その次の日の水曜日、学校教材を買いに行くということになった。
てっきりあの空飛ぶ車とかを使うもんだと思っていたが、驚くべきことに煙突を通っていくらしい。いったいどんな仕組みになっているんだろう。
「さーて、お客様からどうぞ! ハリーとアキ、お先にどうぞ!」
ウィーズリーおばさんが笑顔で謎の粉が入った小鉢を差し出す。
戸惑ったようにハリーは鉢とおばさんを見、小さな声で「どうするんですか?」と尋ねた。
簡単にレクチャーをしてもらい、そしてハリーとじゃんけんをして、負けたぼくが先に暖炉の中に入ることになった。
恐る恐る鉢から粉を掴み、暖炉の中に投げ入れると、そうっと足をエメラルド色の炎の中へ。熱くはないけれど何だか居心地悪い。
「ダイアゴン横丁」
声に出した瞬間、地面が抜けたと思った。落ちているような浮遊感に閉塞感がプラスされた、苦手な人はとことん苦手な感覚。かくいうぼくも得意ではない。
足が地面に触れた。と感じた瞬間、硬く冷たい石の上に肩から落ちる。
上体を起こし、狂った平衡感覚を取り戻そうとぼうっとしていたら、突然後ろから突き飛ばされた。
顔面から倒れそうになったのを慌てて留める。反射神経万歳、痛いから云々とかいう気持ちもあるにはあるが、一番の要因はあれだ、過保護な兄貴のせいだ。心配性だからなぁ、ハリー。
「アキごめんっ! 大丈夫? ってか早く出て! 後ろが詰まっちゃうのよ!」
ジニーの声。どうやら、今ぼくを突き飛ばしたのはジニーのようだ。
……あれ? 確かぼくの後ろにはハリーが並んでたはず。それなのにどうしてジニーがここに?
「ハリーは?」
「うん、アキ。落ち着いて聞いてね」
「あっはっは。何を言うんだジニー、どこからどう見ても落ち着き払った大人の態度じゃないか」
「あのね、本当に落ち着いて聞いてね?」
「何をそう念押しするんだジニー。ぼくはこの上なく落ち着いて……」
ジニーは切ないものを見るような目つきでぼくを見ると、同情と焦りが入り混じったような声でぼくに告げた。
「ハリーが行方不明なの」
落ち着いてなどいられなかった。
ハリーがいない。
そのことは、ぼくをパニックに陥らせるには充分過ぎるもので。
戸惑ったようなウィーズリーおばさんや早口のウィーズリーおじさんの声に胸が騒ぎ、おちつきなく視線をさ迷わせ、トントン、と爪先で煉瓦の敷き詰められた道を叩いた。
今にも駆け出したい程の衝動が、腹の中でうごめいているのが分かる。双子やジニーが気をきかせてぼくに色々話し掛けてくるが、それすらも耳を素通りしていく。
――ぼくも君に対して、相当な過保護らしい。
影を失うような、不思議な違和感、不足感。
「――アキ」
名前を呼ばれて、顔を上げた。視界にウィーズリーおじさんの顔が広がる。
「話、聞いてたかい?」
「あ……す、すいません、聞いてませんでした……」
ウィーズリーおじさんは困ったような顔で笑うと、手分けしてハリーを探す旨を説明してくれた。暖炉のある店名を聞かされ、そこを回ってくれと指示され必死で覚え込む。
そして最後に、小さな黄色のボールを手渡された。聞くと双子作品のおもちゃらしい。手の平で握り潰すと真ん中からぱっくり開き、閃光呪文が辺りに飛び散るのだという。
ハリーを見付けたらそれを空に打ち上げてくれ、という話に頷くと駆け出した。
足の向くまま、心が求めるまま、ひたすら走る。路地を駆け抜け露店を通り店を覗き――そこで、無茶苦茶な走りのツケがやって来た。
「クソっ……っ、はー……ケホッ」
壁に寄り掛かり、体重を預けると呼吸を整える。
自分の体力の無さが嫌になる。体力だけじゃない――身長も体重も何もかも平均に届かない、こんな細くて華奢な身体が嫌いだ。
弱い自分が、大嫌いだ。
弱かったら、何も――大切なもの、何も守れないのに。
「…………守れなかったから……!」
苦しくて、もどかしくて。
切なくて、恋しくて。
もう二度と手に入らないからこそ、愛しくて……
(……え?)
これは――何?
この気持ちは、ぼくのじゃない。
じゃあ一体、この激しい感情は誰のもの?
ぞっとした。
自分が、自分以外のものに操られているような嫌悪感。
自分という存在の不確かさ。
思わず胸を抑えた。頭に手を当て、意識して呼吸を整える。
今すべきことは、ハリーを見つけること。そう、だから、こんな些細なことで立ち止まっている時間なんてない。
立ち上がった。一歩一歩足を踏み出し、歩き出す。
まず、ここの地理を把握しなくては。大通りから数本抜けたこの裏道は、なかなか複雑に入り組んでいる。さっきまでは何も考えずに走ってきたから、帰り道もここがどこなのかもよく分からない。
誰か知り合いでも通らないかな……無理だよなー……と思った瞬間、路地を二つ程挟んだ向こうに、懐かしき我が友人、アリス・フィスナーの姿が見えた。
よしぼくって超ラッキー! と拳を握り締め、「アリス!」と叫ぼうとした瞬間。
「うるせぇクソジジィ! 俺に構うなっつってんだよ!」
怒鳴り声に、思わず怯んだ。駆け寄ろうとした足が止まる。
「アリス、私は……」
「アンタの言い訳は聞き飽きた! こうやって無駄に親ぶるのも世間の目ぇ気にしてなんだろ、ホントは今にもこんなガキと縁切りてぇ癖に!」
鈍い音が響いた。アリスが小さくよろめき、左頬を押さえて凄絶に笑う。
「俺殴んの躊躇わなくなったな、アンタ」
「……そういうことを言うな!」
「アンタの望んだ『いい子』じゃなくて悪かったな。今でも遅くねぇ、他のヤツ養子にでもすればいいじゃねぇか。そいつにアンタの仕事継がせてよ、そしたら俺なんてお役御免だろ」
口元に笑みを浮かべるアリスの胸倉を、アリスの父親は掴む。こちらに背を向けているため、彼の表情は読めない。
「偽善者ぶんなよ、親父様よぉ」
「この……」
「アンタだって俺嫌いだろ? 無理しないで放っといてくれよ。そしたらアンタも俺も心穏やかに暮らせるんだからよ」
「……っ」
「周り見ろよ。町中で手ぇ出すなよ、目立ちたくねぇだろ? 家ン中じゃねぇんだよ」
指摘され、乱暴にアリスの父親はアリスから手を離す。
乱れた襟を直しながら、アリスが無表情で呟いた。
「来年まで帰って来ねぇよ、クソ親父」
「……私も、顔見たらお前を殴らない自信はない。そうしてくれ」
「望む通りにするさ」
小さな麻袋が――金貨でも詰まっているのだろう――宙を舞う。危なげなく片手でキャッチして、中身も確かめず、乱雑にアリスはそれをポケットの中に突っ込んだ。
そして父親の横を通り過ぎる。
「……アンタ、母さんと結婚なんてしなきゃ良かったんだよ。……俺なんて、生まなきゃ良かったんだ」
反論しようとしたように、ぼくには見えた。そんな感じの振り向き方だった。その時初めて、ぼくはアリスの父親の顔をまともに見た。
極々普通の、優しそうな顔立ちをした人だと思った。彼が今さっきアリスの頬を殴り、胸倉を掴んだ人だとは、到底思えなかった。
「……あ」
その時、まっすぐこちらへと歩いてきていたアリスがぼくに気付いた。戸惑ったように足を止め、そして再び近付いてくる。
「……よう」
「……久しぶり、アリス」
「何やってんだ、お前?」
一瞬盗み聞きを咎められたのかと思ったが、違ったようだ。
ハリーが行方不明であることを説明すると、呆れたようにため息をついてから「で? どこ回りゃいいんだ」とぶっきらぼうに呟いた。
いつもと変わらないアリスに、ぼくはさっきの親子喧嘩について尋ねるきっかけを完全に失った。
ちらりと後ろを振り返る。
アリスの父親の姿は、既に無かった。