山脈が白み始めた頃、その人影は集落のはずれに現れた。
見慣れぬ来客に初めに気が付いたのは、早朝から水汲みに出かけていた少女、ナンディだった。
「……あれ、誰だろう」
向かう先に立つその姿は、朝日が作る己の影をじっと見つめているようだった。いや、わずかに動いてはいる。大きな木の枝を杖代わりにしながら、芋虫が這うほどの速度で集落の中心部に向かって進んでいるようだ。
「病人? その割にはしっかりしてるような……じゃなくて、早く手を貸さないと……!」
担いでいた桶を道端に置き、ナンディはふらつく人影に駆け寄る。
近づけば、その姿は己とさして変わらない年頃の女性だとすぐに分かった。目だった外傷などはないようだが、纏っている狩り装束は泥と埃でひどく汚れている。
「だ、大丈夫ですか? 旅の方だったら、もう少し行けば休めるところがありますから……」
「……助けはいらない。その代わり、水を……いや、チャケをくれないか。なるべく、強いものを」
その声は掠れてはいたが、思いのほか芯のある言葉が返ってきたことにナンディは驚く。
「お酒……ですか? わ、分かりました。すぐ持ってきますから、そこを動かないでくださいね!」
旅人をその場に残し、ナンディは来た方向へと戻っていく。あんなに疲れ果てた人間に酒など振る舞っていいものかとは思うが、乱れた髪を突き通す旅人の鋭いまなざしには、有無を言わせないような強い意思があった。
それでも念のために簡単な非常食なども持って集落の外れへと戻ると、旅人は先ほどよりもずいぶん近いところまで歩いてきていた。
「う、動かないでって言ったじゃないですか! どうしてそんなに無理を……」
「……チャケは」
「ちゃんと持ってきましたって! ほら、ゆっくり飲んでください。高山の火酒は強いですから」
だが旅人は、ナンディの言葉が聞こえていないように、差し出された陶器に口をつけて一息に煽る。酒精の匂いがぱっと広がり、見ているだけのナンディも喉の奥が熱くなるような気がした。
音が鳴るほどの勢いで火酒を飲むと、口を拭った旅人は琥珀色の瞳でナンディを見据える。
「オレは草原のライカ村からの使者、イメラだ。ファルマに……この集落の医者に、会わせてもらいたい」
*
道さえ教えてくれればいいと言い張るイメラをナンディは放っておけず、結局ファルマの診療所まで付き添うことにした。
しかし、診療所で二人を出迎えたのは目当ての人物ではなかった。
「ファルマさんに客人……ですか。ご用件をお聞きしても?」
気弱そうな眼鏡の青年――ディンシャは、やつれた姿のイメラに驚きと警戒心を隠さず、固い表情で対応する。
「そんなもん、決まってるだろ……! 薬が必要なんだ、くそったれな眠りの病から皆を叩き起こす薬が!」
しかし、ディンシャはイメラの激情に対応するように、さらに声を低めて応じる。
「薬……あなたはそれを、誰かから聞いたのですか? どこにそんなものがあると?」
「誰からって……ファルマは医者なんだろ? 薬じゃなくてもいい、奴らを治す方法が……いや、新しく病にかかるのを防ぐ方法だけでも分かればいいんだ! 頼む、教えてくれよ!」
「私の話を聞いてください。もし仮にそんなものがあるとするなら、どうして私たちはそれを都に広めていないのですか?」
イメラはぐっとひるんだ様子を見せるが、それでもディンシャに掴みかかるようにして言い募る。
「なあ、あるんだろ!? お前らなら、何かこの病に打ち勝つ方法を見つけて、試してるんだろ!? そうだって言ってくれよ!」
「……残念ながら」
ディンシャは目線を落とし、ゆっくりと首を振る。その動きによって張り詰めていた糸が切られたように、イメラは膝から崩れ落ちた。
「だ、大丈夫ですかイメラさん! ほら、やっぱり無理してたんじゃないですか!」
ナンディが慌てて肩を支えるが、イメラはそのまま床に座り込んでしまう。
「すまねえ……少しだけ、休む場所を貸してくれないか……」
「少しと言わず、しっかり横になって体力を養ってください。薬はありませんが、食べるものなら多少はありますから」
「……ああ」
がっくりと頭を低く垂れたところで、狩人の眼が放つ鋭い光は失われていない。手負いの獣のようなその眼差しに、ディンシャは首筋がひりつくような感覚を覚えた。
「ディンシャ、この人に寝床を貸してあげてくれますか? 僕、お水を持ってきますから!」
「ええ、もちろんです。イメラさん……でしたか。こちらへどうぞ」
「……はは、もう立ち上がるのも難しいみたいだ。悪いが、手を貸してくれ」
自嘲するようにつぶやくイメラに、ディンシャは恐る恐る肩を貸して歩き出す。肩にかかる重みは、予想していたよりもずいぶん軽かった。
ちょうど空いていた部屋の一つまでたどり着き、ディンシャは密かに息をついた。
ファルマの手伝いで看護師の真似事をしているとはいえ、異性の体に触れるのはなかなか慣れるものではない。それに、この旅人は他の者とは違って、側にいるだけで何か落ち着かないような気分にさせられる。
これが何か不吉の前触れではなく、ただ彼女の疲労感に当てられているだけなのだと思いたいが。
「一度離れていただけますか? 今、扉を開けますから……」
瞬間、喉元に冷たい感触が付きつけられた。ディンシャは小さく息を呑むと同時に、自分の予感が間違っていなかったことを悟った。
「違うな。お前の部屋はそこじゃねえだろ」
「何、を」
「下手に動くなよ。こいつは護身用の小刀だが、切れ味は抜群だ。お前が一回瞬きをする間に、もう一つ口を作ってやれる」
食糧狙いの盗賊に付け入られたのかと思ったが、ディンシャはすぐにその考えを打ち消す。
小刀を握った手は哀れなくらいに震えていて、イメラの体力が限界であることは疑いようがなかったからだ。
しかし、イメラが求めているものはおそらく干し肉や豆の干物なんかではない。もし食べ物を奪うことが目的なら、ナンディに出会った時点で刃物を出して脅しておけば良かったはずだ。
では、イメラは何のためにこの診療所まで来たのか。答えは決まっている。彼女は、最初からそれを求めて来たのだとはっきり言っていた。