【完結】空の記憶   作:西条

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第15話 瑠璃色の裏切り

 ロンは、ハリーとハーマイオニーの元から離脱、というよりも喧嘩別れのような有様で離れていったらしい。

 羊皮紙でそう綴るハリーの筆跡は、随分と乱れていた。環境の変化と積もるストレスに、きっと耐えられなかったのだ。むしろここまで耐えているハリーとハーマイオニーの精神こそ、常人離れしている。

 

 綴られるハリーの言葉を見ながら、思考を浸した。静かな校長室は、思索に耽るのにうってつけだ。

 

 ロンは一人で無事に生きていけるだろうか。ウィーズリー家の誰かと連絡を取ってロンを探してもらう方が安全かもしれない。

 ぼくの言を一番きちんと聞いてくれそうなのは、多分ビルだ。グリンゴッツで働く彼は、居場所も突き止めやすい。でも彼は確かフラーと結婚したばかりだし、邪魔だと思うだろうか? 

 次点でパーシー。魔法省勤めだからこちらも拠点を抑えやすい。ただ、パーシーを説得するのには骨が折れるだろうなきっと、という考えが頭の片隅をチラついた。

 

 アーサーおじさんは身動きが取れない。あの人は動かしてはいけない人だ。ただでさえ重要人として始終監視されているのに、これ以上の負担は掛けさせられない。

 

「となると……やっぱり」

 

 ぼくが動いた方がいいな、と独り言を呟き掛けた瞬間だった。

 

 爆発――かと思った。予想もしていなかった。

 爆風に吹き飛ばされ、小さな身体は思いっきり校長室の壁に叩きつけられた。衝撃で肖像画が揺れ、歴代校長がそれぞれ驚きの声と『現れた者』に対し非難の眼差しを投げ掛ける。

 身体中が軋むように痛んだが、地に臥せりながらも目を開けた。

 

「幣原秋よ。俺様がそんなに愚かに見えるか?」

 

 声の主に、絶望した。

 静かな声だった。地獄の底から這い上がってくるかのような声。

 感情が一切読めぬ、低い声。

 

 トム・リドル――ヴォルデモートが、気配もなく立っていた。

 

「俺様がそんな阿呆に見えるか?」

 

 胸倉を掴まれ引き起こされる。と思った瞬時には地面に叩き付けられた。

 ぼくの喉元を露わにすると、細く長い両の手で首を掴み、一切の力の加減なく締め付ける。

 

「幣原ッ、幣原幣原幣原ッ!! 俺様が貴様の動向を探っていなかったと思うか? ずっと泳がせておっただけに決まっているだろうッ!! 貴様の腕にその印を残した瞬間からッ!! 貴様が裏切るであろうことくらい読めておったわッッ!!」

 

 急速に視界が濁る。思考が混濁する。身体の震えが止まらない。四肢は末端から冷え切り、力も入らなくなった。

 意識が吹き飛び掛けた頃合いで、ヴォルデモートはぼくの首から手を離すと、ぼくの髪を掴み引っ張り上げた。

 抵抗する気力は既に根こそぎやられていた。肺は、やっと自由になった喉から酸素を取り入れようと急ぎ仕事を再開する。しかしそう簡単には呼吸を許してくれる人じゃない。ぼくの長い髪の毛を掴むと、部屋中を引きずり回した。様々なところに音を立ててぶつかり、その勢いでいくつもの小物が割れ、砕け、壊れてゆく。

 あぁ、折角の、折角の、ダンブルドアの遺品であるのに。彼が好んだガラス細工の置物が、きっと生徒から貰ったのだろう、小さな植木に入った鉢植えが、かつての卒業生と撮ったであろう写真が収まった写真立てが、あぁ、ぼくのせいで。ごめんなさい。

 

「本当に貴様は愚かだなァ。俺様が一切を気付いていないと、まさか思考において俺様を凌駕していたとでも過信していたか? 自惚れていたか? 自らの能力に自惚れ足を取られ掬われこうして引き倒されている気分はどうだレイブンクロー生? 幣原秋よ、否――アキ・ポッターよ」

 

 乱暴に手を離され、壁にぶつかり身体は動きを止めた。息も絶え絶えで、もう身体のどこが痛むのかもよく分からない。それでも、ぼくは顔を上げた。

 

「……その面も、何もかもが気に食わないッ! 『苦しめ(クルーシオ)』!」

 

 もう痛覚の限界に達したとてっきり思い込んでいたけれど、浅慮だったようだ。身体中の神経全てに直接痛みを送り込まれているかのよう。頭の中は痛みで真っ白になり、ぼくはただ身を捩ってもがき苦しんだ。

 数十秒だったか、数分だったか。そう長くはなかっただろうが、それでも永遠とまで感じられる痛苦であった。

 杖を外され、ふ、と解放される。浅い呼吸を繰り返しながら、言うことを聞かない手足に苦心しつつも腹這いになり、顔を起こした。

 

「ハリー・ポッターとの間でこうしてやり取りをしていたのか。それで? こちらの情報もあちらに流していたという訳だ。なんともまぁ二重スパイも笑わせる……」

 

 校長室の机の上に置いてあった筆立ては、今は倒れている。そこから一本の万年筆を手に取ったヴォルデモートに、元々失せていた血の気が引いた。

 

「や、やめ……」

「この後に及んでの言葉がそれか? あまり失望させるなアキ・ポッター。さぁ書け。貴様の字で書くのだ。貴様が、貴様自身がハリー・ポッターを売り飛ばすのだ」

 

 ぼくの左手を取ると、ヴォルデモートは無理矢理に万年筆を握らせる。いや、と力なく首を振ると、頤を掴まれ顔を上げさせられた。

 

「それなら初めから裏切らぬが良かったのだ。自らの浅知恵を、自らの至らなさを悔やむのだな」

 

 どこをどう見ても、ぼくの『詰み』だった。

 ヴォルデモートの言葉通りの文字を、震える手で羊皮紙に書き綴る。すぐさま、ハリーからの返事が来た。

 

『アキ? アキなんだ! 連絡をくれてありがとう!』

 

 踊りださんばかりの筆致だった。強く強く奥歯を噛み締める。

 どうかハリーよ、気付いて。ぼくじゃないと気が付いて。ハーマイオニーでも構わない。ぼくはこんなこと言わないと、君たちの居場所を、これから先の目的地を誘導したりなんてしないって――嗚呼。

 

 目の前で紡がれてゆく絶望に、心が屈する。ぼくが造り出された意味。『ハリー・ポッターを守る』――それを自らの手で破り捨て、紙屑に変え、足で踏みつけているこの、絶望感。

 

 ハリー、頼むよ、お願い――気付いて。

 

「っ、う……」

 

 何も入れ込めない。ぼくが普段使う単語を、全て記憶されている。この場面ではこの単語を選び、このような表現を好むのだと、全て把握されている。

 細工が出来ない。これは罠だと知らせる手段がない。八方塞がりだからこその『詰み』。

 

 ぼくの口調をそのままに、ヴォルデモートは言葉を綴る。その通りにただ、ぼくは羊皮紙に書き付ける。

 ヴォルデモートを本当は裏切っていたこと、思惑があって彼に今付いていること、ぼくはいつだって君の味方だよ、ハリー、なんて――どこの、誰が、そんな言葉を吐けたものか。

 

 自己嫌悪と破滅願望が入り混じる。心の底から死にたいと消えてしまいたいと思った。強く強く願った。

 恥ずかしい、存在自体が愚かしい。世界なんて変えられない。こんなちっぽけで矮小で愚鈍な存在が、世界なんて変えられるはずもなかったんだ。

 

『ぼくも君と会いたい。実は、君に伝えておかないといけないことがある。羊皮紙じゃあ伝え切れないから、会って話をしたいんだ。十二月二十四日に、ゴドリックの谷で会えないかな?』

 

 嗚咽を零す気力すら、なくなっていた。頬を涙がただ伝う。涙が羊皮紙を汚さぬよう、ヴォルデモートは顔を顰めて杖を振った。乱暴に涙を拭われる。

 

『――分かった。実は今こちらも行き詰まってるんだ。君に会って、その情報を聞いたら、何かヒントになるかもしれない。……相談に乗ってくれてありがとう。ロンがいなくなったから、少し心細かった――会う日を楽しみにしている。大好きだよ、アキ』

『ぼくも大好きだよ――ハリー』

 

 そう書き切ると、羊皮紙が抜き取られた。

 ぼくの目の前で、長年ずっとハリーと共にあった証が、ぼくがハリーを守るのだと、ぼくがハリーを守らなくちゃいけないのだと、ハリーを守る意図で作り出した羊皮紙が、つい先ほど真逆の意図で使われたその羊皮紙が、真ん中から真っ二つに破られる。

 紙が破れる、耳をつんざく嫌な音。魔法で燃やされるより、人力で引き裂かれる方がキツい。細切れになった羊皮紙をぼくの前に散らすと、ヴォルデモートは足でぐしゃりと踏みつけた。

 

「兄を売り飛ばした気分はどうだ? アキ・ポッターよ。純真な、自らを盲目的なまでに信じ切っている愚かで愛しい人間を売り払った気分はどうだ?」

「……最悪、だよ」

 

 思いっきり顔面を蹴られた。勢いを殺せるだけの力が、ぼくに残っているはずもない。

 後頭部を背後の壁に強く打ち付けて、意識が一時白んだ。鼻が折れたか、腫れた顔面にぬるりとした生暖かさを覚える。

 杖が抜かれ、避ける暇もなく再び『磔の呪文』がぼくを襲った。痛みに、苦しみに、喉が張り裂けるほどに絶叫する。

 痛みの余り意識が飛びそうになるも、それを痛みが引き戻す。いつ終わるかもしれぬ地獄。これならば拳銃口に突っ込んで一息にトリガー引いてしまった方がマシだ。死の呪文の方が何倍も優しい。

 終わらせてくれ、もう死んだ方がいい、死なせてくれ、苦しいのは嫌だ、痛いのは嫌だ――

 

 呪文が止む。意識は既に朦朧としていた。

 ネビルの両親のことを思い出していた。ロングボトム先輩とプルウェット先輩。狂うほどにこの呪文を受け、気が振れてしまったあの二人。

 あぁ、ぼくが間に合わなかったから。あそこですぐさまエリス先輩を殺して向かえば、もしかしたら間に合ったのかもしれない。ぼくが弱かったから。ぼくのせいだ。ぼくのせいで、あの二人にこんな苦痛を。待っていただろう、ぼくの訪れを、どうして来ないのだと早く楽にしてくれと心の底から腹の底から思いながら。早く殺してくれと、あの優しい二人は叫んだのだろうか。あの強く優しい二人に対して、ぼくは、あぁ、ぼくは。

 

「まだ意識はあるか? 聞け、アキ・ポッター。そして想像しろ。考えろ。考えるのは得意だろうレイブンクロー生よ。

 貴様の目の前でホグワーツの生徒を一列に並べる。一番左端からだ。さきほど貴様が喰らった威力の『磔の呪文』をきっちり十回。舌すら噛み千切りはさせない、痛みで歯に力も入らぬだろうよ。そしてその後殺す。

 その次は一つ右にずれ、その者にも同じようにした後、殺す。全て貴様の目の前で行う。ホグワーツの生徒に『今貴様が受けているその痛みはこの男のせいだ』と囁きかけて何度も何度も何度も何度も拷問に掛けてやる。恨み言を、泣き言を、死にたくないどうして自分が何をしたというんだお前のせいだ殺してやる呪ってやる死んでしまえという声を一身に受けるが良い。目を背けることも意識を失うことも許さない。はてさてアキ・ポッターよ、一体貴様は何人目で狂うのだろうな?」

「や……」

 

 喉から掠れた声が出た。

 指先一つ動かすだけで、目も眩みそうな痛みが走る。それでもぼくはしなければいけない。ホグワーツの生徒を殺させるわけにはいかない。彼らの命乞いをしなくてはいけない。

 

 その場で土下座をした。綺麗な土下座ではなかっただろう。それでも頭を床に擦り付ける。

 

「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい……ぼくが全部悪かった、ぼくが悪かったんです。従います、従いますから……どうか……どうか、それだけはやめてください……っ」

 

 歯の根が合わない。寒気が全身を包む。

 ガタガタと震えながら、ぼくは懇願した。

 

「もう二度と逆らいません、全て従います、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、だから、だからお願いします、それは……それだけは……ッッ!!」

 

 ヴォルデモートはしばらくぼくを見下ろしていたが、やがて笑い声を漏らすと足を踏み鳴らした。

 粉々であった羊皮紙は、瞬時に火の粉に包まれ、同質量の灰だけを残しすぐに消える。

 

「一人。アキよ、貴様が妙なことをしでかしたら、そうだな……まずは貴様の後輩であるルーナ・ラブグッドを殺してやろう。死体すら残さず粉微塵に殺す。その次は貴様と七年間同室であったクラスメイト。一番大きな破片が小指なことに慟哭したくなければ、俺様に従えアキ・ポッター。貴様は殺さない。貴様が死ぬのは許さない。たとえ貴様が自害したとて、貴様の死出の旅路に一人を付けよう。無作為に選んでやろうぞ、哀れな生贄を」

 

 そう言うと、ぼくの左手首を掴み引きずった。

 校長室を出、廊下を進む。廊下に人がいないのが、せめてもの救いだった。階段をずっと下り、下り、下り続け、地下牢に。

 かつて生徒の処罰用に使われていたと噂には聞いていたが、果たしてどこまで本当なのか。フィルチの創作か妄想なのではないかと密かに言われていたけれど、それでも地下牢は事実ホグワーツにあるのだ。

 

 ぼくを地下牢に放り込むと、ヴォルデモートは幾重にもこの空間に呪文を掛けた。ローブのポケットに、ぼく自身の杖はあるものの、ヴォルデモート直々に掛けた複雑で難解極まりない呪文を解除するには相当な労力が掛かるだろう。

 

「貴様にはもう少し賢明さを求めよう、アキ・ポッター、愚かしい少年よ」

 

 ぼくにそう言い放つと、ヴォルデモートは姿を消した。

 ぐったりと、地下牢の冷たい床に倒れ込む。床は氷のように冷たくて、それでも身体を起こすことは出来なかった。三半規管が少しどうにかなっているのかもしれない。軽い脳震盪でも起こしたか。ちょいちょい頭を打ち付けていたし、可能性はある。物がさっきから二重に見えるのだ。少しよくない兆候かもしれない。

 

「――アキ」

 

 あぁ、幻聴まで聞こえてきた。鉄格子越しに、人の影が見える。幻覚までも。大分やられたようだ。

 

「――アキ――おーい、アキ!」

 

 名前を叫ばれ、薄れかけた意識が浮上する。一瞬だけ視界がクリアになった。

 目にした像を、脳が正しく認識する。

 

「……え」

 

 ……いや、この脳は本当に正しいのか? 振り回され過ぎて、もう二進も三進も行かなくなるほど追い詰められたのか。

 

 だって、鉄格子の奥で、ぼくに笑いかけているのは。その、人物は。

 

「やっとこっち見た。酷い顔だね――アキ、大丈夫かい?」

 

 目を見開いた。口もポカンと開いているはずだ。もしかしたら、これは夢なのか。

 そう思い、軋む身体に鞭打って左手を振り上げ自分の頬をぶっ叩いた。痛い。というか痛みを感じたいのならじっとしているだけでも十分じゃないか? 馬鹿かぼくは。殴られ過ぎて本当にイッたか? 

 

「本当に大丈夫かい、アキ?」

 

 目の前の人物が、本心から心配そうな口ぶりで呟いた。

 もう、構うものか。これが夢だろうが、ぼくの脳が見せている幻だろうが。もう、どうだっていい。

 

「……セドリック」

 

 泣き出したいのを堪え、目を細めてぼくは微笑んだ。

 うん、と彼は――セドリック・ディゴリーは、人好きのする笑顔を浮かべてみせる。

 

「ただいま、アキ」

「……っ、おかえり、セドリック」

 

 崩れ落ちそうな身体で、それでもセドリックに手を伸ばす。

 鉄格子越しに握られたその手は、ちゃんと暖かかった。

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