ガンダムビルドダイバーズ ブレイヴガールフラグメント 作:守次 奏
綾乃の家は、都心近郊にその居を構えていることもあってかなり大きなものだった。
木造の二階建てに併設されている、年季の入った離れはいつも綾乃と与一が素振りや型の打ち込みを行っている道場であり、昔は門下生も取っていたのだが、現在は師範である祖父の高齢化に伴って中止している──と、綾乃は少しだけ気恥ずかしそうに扇子を口元に運びながら優奈へとそう語る。
包み隠さずにいうのであれば、度肝を抜かれた、というのが優奈としては正直なところだ。
綾乃のリアルについて踏み入ったことを聞いていなかったのだから当然ではあるものの、大概お嬢様と呼んで差し支えない家の出だったことは、どちらかといえば小市民的なユーナにとっては驚きに値することだったし、同時に剣術の道場で稽古をしている、と聞かされれば、GBNにおけるあの冴え渡るような剣技にも納得がいく。
「わぁ……すごいんだね、一条さん!」
「……そんなことないわ、といっても変に受け取られてしまうわね。ただ今は何をしにきたか、わかっているでしょう?」
「うん! 英語の勉強会だよね! えへへ、わたし楽しみで、購買でお菓子と飲み物買ってきたんだ」
「……休憩は必要だけど、ちゃんと勉強はしないとダメよ?」
赤点回避がかかっているというのにどこか浮き足立つような調子で喜びを露わにしている優奈を一瞥して、綾乃は眉間を押さえながらそう呟く。
自分の生家が比較的、というよりかなり恵まれているというのは綾乃も薄々感じているところだった。
小学生だった頃に家の話をした時、いつも友人たちはマンションやアパートの一室を挙げていたのに対して、道場がある、と答えた時はなんだか変なものを見るような目で見られたことは、今でも覚えている。
だからこそ、綾乃は人前で家の話をするのは避けようと、そう思ってずっと過ごしてきたのだ。
それがこうして、勉強会という形であれ、友人を招くというのはそんな綾乃にとっては初めての経験だったし、正直なところ、優奈に負けず劣らず興奮している、という自覚もある。
ただそれは、いつでもやろうと思えばできることだったのかもしれない。
優奈の車椅子を玄関の三和土から家に上げて、いつもは客間として使われている一室へと向かう。
綾乃の部屋は二階だったが、流石に車椅子を使っている優奈を運べるほど階段の段差はなだらかではないし、何より無駄に長いからということで昨日、両親には客間を使う許可を取っておいたのだ。
「でも一条さん、本当に大丈夫? わたし、その……」
「心配ないわ。父様も母様も、与一兄様とお祖父様も優奈が来ると伝えた時に、その……喜んでいたから」
「喜んでた……?」
「……恥ずかしいけど私、今まで家に友達を呼んだことなかったから」
昨日の食卓で勇気を持って切り出したら、祖父と父、そして与一が豪快な笑い声を上げてそんな綾乃の「はじめて」を歓迎してくれたのはよく覚えているし、忘れろといわれても、その絵面の濃さから忘れられるはずもない。
そして、当然の如く母に怒られていた男三人衆だが、祖父によれば一条家の男子は代々こんな感じで、顔も知らない曽祖父も、そのまた父も、竹を割ったような、よくいえば豪毅で、悪くいえば大雑把な人間だったらしい。
そういう意味で、綾乃は母に似たのだと思った。
静寂を好み、淡々と、粛々としていながらもその背筋は誰かに媚びることなく真っ直ぐに伸びて、例え祖父が相手であっても臆することなく「静かにしてください」と言い放てる女傑が綾乃の母こと一条彩奈という人間だ。
流石に彩奈ほどの度胸は持ち合わせていなくとも、静寂を好むという点において間違いなく綾乃は母親によく似ていた。
優奈を客間まで案内し終えると、さっそく座卓に勉強道具一式を広げて、綾乃はその瞳に爛々と炎を煌めかせる。
「さて、優奈。早速始めるわよ。兵は拙速を尊ぶ、善は急げ……とにかく早いに越したことはないのだから」
「うぅ、正直教科書見るだけで目眩がしてくるけど……よろしくお願いします、一条さん!」
「任せなさい、優奈。と、いっても私もあまり英語は得意ではないのだけれど」
それでも綾乃の平均点は概ね85点から90点の間を行き来するくらいに落ち着いているのは、英語教師が作る小テストが愚直なまでに教科書に沿った内容だからだ。
いきなり英作文を書いてくれ、といわれたとしたら、綾乃も優奈と同じようにフリーズして頭を抱えるものの、読解と単語の正解を選ぶ択一式の問題であれば、暗記でなんとかなる範囲だ。
定期試験にはこれにリスニングが加わるものの、はっきりいってリスニングは捨てたとしても、残りで挽回すれば赤点は回避できるし、なによりリスニングは択一式の問題と抱き合わせになるから、当てずっぽうでも案外なんとかなったりする、というのもまた大きい。
綾乃は丁寧にアンダーラインが引かれた教科書と、これまた几帳面に綺麗な字がびっしりと並んでいる復習用のノート──授業中にとったものを清書しているそれを取り出すと、同じように教科書とノートを取り出した優奈に、本文の解説を始めていく。
「ここの文法は前習ったところの応用ね。詰まったら前のページの練習問題を解くか、最悪答えを見るだけでもいいから覚えておくといいわ」
「文法……文法? うう、頭がぐるぐるして焦げついちゃいそう……」
「……そのレベルからなのね、まあいいけれど」
「ごめんなさい、一条さん。わたし、バカだから……」
「大丈夫よ。優奈はただ慣れていないだけ。GBNと同じようなものよ」
頭を抱える優奈に対して、綾乃は諭すように優しく言葉を紡いで、おそるおそるといった調子でその髪の毛にそっと触れる。
暴論ではあるものの、基本的に高校英語にしろそれ以前にしろ、読解をするのであれば重要になってくるのは中学一年生、或いは小学校で習うような基礎文法だ。
何の意味もない文章として槍玉にあげられがちな「This is a pen」という文書だって、英語の基礎の基礎、入り口としてはわかりやすく優秀なテキストだからこそ、教科書に採用されているのだろう。
それにしたってトムと机は間違えようがないだろうが──と、関係ないところに思考が飛んでいきそうになるのを抑えて、とりあえずは小テスト対策の範囲になりそうな単語から綾乃は優奈へと教えていく。
「この単語はこういう意味よ。教科書の右側に書いてあるでしょう? それと、私の作った単語帳でよければ貸してあげるから、明日ギリギリまで覚えるといいわ」
「うぅ、一条さんの優しさが染み渡るよぉ……ありがとう、一条さん!」
「……礼には及ばないわ。だって……その、私たち、友達、でしょう?」
即席の、昨日の夜に作った単語帳を優奈へと手渡しながら綾乃はそう口にする。
友達のために力を貸すのは当然のことだ。
それが世間で当たり前なのかどうかは明後日の方向に放り投げておくとしても、綾乃にとっては一種のモットー、信条のようなものだった。
これでもし優奈から友達じゃない、という答えを返されたのなら、一ヶ月は、いや、それどころか一年以上は再起不能になりかねないという不安があったからこそ、綾乃の語尾は次第に沈んで、そして半ば自分に問いかけるようにそう口走っていたのだ。
だが、優奈はそんな綾乃の不安などどこ吹く風とばかりに、いつもの調子で、爛漫の春を思わせる元気いっぱいな笑みを満面に浮かべていた。
そして、綾乃の不安をその春風で吹き飛ばすかのように、逸らした視線を見据えて、微かに震える手を優奈はそっと包み込む。
「大丈夫だよ、一条さん! わたしも一条さんのこと、その……一番の友達だと思ってるから! えへへ」
「優奈……」
こんな自分に構ってくれて、一緒にGBNを楽しんでくれるだけでなく、勉強まで教えてくれるような綾乃を誰が蔑ろにできるだろうか。
そう言わんばかりに優奈は見えない尻尾を左右に大きく振り回しながら、綾乃との出会いを回顧する。
もしもあの時、ハードコアディメンション・ヴァルガに自分だけが飛ばされていたなら、多分GBNは辞めていたかもしれない。
綾乃がいてくれたから、綾乃が助けてくれたから。
そして何よりも──こんな自分を、綾乃は気にしないから。
ともすれば、それは理由を他人に放り投げているだけなのかもしれないが、それでも優奈にとっては綾乃の存在こそが理由だったのだ。
苦手な勉強へと向き合っているのも、同じことである。
かりかりとシャープペンシルで単語とその和訳をノートに書いて、とにかく暗記のためだけに単語を何度も繰り返し書き続ける、という作業に向き合いながらも、優奈の意識は目の前の勉強よりも、どこか心配そうに、不安げに自分の様子を伺っている綾乃へと向けられていた。
不躾な感想であることはわかっているものの、やっぱり綾乃は美人だ。
包み隠さずに本心を曝け出すなら、優奈はそんな際立った顔立ちをしている綾乃を少しだけ羨ましいと思っていた。
髪型こそ無頓着で、前髪も目に届くくらい伸びているけれど、そこから覗く切れ長の瞳は鋭利な刃物のように美しく、睫毛もエクステを使っていないのに長くてばさばさとしていて、薄くも確実にその柔らかさを主張している唇はリップグロスによって潤いを保っている。
もし綾乃が制服ではなく、私服に着替えて街を歩いた時、道行く人たちにその年齢を尋ねたなら、きっと大人びて見られたことで、実年齢より上だと、大方の人間がそう答えるだろう。
対して自分はちんちくりんで童顔で、以前に街を散歩していたとき、信号機のある横断歩道を渡らなければならなかった時に手伝ってくれた人には「中学生ですか?」なんて訊かれたことを思い出す。
「……優奈、どうしたの? 私の顔に答えは書いてないわよ?」
「あ、ううん! 違くて、その……一条さんって、大人っぽくて綺麗だなって、そう思ってたの」
「……っ、そ、そう……ごめんなさい、面と向かって褒められるのは慣れていないから……」
大人びている、というのは得てして実年齢より老けて見られるということでもあり、それはそれで複雑なのだが、どちらかといえば最低限の身嗜みは整えながらも、お洒落だとかそういうことに気を遣ってこなかった綾乃にとって、面と向かって「綺麗だ」と言われたのは初めての経験だった。
思えば小学校時代も中学校時代も、あまり他人と関わってこなかったせいもあるのだろうが──それはともかくとして、急に容姿を褒められたことで、綾乃の頬は紅染めでもしたかのように淡い赤を帯びていく。
「邪魔するぞ、綾乃!」
そんな具合に、綾乃が余韻に浸っていた時だった。
どことなく気怠く、甘酸っぱい雰囲気を吹き飛ばして、竹を割ったような大声が客間の障子越しに響き渡る。
昼間から、それどころか朝っぱらからそんな大声を出している人間に綾乃の中で心当たりは複数あるものの、帰ってきたタイミングと声からして、完全にその主は与一であるに違いない。
「はい、与一兄様。今開けます」
「うむ。助かる! と、いってもおれはお邪魔虫だろうからな! 何、大して時間は取らせない。差し入れを持ってきたのだ!」
はっはっは、と、障子を開けるなり豪快な笑い声が響き渡る。
相変わらず散切り頭に袴と和服といった、若干時代を間違えているような私服に身を包んでいる与一は、おそらく大学の授業が終わった帰りなのだろう。
「邪魔をしてすまないな、綾乃のお客人! いや、友人か! これからもおれの妹をよろしく頼むぞ! はっはっは! では、おれはここらで退散することにしよう! 二人とも、励むのだぞ!」
──はっはっは。
そして、そんな大声と共にビニール袋を綾乃へと差し出すと、邪魔をしたとばかりに、与一はそのまま道場のある離れの方へと歩き去っていく。
「……ごめんなさいね、やかましい兄で」
「……ううん、大丈夫! 与一さん、っていうんだよね? なんだかわたしも元気貰ったみたいだし、息抜きにもなったから!」
優奈は若干与一のテンションに面食らっていたところもあったのか、少しの間を置いて綾乃へとそう語った。
与一が持ってきた差し入れはプロテインバーにラムネなど、手早くエネルギーを補給できるものが中心であり、色々と大雑把ながらもそういうところを外してこないのは、武芸者らしいと綾乃は苦笑する。
ただ、その中に気の抜けたコーラが混ざっているのは流石にどうかと思うが。
「炭酸抜きコーラ……?」
「エネルギーの補給効率がいいらしいわ。私は飲んだことないから知らないけど」
ただこれも、与一の思いやりなのだろう。
そんな風に解釈すると、綾乃は優奈の分も手渡して、気の抜けたコーラをぐいっと煽った。
やはりというかなんというか、気が抜けている分カラメルの甘みがダイレクトに口の中へと広がってきて、お世辞にも美味しいとはいえない代物だ。
そんな風に、綾乃と優奈が顔を突き合わせて苦笑していた時だった。
「騒々しいと思ったら……もう、与一はご学友が来てるのに遠慮を知らないんだから」
「母様」
障子を溜息混じりに開け放ったのは、長い黒髪を一つ結びにして割烹着を着込んだ、綾乃とよく似た容姿を持つ人物──母である彩奈だった。
呆れたような表情をしている彩奈の手にはやはり差し入れと思しき煎餅だとかそういった軽食が詰まっている袋が携えられていて、考えることは同じなのだと、綾乃は母に気付かれないように扇子を広げて、苦笑が滲む口元を覆う。
「──ぁ、ッ──」
だからだったのだろう。
蚊の鳴くような、むしろその断末魔にも似たか細く、甲高い声が優奈の喉から零れ落ちていたことに、綾乃が気付くことはない。
綾乃には仲の良い兄がいて、母がいて──そして、今はいないけれど父と祖父もいる。
道場の方から木剣を打ち合う音が優奈の耳朶にそっと触れて、そこには「誰か」がいるのだということを否応なく物語っていく。
かりかりと単語をノートに刻み付けていた手は止まり、飲んでいた気の抜けたコーラからは、カラメルの衣が剥ぎとられたかのように味が一気にしなくなる。
気にしたところで何かがあるわけでもない。
そして、綾乃が気付いたところで何かが変わったわけでもない。
ただ、当たり前にそこにあるものに対する断絶──どうしても埋めることのできない、繋ぎ合わせることのできない不和があるだけだ。
「優奈、どうしたの? 手が止まっているけれど」
呆然としていた優奈を気遣うように、綾乃はそっと優しく語りかけるが、今はただ、その優しさが何よりもささくれ立った心を抉って、過去の瘡蓋を引き剥がすような痛みを残すのだ。
──それでも、綾乃は悪くない。
だってそれが、当たり前だから。当たり前の形だから。
「えっと……問題が難しくて、えへへ」
優奈はふっ、といつものように微笑むと、困ったように頭をかいて、嘘偽りがなくとも、真実には程遠い言葉を口にする。
「そう。確かに覚える単語は多いかもしれないけど、頑張って」
「うん! 赤点でGBN禁止されちゃったら堪らないからね!」
そうして、優奈は考えることをやめた。
先ほどまで思考が横道に逸れていたのが嘘のように、単語の書き取りに集中して、優奈は取り組んでいく。
まるで何かを振り切るように、何かから逃れるかのように。
だが、綾乃がそれに気付くことは決してない。
それはひとえに、知らないからという言葉に尽きる。
そして──優奈が頑なに伏せ続け、綾乃もまたその伏せ札をめくろうとしないから、そんな些細な不和が、ささくれ立つような小さな断絶を生み出しているのだった。
◇◆◇
「今日はありがとう、一条さん!」
午後八時、勉強会を終えた駅までの帰り道で、優奈は満面に笑みを浮かべながら、綾乃お手製の単語帳を手にそう言った。
そこに偽りはない。純粋な感謝を抱いているのは嘘ではない。
このままでは赤点だった自分をなんとかなりそうなところまで引っ張り上げてくれたのが綾乃なのだ。
そんな彼女に感謝こそすれど、恨む理由がどこにあるのだろうとばかりに、優奈は気丈に微笑み続ける。
「……私の方こそありがとう、優奈。その……泊まっていかなくて、いいの?」
「えっと……今日は着替えとか持ってこなかったから、えへへ」
「……それもそうね」
「だから、いつか機会があったら、その時はお願い!」
そうして、いつもの駅からは数駅離れた、綾乃の家の最寄り駅へと二人は夜道を歩んでいく。
そこに小さなささくれを抱えながら。優奈はそれを隠して、綾乃はそれに気付かないままに、そして何事もなかったかのように、「また明日」と、二人はいつものように約束を交わすのだった。
ちょっと不穏