到底信じられないかもしれないが、俺、アリス・フィスナーは、幼い頃はどうしようもないくらいの父親っ子であった。
父の後をどこまでも着いていくのは勿論、父のやっている事は何でも真似したがった。
あの頃の俺にとって、父親というものは憧れの象徴でもあった。
大きく、明るく、優しい父。仕事が忙しいため殆ど帰ってくることはなかったが、それでも、一週間に一度ほど帰ってくる父親が、幼い頃の俺は、大好きだった。
でも、成長するに従って、様々な事柄の道理を理解するにつれて、今まで見えなかったものが見えてくる。
どうして、母は外に出ないのだろう?
始めは、そんな違和感だった。
父の仕事関連でパーティーに誘われるときも、当然のように母は家に居残った。そのことがあまりにも日常過ぎて、俺はそこで出会った同年代の二人、マルフォイとアクアに聞かれるまで、そのことを不審に思いもしなかった。
『アリス、君のおかあさまはどちらにいるんだい?』
母親もこの場に『いる』ことを前提としてされた質問に、俺はしばらく、言葉を失った。
母は家から出ないんだ。そんな俺の言葉を聞いてからのアクアの台詞が……きっと本人は、もう覚えていないだろう。だが俺は、あまりにもぴったりすぎて、年を経た今でも、その言葉が当てはまり過ぎて、忘れることなんて出来ないくらいになってしまった。
アクアはあの時言ったのだ。
『……じゃあ、アリスのおかあさまは、とらわれのおひめさまみたいね』
成長し、魔法という概念も、存在も、はっきり分かるようになった頃、気付いた。
母は俺達とは違うのだ、と。
何も出来ない、囚われのお姫様。
お姫様は、王子様に助け出されるのが普通だろ?
じゃあ、王子様がお姫様を閉じ込めていた場合、誰がお姫様を助け出してあげるんだ?
父がお姫様として、一生添い遂げると決めた相手は。
穢れ無き血、魔法族のみの家系として、その希少さを誇りに生きてきた家柄の直系の末裔が選んだ人は。
あろうことか、マグルの女性だった。
◇ ◆ ◇
フィスナー家。
かつて純血として、魔法界の中の中でも誉れ高き位置にいた、純血一族の家柄の一つ。
その歴史は古く、代々直系の男児は、ホグワーツ魔法魔術学校を卒業すると、魔法省内閣のポストの一つ、王室警護の任を与えられることとなっている。また魔法界の『中立不可侵』として、表と裏とを機敏に見、立ち振る舞うことを求められるのだ。
自分たちの役割が、今の英国魔法界にとってどれだけ重要なものであるのか。
そのことに驕ることなく、任に相応しい人物になれ――父は幼い頃から、俺にそう強いてきた。
魔法使いだからといって、杖に、魔法だけに頼るな。
剣術、体術、格闘術。礼儀、礼節、作法。
誰よりも正しい人であれ。
そう言い聞かせられて育ってきた。
その教えに盲目的に、従順に従ってきた。
――母さんが倒れる、あの日までは。
元々、虚弱な人だったのだと言う。
俺を産むことも、母には大仕事だった。
ましてや、魔法族の中の魔法族、純血を誇りとする一族に嫁ぐなど――
元々母には、荷の重い仕事だったのだ。
食事に不自由することはなかった。洋服だって何だって、欲しいのは何もかも手に入る、そんな生活だった。
魔法界でも恵まれた家族。古くから途絶えることなく続いていた、純血の血筋。高貴なる家系。
それは、母の存在を隠蔽することによって成り立っていたのだと、初めて理解した。
今まで気付かなかった、親戚中からの母への嫌がらせ。悪意のある、悪意しかない行為。
病は気から、という言葉がある。その言葉通り、母は身体より先に、精神を病んでしまった。
いつも通り笑顔の母に見送られて学校へ行って――帰ってきた時、母はもう病院に運び込まれた後だった。
母は、俺とは会いたくないと言ったらしく、俺は母と面会することすら許されなかった。
それは今思えば、心を病んだ母親の姿を息子に見られたくない、息子には元気な姿だけを見せたいという母の思いからだったのだろうが……幼い頃の俺はその辺りの機微に気付けず、随分とショックを受けた記憶がある。
広い屋敷に、俺と使用人だけ。
父が自宅に帰ってくることは、なかった。
それから3ヶ月後、母との面会は許可されるようになったが……それは母の容態が良くなったからではなく、むしろ逆で、いつ急変してもおかしくない状態だから、というのが理由だった。
もともと病弱だった母の身体を、どんな病が蝕んでいたのか、医者が一度説明してくれたようだが、俺は覚えていない。
覚えているのは、綺麗だった母の変わり果てた姿と、痩せ細った枯れ木のような腕。全身をコードで繋がれながら虚ろな瞳で虚空を眺める母に、涙すら出なかった。
俺の目にも、母は永くないのが分かった。だから、面会が許可されたのだということも、一瞬で理解した。
俺は毎日、母の病室に通った。たまにだが、アクアやマルフォイ(この時にはまだドラコとファーストネームで呼んでいたか)も付いてくることもあった。もちろん、2人とも家族には内緒でだ。
あいつらの親は、マグルである俺の母とあいつらが接触するのを、まるで母が病気でも持っているかのように極端に嫌がる。だから俺も、アクアとマルフォイには付いて来るなと何度も念を押すのだが、あいつらは黙って付いてきて、そして黙って俺の母の手なり顔なりに触れて帰る。それが、あいつらなりの気遣いだったのだろう。
きっと、何度も怒られたことだろう。特にマルフォイの家はマグルに厳しい、マグルと混ざったとはいえフィスナー家直系の俺と関わるのはともかく、マグルである母との関わりはきっと許されなかったはずだ。
でも、2人とも何も言わなかったし、俺も何も聞かなかった。
それから半年後の冬、母の容態が急変したと病院から連絡が入った。
俺はすぐさま父に連絡した。父親の姿はもうかれこれ一年近く見ていなかったが、でも自分の奥さんが危険な状態なのだ、絶対に駆けつけるだろうと思った。そう思っていた。
しかし待っても待ってもふくろう便は返ってこなかった。父も帰ってこなかった。
最期の最後に、母は俺を見て微笑んでくれた。最期に、母は自分の心を取り戻した。
俺の名前を、そして最期に父の名前を呼んで、母は静かにこの世を去った。
俺が9歳の時、母は33歳の若さで旅立った。
◇ ◆ ◇
葬儀は身内だけのこじんまりとした式として執り行われた。
葬儀は驚くほど手間が掛かる。その忙しさの中、父はおよそ一年ぶりに俺の前に姿を見せた。
母には親類が誰もいなかったらしい。よって式は父の身内で行うこととなった。
マグルである母の葬儀に参列する人は殆どいなかったが、僅かながらいた人たちも皆一様に、死者を悼む争議の場であるにも関わらず、出るのは母への気遣いではなく、母への誹謗中傷が主だった。
死んでもまだ、母はここまで言われなければいけないのか。
魔法が使えることがそんなに偉いのか? 魔法を使えないことが、そんなにも悪いことなのか?
母が一体何をした。お前らに一体何をした。
純血であることが、死者を冒涜する以上に大切なことなのか?
腹が立ってそいつらに言い返そうとした時、父が見計らったように俺を止めた。
「アリス。やめなさい」
その声に、その言葉に――限界まで堪えていた全てのものが、決壊したのだと思う。
気付けば俺は、葬儀の最中だというのにも関わらず、父に掴みかかっていた。
何を叫んだかは、はっきり覚えていない。ただ一言、これだけは覚えている。
『母さんが死んだのはお前のせいだっ!』
何故覚えているかと言えば、この言葉を叫んだ瞬間、父の表情が変わったからだ。
感情が抜け落ちたような、とでも表現するのだろうか。今まで見たことない表情に、思わず俺も力が抜ける。
その直後、俺は親戚の手によって父から引き剥がされた。
その手を振りきって全力で走り――気が付いたら、見知らぬ土地にいた。
◇ ◆ ◇
そこからの話は、ここでは必要ないだろう。この後俺は、まぁなんだ、とある人に出会い、そして別れの際にピアスを片方譲り受けることになる。
俺が父と母のことを整理する間というか、俺が精神的に落ち着くまで傍にいてくれたあの人に関しては、語る必要はないように感じる。
ただ、今思えば――微妙に父さんに似てる人だった気もするな、なんて。
そう思うのは、今の俺があの頃よりかは色んなことを受け入れられるようになったからだろう。
いや、父さんに似てたけれど、あれは、あのお節介はむしろ――あ、いや、何でもない。
とりあえず、あの人が支えてくれたおかげで、今の俺はここにいる。
それだけ分かっていれば、十分だろう。
ドアが開く、音がした。
そちらは振り返らない。
背を向けたまま、応対する。
「……アリス」
張り詰めたように、俺の名前を呼ぶ。この人でも緊張しているのか、と思うと、何だか笑い出したくなった。
「……お前が生まれる前に、お前の母さんと一緒に名前を決めたんだ。子供の名前は、アリスにしようって。
……母さんが好きだった絵本の主人公の名前だよ。彼女のように、可愛らしさ、優しさ、素直さ、おとなしさ、礼儀正しさ、そして好奇心に富んだ子になって欲しいと願いを込めた。
……それから僕は出張で家を離れることになって、結局お前が生まれるのにも付き添えなかったんだけど……あいつはお前に『アリス』と名付けて、僕の帰りを待っててくれた。
僕は、アリスという名は生まれてくる子が女の子だったら付けようと思っていた名前だったんだけどね……僕と話し合った名前にそうこだわらなくても良かったのに、なんて言うと、あいつは笑って言ったんだ。
『だってリィフ、
……君のお母さんは、そんな、自由な人だった」
「……そんな自由な人を、アンタはフィスナー家という鳥籠に閉じ込めた」
「否定はね、出来ないよ」
「…………」
「閉じ込めることになると分かっていても、それでも好きだった。会えないと分かっていても、それでも好きだったんだ、母さんのことが」
「…………」
「お前もいつか、この気持ちが分かる時が来ると思う」
「……さぁ、どうだろうな」
目をゆっくりと瞑った。息を吐き、両手で顔を覆う。
「俺は、アンタが許せない」
「…………」
「母さんを死なせたのはアンタだ。俺のその気持ちは、これから先もずっと変わらない」
「……アリス」
「でもな。……本当はきっと、最初から気付いてたんだよな、俺」
振り返った。父親の姿を目に捉える。
最後に記憶に残っていたのは、母の葬儀のあの時の姿。それから3年の歳月は、人の外見もそこそこ変えてしまうらしい。
父親の姿すらも、今までまともに見ていなかったのか。
「母さんは最後に、自分の心を取り戻した。最期に、母さんは言ったんだ……『子供の時からずっと、大好きだったよ』って、アンタに……」
どんなに傷ついても、どんなに傷つけられても、最期に母が言った言葉は、父への愛の告白だった。
その事実は、変わらない。
父は黙って、両手で顔を覆った。力なく床に膝をつく。何かを堪えるようなため息が、肩の震えと共に漏れた。
「……だからさ」
俺は、アンタを許そう。
だから、アンタも。
もう一度家族になる努力を、してくれ。
「母さんの話、もっと聞かせてよ。……父さん」