【完結】空の記憶   作:西条

233 / 295
 短編 梓視点 直兄の話(上)

 ――魔法処、四月。

 

 薄水色の空は高く澄み切る大安のこの佳き日、しかし場の空気は不穏なざわめきに満ちていた。幣原梓は母に手を握られたまま、黒の瞳を見開いて、七つになる兄の姿をじいと見る。壇上でこの場全員の注目を集めている張本人である梓の兄、幣原直は、初めは驚いたように背中を強張らせていたが、やがて力なく肩を落とした。

 梓の頭上で、言葉が忙しなく飛び交う。

 

『幣原の小倅が』

『これで当代は安泰か』

『――否、彼は』

『彼が次代当主であれば全てがまあるく収まったのに』

『本当の当主はその従兄弟』

『――嗚呼、それはかあいそうだ』

 

 魔法処、入学の儀。新入生の肩に黒の衣を着せかける儀式。その裏地が、鮮やかな桜色に『通常は』染まる筈であるというのに――幣原直の細い肩に乗せられたそれだけは、他と一線を画す色合い――純然たる『金色』を示していた。

 

 梓の手を握る母の指に、力が篭る。小さな梓の手を折らんばかりのその力に、梓は兄から目を離すと母親を見上げた。

 母は、梓のことなど気にも留めず、梓のことなど眼中にないという瞳で、唯。

 

 直を見て、嗤っていた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 幣原直は、幣原梓の三つ上の兄である。二人の男兄弟として、直と梓は育てられた。

 幼い頃、魔法処に入学するより以前から、直はすこぶる才があると親族からも評判であった。難解な術書を絵本のように読み解き、幣原の血筋に数代に一人発現する『予知夢者』の能力も得ている。次期当主としての資質は余すほどに持ち合わせていた――本物の次期当主よりも。

 直より二つほど歳上で、直や梓の従兄弟に当たるその彼が、一切の才覚にも恵まれなかったということは、ない。しかし、なけなしの才能を無自覚で踏み躙ってしまうほどに、幣原直は誰の目にも明らかに『才能ある者』であった。

 梓は、そんな直と従兄弟、そして腹に一物ある親族らを見て、育った。

 

 直は、弟の梓に対しては、優しかった。勝手に屋敷を出ることは許されてはいなかったが、時折悪戯っぽく「内緒だからね」と微笑んでは、梓の手を掴みひらりと屋敷を抜け出して、色々なところに連れて行ってくれた。海も、花火も、夏祭りも。魔術の才を持たぬ人との交流も、全て直が教えてくれた。直に、教えている自覚はなかっただろう。ただ『遊び』に弟を付き合わせていただけだ。それでも梓は、直が構ってくれることが、とても嬉しかった。

 

 父は、当代幣原家当主の弟だった。次男ということが、きっとあの人を苦しめていた。矜持が高い人だったから。そう、梓は回想する。

 兄よりも当主に相応しいのは自分だと、酒が入るといつも熱弁を奮っていた。時折、ゾッとするほど冷たい目を子供に向ける人だった。愛情の欠片もない、家具を見るような瞳。その瞳が兄に注がれるたびに、梓の身が震えた。止めてくれ。あなたの子供は、僕の兄は、あなたの自尊心を満たすための道具ではないのに。

 

「……直、兄」

 

 梓の声に、直は顔を上げた。座敷から少し離れた縁側で、本日の主役であるはずの直は、一人ぼんやりと夜風に吹かれていた。四月の夜風は、まだ肌寒い。というのに直は、随分と薄着であった。

 

「かぜ、ひいちゃうよ」

 

 梓が差し出した羽織を、直は受け取らなかった。軽く身じろぎをして「いらない」と言うと、梓から目を離し、そのまま空を見上げる。

 少し躊躇って、それでも兄の細い肩に上着を羽織らせた。そしてその隣に腰掛けると、同じように空を見上げる。屋敷の屋根瓦と、屋敷林に囲まれて、広々と続いているだろう空は狭く小さい。少し放れた座敷からは、まだ華やかな笑い声が漏れ聞こえてくる。

 

「……梓、お前だけでも」

 

 ふと、直は呟いた。名前を呼ばれた梓は、目を瞬かせて兄を見遣る。闇夜に融ける黒髪と、ぼんやりと光る白い肌。その唇が言葉を紡ぐ。

 

「お前だけでも、この家から出してあげられたらなぁ」

 

 ――それは僕の台詞だよ、直兄。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

「お兄様に勝ち目はもう、ないでしょうね」

 

 幣原凛は、大人びた眼差しでそう言った。「そうかなぁ」とぽやっと呟く梓に対し「どうして分からないの、梓さん」と睨む。その目を受けて「そうかもなぁ」と言い直した。

 

 直が魔法処に入学して、三年。梓の時は、何の波乱もなく入学の儀が終わった。十に差した兄の評判は目覚ましく、きっと誰もが、幣原直に期待していた。

 梓と同い年の幣原凛は、次期当主である従兄弟の妹である。梓にとって凛も従姉妹である筈なのだが、その実感は薄かった。

 

「もう、どうしてあなたはそうふらふらと生きていられるの。直お兄様のことは興味ないの、心配ではないの」

「興味もあるし直兄のことは好きだけど、心配はしてないかなぁ」

 

 呆れた、とばかりに凛は額を押さえると「凛はあなたのことが心配です」とため息を吐いた。それでも、梓の言葉は嘘偽りない本心だ。

 

「だって僕が心配したところで、直兄にもあの従兄弟にも、何の益もないんだよ。直兄は、勝手にどうにかするだろう。褒められたり疎まれたりして大変だなぁ直兄も、とは思うけど」

 

 幣原直の登場で、今まで燻っていた火種が燃え広がったと言うべきか。本家直系の従兄弟を擁する派閥と、直を推す分家衆の派閥。大人たちの策謀渦巻く様を見て、物思わぬ子供らではない。

 

「従兄弟に勝ち目なんて初めからなかったんだよ。勝負にすらなっていない、あんなの従兄弟の独り相撲さ。直兄は、従兄弟のことなんて眼中にすらないよ。君のお兄さんも可哀想にねぇ」

 

 梓のその言葉に、凛は一瞬燃える光を瞳に浮かべたが、すぐさまその光は鎮火した。

 

「……そうね。お兄様はかわいそうな人。いくら張り合ったところで、直様が兄を好敵手だと見做すことは決してないのに。哀れで、酷く――かわいそう。……でも、梓さん」

 

 歯痒い顔で、凛は言った。

 

「お兄様は確かに小者ですが、兄を推すお父様のことだけは、決して侮らないでくださいね」

 

 嫌な予感がするのです、そう言う凛に、軽く返した。

 

「そんなことを言ったところで――僕に出来ることなんて、何一つないんだよ」

 

 ――凛の真意を、梓が知ることになったのは、それからおよそ一年と少し経った、夏の日のことだった。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 その日は、ひぐらしが鳴いていた。梅雨が明けてそう間もない、七月の話だ。

 魔法処から屋敷に帰ってきた直を、母がいつになく強張った顔で呼び止める。梓は「遊んでらっしゃい」と言外に近付くことを禁じられたが、それでもなんだか気になった。

 

 兄とは部屋を同じくする。手先が器用で発明家気質の兄は、気が向くと様々なものを作っていた。その中に確か、気取られることなく盗聴に使えそうなものもあった筈だ――兄はそのつもりで作った訳ではないのだろうが。まぁ何事も、悪用しようと思えば何だって出来るのだ。

 部屋からそれを持ち出すと、床下に潜り込む。座敷の真下まで迷いのない足取りで進むと、地面に背をつけ寝転がった。床下からマイクを当てると、耳を澄ませる。まもなく、父の声が聞こえてきた。低い、感情の機微を感じさせない無機質な声だ。

 

『……来たか直。座りなさい』

『……はい』

 

 父に応える、兄の小さな声。子供の軽い足音と衣擦れの音。微かに拾うざわめきは、この場に両親と兄以外がいることを如実に示している。

 

『こんにちは、直。元気かな?』

 

 それは聞き慣れぬ声ではあったが、決して聞き覚えのない声ではなかった。見えぬ場所であるにも関わらず、梓は一瞬身を強張らせ、そして密かに息を吐いた。梓にとって伯父にあたる男――現在幣原家当主にあたる男の、声だった。

 

『――お陰様で』

『それは重畳。君の噂は聞いているよ、直。君の伯父としても誇り高いことだ。お父上もさぞかし満足していることだろう』

『――兄上。直を呼びつけて、話と言うのは一体何なのですか』

 

 父の声。その上から、窘めるように柔らかな、それでいて感情の読まさぬ声が被さった。

 

『まぁそう話を急くものではないよ、薫。可愛い甥っ子と話をしたいという気持ちが、君には解らない?』

 

 その言葉に、父は黙り込む。

 

『でもまぁ、薫の言葉も尤もなものだ――幣原本家当主も、暇な役職じゃないからね。『魔法処』理事というのも、なかなかどうして面倒な仕事だ』

 

 その言葉で父が殺気立ったことは、姿が見えない梓にも容易に想像出来た。本家当主の席を、喉から手が出るほどに欲しがっていた父なのだ。梓にも判ったことを、本家当主である伯父が判らない筈もない。いや、全てを判った上で、伯父はわざとそんな挑発的な言葉を吐いているのか。

 

『兄上』

『今にも人を殺しそうな目で見ないでよ、薫。悪かったよ、本題に入ろう。――直の話だ。我が『魔法処』で最優秀の生徒にね、一ついい知らせを持ってきた。きっと、薫も気に入ることだろう』

『……何ですか』

『なぁに、身構えることはない。簡単なことさ――交換留学、という言葉くらいは知っている?』

 

 ざわり、上で空気が揺らぐ。荒れる空気に一切構うことなく、伯父は楽しげな口調で言い放った。

 

『幣原直。この九月から英国魔法界随一の魔法学校『ホグワーツ』に行け』

 

 ――それは、命令し慣れている人間の声だった。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 直が日本からいなくなっても、梓の月日は何も変わらずに過ぎて行く。直のように飛び抜けて優秀とは決して言えないまでも、とんでもなく落ちこぼれることもなく、ただふらふらと梓は『魔法処』で生きていった。

 兄について、時折上級生やらに尋ねられることがある。その時も梓はのらりくらりと躱し続け、年月が経ち人々の記憶が薄れるごとに、それもどんどんと減っていった。

 

 それでも梓は、直を忘れることは決してない。梓だけではない、幣原姓を持つ者にとって幣原直は、たとえ遠い異国の地に追いやったところで、記憶までもやすやすと追いやれる存在ではなかった。次期当主である従兄弟は、この隙に追いつけ追い抜けと発破を掛けられていたが、その努力はむしろ空回りしているのではないかと梓の目には映った。だからと言って、それを忠告してあげる気にはならない。下手にそんなことを言及すれば、絞め殺されかねない。そんな危うさと狂気を、従兄弟は秘めるようになってきた。

 

 一年に一度、夏の長期休みに帰ってくる兄と会うことが、いつしか唯一の楽しみとなった。本家に足を踏み入れ、当主である伯父の前で淡々と一年の成果を報告する直。誇りを滲ませる父母と、鋭い瞳で直を見据える伯父。殺意と敵意を隠しもせずに直を睨みつける従兄弟。従兄弟の妹である凛は、いつも目を伏せ身を小さくさせていた。禍々しいものが満ち満ちた、大人たちの思惑が絡み合った、揮発性の爆薬が漂う、なんとも息苦しい場であった。

 

 涼しい筈の座敷を離れ、真夏の日差しの下に出た兄は、解放されたとばかりに息を吐く。直と共に川べりを歩く夕暮れの時間が、梓はいっとう好きだった。直がどう感じていたかは定かではないが、恐らく嫌われてはいなかっただろう。無邪気な好意を寄せる、害のない弟。きっとそう、思われていたはずだ。

 

「直兄、元気にしている?」

「あぁ、うん……まずまず。っはは、それにしてもまぁ、言語の問題がね……と言っても、梓には関係ないかも。わざわざ『外』に出る必要もないし……日本は随分と保守的だ」

「ふうん……外から見たら、そう見えるんだ」

 

 見えるよ、と呟いた直の瞳は、幣原家の未来をきっと捉えていた。幣原の行く末を危ぶむ目だった。危ぶみながらも、決して忠告などしてやるものかと――崖縁に立っていることに気付かぬ愚か者を、憐れむ瞳だった。

 

 幣原家も、日本魔法界も、全て無くなってしまえばいい。

 そんな思いを孕んだ、眼差しだった。

 

 祭り囃子の音に気が付いたのは、直と梓、ほぼ同時だった。そうか、そう言えば、と、実家の予定表を思い返してふと思う。幣原と同じ程に日本魔法界で有力な家系、日本の神社を束ねる一条の家が主催するお祭りが、確か今日だった。直もその発想にやすやすと辿り着いたのだろう、通りに貼られた和紙の家紋を見て「一条か」と小さく呟いた。

 

「直兄、見て行く?」

「……そうだね、少しくらいはいいだろう」

 

 神社へと続く、長い石造りの階段を、ずっと上る。両側には灯篭が、ぼんやりと灯を揺らしていた。夜の帳が降り切ると、もっと明るくなるのだろう。

 

「おや、幣原んとこの直くん、帰ってきてたのか」

「五行の和泉さん、お久しぶりです」

「やあ、直くん、ご無沙汰だね」

「どうも、三ノ宮さん」

 

 道行く人が兄に目を留め、兄も律儀にそれぞれに返して行く。この兄は意外と記憶力が良く、その辺りも大人達に気に入られる要因の一つだった。梓には決して真似出来ない。興味のないことを覚えておくのは、梓が最も苦手とすることだった。

 階段を上り切り、最後、ひときわ大きい鳥居をくぐると視界が開けた。笛と太鼓の音は、奥の神楽殿から聞こえてくる。鳥居から横拝殿までの間には、ずらりと屋台が立ち並んでいた。日本魔法界とは関わりのないであろう、一般人の姿も数多い。雪洞(ぼんぼり)と行燈が、黄昏の時を静かに照らしていた。

 

「迷子になるなよ、梓」

「ならないよ、もう子供じゃないもの」

「どうだか。お前はすぐに何処か行くって、凛が嘆いていた。……ほら、手。握っておいてやるから、出して」

 

 しぶしぶ出した手を、直は掴む。その手は小さく薄く、それでいて梓よりは一回り大きい。

 

 ――直兄がいるのに、迷子になんてなる訳がないじゃないか。

 

 判ってないなぁ、そう内心で呟くと、ほんの少しだけ笑った。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 日が落ち切ってからが、祭りの本番だ。紐で頭上に結わえられた提灯が、橙色を灯している。

 これから奉納される神楽に、人の流れが変わった。直も興味を惹かれた顔つきで、神楽殿のある方角に目を遣っている。「行く?」と促すと、直も僅かに目を細めて「そうだね……行こうか」と柔らかに微笑んだ。その表情が、背後から掛けられた冷たい声に凍りつく。

 

「直」

 

 凍りついた直の表情が、やがて無表情に融けた。ゆっくりと振り返った直は、その顔に笑みを湛えてはいたが、しかし視線は鋭い。

 

「――おや、来られていたのですか、律様」

 

 直と梓の従兄弟に当たる男が、幣原本家当主の血を継ぐ男が、立っていた。その隣には、俯き居心地悪そうに佇む凛の姿。外面だけでも穏やかな笑みの直とは対照的に、従兄弟はにこりともしない。瞳に映るのはただ、誤魔化しようのない敵意のみ。

 歩みを止めた梓らを、人々は邪魔そうに迂回して行くが、何人かはハッとしたように、あるいは面白がって、不躾な視線を向けては歩き去って行く。

 

「何か御用でしょうか」

「……御用か、と? 用が無かったら従兄弟に声も掛けてはいけないというのか?」

「いえ、そういう意味では」

 

 直が、どうこの場を無難に切り抜けようか頭を回していることは、梓にも判った。笛の音が、神楽舞が始まったことを知らせている。腹の底に響く太鼓の音も、梓の耳にはどこか遠い。

 

「そっちはどうだ」

「……お陰様で、楽しいですよ、本当。こんなとこ、帰って来たくない程に」

 

 従兄弟の瞳が静かに細まる。引くことなく、直はじっと従兄弟を見返した。

 

「どうして、お前なんかが」

「――さぁ。それが」

 

 薄っすらと直は笑うと、躊躇いもなく残酷な一言を叩きつけた。

 

「『才能』ってやつの違いなんじゃあないですか? 僕にはよく判りませんがね」

 

 直は従兄弟から目を切ると、踵を返した。梓の手を引き、従兄弟に背を向け、歩き出す。

 梓が振り返ると、そこには燃える瞳で直を睨む従兄弟がいた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

「……ねぇ、梓」

 

 直の声に、梓は課題の手を止め振り返った。梓の両肩に手を乗せた直は、梓の頭越しに文机の上の書物を一目見ると「お前、黄道座標と銀河座標間違えてるぞ」と軽い口調で指摘する。

 

「あぁ、成る程。道理で計算が合わないと思った」

「そういうミスは変わらずだなぁ。どれ、見せてみろ」

「十一で魔法処を辞めた直兄に、果たしてこの高度な課題が理解出来るかどうか」

「かつての魔法処切っての神童を舐めるなよ。僕にばかりとんでもないレベルの課題を押し付けてきて、理事の職権乱用だよ」

「生徒のレベルに合わせた教育を、っていう意味じゃ、最適な教育者だったのかもしれないね……っと、僕に何か用だった?」

 

 梓の問いかけに、直は「あっ、そうそう、忘れてた」と軽い調子で呟いた。梓の肩から両手を離すと、少し言い淀むように髪を掻く。

 

「どうしたの」

「……いや、その。あのさ、梓」

「どうしたの、改まって」

「……僕がもし、ここから逃げたら、お前、どう思う?」

 

 梓は黙って直を見つめた。直はしばらく梓の目を見て堪えていたが、やがて「……ごめん、もう無理」と目を逸らす。梓は淡々と呟いた。

 

「僕個人としては、直兄には是非ともこんなところから逃げて欲しいけどね」

「……本当に? 本当にそう思っているのか?」

「僕は僕の利になる嘘しか吐かないよ。直兄こそ、よく知っているでしょ?」

「あぁ……そうだな。お前は変わらないから、僕はいつも安心するんだ……」

 

 直はそう言うと、小さく微笑んだ。

 

 ――当たり前でしょう、直兄。

 僕が直兄を裏切ることなんて、それこそ天地がひっくり返ってもあり得ない。

 

「急に、というか、やっと、というか。どうかしたの?」

 

 むしろもっと早く、その決断に至っても良かったのではないかと思う。まぁ、直はそういうところで我を通し切れない真面目なところがあるから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。

 もし、直が日本魔法界からも幣原家からも逃げたのなら。伯父がわざわざ遠い異国にあるホグワーツに直を留学させたのは、直のよすがを幣原家以外にも作らせるためだ。直が日本魔法界を『自ら』捨てる決心を固めさせるためだ。伯父の思惑に乗るのは癪だが、しかし幣原から逃げた方が、直はきっと幸せになれる。それなら、梓は手放しで応援しよう。

 

 たとえ会えなくなっても、直が幸せでいるのなら。

 梓にとって、それが一番のしあわせだ。

 

 直は照れたように頬を緩ませ、素朴な声で「内緒だよ」と言い、その一言を口にした。

 

「守りたい子が、出来たんだ」

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 現幣原家当主、幣原朔が齢五十を迎えるのは、現当主の息子である律が、十九になる頃だった。直が十七、梓が十五の時だ。

 幣原家は、当主の身に何かが起こらぬ限りは基本、五十で隠居が筋だ。当主継承の儀は、当主の生まれ月に合わせて冬に行うことにした。当主継承自体は、今までずっとゴタゴタしていたとは思えないほどにすんなりと進行する――筈だった。

 起こる筈のない番狂わせが起こってしまった。

 幣原直が、日本魔法界に帰ってきたのだ。

 傍に、身重の妻を従えて。

 

 幣原本家当主は、幣原直の帰還を受けて、次期当主を急遽変更。

 当主の冠は、幣原直の頭に載せられた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

「……あれだけ、嫌がっていたのに。どうして?」

「僕が望んだ訳じゃない……と言っても、結局選んだのは僕だから、その言葉に説得力はないんだけど」

 

 梓の問いかけに、直は小さく息を吐いた。かつて直と梓が使用していた部屋で、二人は向かい合っていた。部屋は、窃視、盗聴、物理的あるいは遠隔的な攻撃に対する防御障壁で、対魔法、対非魔法共に念入りに練り上げられている。現幣原家当主である幣原直が保証する、究極なまでに閉じられた空間だった。

 

「結局のところ、従兄弟には悪いことをした。従兄弟の律には、本当に……どれだけあの人の人生を捻じ曲げたのかを考えるとね、気が重たくなる」

「……自覚、あったんだ」

「そりゃあね。……ねぇ、梓。僕は一体どうすれば良かったんだろうね」

 

 直の言葉に、梓は静かに返した。

 直が望むであろう答えを。

 

「日本なんかに帰って来なければ良かった。幣原なんて継がなければ良かったのに」

 

 その言葉は、直が欲した答えであったにも関わらず――受け取った直は、酷く悲しげな顔をした。その変化に、らしくもなく動揺する。

 

「……そうだね」

「……両親には絶縁状を叩きつけたと聞いた」

「うん。アキナに対し刺客を放ったようでね、それで一気に今までの情や恩が冷めた」

「あぁ……そういうことか」

 

 それは親子の縁も切りたくなる。この兄が今までどれだけ振り回されてきたか、一番身近で見てきたのは梓なのだ。

 

「直兄の好きなようにするといいよ。奥さんと、子供と、三人で。幣原からも離れてさ」

「そうさせてもらうよ。……ところで梓。お前に一つ聞きたいことがある」

「何……っ!?」

 

 気がつけば、羽織の衿を掴まれ押し倒されていた。喉元に硬い木の感触。日本魔法界で生まれ育ち、きっと骨までも埋めるであろう梓が、決して持つことのない存在――杖。

 

「直、にい……?」

「……あの従兄弟をあそこまで狂わせたのは、お前だな」

 

 口調は断定的だったが、瞳は否定して欲しがっているように揺らいでいた。

 

「気付きたくもなかった。今でも信じられないよ。お前を、信じていたのに。……一体、どうして? どうしてそんなことをする必要があった? 答えろ……答えろ、幣原梓」

 

 小さく、直は頭を振る。前髪がさらりと揺れ、目元を覆い隠した。しかし下から覗き込む体勢にある梓にとって、伏せた直の表情は丸見えだ。奥歯を噛み締めた様子も、力なく顰められた眉も、手に取るように判る。

 梓は。

 

「……どうして? 直兄、今、どうしてって聞いたの?」

 

 自身の衿を掴む直の左手を掴み直した。彼の着物の衿を掴み、逆に引き寄せる。

 

「だって直兄、日本魔法界も幣原家も、何もかも嫌いじゃない。――だから」

 

 直の揺れる瞳を見ながら、梓はにい、と嗤った。

 

「お望み通り、壊してあげようかなって思っただけだよ」

 

 直の眼差しが、困惑から恐怖に、そして理解出来ないものを見るものに変わるのを。

 あぁ、仕方ないかな。そんな気持ちで、見つめていた。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 ――一番最初は、多分、あの時だ。

 直が、魔法処に入学した、あの時。直を見ながら嗤う母に、梓は言った。

 

『直兄を駒にしないで』。

 

 その言葉は、すぐさま父に伝わった。梓を呼び出した父は、あの無機質な瞳でこう言ったのだ。

 

『なら直の代わりに、お前が駒になるか?』

 

 梓は――それを了承した。

 梓が、四つの頃の話だ。

 直が決して知り得ない、過去である。

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

『かあいそうだねえ、律様』

 

 そんな言葉を背後から掛けられた従兄弟は、驚いて梓を振り返った。従兄弟の先ほどまでの視線の先には、金色の衣を無造作に纏う直の姿。従兄弟の、変わらぬ桜色の衣を見、笑った。

 

『お前――梓だな。何をしに来た』

『そんな目で見ないでくださいよう。僕はただ、律様に伝言を伝えに来ただけなんですから』

『――伝言?』

『はい』

 

 目を細め、梓は言葉を紡ぐ。

 呪いと狂気を織り交ぜて。

 

『ご当主の伯父様から、律様に。『直兄に負けたら承知しない』だそうです――』

 

 梓の言葉に、従兄弟の顔が紙色になる。五つ年上の従兄弟、律の、真っ黒な瞳を覗き込んで、梓は嗤った。

 

『がんばって、くださいね?』

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 追い詰められた従兄弟の心を後押しするのは、そう難しいことではない。一歩、また一歩。十三の階段を上り終えるのは、きっとすぐ。

 

「でもねぇ、直兄。あの従兄弟に止めを刺したのは、直兄だよ」

 

 それでも、まだ従兄弟の精神は堪えていた。たとえふらつきながらでも『次期当主』という肩書きに支えられていた。

 それなのに。

 

「直兄が、あの従兄弟の最後の支えまで奪ったんだ。無自覚の才能っていうのは、こわいものだねぇ」

「――お前、全部知っていたのか」

「全部が何処から何処までを指しているかは定かではないけど、うん、きっと知っていたよ。直兄が帰ってくることは、予想外だったけれど。伯父様が――『前』当主様が、既にあの痴れ者の従兄弟に見切りを付けていたことも。あの従兄弟の無意味な努力も、それを平然と踏み潰してしまう直兄の才能も、僕はきっと全てを知っていた」

 

 畳に背をつけたまま。

 梓は手を伸ばすと、直の右手中指に嵌まる指輪に触れた。直は顔を顰める。

 

「幣原のご当主様。ねぇ――どうして、帰って来てしまったの。ここに、あなたのしあわせはないよ。どうしてまた、縛られに来てしまったの」

 

 従兄弟を、想う。梓が壊し、直が止めを刺したあの従兄弟は今、死んだように日々を生きていた。あの虚ろな眼窩を、梓はきっと一生忘れない。

 

「――ぼく、は」

 

 梓の衿から、直の手が外れた。左手で顔を覆った直の薬指に、指輪は無い。

 

「直兄さえ、いなければ。こんな日本魔法界も、幣原も、全て壊してやれたのに。――どうして直兄、帰ってきてしまったの」

 

 従兄弟に見切りを付けた伯父が、直がいない状況下の幣原家で次に目を付けたのは、梓だった。そこまで、両親は読んでいた。『駒になれ』とは、そこまでの意も含んでいた。

 

「僕が当主であれたなら、直兄が嫌った幣原も、日本魔法界も、全て、壊してあげたのに」

 

 杖は既に、梓の首元から逸れていた。直の指に引っかかっただけの杖。

 ああ、どうして。どうしてこうなってしまったのだろう。

 

「ねぇ、教えてよ、直兄。――僕こそ一体、どうすれば良かったの」

魔法連載主人公、どちらが好き?

  • 親世代主人公(幣原秋)
  • 子世代主人公(アキ・ポッター)
  • その他(イチオシの子がいましたら……)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。