壁に映る影は、貼りついてしまいそうなほど微動だにしない。ディンシャは持ってきた灯火を机に置くと、突っ伏しているファルマの肩をそっと揺すった。
「……ファルマさん、こんなところで寝たらかえって体に悪い。後は私が片付けておくから、少し休んだらどうですか」
「……眠っていたのか、私は」
小さく唸った後、ファルマは顔を上げる。わずかな眠りを得たとはいえ、その顔には疲労の色が濃く残っている。
当然だ、とディンシャは思う。眠り病が都に広まり始めてからというものの、ファルマはあちらこちらに出ずっぱりだ。診察、看病、薬の調合まで、彼女を頼る声は途切れることがない。さらに日が暮れてからは、こうして患者の記録と首っ引きになって治療法を考え続けている。ディンシャも手伝いに入っているが、彼女が布団で横になっているところなんて見たことがない。眠りの病に立ち向かう医者が眠れないなんて、皮肉すぎる話だ。
「少しは休んだらどうですか」
無駄だと分かりつつ、ディンシャは同じ言葉を繰り返す。
「こんな状況だからこそ、ファルマさんが倒れたら元も子もないですよ。何度も言ってますが、休養をとるのもあなたの仕事です」
「ああ、分かってる。あと少しだけ記録を整理したら、すぐに眠るから……」
と言いながら朝になっているというのが、お決まりのやり取りだった。しかし、いくらなんでも彼女の消耗具合は限界に見えた。
ファルマはもう、いつ倒れてもおかしくない状況だ。それが単なる疲労で済めばよいが、もしかしたら眠り病の仲間入りをするかもしれない。
ファルマ自身もそれを分かっているのだろう。一度眠ってしまったら、次に目を開けられるかどうかは分からない。だからこそ、こうして身をすり減らすようにしながらなんとか解決策を探しているのだ。ディンシャはため息をついて、奥の手を切り出す。
「……この前言っていた説について、私の方でもまとめてみました。まだ仮説というにも心もとない段階ですが、多少は読めるものになっているはずです」
「本当か!」
その一言に、ファルマは文字通りに顔色を変えて飛びついた。先ほどまでは死人のようだった顔に、血色がわずかに戻っている。彼女には、身のためを思った言葉よりも、病の治療法の方がよっぽど薬になるらしい。ディンシャは思わず苦笑しつつ、壁の向こうを指さす。
「ええ。ファルマさんの寝台の上に置いておきましたので、ゆっくり目を通してください」
「駄目だ、今寝台なんかに行ったら本当に眠り込んでしまう」
「だから、そうしてくださいと言ってるんです。私にだって学者の誇りがありますからね、寝不足の相手と自説についての議論をしたくはありません」
「……お前は酷い奴だ」
肩を落としながら、ファルマもまた笑っていた。立ち上がった時に大きくふらついたが、まだ自分の足で歩けるだけの体力はあるようだ。
念のため彼女を部屋まで送り届けて、ディンシャは大きく息をつく。明日はきっと、自分一人で診察や他の雑務やらを回していかねばならないだろう。一日だけならまだしも、ファルマがもし目覚めなかったら。
そんな後ろ向きなことをつい考えてしまうのは、ディンシャの悪い癖だ。
「……ファルマさんがやってこれたんだ。私にだって、できないはずはない。……多分」
最後に付け加えた留保は、自身のなさの表れというよりも長年の癖みたいなものだ。けれど、それを笑い飛ばしてくれる師匠も、ぶっきらぼうに尻を叩いてくれる同士も、ここにはいない。それでも、この形のない怪物にどうにか立ち向かわなければならない。
ディンシャはファルマが見ていた記録を手に取り、自分の書きつけを机に広げた。自分だっていつ起きられなくなるか分からないのだ。時間があるうちに、読める記録には目を通しておきたかった。
それでもまだ夜は長く、夜明けは遠い。