蔵の中の失楽   作:nazario

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人の道の零落②

「ナーダ? ねえ、ナーダってば」

 

何度か呼ばれて、ナーダはのろのろと顔をそちらに向ける。

気づかわし気な声で自分を呼んでいたのは、見慣れた戦士の顔だった。

 

「気づいてたら悪いんだけど……それ、もう駄目なんじゃない?」

 

言われて視線を落とすと、ナーダの手の中には縒り過ぎてぐしゃぐしゃになった糸玉があった。

憂鬱な気分を紛らわすために手仕事をしていたはずなのに、やはり考え事の方に頭が支配されていたようだ。

二人が過ごす小屋の中は、重い雲を透かした夕日によって、鉛のような色に染められている。

 

「……本当ですね。もったいないことをしました」

「いいよ、それ僕に貸して? 僕、こういうのちまちま解くの好きなんだ」

 

アスは明るく笑うと、ナーダの手から糸玉を奪い取り、器用にもつれた糸の端を探し出していく。

本来ならば、戦士にそんなことをさせてはいけないと恐縮するべき場面なのだろう。しかし、ナーダはただぼんやりとアスの指先がくるくると動くのを見つめていた。

きっと止めても、アスは糸玉を返してはくれない。今は戦士だって食料集めくらいしかやることないんだから、と苦笑いしながら細い指を働かせるだけだろう。

頭の中で考えるやり取りは嘘みたいに順調なのに、現実の自分がどんな行動をするべきなのかは、よく分からない。

 

「……ごめんなさい」

 

結局口をついて出てきたのは、曖昧な謝罪だけだった。

アスはやはり手を止めないまま、朗らかに応じる。

 

「ううん、僕がしたくてやってることだから。ナーダも最近慣れない力仕事ばっかりで疲れてるんでしょ? 今日だって、ずいぶん遠くまで食料を探しに行ってたみたいだし。ほら、眠いならもう眠っちゃいなよ」

「……違うんです」

 

違う、違うんです、とナーダは何度も繰り返す。それしか言葉を知らない幼児のように。

「……ナーダ? どうしたの、何か嫌なことでもあった?」

「……」

アスは糸玉を脇に置いて、うつむくナーダの頭を撫でる。髪の毛をそっとかき分けるように触れる手のひらは温かくて、思わず涙が溢れそうになった。

ナーダは小さな手に頭をすり寄せるようにしながら、ぽつりと呟く。

 

「……また最近、占いができないんです。何度夜空を見上げても、星が見えなくて……都がこんなに大変な時なのに、私は何もできなくて……」

「そりゃあ、これだけ雲が出てるんだもん。星が見えないのは仕方ないことだよ。他のことを手伝ったりしてるんだから、占いができないのを引け目に感じなくてもいいんじゃないの?」

「違うんです……違うんです! ……私は今、何も見えないことに安心しているんです」

吐き出した言葉を追いかけるように、閉じたまぶたからぽろぽろと涙がこぼれだす。

アスが戸惑ったように手を止めるのが、わずかな気配だけで分かった。それでも、この優しい戦士を困らせるだけだと分かっていても、弱音は堰を切って溢れてくる。

 

「天気のせいじゃないんです。もし今空が晴れていたら、私はまた目を塞いでしまうかもしれません……だって、これからの都に吉兆があるとは、とても思えなくて……!」

「……ナーダ」

「ねえ、戦士様だってそう思いませんか? 恐ろしい未来におびえながら暮らすより、何も見ない方がいいじゃありませんか……滅びがすぐそこに迫っているとしても、最後の一瞬までは何も知らずに笑って生きていく方が、本当は幸せなんじゃないかとすら思います……」

そう言いながらも、ナーダの表情は幸せとはほど遠い。

強く目を閉じても涙は止まらず、ただ目の前の闇が濃くなるだけだった。自分の感情さえ思い通りにできないのがもどかしくて、ナーダはまた嗚咽を漏らす。

 

「ねえ、戦士様……どうして私は……どうして私は、こんなに弱いのでしょう……?」

「……ナーダは弱くなんかないよ」

 

反射的に否定しながら、アスだってそれがナーダにとって必要な言葉ではないと分かっていた。

例えばアスが祈り人だったら、ナーダと同じ目線で励ませた。例えばアスが何の力も持たない子供だったら、もっと他の言葉が言えた。けれど、アスはユバの戦士だ。どんなに神に願っても、どんなに真摯に祈っても、ナーダの弱さに寄り添うことはできない。

だから、アスはただナーダを抱きしめる。

 

「僕にとってナーダは、自分の芯を持った強い人だよ。だから、自分を嫌わないで」

 

それでも、腕の中のナーダは身を震わせながらただ謝るだけだ。神から力を授かった戦士と言ったって、たった一人の涙すら止めることができないんだから笑わせる。

小屋の中で寄り添う二人は、迫る夕闇から隠れるようにただうずくまっていた。

 

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