突然訪れた平穏な日々に戸惑っていたのは、ユバの戦士だけではない。
例えば、それぞれの民族の中にも、戦う役目を担った祈り人たちがいる。草原のライカ村は元より活発な気質で、狩猟や傭兵を生業とするものが多い。しかし、侵略者や魔物から身を守る必要がなくなった今では、慣れないながらも農作業や裁縫を手伝う顔がちらほらと見られた。
ライカ村の女狩人であるイメラもその一人だった。狩り装束よりもずっと武骨な作業着で泥だらけになりながら、悪友のイナウケを見てひどい顔だとお互いに笑いあう。畑仕事なんて地道なことは自分には似合わないと思っていたが、こういうのも案外悪くないかもしれない。
しかし、そんな穏やかな時間は長くは続かなかった。
作業着の裾が足にまとわりつくのに舌打ちしながら、イメラは一心不乱に駆ける。目的地は、現在ライカ村の族長を務めるイナウケの住居だ。周囲の小屋よりも幾分しっかりとした作りの扉を蹴り開けるような勢いで開け、イメラは叫ぶ。
「イナウケ! まだ起きてるか!?」
「……うん。どうしたの、イメラ」
イナウケは呼びかけにこたえ、寝台で上半身だけを起こした。いつも結い上げられている長い髪は、今は下の方でゆるく一つにまとめられて肩から胸に流されている。少し気だるそうな声は、陰の落ちた表情とあいまって、普段の活動的な雰囲気とは全く違う美しさがあった。
まだ日も高いのに横になっているイナウケをいぶかしむ様子もなく、イメラは入り口の横の水瓶から水を汲んで弾んだ息を落ち着かせる。そして拳で口元を拭うと、寝台のイナウケに向き直った。
「また出たぞ、起きられなくなった奴が。これでもう、ライカ村では四人目だ」
「……四人目? 今朝の時点では二人だったのに」
「アイサとヤイサだよ。二人同時になったから、こんな時間まで気が付かなかったんだ」
「そう……本格的にまずい事態ね」
イナウケのため息を聞くと、イメラは眉間に深い皺をきざんだ。そして土足のまま小屋に上がり込むと、イナウケのすぐ隣、拳一つ分もないくらいの距離に腰を下ろす。
「まずいなんてもんじゃないだろ。フシコもレキムのオヤジも、もう二日も目を覚ましてないんだぞ? このままだと死んじまうかもしれねえのに、なんでそんなに落ち着いてられんだ」
「怒鳴んないでよ、イメラ……これはライカ村だけの問題じゃないんだから。ウタリ村でもリムセ村でも、それどころか他の民族の集落でも、眠り込んだまま目を覚まさない奴らが何人か見つかってるって聞いたでしょ? でも、どこの村でも、まだ原因や治療法は見つかってない。対処法が分からないんだから、焦っても仕方がないじゃない」
「だからって何もしねえつもりかよ!」
「だったら何ができるか言ってみてよ、イメラ。あたしたちにできるのは、眠りこんだ皆の口にどうにか食料を押し込んで、目を覚ますのを待ちながら体を綺麗にしてやることだけ。違う?」
「イナウケ……っ!」
ぎり、と音がなるほど奥歯を噛むと、イメラはイナウケの肩を掴む。薄手の寝間着は簡単にしわになり、その下の体の線をはっきりと浮かばせた。
イナウケは抵抗せず、反対にイメラの手に体を任せるように力を抜いてもたれかかる。イメラは思ったよりもあっけなく倒れこんできたイナウケの体に、分かりやすくうろたえた。
「い、イナウケ!? どうした、また気分が悪いのか!? 昨日倒れたばっかりなのに、朝から無茶するから……! 待ってろ、今薬を……」
「いや、今は大丈夫。ただ、こうしていたい気分なんだ……ねえイメラ、もっとそばに来てよ」
困ったように黙ると、イメラはおずおずとイナウケの首元に頭を摺り寄せた。日に焼けた赤っぽい髪から香る子犬のような匂いを感じて、イナウケの顔がわずかにほころぶ。
「分かってるよ、イメラ。あんただって不安なんだよね。でも、あんたのそんな顔、見たくないよ」
「イナウケ……」
「……ごめん、水を一杯くれない?」
「分かった、すぐに持ってくる」
イメラはそっとイナウケの体を枕に預けると、木の杯に水を汲んでイナウケの口元へ持っていく。
イナウケは幼い子供が母にそうされるように、イメラの手から水を一口だけ飲んだ。そして静かに息を吸うと、
「……イメラ。もしあたしが、」
「……やめろ、言うな!」
イメラはイナウケの言葉を鋭くさえぎって、先ほどよりも強くイナウケに縋りついた。その声には怒りよりも、追いつめられた獣のような必死さが込められている。だが、イナウケはイメラの制止に構わず、独り言のように言葉を続ける。
「もしあたしが起きてこなくなったら、あんたがライカ村をまとめるんだ。いいね?」
「……いやだ。オレには、そんなこと……」
「勘違いしないでよ」
イナウケは小さく笑うと、胸元にうずめられたイメラの髪をくしゃりと撫でる。
「あんたに族長を譲るつもりはない。ただ、あたしが眠ってる間だけ、村のことを任せたいんだ。こんなこと、あんたにしか頼めないよ」
「……ふざけんな。そんなこと言って、オレに雑用を押し付けるつもりなら承知しないからな。このでっかい家ん中も族長権限でめちゃめちゃにしてやる」
「はは、おっかないなぁ……」
イメラは力なく笑うイナウケを見上げるが、昼間なのに分厚い雲が日を隠しているせいで、その顔は暗い影に覆われている。イメラを抱き寄せる腕の力がいつになく弱いことは、ついに最後まで言い出せないままだった。