじゃないですか。
僕は姉上のことが大好きなんですよ。
僕が姉上を疎ましく思うだなんて、そんな馬鹿なこと、ある筈が──
「もう、大丈夫だ。もう、お前が姉を守ってやる必要はない」
重荷だっただろう。
お前の頑張りを、僕は讃えたい。
そう、ドラコ・マルフォイは呟いた。
「お前の姉、アクアマリン・ベルフェゴールは、この僕、ドラコ・マルフォイが、この先一生涯を掛け、永遠に守り通すことをここに誓おう。……お前はもう、自由になっていい。お前は、お前の為すべきことをして、良いんだ」
ドラコの目は、言葉は、どこまでも誠実だった。
「来年のお前の入学を、楽しみにしている。……スリザリンで待っているぞ、ユークレース・ベルフェゴール」
◇ ◆ ◇
夏休みは終わった。ドラコも姉も、ホグワーツへと戻ってしまった。ユークはあと一年、この家で待たなければならない。
ユークも、プレップ・スクールの最高学年となった。かつて姉やドラコも通ったこの学校は、英国魔法界における良家の子女がホグワーツに通う前の受け皿という一面を帯びている。
最高学年となった学友たちは、来年と迫ったホグワーツ入学のことを、しきりと噂するようになっていた。中でも彼らの興味の中心は「自分がどの寮に入るのか」ということらしかった。
ホグワーツに存在する四つの寮。グリフィンドール、レイブンクロー、ハッフルパフ、そしてスリザリン。
組分け帽子が選んだ寮で、七年間の学生生活を送ることになる。所属する寮次第で、友人も、先輩も、自らの未来さえ変わり得る。
一度折り返された制服の袖を、ぼんやりと見つめた。二年前にアリス・フィスナーから譲ってもらった制服は、まだユークには少し大きい。
「ねぇユーク、あなたはどの寮に入りたいの?」
無邪気にそう尋ねてきたクラスメイトの女子が、周囲に慌てて引き止められる。
口を開きかけていたユークは、周囲のそんな対応を見て、そっと口を閉じた。
父親がマグルである『半純血』の彼女は、ベルフェゴールの一族が一人残らずスリザリン出身だということを知らないのだ。
一族の『問題児』たる姉、アクアマリン・ベルフェゴールでさえ、スリザリンに組分けされた。
父も、母も、誰だって。例外はない。あってはならない。
ユークが組分けられる寮なんて、入学する前から決まっている。
「…………」
入りたい寮──なんて、今まで一度も考えたことがなかった。考える必要もなかった。
両親が
これからも、応え続ける。
それが、ユークレース・ベルフェゴールの役割で、人生だ。
ベルフェゴールを継ぐ者として、ユークレース・ベルフェゴールは──
◇ ◆ ◇
足元で、ぱしゃりと雫が跳ねた。
ユークはゆっくりと視線を向ける。
靴の先が、湧き出す赤色に濡れていた。ひたひたと靴底を浸すそれに、思わず目が離せなくなる。
ぐい、と強い力で肩を引かれた。思わずユークは一歩、後ろに下がる。
「あぁ、靴が汚れてしまったね。あとで新しいものを買ってあげよう」
ユークの靴の汚れを嘆く、父の声。ユークは足元から視線を上げ、赤い色の出処を見た。
奇妙に折れ曲がった手足は、針金細工のおもちゃを力任せに変形させたかのようだった。まだ息があるそれは、ただ『まだ息がある』だけに過ぎない。
「困ったものだ。血を裏切るものが途絶えない。我々には、闇の帝王が戻ってくるまで魔法界を綺麗に保つ義務があるというのにね」
あのフィスナーも
「『中立不可侵』の象徴があの体たらくでは、魔法界の堕落も無理なからん……リィフもいい加減、純血の新しい妻でも娶ればいいのに。マグルの血が入った息子が次代の象徴など、フィスナーももう終わりかね……」
そこでふと、父はユークを見て微笑んだ。びくりと思わず身が竦む。
「ユーク。魔法界の掃除も、我がベルフェゴールの大事な使命だ。闇の帝王がお戻りになるまで、我々は秩序を保ち続ける責任がある。純なるものは保全し、穢れは速やかに排除する責任がね……ユーク、お前ならば、わかってくれるはずだ。だってお前は、私の自慢の息子なのだから」
ユークの肩に手を置いて、父はユークを見下ろしていた。その瞳をただ見返す。
ユークの言葉を、父は待っている。従順な息子の言葉を。自分の跡を継ぐ、利発な息子の良い返事を。
だから、ユークは。
『正解』を、選んだ。
いつものように。
「はい。わかりました、父上」
父は、安心したようににっこりと笑った。
正面から、ドクロの仮面を被った者が近付いてくる。その者はユークの父に気がつくと、その場で膝をつき、頭を下げた。
父は軽く言う。
「あとは任せたよ」
「承知しました」
◇ ◆ ◇
魔法が使えぬ者のことを、マグルと言う。
加えて近しい者は皆、マグルと婚姻した者を『血を裏切る者』と呼び、マグルの両親から誕生した魔法使いを『穢れた血』と呼称した。
──魔法界にマグルは不要。魔法界に関わるマグルは穢れそのものである。マグルと関わろうとする魔法使いもまた、穢れを持ち込む大罪人である
一方で。
──マグルと魔法使いは、共に手を取り合い共存するべきである。闇の帝王がかつて行なった大量殺戮は断じて許されるべきものではない。かつての過ちを悔悟し、正しい世にて更なる発展に尽力するべきである
ユークは、相反する思想を受け入れ、立場と状況によって使い分けることを求められた。
現代の魔法界で、穢れた血排除を大々的に謳うことにメリットはない。『名前を呼んではいけないあの人』が『生き残った男の子』ハリー・ポッターに倒された現代では、かつてサラザール・スリザリンが掲げた思想は警戒されるばかりだ。
表の顔と、裏の顔。
ベルフェゴールの繁栄に、二面性は切っても切れない。
『そういうもの』なのだと受け入れた。
──否。受け入れるしかなかった。
子供にとって、両親は絶対的な存在だ。逆らって良いことなどひとつもない。
両親は、ユークに『次期当主に相応しい、従順で賢い良い子』を望んだ。ユークは親の望むまま、期待に沿って生きてきた。
きっと自分はこのまま、理想通り期待通り、ベルフェゴールの次期当主として生きるのだろう。両親が敷いたレールの上を、外れることなく進んでいく人生。
表と裏を使い分ける器用さと、空気を読んで振る舞う技術。共に、姉が持ち合わせていないもの。共に、ユークが持ち合わせているもの。ベルフェゴールとして生きていく上で、必要不可欠な二つの要素。
姉のことが、好きだった。
恐らくは、憐憫込みで。
不器用で馬鹿正直な姉のことを、かわいそうだ、守ってあげたいと思いはすれど、疎ましいだなんて考えるはずもないと──少し前まで、思っていた。
◇ ◆ ◇
「お帰りなさい、姉上!」
「……ただいま、ユーク」
冬休みで帰ってきた姉に、ユークは勢いよく飛びつこ──うとして、途中で慌てて堪えた。前は姉の方が高かった背丈が、今は逆転している。そうはいってもほんのちょっぴりだが、ユークにとっては大きな差だ。
勢いを寸前で殺すと、姉を包み込むように優しく抱きしめた。
「背が、伸びたわね」
「僕だって成長しますから」
そうねと言って、姉はユークの頬をそっと撫でた。
その夜、ユークは姉と久しぶりに一緒に寝たいとワガママを言った。姉はしょうがないわねと微かに笑った後、そのワガママを許してくれた。
枕だけを持って、姉の部屋の天蓋付きベッドにダイブする。ユークが両手両足を広げても届かないほど大きなベッドは、小柄な子供二人くらい難なく受け止めた。
クスリと微笑んだ姉は、おいでとばかりにユークに手を伸ばす。素直にその腕に飛び込んだ。
電気を消し、毛布に丸まっては、小さな声で近況を話す。と言っても主に喋っているのはユークばかりで、姉はいつものように、静かにユークの言葉に耳を傾けていた。
──やっぱり、ありえない。
僕が、姉上を疎ましく思っているだなんて、そんなことは絶対にありえない。
一通り話したいことを話し切って、すっきりとした気持ちで息をつく。心地よい疲労感が、夜の眠気と混ざり合って気持ちいい。
ぽふんと枕に頭を埋めると、姉は手を伸ばしてユークの銀髪をさらりと撫でた。優しい手つきに、思わず目を瞑る。
「……ねぇ、ユーク。一つ、訊いてもいい?」
投げかけられた姉の声に、うとうとしかけていたユークは瞼を持ち上げた。
天蓋付きベッドのカーテンは、今日ばかりは閉じられていない。隙間から射し込む月明かりで、シーツに流れる姉の銀髪は、キラキラと光を放っていた。
「どうしたんですか? 改まって」
「……ユークは、どうして」
そこで姉は、言葉を切った。続きを聞き漏らしたかと、ユークは思わず訊き返す。
「……ユークはどうして、私に良くしてくれるの?」
柔らかな声音だった。
穏やかな眼差しで、姉はそんな言葉を口にした。
「…………え?」
言葉の意味は、すぐにわかった。
でも、それをどうして姉が言うのかまでは、理解がすぐには及ばなかった。
「どうして、って……そんな、なんで、その、そんな」
思わず身を起こす。狼狽えるユークと対照的に、姉は落ち着き払った目線で、微笑みさえも浮かべては、ユークのことをじっと見つめていた。
姉が、何を言いたいのか。
直感でわかったそれを、ユークはどうしても認めたくなかった。
「どうして、なんて、そんなのないです。姉上が好きだから……姉上のことが、大好きだから。理由なんてないです。ずっと一緒にいたいって、そう思ってるから……」
「『ずっと一緒に』……ね」
姉は、ユークの言葉の一部を繰り返す。その声は存外乾いていて、思わずユークは息を止めた。
「姉上は、僕のことが嫌いですか……?」
確かめるように囁いていた。
いいえ、と姉は頭を振る。
「好きよ、ユーク。大好きよ。私の、たったひとりの弟ですもの」
「じゃあ、なんで」
どうして、そんなことを言うのか。
『良くしてくれる』なんてそんな言葉、姉弟間で使うようなものじゃないのに。
「……ねぇ、ユーク。たとえ、私がこの家の敵になっても。それでもユークは、私を好きでいてくれる?」
「…………っ」
即答は。
ユークレース・ベルフェゴールには、できなかった。
きっとその日は、いつか来る。
きっと姉は、いつの日か、この家を出ていってしまうだろう。
それはもはや、確信だった。
今はまだ、姉が未成年だから、この家に帰ってきてくれる。でもいずれは成人となり、自分ひとりでも生きられるようになったならば。
姉は、この家を捨てるだろう。
姉の居場所は、この家にはない。
そのことを一番よくわかっているのは、他でもない姉自身だった。
姉は、独り言のように呟いた。
「父様と母様は、きっと私を許さないわ……。今はまだ見逃してくれているけれど、それも一体、いつまででしょうね。私が考えを改めることを、もうあの人たちは期待していないでしょう。そして、私も……もう、あの人たちの考えを変えさせようだなんて思ってない。……あの人たちにとって、私の考えは敵でしかないのでしょうし……」
姉は、両親を『あの人たち』と、まるで他人のように呼称した。
事実、他人なのかもしれない。
姉にとって両親とは、家族とは、敵でしかないのかもしれない。
姉はずっと、敵に囲まれ生きていた。
「……ねぇ、ユーク?」
小さな、小さな、姉の声。
ずっと、この声を聞いてきた。
生まれた時から、ずっと。
姉は、ユークのそばにいた。
「私がユークの敵になっても、ユークは私を好きでいてくれる?」
「……姉上は」
発した声は、僅かに震えていた。
「姉上は、僕の敵になることはありません。絶対に」
だって、ドラコが守ってくれる。
『一生涯守り通す』と、ドラコはユークに誓ってくれた。その言葉自体は腹立たしいものの、それでも頼もしいと思ったことは事実だ。
姉は僅かに目を瞠った後、くすりと小さく笑い声を零した。
「……ユーク、本当はわかってるんでしょう? ベルフェゴールの次期ご当主様。私はきっと、このままいつか、この家を壊してしまう日が来るわ」
「マルフォイ夫人には、そんなことできません。この家は僕が継ぎます。僕が護ります。ドラコと僕が、姉上のことを護ります。姉上からも、この家を護ります」
家督を継ぎ、純血の血筋を護ること。
それが、ベルフェゴールの長男として生まれたユークの為すべきことだ。
「……そうね。ドラコはきっと、私を守ってくれるのでしょうね……まさしく、一生をかけて、ずっと……こんなどうしようもない、問題ばかりを引き起こす、私なんかを……いっぱい迷惑かけられても、尚、それでも……」
姉はそこで、初めて表情を曇らせた。細い身体を小さく丸め、膝を抱える。
「……それでも私は、ドラコの語る純血主義が受け入れられない……。闇の帝王を賛美する父様や母様と同じくらい、理解できないの……。どうして? 純血であることがそんなに偉いの? マグルと私たちに、一体何の違いがあるというの? ……マグルを忌避して疎むその思想が、私にはさっぱり理解できない。穢れって何? 穢れてるって何なの。わからないわ。わかりたくもない。私には、純血を尊ぶその思想が、高貴なる血と持て囃される理由が、ちっともわからないの……気持ち悪くて、たまらないの……」
姉がここまで饒舌に話すのを、ユークは初めて聞いた気がした。
「……わかってる。わかってるの。こんなこと言っちゃダメなんだって。こんな考えを表に出してはいけないんだって。飲み込んで、黙って従わないと……私が我慢すれば、それで全部丸く収まるって、わかってる。わかってるのに……わかってるのに、できないの。そう振る舞えない……父様にも母様にもドラコにも、迷惑かけずに済むって、わかってるのに……」
姉は膝に頭を埋める。
ユークは何も言えず、ずっと姉の長い銀髪を見つめていた。
「……ユークにも。私なんかがお姉ちゃんで、ごめんなさい。今まで沢山苦労を掛けたでしょう。ユークはずっと、良い子だったわ。私の分までずっと、余計に『良い子』でいてくれた。本当に感謝しているわ……ユークだけが、私を否定しなかった。ユークだけが、私の心の支えだった……でも……」
ごめんなさい、と姉は言う。
震える声で。
「……私の弟、ユークレース。優しくって、そしてうんと賢い、私の自慢の弟……。あなたを惑わせてしまって、ごめんなさい。ドラコのように、両親の言葉だけを素直に聞いて、両親の期待だけに添っていれば、きっと今よりずっと楽に生きられた筈なの」
悔やむような声音だった。
自分さえいなければと、そう思っているような。
「思っているわ……私さえいなければ、父様と母様をこんなに悩ませることもなかった。ユークだけが、この家の子だったら良かったの……私さえ、生まれてこなければ」
「姉上!!」
それ以上は、聞いていられなかった。堪え切れずに姉の肩を掴んで揺さぶる。
「姉上、もうやめて、もうやめてください、僕は」
「あなたが、父様と母様のように、ドラコのように、あの思想を尊ぶというのなら……父様の望む通り、ベルフェゴール当主になるというのなら……私は、それを受け入れるわ」
決然とした声だった。
意志の灯った瞳で、姉はユークを見返す。
その瞳を見て、ユークは初めて、ドラコが言っていたことを理解した。
ドラコも、姉のことが疎ましいのだ。
姉のことを大切に思うからこそ、真っ直ぐにぶつかって来る姉が、この上なく鬱陶しいのだ。
ドラコも、自分も、『家』を中心に生きてきた。
だからこそ、その中心を揺さぶってくる姉と相対すると、揺らがされるような、恐れおののく気分になってしまう。
ユークの手を自分の肩から外した姉は、ユークの手をぎゅっと掴むと、まっすぐに目を見て尋ねかけた。
「ユーク。あなたの本音が聞きたいの。……ユークは一体、どう思っているの?」
──やめてほしい。
僕にはベルフェゴールの長男として、姉の分まで、家族の期待に添う義務がある。
その決意を、揺らがさないで。
僕までが姉に賛同したら、姉弟もろとも親に捨てられてしまう。そんな簡単なことが、どうしてわからないんだ。
僕が、姉を守らないといけないんだ。
このわからず屋で不器用な人を、それでも大好きだから、心の底から愛おしいから、守らないといけないんだ。
これまでもそう、生きてきた。
これからだってそう、生きていく。
ユークはそっと、囁いた。
「……姉上。僕が父上の後を継いでベルフェゴール当主になったら、姉上は僕を嫌いますか?」
姉は、静かに頷いた。
「……えぇ。きっと、間違いなく」
「…………」
そうだろうと思っていた。
でも。
たとえ嫌われたとしても。
「……変なことを言って、ごめんなさい、ユーク。悩ませてしまったわね」
ユークが答えないことを見てとって、姉はそう言うと淡く微笑んだ。そっとユークの手を離すと、ベッドに横たわり身を沈める。
「おやすみなさい、ユーク。愛してるわ」
「……僕もです、姉上。おやすみなさい」
眠りにつく姉の寝顔を、ユークはじっと見つめていた。
魔法連載主人公、どちらが好き?
-
親世代主人公(幣原秋)
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子世代主人公(アキ・ポッター)
-
その他(イチオシの子がいましたら……)