【完結】空の記憶   作:西条

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去年自サイトにて幣原誕として掲載した短編です。
少し長いので上下編として投稿。
(下)は本日日付が変わる間際に投稿予定。

シリウスは大事な友人相手にこのくらいやれちゃう男だと思う。


短編 シリウス視点 空が墜ちた日(上)

 アズカバンに朝は来ない。

 常夜の闇に閉ざされた奈落の底(アバドン)。この孤島を最悪の要塞と仕立てた狂人、彼の没後数百年が経って尚、孤島全体に染み込んだ不幸と苦痛は、決して祓えぬ闇の帳としてこの地に君臨し続けている。

 

 吐き気がする浮遊感と共に、シリウス・ブラックは目を覚ました。

 

「…………、……」

 

 吐く息が白い。何百といる吸魂鬼のせいで、アズカバンはいつも凍えるような寒さだった。

 

 どれだけの間、蹲っていたのだろう。独房に差し込む微かな光さえ、闇に慣れた目には眩しく思える。

 身を震わせ、動物もどき(アニメーガス)を解除する。ヒトの躰は、犬のものより寒さが堪える。凍えて上手く動かない四肢を引きずりながら、看守である吸魂鬼が運んできた食事に手を伸ばした。

 

 空腹は覚えても食欲は湧かない。味覚はとうに喪った。煮込まれたものの原型すら留めない薄いスープを、それでも無理矢理胃の奥へと流し込む。

 

 アズカバンの囚人の中には、段々と食事に手を付けなくなる者も多い。

 アズカバンでは、生きる気力や希望が根こそぎ奪われていく。ぼうと虚空を見つめたまま、気が付けば呼吸を止めている。そしていつしか、それを羨ましく思っている自分がいる。

 

 ──ただ、死ねない理由があったから。

 

 かつての友、ピーター・ペティグリューの裏切りに対する、深い悲しみと憤り。彼への憤怒が、今のシリウスが息をしている、たったひとつの理由だった。

 

 ──まだ、逝けない。

 

 親友が死ぬ原因を、自分がこの手で作ってしまった。ピーターだけは、自分がこの手で始末を付けなければならない。

 そうでもしないと、親友に顔向けできない。

 

 ──まだ、何も償えていない。

 

 ピーターのことを考えると、胸の中に炎が灯る。

 昏く陰鬱な復讐の炎は、それでもシリウスの心を暖め、今日を生きる糧となってくれる。希望の儚い光と違う、吸魂鬼にも奪えない絶対のもの。

 

(あの野郎のおかげで生きてるとか、考えるだけで最悪な気分だけど)

 

 空になった器を通路へ押しやり、力を振り絞って立ち上がる。

 

 胃に物が入ったおかげで、少し頭がしゃんとしてきた。その分、他の囚人たちの呻き声もまた、より明瞭に聞こえてくる。

 誰へのものか、きっと本人にもわからないであろう謝罪。幼児帰りしたように、親を呼んで泣くしわがれ声。気が触れたような喚き声。何ものかに対する憎悪の声が、きっと一番大きくて力強い。

 

 聞いているだけで、こちらの精神も削られる心地になる。いずれ、慣れてしまうのだろうか。それより先に、自分の気が触れるのが早いだろうか。

 早く奥の暗がりへ行って、ただじっと耳を塞いで耐え凌ごう。息をするだけの獣になって、夢うつつのまま時間が過ぎるのを待とう──何日、何ヶ月、何年、何十年?

 

 ──どれだけ耐えれば良い?

 ──どれだけ耐えれば、ジェームズは俺を赦してくれる?

 

 赦されない。赦されない。償いきれない過ちに息が止まる。惨め過ぎて死んでしまいたい。赦されない。赦されてはならない。赦されてはならない。だってまだ償えていない。これしきの苦痛ではまだ足りない。償いにならない。死にたい。死にたい。死んではならない。死んではならない。解放されたい。救われたい。赦してくれ、助けてくれ、ジェームズ──

 

「……っ、」

 

 頭を壁に打ちつけた。躊躇はない。くらりと眩む視界と共に、絡まった思考は消えて行った。

 そのまま大きく息をつく。目を数度瞬かせて、狂った平衡感覚を取り戻す。

 

 その時、何かが視界に映った。這い寄って確認する。新聞だ。アズカバンを訪問した役人の誰かが落として行ったのか。

 鉄格子の隙間から手を伸ばして新聞を掴む。何故かぐらぐらする頭を押さえながら、一面を捲る。

 

 ──目が『それ』を認識するより、身に走った予感の方が早かった。

 

 ドクンと心臓が脈を打つ。命の感触を思い知る。

 吸った息を吐けぬまま、吐いた息を吸えぬまま──新聞の写真に指を這わす。

 

 動かない。

 その写真は動かない。

 漆黒の棺の上に、山と積まれた白百合の花。

 墓石に刻まれた、かつての英雄の()

 世界を湧かせた血塗れの英雄。

 彼はその手で、自らの命に幕を下ろした。

 

「────あぁ」

 

 深く、深く。

 肺腑を絞り出すように、息を吐く。

 不思議と、疑問は湧かなかった。

 そうか。

 君も、死んでしまったのか。

 

「──────────秋」

 

 呟いて、目を瞑った。

 

 

 

 

 

 約束した時間から十分が過ぎた。懐中時計の文字盤を見つつ、シリウスは目をすがめる。

 待ち合わせ場所に間違いはない。ダイアゴン横丁の顔である『漏れ鍋』前。陽が落ち始めたものの、そこかしこにある灯りのおかげで、人の判別くらいは容易だ。

 

 時間には几帳面な奴だった。それこそ、余裕を持って待ち合わせの十五分前には到着しているような。だからこそ彼と待ち合わせる時は、ついつい自分も気が急いてしまって、普段より幾分早めに出てしまうこともしばしばだった。

 

 今回もそう。

 待ち合わせ場所に着いたのは、約束した時間の二十分前。今日は秋より早く着いたぞと、にんまりしたのも束の間のこと。

 どうも自分はこんな場所に一人でいると『デートをすっぽかされた人』のように見えるのだそうだ。辺りに居合わせた女性たちが、好機とばかりに寄ってくる。

 普段なら据え膳と美味しく頂くところではあるのだが、生憎と今のシリウスは、デートをすっぽかされたわけでもなければ、待ち合わせている相手が恋人というわけでもないのだった。

 

「というか、マジでなんかあったわけじゃねぇよな?」

 

 と、そんな心配をし始めたのは、約束の時間からゆうに三十分が経った頃のこと。

 何かあったら連絡くらいは寄越すはずだと判断する頭に、「そうは言っても連絡すら寄越せない状況に陥っていたら?」と不安が囁く。

 

 闇祓いの彼に限って滅多なことがあるとは思いたくないが、それでも今は闇の時代だ。闇の帝王、ヴォルデモートとその臣下が蔓延るこのご時世、『万が一』は十分に考えられる。

 否。むしろ闇祓いだからこそ『滅多なこと』は付き物かもしれない。危険に自ら飛び込む職業。悪意の前に身体を張り、杖ひとつで闇を祓う道を選んだ、誰よりも何よりも優しい彼。

 嫌な予感を振り払う。

 

「……とにかく、連絡を……」

 

 マグルのような通信機器はないものの、『不死鳥の騎士団』の一員たるもの、守護霊に声を乗せて飛ばすことなら簡単にできる。

 杖を取り出しかけ、ふと空を見上げた。太陽は既に陰り、西に赤紫の残光を示すのみ。薄色の淡い雲が、紺青の空を細く横切っている。

 

 その時。

 何かが空から降ってきた。

 漆黒の髪。漆黒のコート。焦りが滲んだ漆黒の瞳が、ぎょっとしたように大きく見開かれる。

 何もない空中に『出現』した彼は、そのまま地球の重力に従い、まっすぐ、シリウスの頭上へと──

 

「ふぐぅっ!?」

 

『滑落』と言って差し支えないほど、それは無様な落下だった。

 咄嗟に手を伸ばすがもう遅い。いや、受け止めることはできた。ただ体勢までは追いつかなかった。

 結果、成人男性一人分の重量を支えきれなくなった身体は、腰やら背中やらを盛大に地面に打ちつける羽目になる。

 きゃあっと周囲から悲鳴が上がった。

 

「わぁあっ、ごめんねシリウス! 焦ってたもので、ちょっと転送位置ミスっちゃった! やっぱり横着しちゃダメだねぇ」

 

 慌てた声が腹の上で聞こえる。

 おい、ともうぅ、ともつかぬ音が、自分の喉から溢れ出た。かろうじて、腕で「とっとと退け」と示す。

 腹の上の重みが引いて、やっと呼吸ができるようになった。薄目を開けて仰ぎ見る。

 

 彼は。

 待ち人である幣原秋は、申し訳なさそうな笑みを浮かべて、シリウスに手を差し伸べていた。

 

「本当にごめんね。立てるかい?」

「コノヤロ……さんざん人を待たせておいて、この仕打ちかよ」

 

 差し出されたその手に掴まり、身を起こす。その間に秋は、周囲の人々に対し「驚かせてしまってすみません」と謝罪していた。

 地面で打ちつけた肩や腰が痛む。撫でさすっていると、振り返った秋は一度目を瞬かせ、左の手で軽く指を鳴らした。途端、嘘のように痛みが消えてなくなっていく。

 

「腕を上げたな」

「ごめんってば……」

「いや、責めてるわけじゃない。……見りゃわかるよ、仕事が思いの外長引いてしまって、ここまで急いで来たんだろ? 闇祓いの服も脱がずにさ」

 

「あ」と小さな声をあげて、秋はいそいそと闇祓いのコートを脱いだ。どうやらすっかり失念していたらしい。このご時世、軍隊のような階級章は流石に目立つ。

 階級章。そうか、もう彼は訓練生ではないのだった。本来ならば三年掛かるはずの訓練を、たった一年で終わらせた異例の新人。

 

 ──当然だ。だって秋なのだから。

 

 ジェームズが見出した稀代の天才。

 常人の何倍、何十倍、何百倍といった膨大な魔力を、彼はその身に宿している。それでいて、魔力の扱いは誰よりも繊細で丁寧だ。決して大味になることのないその様は、既に達人の域に達している。

 

「でも、連絡くらいくれりゃあいいのに」

 

 それなりの時間待たされたのだ。このくらいの恨み言は良いだろう。そんなシリウスの言葉に、秋は「え?」と首を傾げた。弾みで、秋の片耳に嵌った黒のイヤリングが揺れる。

 

「連絡したよ? ついさっき、魔法省から出たとき、だけど。『今から向かう』ってさ」

「は? いや、来てないけど」

「えぇ? 嘘だぁ」

 

 嘘ではない。そんな嘘などつくものか。そう反論しようとした矢先、守護霊が音もなく飛んでくるのが見えた。鴉の姿をしたその守護霊は、秋の声で喋り始める。

 

『ごめんシリウス、今から向かうから、あとちょっとだけ待っていて! この埋め合わせは必ず──』

 

「…………」

「…………」

「……ぼくが『姿あらわし』する方が早かったんだね」

「理解が早くて助かるよ、友よ」

 

 まじごめん、と秋はシリウスに向かって両手を合わせる。

 その仕草、というより、そもそも自分は秋に弱いのだ。何をされても怒る気になれないというか、何があっても許せてしまうというか。

 現に、今だって全然怒りは湧いてこない。いや、先ほど秋のブーツが腹のイイトコに入ったときは、ちょっとだけ恨めしい気持ちになりはしたが。

 

「別にいいさ。立ち話もなんだ、行こうぜ」

「あ、うん。……ところで、シリウス? 今日は一体、何のためにぼくを呼び出したの?」

「ん?」

 

 秋の問いかけに、言葉を返した。

 

「だって今日は、君の誕生日だろ」

 

 シリウスの言葉に、秋は呆気にとられた顔をする。その顔を見ながら少し思案した。

 本当はもう少し先で渡そうと思っていたが、減るものでもないし、まぁいいか。

 

 用意していた花束を『出現』させると、そのまま秋に手渡した。

 

「おめでとう、秋。君とこの世界で巡り会えた奇跡を、君と共に祝いたい」

 

 呆然と花束を見下ろしていた秋の表情が、何かを噛み締めるようにゆっくりと綻ぶ。

 そっとシリウスを見上げた秋は「君がモテる理由が、なんだかわかった気がするよ」と、照れたようにはにかんだ。

 

 

 

 

 

「それはそうと、ぼく、花瓶持ってないんだよね」

 

 食後の紅茶を傾けながら、秋は独り言のように呟いた。え、と思わず反応する。

 

 コース料理も一通りが終わり、デザートが運ばれてくる頃には、秋の緊張もだいぶ解けてきたようだ。前菜が来た辺りの秋は、思わず笑ってしまいそうになるくらいの緊張っぷりだったから。笑うのは流石に失礼だと、シリウスは必死に堪えていたものだ。

「こんな高そ……良いとこのレストランは、なんだか場違いな気になるんだよ」と秋は渋っていたが、一体どうしてそんな気持ちになるのか、シリウスには理解できない。

 

 秋はいつもきちんとした格好をしているから、ドレスコードにも問題はない。食事のマナーも、特に気になる部分はなかった。

 秋は自分を庶民の出だと言うものの、それにしては諸々の所作が丁寧すぎる。実は日本では、それなりに知れた名家の出身なのではないかと、密かにシリウスは疑っていたりもする。

 ホグワーツは秋の両親にとっても母校なのだと聞いている。秋はあまり意識していないようだけど、WW2以前の、それも極東の地からの留学生なんて、それこそ庶民ではあり得ない話だろう。

 

「花を飾る用に、家にあるもんじゃないのか? 普通」

「家に花を飾らないから、ないんだってば。実家にはあったんだけどね」

 

 母さんが好きだったから、と秋はそっと目を細めた。その瞳に一瞬暗い影が過ぎる。

 

「……あぁ。あと、一度……こうして誕生日に花をもらったことがあったなぁ……」

 

 口調は懐かしむようだったものの、声は精彩を欠いていた。

 今日のこの日に、そんな暗い顔をさせる気はない。空になったカップを置いて、シリウスは立ち上がる。

 

「なら、花瓶買いに行くか。小洒落た良いやつ」

「え? あ、ちょっとシリウス、お会計は!?」

「もう済ませた。いちいち言わせんな、そういうのを無粋と呼ぶんだぞ」

 

 主役に払わせるわけがないだろう。侮るのも大概にしてほしい。

 秋はしぶしぶ口をつぐんだ。その手を取って店を出る。

 

 陽が落ちると、外を出歩く人の数はぐっと少なくなる。忍び寄る闇に、思わず足取りは早くなる。

 それでもまだ、通りには賑わいがあったし、パブは仕事帰りの人で溢れていた。まだ飲み足りない若者たちも、二軒目はどの店が良いかと言い合っている。

 

 ショーウィンドウを眺めながら通りを歩いて、ピンと来た店の中へと入った。輸入雑貨が並ぶ棚で足を止める。どれが良いかと品定めをしていると、ふと秋に袖を引かれた。

 店員の耳に入らぬよう、秋は小声で囁く。

 

「シリウス、シリウス、確かにここの雑貨はどれもおしゃれなんだけど、それ以上にお値段が格好良過ぎるよ! 具体的には二桁ほど!」

「…………」

「ぎゃあっ、なんで更にティーセットまで追加してんの!? 嘘嘘、信じらんない、良いとこの坊ちゃんめ!」

「君は金の使い方が下手だよな」

 

 呆れて嘆息した。闇祓いがいくらもらっているのかは知らないが、先ほど「忙しくて使う暇がないから貯まる一方」と愚痴っていたのはどこの誰だ。

 そもそもこれは秋へのプレゼントなのだから、秋が額面を気にする必要なんてないというのに。

 

「遅刻の埋め合わせもしてもらわないとだったし」

「ぼくが遅刻したのに、余計奢られてんのは変な気分だよ……」

 

 ぼやく秋に構わず会計を済ませる。陶器を持ち歩くのは嫌だから、秋の家へ届けてもらうようにした。

 秋の住所までは流石にシリウスは覚えていない。

 

「秋、すまないが、君の住所を……、秋?」

 

 振り返って秋を見る。

 秋は何かに気を取られたかのように、店の窓をじっと見つめていた。その唇が微かに動く。

 

「……今、何か聞こえなかった?」

「何が?」

「──誰かの、悲鳴が」

 

 そう呟きながら、秋は既に駆け出していた。店の戸を押し開け外へと飛び出す。一瞬ギョッとしたものの、すぐさまシリウスもその背を追った。

 

 外は、不穏な空気に満ちていた。先ほどまでの華やかな賑わいは何処にもない。

 遠くでガラスが割れる音がして、一つの店の灯りが消えた。

 道行く人が、悲鳴を上げながら姿をくらます。『姿くらまし』ができない人びとは、恐怖に背を押され、少しでも距離を取ろうと逃げ出していく。

 

 黒い瘴気が飛んでいる。

 箒にでも乗っているのかと思うようなスピードで、それは自在に空を舞い、大通りを蹂躙する。

 ──泣き声と共に、またひとつ、店の灯りが掻き消えた。

 

「こっちだ、秋!」

 

 通りを逃げ惑う人の群れは、正面から行き合っても立ち往生してしまうだろう。

 秋の手を掴み、上を示す。それだけで秋は理解してくれた。

 シリウスを見て頷いた秋は、軽やかに屋根へと飛び上がって行く。その身のこなしに内心で感嘆しながら、シリウスも後へと続いた。

 

「──はい、応援を要請します。場所は──」

 

 前を行く秋が、闇祓い本部へ連絡を入れている。二言三言で話はついたようだ。

 ひとつに括られた艶のある髪が、尻尾のように右へ左へ揺れている。

 

 眼下を流れる人の波。その流れに逆らい、闇夜を駆ける。

 破壊の元へ。悪夢の坩堝へ。惨劇の元凶へ。

 

 半壊した店の中。

 この悪夢を生み出したであろう男は、愉しそうに笑っていた。 

 

「……っ」

「待って、シリウス」

「何故止める!」

 

 飛び出しかけたシリウスを、秋の腕が素早く押し留める。思わず頭がカッとなった。

 男の足元には女性がいる。蹴倒されたテーブルや割れた食器などがそこかしこに落ちた空間で、ウェイトレスの制服を纏った娘が、男に蹴り転がされている。

 秋を睨むも、秋はイヤリングを摘んだまま、じっと男を見据えていた。

 

「人質を取られると厄介だ。それに、仲間がいないとも限らない」

「だからって……!」

 

 言いかけた言葉は、漆黒の瞳に遮られた。

 小さく息を吐いた秋は「……わかったよ」と頭を振る。

 

「ぼくが男の注意を引く。その隙に、君は彼女を助けてくれ」

「……あぁ。了解だ」

 

 頷く。と、秋は一度、唇を噛んでシリウスを見た。

 揺れる瞳は、一体何を思っているのか。判断が付かず「どうした?」と尋ねかける。

 

「……いや、何でもないよ、シリウス」

「? ……そうか」

 

 互いに頷き合って別れる。

 秋は表に、シリウスは裏手に回った。勝手口を探して中に忍び入る。室内は真っ暗だが、灯りを付ければ勘付かれる。

 

 ここの家主か店主だろうか、倒れている死体を跨ぐ。『不死鳥の騎士団』の任務で、死体は徐々に見慣れてしまった。業務用の大きな冷蔵庫の傍を抜けると、カウンターの脇にしゃがみ込んだ。同じ頃、入り口の側から秋の声が聞こえてくる。

 

「こんばんは。今、いいですか?」

 

 敵意のない、穏やかな声。思わず気を抜く柔らかな声に舌を巻く。

 

「……あ? 嬢ちゃん、いや坊ちゃんか? その目は随分と節穴なようだ。ここの惨状が見えてないのか?」

「…………」

「それとも……くくっ、義憤に駆られて来てみたか? その心意気だけは買ってやるよ」

 

「ぐっ」と女性のくぐもった声。男が女性の腹を踏みしめたのだ。

 秋は小さな声で「なるほど」と呟いた。

 

 衝撃で意識を取り戻したか、女性は手足をばたつかせて泣き叫ぶ。

 鬱陶しげに舌打ちをした男は『磔の呪文』を口にした。女性の悲鳴は絶叫に変わる。

 思わずシリウスは立ち上がった。

 

「だが運が無かったな、坊ちゃん。この教訓を魂にでも刻んでおきな、『お節介は首を絞める』って、来世でも見返すことができるようにな」

「……はい。了解しました」

「あ?」

「十月十五日、二十一時三十六分」

 

 パチンと、秋が懐中時計の蓋を閉じる。

 イヤリングに指を触れながら、秋は静かに口を開いた。

 

「闇祓い局第一班、幣原秋。対象の『許されざる呪文』行使を確認。今から職務を遂行します」

 

 それは、聞いたことがないほど冷たい声だった。

 

 男の手から杖が消える。「……へ?」と惚けた顔で空の手を見たのが、男の最期の行為だった。

 男の杖を難なく回収した秋は、そのまま一歩踏み込んで。

 

 

「        」

 

 

 その呪文を、唇に乗せる。

 彼らしい、柔らかな、それでも何処か張り詰めた、苦しげな音で。

 

 決して人間に使うことが許されない、それを。

 ただ現在、この闇の時代において、闇祓いにのみ許された、それを。

 

 一瞬後。

 緑の閃光が世界を灼いた。

 

「…………、ぁ」

 

 生命活動を止めた男の身体が、重力に従い崩折れる。

 床に倒れた男は、惚けたままの顔をしていた。

 倒れている女性が潰れてしまうと、シリウスは慌てて女性に駆け寄り抱きかかえた。

 微かだがまだ息はある。カウンターに彼女をそっと寝かせ、自身の上着を掛けてやる。治癒呪文を重ねがけしてやれば、女性の呼吸は少し安定した。

 

「……シリウス」

 

 秋の声に思わず肩が跳ねる。

 シリウスの顔を見て、秋は泣き出しそうな顔で笑った。

 

「巻き込んじゃって、ごめんね」

 

 見えない線を引くような微笑を浮かべ、秋は静かに顔を背ける。

 細い肩は、寒さを堪えるように震えていた。

 

「──…………──」

 

 この上なく、感覚で理解する。

 秋の苦しさと痛みを感じ取る。

 闇祓い。常世の闇を祓う者らに課せられた、使命と檻を理解する。

 

 理解して、尚。

 

「君のおかげで、彼女は助かった」

 

 カウンターに寝かせた女性を示し、シリウスは言う。

 秋は軽く目を瞠った。

 

「君は彼女の命の恩人だ。そのことは、胸を張っていいと思う」

 

『助けて』と、秋の目は雄弁に語っていた。

 魂を引き裂く痛みに、耐えられないと叫んでいた。

 それでも、こうも言っていた。

『こうしなければ、勝てないのだ』と。

 

 覆しようのない戦力差。闇の時代に立ち向かうには、こちらも綺麗なままではいられない。

 綺麗事では、敵わない。

 奪われる前に奪うのだ。殺される前に殺すのだ。

 大切なものを失わぬように。

 

「ありがとう、秋」

 

 世界を守ってくれてありがとう。

 その手を血に染めてくれてありがとう。

 守られた者の礼儀として、そう、告げなくてはならない。

 その言葉こそが、秋を苦しめ、追い詰めるのだと理解しながら。

 

「…………っ」

 

 秋の顔が歪んだ。泣き出しそうな顔で、それでも涙を浮かべることなく、ただ力無く、地面に膝をついては嗚咽を零す。

 その隣に跪き、若き英雄の背中をそっと撫でた。

 

 

 

 夜はまだ明けない。




(下)は本日日付が変わる間際に投稿予定。
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