強く吹く風は、ただ砂と乾いた空気だけを運んでいく。渓谷の強風はいつものことなのに、今日はいっそう激しく感じた。
ナーダは抱えていた籠を置き、手近な岩場に腰を下ろす。籠の中に入っているのは、暗い色のキノコだ。今日は少し遠出をしたから、思ったよりも多く集めることができた。これを干して保存すれば、しばらくは食料に困らないだろう。
いつものくせで空を見上げるが、やはり今日も曇り空だ。白く分厚い雲は、未来を何も教えてはくれない。
けれど、ナーダはしばらくそこから動く気になれなかった。
集落に帰れば、皆の疲れた顔が待っている。山の裏まで足を伸ばして集めてきた食料は、腹を空かせた民の手によって分けられ、自分の手元にはわずかしか残らないだろう。それは仕方のないことだ。
もっと集めてきてほしいと要求されたり、これしかないのかと責められることだって、十分に考えられる。看病にかかりきりになっている者や、そもそも体が動かせない者だって多いのだ。肉体労働が得意でなくても、目だった傷病がないナーダが採集に回されるのは当然のことだ。
分かってる。今日も明日も、皆のためならきっと働ける。だけど、一人になれるわずかな時間だけは空を見ていたかった。
真っ白な空に向かって、ナーダは両腕を伸ばす。しばらくこうしていると、血の気が引いた指先が痺れて、感覚が他人のもののように遠くなっていく。そのままじっとしていると、体がそのまま一面の白の中に溶けてしまいそうだ。
そんなことをぼんやり考えていたものだから、近づいてくる人の気配に気が付くのが遅れた。
「……ナーダ? こんなところに座り込んで、気分でも悪いの?」
「っ!?」
穏やかにかけられた声に、ナーダはびくりと身を震わせた。この岩場は街道からはかなり外れたところにあり、通りがかりに寄るような場所ではない。
有益な草花や獣がいるわけもなく、乾いた風が岩を撫でるだけの寂しい場所なのだ。あるのはそれこそ、日陰に生えるキノコくらいのものだ。
目の前の人物もそれを探しに来たのだとしたら、すでに採り尽くしてしまったことを告げねばならない。しかしラルク・オグは、ナーダの心を読んだように軽く首を振った。
「私は採集とは別の用事で来たの。ナーダの成果を横取りするつもりはないよ」
ラルクは渓谷の祈禱師で、ナーダとは従妹の関係でもある。わずかに青みがかった銀髪には、見る人が見れば二人の血縁を感じることができるだろう。
ナーダにとってラルクは、同じ占いの力を持つだけでなく、祈祷によってその結果に干渉することもできる、頼れる存在だった。たとえ瘴気によってラルクの肌が人のものとは思えない色に染まってしまっても、額に異形の角を授かっていても、ラルクへの信頼は変わらない。
ラルクは岩場の隙間の少し開けたところに座り込むと、何か布らしきものを広げた。その上に、澄んだ氷のような青い指が、きらきらと輝くものを乗せていく。
「それは……宝石、ですか?」
「うん。ちょっと前に、高山の人から分けてもらったの」
地面に宝石を並べ終わると、ラルクはナーダの方へ歩いて戻ってきた。その手には、先ほど敷いた布からつながった細い紐が握られている。
「小さいけど、どれもきれいでしょ? こんなことに使うのがもったいないくらい」
「こんなことって……?」
「見てればそのうち分かるわ」
と、ラルクは指を一本立てて空を指した。その先を視線で追うと、一面の雲を背景に、黒い円を描くように動いているものが見える。
あの影はきっと、コンドルだろう。大きく旋回する姿は、目的なくゆったりと飛んでいるようにも、地上の獲物に狙いを定めているようにも見える。ここを狩場としているのだろうか。
「……あの鳥はね、光るものが大好きなの」
何も尋ねていないのに、ラルクは小さく呟いた。その視線はナーダでもコンドルでもなく、地上に撒かれた宝石へと向けられている。まるで、何かを待ち受けているように。
迂闊に返事をすればラルクの集中を切らしてしまいそうで、ナーダも思わず息を詰める。
コンドルが輝石や宝石を好むのは、ナーダも話に聞いたことがあった。コンドルは神の使いとされており、金貨などと引き換えに窮地に力を貸すと言う言い伝えもある。なんでも、侵略者から助けられた際に黄金のコンドルの姿を見たというものもいる。
その習性を知ったうえで宝石をこれ見よがしに並べるとは、ラルクにはコンドルをおびき寄せたい理由でもあるのだろうか。しかし、何のために?
岩陰で息を殺していると、コンドルは不意に一直線に舞い降りてきた。羽を畳んでもなお大きく見えるその鳥は、宝石のすぐそばで値踏みするように嘴で石をつつく。
「っ!」
瞬間、ラルクは素早く紐を握った拳を引いた。どんな細工がしてあったのか、その動きに連動してコンドルの足元に敷かれていた布が巻きあがり、包み込むように口が絞られる。否、それは布ではなく、目の細かい網だった。コンドルは己の自由が奪われたことを感知して暴れるが、網に全身を覆われているため、空に逃げることは叶わない。
「よし、うまくいった」
「ら、ラルク? あなた……何のつもりですか?」
「何って、罠をかけたのよ。手作りにしては上手だと思わない?」
ラルクは網の塊へと近づくと、もがくコンドルを網ごと持ち上げた。その鳥はラルクの小さな両手には余るくらいの大きさだが、身動きが取れないならば抑えるのは難しくはない。首を絞められた赤子のような、不気味な鳴き声が岩場に響く。
「待ってください、ラルク……! それをどこへ連れていくのですか!?」
「……祈禱の間へ。この鳥には、生贄になってもらうのよ」
「そんな……!」
予想していたはずの言葉だったのに、ナーダの頭が理解するのを拒む。ラルクの手中にあるのは、鳥の姿をした神の使いだ。猫やトカゲなどの動物ならともかく、コンドルを生贄にするなんて儀式は聞いたことがない。それは考えるだけでも冒涜的なことだ。そんなことをすれば、神の怒りが大地に降り注ぐのではないだろうか。
「ナーダ、どうしてそんな顔をするの?」
「あ、当たり前です! それはただの鳥ではないのですよ!? あなただって分かってるでしょう!?」
「……ねえナーダ。昨日の星は、どんな未来を教えてくれた?」
悲鳴じみたナーダの詰問には答えず、ラルクは唐突に問いかける。
「……ごまかさないで。いますぐそれを、解放しなさい」
「ごまかしてるのはナーダの方じゃない? ねえ、見えないんでしょ? それとも、あえて見てないのかな。どっちにしても、結果的には同じことだよね」
ナーダが反論できないのは、ラルクの声に確信の響きがあったからだ。
事実、今のナーダには星が見えていない。いや、ナーダだけではなく、この大地に生きるほとんどの生物にとって、星を見るのは不可能だろう。なにせ、夜になっても分厚い雲が空を覆い尽くしてしまっているのだから。
星見の一族にとっての占いは、神秘的な力よりも、経験と知識によるところが大きい。ナーダとて他の占い師がどのような手を使っているのか詳しく知っているわけではないが、ただ手を組んで目を閉じていればお告げが降ってくるというものではないのだ。
むしろ、未来を見るためには、どんなにかすかなものであれ、星の光を正確に観察するためにしっかりと目を開いていなければならない。
だからこそ、最近の空模様は星見の者にとっては鬼門なのだ。かといって、地べたから見上げていても空が晴れるわけがない。こんな状況で星を見ることができるのは、それこそ雲の上まで飛ぶことができる鳥くらいのものだろう。
ナーダが返事をしないのをどのようにとったのか、ラルクは目線を地面に落としたまま、小さく笑顔を浮かべた。
「この鳥が聖なる存在だってことは分かってるよ。だからこそ、私がやらなくちゃいけないの」
「どうして……」
「どうして、も」
ラルクは子供が遊びでそうするように、ナーダの言葉を繰り返す。
歳が近い二人は、幼いときから従妹同士で遊ぶことが何度もあった。棒を持ってトカゲを追いかけたり、いたずらが過ぎて二人そろって叱られたり。ナーダはラルクに、近しい血縁関係にある者として以上の絆を感じていた。
けれど今は、ラルクが何を考えているのか全く分からない。
「じゃあ、私は行くね。ナーダも元気でね」
「あ……」
捕らえた鳥を携えて、ラルクは迷いのない足取りで去っていく。その背中に伸ばした手は、何のためだったのだろうか。神の使いを弑することを諫めようとしていたのか。それとも、先行きが見えない現状を誰かに導いてほしいという、幼子のような甘えだったのか。
答えはどこにも存在しない。双角を持つ異形の祈祷師は振り向きもせず、ナーダを寂しい岩場に残していった。