家族を、殺してしまおう。
そう決断してからは、早かった。ふ、と心が軽くなる。心の重荷を全て下ろしてしまったかのような開放感。そうか、俺は、俺のこの思いは、こんなにも重たいものだったのか。
杖だけを持ち、階を上がる。長期入院患者ばかりが集うヤヌス・シッキー病棟。すれ違う看護師は、誰もがこちらの姿を視認しては微笑みと会釈を寄越す。騒めきの中、彼女らの思考が浮かんでは消える。俺が今から何をするのか、何をしようとしているのか、勘づく人は誰一人としていない。
病室の前に立つと、ふう、と息を吐き出した。この六年間、数え切れないほど開閉を繰り返したドアは、何故だか今日ばかりは普段よりも重かった。
分厚いカーテンが引かれた室内は、昼の陽射しを遮り薄暗い。三床のベッドは、奥から母、妹、そして父の順に並んでいる。
後ろ手にドアを閉めると、廊下から差し込む光が途切れた。同時に喧騒も、どこか遠くに沈み込む。世界から切り離されたこの部屋で、思考するのは自分ひとり。
杖を抜いた。シーツの膨らみに杖先を向ける。何も、難しいことはない。杖に魔力を込め、ただ一言呟くのだ。――アバダ・ケダブラと。たったの一歩、法というもので引かれたラインの外に踏み出すだけ。簡単なことだ。それだけで、全てが終わる。今まで耐えていた全てを、ここで終わらせることが出来る。
躊躇うものなど一つもない。魔法使いの監獄、アズカバンへ行くことは怖くない――最も、今現在アズカバンが機能しているかは怪しいものだが。であれば、その時はその時だ。望むべくは、介錯は親愛なる友人、エリス・レインウォーターにお願いしたいものだが……そう多くは望めまい。
俺の不在を悲しむような友も、恋人だっていない。家族だって――家族だって。こんな中途半端なところで儚い生にしがみついているよりも、きっぱりと引導を渡してやる方がずっと幸せだろう。俺の父は、母は、妹は、怒るだろうか。それならばただ謝るだけだ。同じ所へと行き、ただひたすらに許しを乞おう。
「…………ア」
声が出ない。何ということだ、これでは呪文が発現しない。今まで俺が使うことの出来ない呪文は、何一つとして存在しなかった。おそらくこの先も、現れることはないのだろう。
あぁ、しかし、一体どうして。
「あぁ……」
瞬間、気付いた。
気付いた瞬間、涙が零れた。
その場に崩折れ、こみ上げる嗚咽を噛み殺す。絶望の冷たさに、一人静かに身を震わせた。
俺には出来ない。
俺には殺せない。
この先何年掛かっても、俺はこのラインを踏み越えることは出来ない。
見えているのに。知っているのに。俺には向こう側へと行く勇気が出ない。
彼らのように。
エリスのように。
なれていればまた、違ったのだろうか。
◇ ◆ ◇
嵐のように降り注ぐ賞賛を、当然のものとして受け取った。伝統あるホグワーツ魔法魔術大会で、並み居る上級生を差し置き優勝した四年生。良い注目、宣伝の的だなとは思うがしかし、嫌な気分はしなかった。当時の自分は、その程度には傲慢だった。
ゴブリン製だと言う盾は小さいが、随分と精巧な銀細工の装飾が為されている。その職人技に感心はしたものの、しかし飽きるほど絶賛されては流石にうんざりもしてくる。その盾を抱えたままの自分に、先ほどから幾度もフラッシュが焚かれている。ここで微笑みの一つも浮かべることが出来れば上出来なのだが、生憎と何年も訓練をサボっていた表情筋が、そう簡単に言うことを聞いてくれるとは思えない。不恰好な似合わぬ愛想笑いを浮かべるよりは、割り切って無表情に徹した方が数倍マシだ。
人が多い。その分喧しさも相当だ。耳を塞いでしまいたいが、この騒々しさが鼓膜を震わせた故でないことは、長年の経験上重々承知していた。付き合ってきた年数は歳の数だけある。これが、ただの大広間に集まり夕食を取る生徒たちであればまだ良い。しかし今回は、自らが注目されている場面。誰も彼もが自分のことを、ライ・シュレディンガーのことを考え、しかもその思考が、無差別に『聴こえる』、言葉というオブラートに包まれることのないそれに、奥歯を噛み締めただ耐えた。
右から左へと、それら心の声を聞き流していたからだろうか。記者からの問いかけに気がつくのが一拍遅れた。訊き返した自分に嫌な顔一つすることなく、記者はにこやかに繰り返す。しかしその内心はお察しだ。
「魔法魔術大会の優勝者には三百ガリオン相当の学問・研究的補助が与えられるということですが、Mr.シュレディンガー、貴方は将来どのような道に進もうと考えていますか?」
ホグワーツの四年生ごときが、そんなたいそうな将来のビジョンを描いているものか。しかし、そんなことを言えるような雰囲気ではない。
周囲をゆっくりと見回した。自分が何を期待されているのか、じっくりと読み解き、口を開く。
「……そうですね。未熟な身ですが、この英国魔法界最高難度を誇ると言われる闇祓いで、己を磨いていけたらいいなと考えています。……英国魔法界に、永遠の秩序と安寧を」
熱狂的な拍手が湧き上がった。
◇ ◆ ◇
ホグワーツ特急を降りた先、プラットフォームには、いつものように母と妹が待って――は、いなかった。少し拍子抜けするもしかし、両親ともに癒師であった故、突然の不在には慣れていた。
きっと急患でも入ったのだろう。妹は今年ホグワーツ入学だ、一人で兄を迎えには来れまい。そう頓着せず、電車を乗り継いで家へと帰り着き、玄関の扉を開け――日常が反転した。
父を見つけたのは、玄関へと続く廊下。母の姿はリビングで発見した。
妹が倒れているダイニングでは、一人の見知らぬ男が我が物顔で、優雅に紅茶を飲んでいた。
目を瞠るほどに美しい容姿を持った、黒い髪に赤い瞳の、壮年の男だった。
「やぁ、遅かったね」
その男は、ライを見て極々普通に笑いかけた。この場に似つかわしくない、しかしこれ以上しっくりくるものもないという微笑だった。歳は掴み辛いが、父より多少下だろうか。
「初めまして、私はトム・マールヴォロ・リドル。ヴォルデモートと名乗ったが、君には馴染みがあるのかな?」
知っていた。
その名前を、ライは知っていた。
ここ二十年の長きにわたり、魔法界に関わりを持つマグル、及びそのマグルと関わる魔法使いを次々と殺害した人物――ここ数年は鳴りを潜めていた――闇祓いが何年もその影を追い続け、しかし捕らえたと思えば追い詰めた闇祓いの一族諸共皆殺しにしては、戯れのように去っていくという――『あの』。
冷たいフローリングに倒れ伏す妹に、恐る恐る近付いた。小さなその身体を抱き寄せる。身体はまだ暖かい。自発的な呼吸も見られる。
――死んではいない。生きている。
そのことに、心の底から安心した。
ライの一挙一動を、ヴォルデモートはまるで観察するかのようにじっと見ていた。ライは顔を上げると、ヴォルデモートを睨みつける。
「……どういう、つもりだ」
「何のことだい?」
「なっ……惚けるな! お前がやったんだろう!?」
声を荒げた。意識せずとも聞こえてくる他人の内心、しかし今ばかりは、それを聞き取ろうと尽力する。しかし、ヴォルデモートは取り成すようにゆったりと片手を振った。
「まぁ、そう焦るなよ。物事は順番に一つずつだ、そうだろう? それくらいぐらいは聞いてあげるよ――ライ・シュレディンガーくん?」
瞬間、ヴォルデモートの手にあったティーカップが爆発した。粉々に砕け散った破片、それとライとを、ヴォルデモートは見比べる。
「魔力の暴走……というわけではないようだね。もう十五歳、自分の魔力くらい自力で制御出来なければ、残念ながらお粗末だと呼んでしまうのも致し方ないかな……」
「……帰れ。……頼むから、帰ってくれ」
ヴォルデモートは目を瞬かせると、楽しそうに笑った。
「私を帰しても良いのかい? 君の家族をこのようにしたのは、何を隠そう私なのだけれど」
「いい……いいから、帰って……下さい。……それとも」
小さく息を吐いた。握っていた杖を掲げ、ヴォルデモートの眉間に狙いを定める。
「戦い、ますか」
「……いいね、ライ・シュレディンガーくん。君のそういうところを、私は高く買っているんだ」
驚くことに、ヴォルデモートは両手を上げてみせた。いわゆるハンズ・アップの体勢だ。勿論その手に杖は握られていない。
「君は才能ある魔法使いだ。きっと将来、君は望めば歴史にだってその名を刻むことが出来るだろう。呪文学に興味を持てば新境地を発見出来る学者に、魔法薬学を極めれば発明した薬で財を成す資産家に、変身術を極めれば、ひょっとしたら世界の真理にだって到達してしまえるかもしれないね。君は間違いなく偉大になれる。スリザリンであればとも考えはしたが、君がグリフィンドール生であったところで、君の才が損なわれることはないのでね。私は君の才を瑕疵なく評価しよう。
君は素晴らしい才能の持ち主だ。凡夫とは違う、くだらない、低俗で、先人の知恵を土足で踏み荒らすような輩とは一線を画す存在だ。選ばれた人間なんだよ、君は。神から愛された証、ギフトの持ち主だ。そのくらいは自覚していただろう?」
考えたことがないと言えば、嘘になってしまう。自分が何者かである可能性に、期待しなかったと言われれば――自分は人とは違うのだと、そういう考えに取り憑かれたことは、確かにあって――でも、それは――
「おまけに人の心が覗けるんだってね? なんて素晴らしいことだろう。誰もが君を羨むだろう。諸手を上げて、君を讃えるだろう。君はその才能一つで生きていける。預言師にも、占い師にも、どうとだって生きて行けるのにも関わらず、それを良しとせずに才能に甘んじない姿勢、いいねぇ、大好きだよ」
ライが占い師にも預言師にもなりたくはないのは、この才を疎んだからだ。生まれ落ちた瞬間からずっと、この能力が心の底から大嫌いだったからだ。
それを、それだというのに――否。
話が見えない。戯言の裏の本心が、何一つとして読み取れない。この能力は、開・閉心術とはなんら関連性のないものだ。望み通りに相手の記憶を読み取る開心術、それとは異なり、その瞬間に他者の心に浮かんでいる思考が読み取れてしまう、そんな代物だ。だがしかし、その閉心術を、目の前の男は用いている気配すらない。
どうする。彼の心に押し入るべきか。今なら絶好の機会だ。しかしその間、こちらの心も無防備になってしまう。そんなことをする訳にはいかない。
ヴォルデモートは饒舌に語り続けている。
「ライ・シュレディンガーくん。私は君に期待をしているんだ。君は偉大になれる。可能性に満ち満ちた存在だ。君がグリフィンドール生だとか、そんな瑣末なことは私の思考に影響を及ぼさない。君のような才覚をこの世から失わせてしまうのは、あまりにも
――だからね、ライ・シュレディンガーくん。私は君を敵に回さないよう、万全な策を弄さなければならないんだよ」
瞬間、理解した。
両親と妹が襲われた理由。
彼らが命だけは取り留めている理由。
深く考えることなく、ただ周囲の求めるがまま、言葉を発してしまったことに対する、莫大すぎるほどの代償を――理解した。
「私だって、君を讃えたかった。私だって、君を素直に賞賛したかった。私だって、若い才能に手を叩きたかった。君が、それをさせなかったんだ」
にこやかに発せられる言葉と思考には、一切のズレがない。
ヴォルデモートは心の底から、そう思って言葉を発しているのか。
「君が闇祓いに、私の敵になりたいと願うのであれば、私は君を殺さなければならない。危険な芽は早々に摘んでしまわないと、成長して取り返しがつかなくなっては遅いからね。でも君を殺してしまうとなると、それは英国魔法界にとっては大きな損失となってしまう。反逆行為と言ってもいい。それは私だって避けたいんだ。……ねぇ、だから、ライ・シュレディンガーくん。私は私の望みを叶えるために、一体何をすれば良いんだと思う?」
身体が震える。足に力が入らなくて、思わずよろめいた。咄嗟に椅子の背もたれを掴む。
「ライ・シュレディンガーくん。君なら容易にその答えに辿り着く筈だ。だって君は賢いのだから。私が出した答え、唯一の最適解にね」
最適解。
あぁ――何たることだ。
「失礼だけれどね、君の家族に印を付けさせてもらった。頚動脈、そのくらいは分かるね? その薄い皮膚の上にだ。私が望めば、彼らがどうなるか……分かるだろう?」
慌てて、妹の首元を確認した。黒い星型の刻印が、確かにしっかと刻まれている。
「呪いを解こうだなんて考えない方が良い。親切心で忠告しておくと、この呪いはとても気が短くてね。少しでも危害を加えられたと感じたら、即座に自発的に発動するようになっている。君のご家族を殺したくないのであれば、余計なことはしないに限る。――これからも」
そして、いつまでも。
「私はね、君に偉大になって欲しいんだ。私に関わりのないところでね。そうすれば、私にだって君を素直に讃えることくらい、許されるとは思わない?」
この男は、本気で。
本気でこんなことを、考えている。
「……俺の、せい?」
確かめるように、呟いていた。
分かり切ったことを。
「俺のせいで……家族は、こうなった?」
「その通り。全て、君のせいだ」
親切にも、ヴォルデモートはライの言葉を丁寧に肯定した。
「君が、自分の家族を害したんだ」
「俺が……家族、を」
「そう、君が、家族を壊したんだ」
遠くから、近くから、サイレンが聞こえる。
音が反響して鼓膜に伝わり、なんだか距離感が上手く掴めない。そうだというのに、ヴォルデモートの声だけは何故か、一音一音がしっかりとした輪郭を伴っていた。
「何かを交渉しようと考える人間が、どうして複数の人質を取るのか、その理由を君は知っているかな? それはね、何がなんでも、その要求を通したいからだ。例え一人を殺したとしても、もう一人を盾にして、再びその要求を押し通せるからだ」
他人の声――鼓膜を震わせる方の声を聞いて気分が悪くなるのは、初めてだった。
息苦しい。上手く息が吸い込めない。呼吸を今までどうやってきたのか、全く思い出せない。
「忘れてはいけないよ、ライ・シュレディンガーくん」
その声は、柔らかであるにも関わらず、暴力的な響きでもってライを圧倒した。
「君の家族に降り注いだ災厄の全ては、君のせいだ」
君がこの世に、生まれたからなのだと。
◇ ◆ ◇
救急隊員が到着するのとほぼ同時に、ヴォルデモートは姿を消した。膝を突き自失するライに、救急隊員はライも患者の一人かと思ったそうだ。寸前で我に返り、事無きを得た。
両親、及び妹は、聖マンゴのヤヌス・シッキー病棟へと運び込まれた。病院にての入院費用は、何者かが先払いで振り込んであったらしい。計算すると、この先六十年は優に超える額で、心の底からゾッとした。あの男は、彼は、本気で自分の人生を縛るつもりなのだ。
夏休みの間、毎日病室へと通い詰めた。初日は床に膝を突き、三人に対して謝罪した。二日目は、どうか奇跡が起こらないかと神に祈った。三日目からは、ただただ黙って虚ろにパイプ椅子に腰掛けては、窓の外で日が昇って沈む様を、ただぼんやりと眺めていた。
夏休みが終わり、ホグワーツへと帰らなければならない頃となった折、ライはこれからどうするかを決めかねていた。このまま家族を置いて学校へと帰るべきか、それともここに残って家族と過ごすべきか。しかし、残ったところでライに出来ることなど何一つとしてない。それならば学校に戻った方が生産的な気もするが、しかしこの状態の家族を置いていくのは如何なものか。
家族を滅茶苦茶にした自分が、一人今までのように日常に戻ることを、家族は許してくれるのだろうか。
ダンブルドアが訪ねてきたのは、そんな時だった。
「ヴォルデモート、かね?」
病室をぐるりと見回して、開口一番ダンブルドアはそう尋ねた。淡いブルーの瞳は、何もかもを知り得ているように煌めいていた。
口止めは、確かされなかった。記憶を思い起こす。しかし本当に、ダンブルドアに語っても良いものか。英国で一番とも評されるアルバス・ダンブルドアを、ヴォルデモートが警戒していないはずもない。どこかでこの会話を聞いていて、ライが語り始めた瞬間、家族が命を落としたら――
しかしそんな葛藤は、ダンブルドアの目を見た瞬間消し飛んでいた。気が付けばライは、まるで神に懺悔する罪人のように、ダンブルドアの前にへたりこんで、起こったこと、その時感じたことを全てつまびらかに話していた。
全てを聞き終えた後、ダンブルドアはゆったりとした声音でライに告げた。
「君は、学校に来るべきじゃ」
その言葉に、力無く首を横に振る。
「何故、そのように思う?」
この状態の家族を置いてはいけない。下手なことをすれば、家族に何が起こるか分かったものじゃない。
それに――
「……これからどのように生きていけばいいのか、俺にはもう、分からないんですよ……」
それは嘘偽りのない、ライの本心だった。
これからのビジョンが、一切見えない。かつては曖昧ではあったが、確かに足元の道は未来へと続いていた。けれど、今は違う。家族の未来を潰してしまった自分には、未来を歩む権利はない。
「……贖罪の道を、選ぶと言うのかね?」
贖罪? なるほど、そう言うことも出来るのかもしれない。
そんな高尚な思いではない。だけれど、手放すことも見捨てることも、自分には出来そうにない。
「それならばなおのこと、君はホグワーツに通わなければならん。唯、無意に無意味にこんなところで日を浪費するでなく、君にしか出来ないことをやるべきじゃ。あのヴォルデモートにそこまで言わせもうたその才能を殺すのは、あまりにも勿体無いとわしは思うがね。……君の才能で、君の所有物じゃ。捨てるも生かすも、君次第であろう。じゃが、きっと君にとって、悪くはない道をわしは提示出来ると思う」
穏やかな声で。
アルバス・ダンブルドアは、ライ・シュレディンガーに提案した。
「君が、ご家族を救うのじゃよ」
魔法連載主人公、どちらが好き?
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親世代主人公(幣原秋)
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子世代主人公(アキ・ポッター)
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その他(イチオシの子がいましたら……)