【完結】空の記憶   作:西条

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 短編 アリス+?視点 黒猫と子守唄

「あ……」

 

 小さく声を上げて、アキが立ち止まった。

 アキの隣を歩いていたアリスは、アキの数歩前で足を止めると振り返る。

 

「どうした」

「猫がいる」

「猫?」

 

 アキが指差したのは、石造りの廊下の隙間の暗がりだった。

 千年以上も歴史のあるホグワーツは、そりゃあ確かに至る所が魔法で修復されてはいるものの、やっぱり風化は否めないのか、朽ちたり欠けたりしている部分がある。このくらいの隙間は、生徒の安全に配慮して適宜修繕されてはいるのだが、それでもこうして放置されている場所も数多い。

 

「猫くらいいんだろ。ミセスノリスとか、その辺にだって歩いてる」

 

 放っとけ、とばかりにアリスはそう言うも、アキはその場から動こうとしない。

 近寄るでもなくただじっと、その暗がりを見つめている。

 

「アキ」

 

 少し苛立って名前を呼んだ。

 この声を出すと、アキは大抵「ごめんごめん!」と駆け足でアリスの元に戻ってくる。

 だがしかし、今日ばかりはそれも効かないようだった。

 

「……怪我してるみたいだ」

「あ?」

「ねぇ、アリス」

 

 そう言うとアキは、少し心細げにアリスを見た。不安げな眼差しが、小さく揺れる。

 アキのその顔に、アリスは弱い。普段元気いっぱいでうるさいほど絡んでくる奴が、しゅんとして言葉少なに自分を呼ぶ時。無視して先に行くことが出来なくなるのだ。

 また、普段は意識しないことなのだが、アキが一見すると少女のような風貌をしていることも、原因の一つではある。まるで女子を泣かせてしまったかのような罪悪感が、胸の内に湧き上がってくるのだ。本当に卑怯だと思う。

 

「……あーもう、なんだよ」

 

 諦めてアキに歩み寄ると、アキは無言で暗がりを指差した。

 腰を屈めて目を凝らすと、確かに奥で蠢く影が見える。

 

「ちょっとお前、持ってろ」

 

 アキに鞄を預けると、ローブが汚れるのも構わずに膝をついた。

 暗がりを覗き込むと、光った瞳と目が合う。そろそろと手を伸ばすも、警戒しているのか近付いては来ない。

 引っ掻かれたら嫌だな、と頭の片隅で思いながらも、アリスは両手でその身体を掴んだ。

 暖かい。

 チリン、と涼やかな音が鳴った。

 

 引っ掻かれることも暴れられることもなく、アリスはすんなりとそれを日の当たる場所へと引き摺り出した。

 それは、小さな黒猫だった。アリスの片手に乗るくらいの大きさで、ツヤツヤとした毛並みが日に当たって輝いている。

 暗がりの中の黒猫なんてよく見つけたな、と、アキの目敏さに呆れ返った。

 

「どこが怪我してるっつーんだ?」

「右の前足」

 

 アキにそう言われよく見ると、確かにそこから出血しているようだった。本当に目敏い。

 

 アキは数歩離れた場所から、アリスと黒猫をじっと見つめていた。地面に置けばいいのに、アリスの鞄を律儀に両腕で抱えている。

 

 アキは、動物が好きだ。ふくろうやネコは言わずもがな、犬やウサギやインコ、果てはドラゴンや蛇やスクリュートまで幅広く大好きだ。

 しかし、何故か動物に嫌われる。アキが近付くと、どんなに人懐っこい動物であろうと毛を逆立てて威嚇し、もしくはガタガタと震えて後ずさってしまう。

 その原因はいまいちよく分かっていないらしいが、きっとぼくの人並み外れた魔力が周囲に漏れ出して影響を与えてんだろうねー、と、以前アキは寂しそうに笑っていた。

 

 ツヤツヤした毛並みを指先で撫でてやると、黒猫はこっちを見た。金色の瞳と目が合う。

 どことなく賢そうな瞳だった。小さくニャーと鳴くと、気持ちよさげに目を細め、アリスの指先に頭を寄せた。

 リン、と音が鳴る。首輪についている鈴だ。誰かの飼い猫なのだろうか。

 

 右足に治癒魔法を掛けてあげたいところだが、習った治癒魔法は全て人間用のもので、魔法動物用の魔法を学びたい場合は、七年生で選択科目を取るしかない。

 流石にアキも、その魔法については詳しく知らないようだった。

 

「ねぇ、アリス……」

 

 申し訳なさげに、アキが名前を呼ぶ。

 あぁもう、と、小さく舌打ちをした。このバカは次に何を言い出すのか、そんなの言われなくってももう分かっている。

 

「……いいけど」

「あのさ、ごめんけど……って、え?」

 

 仏頂面で、アリスはアキを見た。

 口を尖らして続ける。

 

「どうせ飼いたいって言うんだろ。怪我が治って飼い主が見つかるまでなら、別にいいぜ」

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

「アリスが……! 子猫といる……!! 何この光景、ちょっと、誰かカメラカメラ!!」

 

 場所は移り、レイブンクロー寮の寝室。

 アリスの腕に抱かれた黒猫を見た同室のウィル・ダークは、一人チェスをする手を止めて、アリスを指差して笑い転げた。レーン・スミックも寝転んで読書をしていたのを止め、静かに肩を震わせて笑っている。

「うるっせぇ!」と叫ぶも、子猫片手じゃ締まるもんも締まらない。

 ウィルは目の縁にたまった涙を拭うと、アリスに近付いていき、黒猫をまじまじと見つめた。

 

「しっかし、どうしたんこれ。拾ったん?」

「あぁ、アレがな」

 

 親指で後ろにいるアキを示すと、「あぁ」と納得したように二人は頷いた。

 

「なるほどな。アキお姫様のお願いには逆らえなかったと。うんうん、君も立派な男子だよ」

「あいつのどこが姫っつーんだよ。そんな可愛らしいもんじゃねぇだろ」

「はっ、一番あいつを姫扱いしている奴が、よく言うよ」

 

 一体何を言っているのやら。

 とりあえずウィルの腰を蹴り飛ばすと、自分のベッドへ向かった。「大丈夫、ウィル?」とアキが尋ねているが、無視する。

 

「レーン、包帯持ってねぇか? あと消毒液みたいなもん」

「あるあるー。ちょっと待ってねー」

 

 マグル生まれのレーンは、週に二、三回の割合で、ホグワーツの裏庭でマグルのスポーツであるバスケットボールを友人らと行っている。二つのチームに別れて、ボールを相手のゴールに叩き込むというスポーツで、若干クィディッチに似ていた。

 アリスも数度混ぜてもらったことがあるが、中々楽しかった。ただ、あれは身長がモノを言うゲームなので、同年代の女子と比べても小さい部類に入るアキは拗ねて、見学しながらずっと野次を送り続けていたっけ。

 バスケットボールは突き指をすることが多いゲームらしく、レーンはいつも怪我したとき用に包帯を持ち歩いていた。

 

「はーいよ」

「お、サンキュ」

 

 ベッドに腰掛け、黒猫を股の間に置くと、右の前足を取った。赤く血が滲んでいる。

 どこかで擦ったのか打ったのか、何にせよ放置出来るような怪我ではない。消毒をして包帯でくるくると巻いてやる。

 アキは勉強机の椅子の、背もたれに腕をついて、心配そうにじっと見ていた。

 

「大丈夫だって、そんなひでぇ怪我じゃねぇし。しばらく動かさなきゃ、自然と治ってんだろ」

「本当? よかったぁ……」

 

 ほっと安心したように、アキは肩の力を抜いた。

 包帯を綺麗に留め終わり、黒猫を離してやると、黒猫はアリスを見上げた後、くるんとアリスの股の間で丸くなってしまった。

 

「なぁ、その猫の名前とか付けたの?」

「は? 名前?」

 

 うん、とウィルは腰を摩りながらも、アキに後ろから抱きつくかのように椅子の後ろに跨がると、その黒猫を指差した。

 

「付ける暇なんてあっかよ、さっき見つけてきたんだ。それに飼い猫かもしんねぇじゃん」

「あー、確かに飼い猫かもね。ほら、その猫首輪つけてるし」

 

 レーンの言う通り、猫は細く赤い首輪を付けていた。首元に鈴があり、触れるとチリンと音が鳴った。

 どっかに名前でも書いてあるんじゃないかと思ったが、それはないようだった。

 

「でも飼い猫にしたって、飼い主見つかるまでに時間かかるでしょ。ずっと猫猫呼んでんのも味気ないしさ、今だけでも呼び名つけちゃえば? ね、アキもそう思うよね?」

 

 レーンの言葉に、アキはこっくりと頷いた。

 

「そうだよ、アリス。なんか名前、つけようよ」

「はぁ? 名前くらいお前がつければいいじゃねぇか」

「だってアリスが飼うって言ったんじゃない」

「言ってねぇだろ! 怪我が治って飼い主見つかるまでだったら寮に置いといてもいいぜって言ったんだよ!」

「あれ、そうだっけ? まぁいいじゃん、細かいことはさ」

「細かくねぇ!」

「しっかし、名前ねぇ……簡単に思い浮かぶんなら苦労はしないよね……」

 

 いつの間にか、レーンがアリスのベッドに腰掛けていた。アリスの膝の間の黒猫を抱き上げて、「わぁちっちゃい」と声を上げる。

 

「名前ねぇ……ティガーとかキティとかマックスとかか?」

「アリス、ありふれ過ぎ安直過ぎ。捻りがないなぁ」

「うるせぇ!」

 

 後、俺のベッドに勝手に座んな! と手を振り上げれば、わわっと慌ててレーンは立ち上がった。

 

「猫抱えてる奴突き落とそうとするとか、アリスくんったらさいってぇ~」

「おい、でかい男がクネクネすんじゃねぇよキモい」

「もうっ、ホンットに思いやりの気持ちがないなーアリスは! こんなんじゃ女の子にモテないぞ!」

「ウィル、猫をレーンから奪い返してくれ」

「まぁまぁ落ち着こうやアリスくん。とりあえずその手に握った本は離してね」

 

 どうどう、とばかりにレーンがアリスから距離を取る。

 アリスは小さくため息をついた。

 

「あ、レーン、俺にも抱かせて!」

「いいよー。はいっと」

「お、どうも。……うぉー、ちっせー! 本当に生きてんのかこれ!」

「そりゃ生きてんでしょ、ウィルってバカなの?」

「ば、バカじゃねーし! 魔法薬学の成績はレーンよりいいし!」

「他の全ての科目では僕が勝ってるわけだけどね」

「う、うるせー!」

「アキ……」

 

 ふと呟く。

 唐突に名前を呼ばれたアキは、きょとんとした顔で首を傾げた。ウィルとレーンの二人も言い合いを止め、アリスを見る。

 

「どうしたの? 急に」

「あ、いや……この黒猫、お前に似てるなーってふと思ってな。黒いとことか、小さいとことか」

「……何それ、喧嘩売ってんの? 言い値で買うよ?」

 

 むっとしたようにアキの瞳が細くなる。

 ローブの中でアキが杖をぎゅっと握ったのが分かって、アリスは「いやいやそうじゃなくってだな、そう怒んなって、悪かったよ」と謝りの言葉を述べた。

 魔法ありでアキと喧嘩しようだなんて、そんな自殺行為をする気はない。

 

「いや、その、なんだ、綺麗な毛並みとか、お前の髪思い出すし、賢そうな目ぇしてっし、案外人懐っこいしさ。お前と似てる」

「……ねぇ聞きましたレーンさん、まるで彼女の機嫌を損ねた彼氏みたいですわね」

「まぁ本当ですわねウィルさん、ナチュラルな惚気にわたしたちお腹がいっぱいですわ」

「お前ら黙ってろ!」

 

 ウィルとレーンに向かって叫ぶも、全く堪えてない様子だ。

「きゃー」とおざなりな悲鳴を上げると「レーンさん、アリスさんは亭主関白がお好みのようですわよ」「いえいえウィルさん、あれでアリスさんは振り回されるのが好きですから……」とまたコソコソ話している。アリスの額に青筋がピシィと浮かんだが、話題に上っているはずのアキは、二人に構うことなく「なるほど……」とうんうん頷いている。

 いや、そうじゃないだろ、今するべきはその反応じゃないだろう。

 

「なるほど、よく分かんなかったけど、とりあえずアリスがぼくを滅茶苦茶大好き愛してるのはよく分かったよ」

「いや、お前それ何にも分かってねぇよ!?」

「はいはいぼくもアリス滅茶苦茶大好き愛してるから心配しないで」

「いいよ別にお前から愛されなくっても! 普通でいいから!」

「普通に愛してる?」

「愛さなくていい!」

「いーんじゃない?」

 

 そこでアキは、へらりと表情を崩した。

 無防備なまでの笑顔で、レーンが抱いている黒猫を見つめる。

 

「よーし、今日から君は『秋』だよ。よろしくね、秋」

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 アキが言うには、ネコの名前の『秋』は日本の漢字で『秋』らしい。

 響きは同じでも、拘りがあるのだと聞いた。

 

「秋という字はね、日本では季節の秋を示しているんだよ。日本のね、とってもいい季節なんだ。夏の暑さは和らいで過ごしやすいし、山は紅葉や銀杏が赤とか黄色に色づいて、すごく綺麗なんだよ。

 お米や果物が沢山実る季節だし、夜が長くなってくるから、星や月が見やすくなる。雨は比較的多いけど、晴れた秋の空は高く澄み渡ってて、清々しいんだよ」

 

 アキは楽しそうにそう言うと、柔らかく笑った。まるで実際に、日本の秋を体感していたような口ぶりだ。

 ふうん、ととりあえず頷いておく。

 

 アリスが拾ってきた子猫、『秋』は、あっという間に寮中で話題になった。

『あの』アリス・フィスナーが拾ってきた、というのと、最近はペットはふくろうが主流であり、猫、しかも黒猫は珍しいからだ。

 あと一部では『アリス・フィスナーがアキ・ポッターの名前を猫につけたらしい』ということも密かに囁かれているそうだ。確かに事実だが、何となく脚色込みで語られている気がするのは自分だけだろうか。

 

 黒猫の怪我は、一週間もせずに完治した。怪我が治るまではアリスのベッド脇で、クッションとブランケット(両方ともアキのものだ。アキがそうすると言って聞かなかった)に包まれて眠っているか、誰かに抱き上げられているかのどちらかだった秋も、怪我が治ってからは寮内を歩き回って遊んでいる。

 色んな人に愛想良く擦り寄り遊んでもらっている姿など、本当にアキそっくりだ。

 昼間はそうやって好きな場所へと放してやり、夜は寝室に連れ帰って眠るのがアリスの日課になった。

 

 そんな折。

 

「……フィスナー、アキ。私も猫が見たい」

 

 いつも意志を見せない灰色の目は、今日はいつも以上にキラキラと輝いている。

 普段無表情のアクアマリン・ベルフェゴールは、しかし今日ばかりは期待に頬が緩んでいた。

 

「アクア! うんっ、アクアなら大歓迎だよっ!!」

 

 アクアに心底惚れているアキは、ほぼ即答でOKを出す。

 今にも飛び跳ねそうなほどに満面の笑みを浮かべるアキと対照的に、アリスははぁ、とため息をついた。アキは秋に触れないから、秋を連れてくるのはアリスの役目なのだ。

 スリザリンであるアクアを寮の中に入れちゃあ、流石に先輩から色々言われるだろう。

 

 お願い、とばかりに、アキとアクアはアリスを見上げた。

 この二人の『お願い』に、自分は本当に弱い。

 

「……あー、もう、分かった、分かったから。先に中庭行っとけ、後から秋連れてくる」

「……秋?」

 

 アクアが首を傾げた。

 

「子猫の名前だよ! アリスが名付けたんだーもう、ホンットアリスってばぼくのことが大好きなんだから」

「一体どの口がそんなことを言ってるんだろうな……?」

「い、いひゃいいひゃい! ごふぇんアリス!」

 

 アキの口を掴み軽く捻ると、アキが謝ってくる。

 手を離すと「うー……」と唇を擦っていた。きっと赤くなっていることだろう。ザマミロ。

 

 先行ってろ、とアキの背中を押すと、レイブンクロー寮へと向かった。

 談話室で女子の先輩二人に構われている秋を見つけ、すんません、と断り秋を抱き上げる。そのまま立ち去ろうとしたが、彼女らに呼び止められた。

 無視するのも感じが悪いので、足を止める。

 

「…………っ!?」

 

 振り返った瞬間、目の前を光が覆った。

 カメラのフラッシュを焚かれたのだと、遅れて気付く。

 

「アリスくん、可愛い!」

 

 そう言って見せられた写真には、何てことはなく普段鏡で見ているのとおんなじ仏頂面した自分と秋がいて、相変わらず女子の『可愛い』は訳わかんねぇな、と思いながらも「……はぁ」と適当に頷いた。

 

 中庭へ向かうと、アキとアクアは仲良さげに肩を寄せ合い、何やらお喋りに興じているようだった。

 アキのアクアに対する想いを、アリスはこの上なくよく知っている。一体何度奴の惚気話に付き合ってあげたことか……。また、アクアがアキに抱く想いもまた、段々と変わってきたようだ。雰囲気が柔らかくなり、今までよりも格段に、笑顔を見せるようになった。

 なんとなく、ではあるが、この二人には幸せになってもらいたい、とぼんやり思う。

 

 二人のいい雰囲気を壊したくなくて、僅かばかり時間を潰した後、アリスはアキとアクアと合流した。

 

「…………」

 

 この上なく幸せそうな表情で秋を撫でるアクアに、普段無表情なこいつもこんなに年相応な笑顔が出来るのか、とアリスは驚いた。

 そして、そんなアクアと秋を、心底幸せそうに見つめるアキにも。もっとも、彼は年齢以上に感情表現が多彩だが。

 

「……アキも、触らないの?」

「いやっ、ぼくは……触れ、ないから」

 

 そう断りを入れたアキだったが、秋はスルンとアクアの腕から抜けると、あ、と思う間もなく、アキの足元に擦り寄り、丸くなる。

 アキは呆然と口を開けて、その様子を見ていた。

 

「……秋」

 

 手を伸ばし、アキが黒猫に触れる。

 黒猫はピクリと耳を動かしたが、されるがままになっていた。

 

 アキの瞳が、僅かに揺らぐ。

 眉を寄せたまま、アキは秋の頭を撫でていた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

「――誰?」

 

 家に帰って来た幣原秋は、部屋の中から聞こえてきた物音に鋭い声を発した。

 それが黒い子猫の小さな鈴の音だと分かると、ふ、と安心したように肩を落とす。

 

「……なんだ、まだいたの」

 

 秋の声に応えるように、駆け寄ってきた黒猫が小さく鳴いた。

 

「変なやつ。普通は、ぼくを怖がるもんなんだぞ。ぼくの魔力、痛くないの?」

 

 小さく微笑んで、電気を点けた。

 奥へと向かう秋に、黒猫が付き従うように着いてくる。

 

 魔法省から徒歩三十秒の、魔法法執行部の独身寮。幣原秋がそこで暮らし始めて、もう三年が経つ。

 かつては一杯だったこの寮も、今や両隣、上の階の住民もいなくなりガラガラだ。それが『黒衣の天才』幣原秋を忌んでのものであることを、秋はよく理解していた。

 むしろ、ぼくが引っ越すべきなのだろう。

 そうは思うが、膨大な仕事量で中々荷造りする暇も出来ないし、何より魔法省から徒歩三十秒という素晴らしい立地に、申し訳ないとは思いつつもなかなか引っ越せずにいる。

 

 この黒猫は、たまたま開け放していた窓からスルリと忍び込んできた猫だった。

 敵からの監視かとも思って調べたが、どうもそういう類のものではなく、本当に純粋に迷い込んできただけのようだった。

 首輪をしているから、誰かの飼い猫なのかもしれない。もしくは、誰かの飼い猫『だった』のか。この寮で、猫を飼っている人もいた、気もする。

 

 闇祓いの制服と手袋を脱ぐと、ほぅ、と秋は人心地ついた。

 ソファに身を沈めると、ふとぼうっとした目で遠くを見つめる。両手の指を無意識に合わせた。

 

「あっ、ごめんごめん」

 

 黒猫の催促するような鳴き声に、秋は我に返った。

 慌てて立ち上がると、「水と、ご飯だね。忘れてた。生き物を飼ったことがないもんで……」と、誰が聞いている訳でもないのに、言い訳めいた口調で呟く。

 

「……飼ってる訳じゃ、ないんだけど」

 

 迷い込んできたのだ。

 自分の内側に入れないという線引きは、しっかりとしている。

 

 だから、この黒猫が住み着いてそろそろ一ヶ月が経とうとしているが、未だに名前をつけないのは、そんな理由からだった。

 

 不規則な帰宅。任務で数日家を開けることもザラにある。

 いつでも外に出ていけるよう、入ってきた窓はいつも開け放したまま。

 なのに、どうしてか出ていこうとしないのだ。

 

「変なやつだね、本当に」

 

 足元に纏わり付いていた黒猫が、ふと伸び上がって窓枠に飛び乗った。

 その姿を目で追って、窓枠に数枚の手紙が置いてあることに気付く。その中の一枚、メッセージカードを手に取って、秋は目を瞬かせた。

 

「そうか、ハロウィーンか……」

 

 日付の感覚も、失っていた。気付けば口元が緩んでいた。

 張り詰めていたものが、ふ、と緩む。

 

「……ジェームズとリリーの家で、ハロウィーンパーティをするんだって。お前、行って来なよ、ぼくの代わりにさ」

 

 カードには、ハロウィーンパーティのお誘いの文言の他、ジェームズとリリーの手書きの文字で一言、メッセージが添えられていた。

 

『顔だけでも見せに来てくれ。ハリーも随分大きくなったんだよ』

『久しぶりに、秋に会いたいなぁ。あなたへの誕生日プレゼント、まだ渡せてないもの』

 

「……なかなか、ねぇ」

 

 生憎と、明日も仕事が入っている。

 闇祓いになって三年、『不死鳥の騎士団』も兼業しているせいか、まともな休暇なんて月に一度あるかないかだ。

 シリウスやリーマス、ピーターとも、『不死鳥の騎士団』の会議でしか会っていない。ジェームズとリリーとなると、尚更。

 記憶の中のハリーは、未だ寝返りも打てない赤ん坊だった。

 

 残念の意を込め、返事を書き、送る。

 しばらく窓から夜空を見上げ、ぼうっと佇んでいた秋だったが、再び黒猫に鳴かれて意識を引き戻した。

 

「ごめん、ごめんって」

 

 猫用の缶詰と水を用意してやると、黒猫は頭を突っ込んで食べ出した。

 秋はしばらく、そんな黒猫の様子を目を細めて見つめていたが、やがて手を伸ばすと、黒猫の頭を撫でた。

 ピクン、と黒猫は耳を動かし、探るような瞳を秋に向けたが、後ずさることはしなかった。

 

「お前、鈍いんだなぁ。そんなんじゃ、野生で生きていけないぞ?」

 

 そう言って、小さく秋は笑った。

 久しぶりに、笑えた気がした。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 黒猫にとって、この部屋は居心地がよかった。

 ここの家主、幣原秋は、「こんなところにいないで、早く外に出ていきなよ」と言うが、屋根もあり、暖かで、おまけに秋の世話は案外細やかだった。

 数日間食事にありつけない生活は慣れていたし、おまけに季節は、これから冬へと向かおうとしている。

 黒猫が厭うことと言えば、秋が度々風呂に突っ込もうとすることくらいだった。

 この家主は、病的なほどに綺麗好きで、黒猫が汚れまみれなのが許せないようだ。『飼っていない』と主張する癖に、妙なところで気に掛けている。

『変なやつ』と秋はよく黒猫に言うが、黒猫こそ、秋に『変なやつ』と物申したい。通じるのであれば、の話だが。

 

 真っ暗な部屋で、ソファに丸まっていた黒猫だったが、ドアが開いた音に頭を上げた。家主が、幣原秋が帰ってきたのか。

 五回、朝と夜を繰り返した気がする。普段からよく家を空けていたが、ここまでの長期間は、黒猫にとっては初めてだった。

 

 とてとて、と短い廊下を歩く。

 迎えた家主は、家に足を踏み入れドアを閉めたところで、ぐったりとへたり込んでいた。

 

 どうしたのか、具合でも悪いのだろうか。黒猫はひと鳴きして近付くと、秋は俯いていた顔を上げた。

 黒い瞳が、緩慢に黒猫へと向く。

 悲しみと疲れと憎しみと苦しみと、全ての負の感情をいっしょくたにしたような、光すらも吸い込んでしまうような瞳だった。

 

 ピリピリと、肌を灼く感覚。なぜだかこの人間の近くに行くと、妙な感覚が身を包むのだ。

 それでも黒猫は、この人間に身を寄せずにはいられなかった。

 

 ひとりぼっちなこの人間が、ひどく、かわいそうに思ったから。

 

「……、う」

 

 秋は目を細めると、震える手で黒猫を抱き上げた。

 そして胸に抱え込むと、ぎゅっと抱きしめる。

 

 触れられたところが、全身が、痛くて堪らない。秋の手袋越しであるというのに、この痛さは尋常じゃない。

 秋の左手が、強く右の前足を掴んでいる。ジリジリと焼け焦げるように痛んだが、震えるその手を振り払うことは、黒猫には出来なかった。

 

 今、この人間から離れてはいけないと、寄り添ってあげなくてはならないと、理解していた。

 

「ごめんね、痛いだろうね、ごめんね……っ」

 

 そう言いながら、秋は震える息を零した。背中に、熱い雫が落ちる。

 一滴ぽたりと落ちた後は、すぐだった。雨と同じだ。

 

「リリー……ジェームズ……っ、ピーター……シリウス……っ、う、っく……ごめん、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 更に強く抱かれ、黒猫は、小さく鳴いた。

 

「あの日、行けばよかったんだ。仕事なんて大したものじゃなかった、それなのに、あぁ、ぼくはまた……っ、あぁ、間違えて、しまった……どうして、行かなかったんだ……っ、……リリー……まも、れ、なかった……ぁ、ぐ、うぅ……っ」

 

 誰にも聞かれていないのに、秋は泣き声を噛み殺す。

 ここには、一人と一匹しか、いないのに。

 

 そうか、と黒猫は思い至った。

 自分がいるから、この人間は泣けないのかもしれない。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 気を失うように、眠っていた。

 気がつくと、既に昼間だった。黒猫を抱きしめて、泣いたまま眠ってしまっていたのだ。靴も、闇祓いの制服も脱がずに。

 幼子のようで、いつまでも大人になり切れない自分に、うんざりする。

 

 目が覚めても、現実は変わらない。

 夢であったらと何度も願った最悪な現実は、今もなお、ここにある。

 

「…………」

 

 幣原秋は立ち上がった。身体が軋む。変な体勢で眠ってしまったからに違いない。それだけ、疲労が溜まっていたのか。

 直轄の上司、エリス・レインウォーターに無理矢理あそこで仕事を取り上げられていなかったら、と思うと、ゾッとする。

 

 ふと、気付いた。

 黒猫が、いない。

 

「……あれ?」

 

 おーい、と呼びながらも、部屋を見渡した。リビング、台所、寝室、バスタブ、トイレ。

 こういうとき、名前をつけていないと不便だな、と思い知る。

 

 ふと、思い至った。

 

「……いなくなった、のか」

 

 ふ、と肩の力が抜けた。

 

 とっとと出ていけと、いつも言っていた。

 それがたまたま、今日になった、それだけの話だ。

 

「…………」

 

 ここ一月ほど開け放していた窓に、手を掛けた。

 閉じると、部屋に吹き込む風が止む。

 

「……全部、ぼくの前からなくなっちゃうんだ」

 

 俯いて、呟いた。

 

「……ならもう、何も持たなかったら、いいのかな」

 

 ふと、窓枠に置きっ放しになっていたカードに、目が止まった。

 息が止まる。震える指で、それを拾い上げた。

 

「……あぁ……」

 

 思う存分、泣いたはずなのに。

 どうして、まだ涙が零れるのだろう。

 

 脳裏に鮮やかに浮かぶ、二人の親友の姿。

 

「リリー……ジェームズ……っ、あ、ああぁ……」

 

 座り込むと、身体を折り曲げ、秋は一人、嗚咽を漏らした。

 

 涼やかな鈴の音は、聞こえない。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 ホグワーツ、レイブンクロー寮の男子生徒寝室。

 部屋の片隅で、クッションとブランケットに包まれ眠る黒猫を起こしたのは、一人の少年の控えめな足音と、毛並みを揺らす風と、肌を刺す痛みだった。

 

「ごめんね」

 

 密やかな声。ブランケット越しに抱き上げられた。

 素手でないにしても、それでも感じる痛みに、小さく鳴き声を上げる。

 

「ごめん」

 

 再び、そんな声が落とされた。

 

 黒猫を抱き上げた少年は、寝室を出た。

 階段を降り、そしてもう一枚、扉を潜り抜ける。

 

 大きな窓から、月明かりが差し込む廊下を、少年は歩く。

 

「……不思議な場所だ、ホグワーツは」

 

 呟く声に、黒猫は顔を上げた。

 黒猫の微かな記憶、それより幼い顔をした少年は、微笑みを浮かべ、黒猫の金色の瞳を見返した。

 

「魔力を上手く制御出来ない子供が集まるホグワーツは、色んなものを近寄らせる。良からぬものも、そうでないものも。……そんなに、ぼくに会いたかったの?」

 

 会いたかった? 

 そうなのかもしれない。

 聞きたいことがあったから。

 

 君は、思う存分、泣けた? 

 

「……君の言葉が分かればいいのに。ライ先輩なら、動物の気持ちも分かるのかなぁ。……いや、日本語と同じか。言葉が分からないんじゃ、雑音と一緒だ」

 

 黒猫の意志は、残念ながらこの少年には全く伝わっていないようだ。

 

 ――でも、まぁ。

 そんな柔らかな笑顔を見ることが出来ただけでも、いいとしよう。

 

 この少年は、泣いている姿より、笑っている姿の方が似合うのだから。

 

「せめて一番高い場所で、送ってあげよう」

 

 月が、大きい。空が、広い。

 黒猫は思わず、目を見張った。

 

 少年が地面に腰掛けた。抱えていた黒猫を、傍らに下ろす。

 ブランケット越しに、黒猫を優しく撫でた。

 

「実体とゴーストの間を彷徨う君。ぼくと同じ名前を持つ君に、とっておきの呪文があるんだ」

 

 撫でる手は、変わらず暖かだった。

 

「長いから、聞いているうちに、きっと眠ってしまえるだろう」

 

 そう言った少年の唇から、不思議な言葉が漏れる。

 僅かに旋律を伴うそれを聞きながら、黒猫は静かに目を閉じた。

 

 風が、静かに吹きすさぶ。少年の言葉を乗せ、空へと運んでいく。

 

 呪文が終わり、少年は口を閉じた。

 風が、少年の長い黒髪を遊ばせる。

 しばらく少年は、大きな月と真っ暗な夜空を眺めていた。

 

 やがて、傍らのブランケットを手に取ると、立ち上がる。

 その場から立ち去ろうとした少年の背後で、チリン、と涼やかな鈴の音が鳴った。

 

 少年は振り返る。

 そして、静かに微笑んだ。

 

「バイバイ、秋」

魔法連載主人公、どちらが好き?

  • 親世代主人公(幣原秋)
  • 子世代主人公(アキ・ポッター)
  • その他(イチオシの子がいましたら……)
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